人間国宝 徳田八十吉展
人間国宝 徳田八十吉展(横浜そごう) をみてきました。昨年、社中の仲間での茶会で本物の徳田八十吉の水指を使わせていただいたことから、その色の美しさにずっと惹かれていた久谷焼の至高の作品の数々を見てきました。まさに光そのものが作品から放たれていて、深みのある色が幾重にもたなびいている姿にはその色に吸い込まれそうでした。まさに美の極致といった、精緻な作品の数々が目の前にあったのです。芸術家とは神様なのだ、とそのときに思いました。展示室に入ったすぐのところに、グラデーションの耀きを解き放つ壺がおかれ、その傍らには、八十吉の言葉が添えられていました。とても素晴らしい言葉でしたので、書き取ってきました^^「私はどこにあるのでしょうか。あるような気がします。現象としての皿や壺ではなく作品を通してそこに生きた私の存在を感じます。何もないと知った若い時から五十余年、気が付いたら私が存在したという集積がありました。作品の良し悪しではなく、過去未来を通じて唯一の存在であろうと思える存在の証がありました。私という時空の交点をさまよう人間が広大無辺な宇宙の旅客として一隅を占めた時からの他力の世界があるような気がします」いかがですか? 私はその言葉に、いたく感動を受けて、八十吉には神仏が宿っていると直感しました。芸術家は誰でもそうであるのかもしれないと思います。自分の魂の放出である作品が、自分自身の集積であるとともに、「他力」であると気づいているのです。これほど崇高な思考はあるでしょうか? この言葉こそが、人間の尊厳そのものであるように思いました。お正月早々から、こんなにも素晴らしいものに出会えて一段と魂が清められたように感じました。