鹿児島市電 上町線の思い出
「鹿児島市電 上町線の思い出」は2012年6月に書いたものだ。当時はワードで書いたエッセイなどフロッピーデイスクに保存していたが、世の中がUSBカードなどに移っていく中で、フロッピーは新しいパソコンでは使えなくなっていった。それでも必要に迫られて「外付け」のフロッピーディスク・ドライブを買って使っていたが、それも故障しお手上げの状態になった。そのため、印刷していないエッセイは今は見ることができない。このエッセイはブロ友だった今は亡き「やまももさん」からの依頼があって「やまももの部屋」の「月下推敲」に投稿したもので、そこにしか残っていなかった。今回そこから逆に戻す形でここに再現した。これを書いてから既に10年近く経っているので、ここに書いた街の様子などは様変わりしているところもあるがあえてそのまま書いた。また、新設の電車路線の計画も10年経った現在も暗中模索のようである。 (下の写真は廃線となった「鹿児島市電 上町線 岩崎谷の高架線上を桜島をバックに市電」) しゅうさん撮影1985,9,29 鹿児島市電 上町線の思い出 最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。 1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後、近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていなとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。 こうした記事を見て思い出すのが子供の頃から馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく新設を検討される路線もあるということだ。そこに自分の年齢と時代の流れを感じる。 1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成によって、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったということか。つまり、1964年の東京オリンピックを境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することはできなかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。 私の市電の思い出は清水町電停から大学通り(のちの工学部前)電停に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。1953(昭和28)年、武中学校2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学年から清水中学校に転校することにして約半年間、上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通りまで通学することになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことができたのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたのだった。 高校は私達の学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩で行けるG高校に進学した。その3年間は市電を利用することは少なかったが、、天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を見るために学校を早退して市電に乗って見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演だったと思うが、現在の表現からすると他愛のないものだが、ちょっとドキドキづる場面もあり、懐かしい思い出になっている。 1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~竪馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から5分もかからない近くまで電車がくるようになったのだが、その恩恵を私が受けたのはわずか1年間だった。 この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅方向に直進せず、現在の医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院前電停を過ぎて坂を上り鶴丸城跡と薩摩義士碑を左に見ながら進み軌道専用道路に向かって大きく右折して少し進んだ高架線上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの狭くて長い階段を上り下りしていた。私は、この電停を利用したことは一回もなかったが、電車の上から見ても怖い感じの階段だった。ただここから見える市街地や錦江湾(鹿児島湾)の向こうに見える桜島は市電随一のビュースポットだった。 二つ目も岩崎谷に連なることであるが、逆の方から、つまり清水町を出発した電車が長田町を通り岩崎谷電停を過ぎると、左に曲がって坂を下るのだが、下る前に運転士が運転席の右側にある真鍮製のハンドブレーキをキリキリと音を立てて一旦停止をした後、おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、50年前のことにもかかわらず鮮明に覚えている。 上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。このところの史跡探訪で上町方面を数回歩き回ったりしたが、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺のことをよく知っていたので、その変容ぶりには驚く他なかった。友人たちの家もほとんど無くなっていた。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて心が和む。 大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら授業料は年間9000円でこれを前期、後期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると現在の価値では安い授業料だが、当時は我が家にとっては大きな金額でこれを納めるために母が苦労していただろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外のお金はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。中でも家庭教師はいいアルバイトで通算では小学一年生から高校受験の中学三年生まで10人以上の子供さんたちに教えるなどした。もちろん家庭教師の行き帰りにも市電の定期券は使ったが、学校に通う途中に鹿児島一の繁華街・天文館があったので、途中下車するなどフル活用した。 こうして市電は当時の私に欠くことのできない乗物だったが、鹿児島に帰って30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することは皆無に等しかった。ところが70歳になり「敬老パス」(料金は1/3)を支給され、この3年間、バスを利用することが多くなってきた。オジさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、その他の用事にも使用することが多くなった。市電にもたまにだが乗ることもある。 ただ、今回の市電新設ルート案5つをみても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望は、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながら、あの坂を上ったり下ったり、岩崎谷電停の高架線上から桜島を眺めてみたい。 (以上 2012年6月記) 補足 国立大学法人の授業料を国立大学当時の私達の時代と比べてみた。 昭和37年(1962)卒業当時 フランク永井歌う「13800円」が昭和32年にレコード化されている。 当時の年間授業料は9000円とすると初任給平均13800円の0,65倍。一方現在は大卒初任給平均 213000円。 年間授業料 535800円 2,5倍私達当時の入学金は忘れたが、現在は 282000円も払わなくてはいけないそうだ。 これをみても国立大学でも最近は裕福な家庭でないと行かせることはできないというが、そのとおりだと思う。国の施策が望まれる。