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2006.01.24
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今日1月24日はカンナンボ-シまたはカンナンボー様の日です
自分も10月12日の記事にも書きましたがそれが今日なんです
この風習は八丈島を除く大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島
において今も行われている。風習の起こりについて各島別に紹介してみょう

大島(殊に泉津を中心にして)
昔、泉津に代官がいて非常に暴逆であったので、同村の若者25人の者が
相謀って、正月二十四日の夜、暴風雨を幸いに悪代官を襲って殺害し、
その夜の内に、波冶加麻神社の杉の木を倒して丸木船を造り
それに乗って海に逃れたが、途中暴風雨のため転覆し全員死んでしまった
それで、この若者たちの亡霊が、一月二十四日の夜五色の旗を立て
丸木船に乗って海の上からやってくるというのである。

利島・新島
A 昔、泉津にいた(または来た)代官が暴政甚だしいので
村民二十五名の者がこれを謀殺し海に逃れ利島に上がろうとしたが
後難を恐れて利島では許さなかったので新島に上陸した。
この日になると、利島においては二十五人の亡霊が、新島には
代官の亡霊に遭うと病を得て倒れ、また凶事があるという。

B 悪代官の大島の視察が終わり新島に送るべく船を仕立てたが
このような悪代官が行けば新島もさぞ困るであろうとの計らいから
沖合いに出た時船底の栓を抜いて沈没させ、若者たちは泳ぎ帰り
代官は海底の藻屑と化したので、その日になるとその亡霊がやって来る
という(新島ではこの説が多いようである)。

神津島
A 正月二十四日には、神々が伊豆の島々を伝わって神津島に上陸して
それから三宅島に渡るのであるが、その晩人間がその姿を神に見られると
即座に息が絶えて死ぬと伝えられ、その夜は戸の隙間まで目張りするほど
厳重な日忌をする。

B 昔、高貴な方の末裔であるという乱暴者が新島に流されていたが
その乱暴に新島でも困り果て神津島に移すことになって
その際も船中で暴れ廻るので大釜を頭からかぶせて来たが
船が神津島の北端返浜近くに来た時転覆したのでその男は溺死してしまった
その亡霊が二十四日神津島に上陸して来るという。

C 新島と同じように悪代官の亡霊説もあるようです。

三宅島
A 正月二十四日には、神津島に集まって色々な相談をした神々が
三宅島のハヨウの平にに集まり鞠遊びをするから、二十四日には
海を見るな、二十五日は山を見るな、見ると目がつぶれるといわれている

B また一説にはこの日は首様(こうべさま)といっている。
首様といえば泣く子もだまる、というほど恐怖で忌まれている。
時代は分らないが、昔、壬生の妻女が心得のない女で何時も小用を足す時
首山に向かってした。ところが、この首山に野飼の馬がいてその妻女の
白肌を見て言い寄ったので「お前の額に角が生えたら、お前の望むことは
何でも聞こう」と約した。次の日になると、その馬の額に立派な角が
生えて現われ妻女を欲しいといい、壬生家では妻女に八反の布を巻きつけてその馬に与えたところ、即座に角で突き殺されてしまったのでその馬を
殺して首神社に祀った。この殺された馬の首が二十四日の夜、村中を
歩き廻り、これに会うと即死するといつて夜外に出る人はない。

御蔵島
昔、この島の漁師五、六人が正月二十四日出漁したところ
風波も無いのにそのまま行方不明になったという。
この日遠出をすると神隠しに会うといって日忌をしている。
以上述べた通り、各島によってその由来を異にしているが
いずれも正月二十四日を日忌している点が不思議でもあり
また面白い問題でもある。

新島ではその代官が上陸したさいの宿としていた、新町の山下仁左衛門宅と
原町の前田七兵衛宅では、屋敷内に小さな祠があって毎年祭事を行っている
(もとこの二軒は隣同士であったという)当家の主人は一月二十四日といえば
一年中でも一番寒い時であるのに、海中に入り身を清め
村の要人と親戚の者を招いて神前の燈だけの暗い処で祭式をおこなうのです
参列者は口に紙をくわえて無言のまま色々の行をする。
これは式の進行中に語ることが許されないからである
もし用事ができれば、手振りや身振りで合図をする。
供物は油揚物とただの小豆飯であるが、翌日に村民が来て少しずつ
貰って帰り神棚に供える。式が終われば直ちに寝に就くのである。

戦前はこの日は電燈会社も「カンナンボ-様につき例年通り送電を休みます
と電柱に貼紙があったりもしたようですが戦争によって当島にも
軍が駐屯し休燈を禁じ戸外に出ることをすすめ、事実上でこの迷信を打破した。終戦後、東京電力になってから当夜休電するようなことは全くなくなった。島民も徐々に迷信から脱けて、今日では昔のような恐怖心はなく
一年に一度位はこうした休息日があってもよいという軽い気持ちで
行事も簡単にし、明るい気持ちで迎えるようになった。
何時の日にかこの行事が行われなくなり、島民の脳裡からこのことが
忘れられる日も来るであろうが、幾年後のことであろうか。






Last updated  2006.01.24 13:12:53
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