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自分らしく生きる

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2018.10.11
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従業員の休養と福祉への配慮、地域への貢献と雇用確保、相互扶助への援助。国司浩助は昭和5年(1930年)戸畑漁港の建設(現北九州市戸畑区)を計画し、下関から会社の本拠地を戸畑へ移転する大事業を完成させた。
 山口県人であり、創業の地である下関からあえて北九州、戸畑への移転を考えたか。
 第1の理由は、当時の下関港は手狭で、遠洋漁業から帰港するトロール船には不便であったこと。
しかるに、懸案事項であった下関港の修築計画は、予算7百万円で、17年間かけ、予算の半額350万円は国庫補助で賄い、残りの半額は山口県、下関市、彦島町で県債を発行して賄う。この起債の450万円にも上る元利金の償還を漁港を利用する漁業者が20―25年にわたり分割負担するーという計画であった。しかし、この計画は、水産事業の合理化を提唱していた国司浩助としては、いかにも冗長で、承服しかねるものだった。(「港湾設備を修築したからといって受益者が修築費全額を負担した例があるか、国米穀倉庫の建築費を農民に全部転嫁したことがあるか、何故、漁港修築費に限り漁業者が元利金全額を負担して、これを県や市に寄付せねばならないのか、漁港施設はできたとしても、漁業家は10円の利益を得た代わりに20円の使用料を支払わなければならないのか。これでは、トロール漁業自体の自滅を待つのみである―と主張したが、当局はこれを受け入れなかった。お役所仕事の非効率、非合理性は彼には納得できないものだった。)
 第2に、従業員の休養。遠洋漁業者には、一刻も早く、上陸、休養の機会を与える必要があったのだが、不便な下関港では、はしけを呼ぶのに一苦労して水揚げに時間がかかる。潮の流れが速いことで知られる海峡の急流に停泊して、難破、座礁の危険を避けながらの水揚げは避けたい、という事情があった。
 第3に、北九州一帯の工業地帯には、数十万人の労働者が生活している。これらの人々に安くて栄養価の高い蛋白源を供給するのは漁業者の使命であると考えた。(いったん下関に陸揚げしてから、北九州に輸送するというのはいかにも非効率。当時は関門トンネルも関門橋もない当時においては一層その感が深い)
 下関から戸畑への根拠地の移転は、今でいう「企業城下町の下関としては、大打撃だ。当時、移転計画に水を差し、なんとか移転を思いとどまらせようという試みは、公式、非公式にあった。中には地元の「その筋」の人たちを使っての嫌がらせもあったようだ。しかし、国司浩助には確固とした信念があったので、決心は揺るがず、万全の対策を講じて、戸畑漁港の建設、移転は敢行された。
 戸畑漁港は当時の社員、関係者には「ユートピア戸畑漁港」と言われた。その主な特徴は
・技術的施設の充実・社員食堂の開設(「蟹工船」で問題提起された過酷な漁業者への経営者の対応が一般的だった当時としては画期的)
・社宅の提供
・従業員の共済、互助組織援助
・OBが中心の「共助会」。現場の人が陸に上がった時のために、補助作業への雇用機会の提供
・副業の奨励―養豚、養兎、養鶏、蔬菜、果実、花卉の栽培から養蚕業もすすめ、社の関連事業から生産される魚肥、魚飼料を安価に提供せしめて、その利用価値を試験させ、あたかも私設農事試験場のごとき働きをなさしめる。
・そしてその実地試験の結果については十分の研究を遂げさせ、これらの研究を商品売上に利用するとともに、副業による生産物は保健上最も安全な生鮮食料とし、協心会購買部を通じて船舶食料品、従業員の家庭および水産食堂の利用に供する、という理想を描いていた。(食の安全策と雇用確保策として今実現したらいかが?)
筆者は水産業界とはほとんど縁がないので、あまり水産業そのものについて深入りしたコメントは差し控えるが、一評論家としてまた一消費者として、浩助の「先見性」について、少し私見を述べたい。
 第一に「乱獲と資源保護」の問題。浩助の時代は世界と覇を競っていた時代である。そういう環境でありながら、浩助は乱獲を戒め「資源保護」を訴えている。これはやはり先見性のある賢明な提言であったと言えよう。
この点に関しては、日本水産の垣添前社長が次のように指摘している。
「漁業はその事業の目的物である資源が魚介類であり、繁殖力をもっているため、その採捕よろしきを得れば、永遠にその資源の利用価値は失われないものであり…」とある。
 さらに「近年北海道や樺太(現在のサハリン)の鰊が大いに不漁になったにもかかわらず、その棲息回遊について調査したということを聞かない。…本来なら大騒ぎしてその行く先を探すべきであるにもかかわらずが、一向にそれだけの関心をもたれていない。…朝鮮の鰯にしても、資源を永遠に確保してその魚利を低下せしめぬようにするためには、鰯の棲息回遊状態を調査しなければならない…」と、今日的に表現すれば、資源調査管理の重要性とその持続的利用を説いている。(垣添直也氏の寄稿より)
日本の漁業では、ややもすると乱獲して命あるものを粗末にする傾向があった。
戦後も鰯が取れすぎて、魚価が暴落。売り物にならないどころか、肥料にもならず、処置に困って廃棄処分になった話もよく聞いた。そのくせ、鰯が来なくなると、今度は高級魚扱いにして、まさに「魚ころがし」をする。
諸外国からは、日本の乱獲が問題視され、国際会議の槍玉に挙げられる。これに自然保護団体が悪乗り?して、国際会議でオーソラーズされたはずの調査捕鯨にまでヒステリックで極端な嫌がらせをされたりする。
「何でもあり」のはずたった戦前の水産業界のいわゆる「勝ち組」の日本水産の幹部が「資源保護」を示唆している事はやはり先見的で画期的な提言と言うべきだろう。
さらに、「われわれは一般市民に安価で栄養豊富な蛋白源を提供する事を使命とする」とし、料亭などで富裕層が食べる高級魚は対象外だと明確に、ターゲットを決め沿岸漁業者、高級魚を扱う業者との『住み分け』を提案している。
また、あの経営学者P・F・ドラッカーが『21世紀は養殖漁業の時代』とごく最近の絶筆の中で言っている。
それを見越したのか、既に1920年代から、浩助は、『養殖』へのチャレンジを開始している。私は幼心に、亡父から養殖を託された叔父(浩助の妹の夫)が養殖にチャレンジし、苦闘していたのを覚えている。
以上の諸点をみても浩助の先見性、創造性そしてチャレンジ精神は「脱帽」である。
  浩助の確固とした人生観は、「国司浩助氏論叢」=「ニッスイの原点」の中にみられる。
 以下に、その中から、大意を要約して掲載する。文中「私」とあるのは浩助自身である。
すなわち、「人生の目的はいかなることか。これを一言にして申せば、「より善く生きる」ということであると信ずるものである。古今東西宗教は、要するにより善く生きることを教えるもので、仏教でもキリスト教でもそうだ。特に、仏教は最も明確にこれを示している。さらに近代科学の分野でもダーウィンの進化論は「適者生存」の仮説を説いたが、動物にせよ植物にせよより善く生きなければ、その生存の意義を失い、絶滅の危機を迎える。宗教でも科学でも等しくより善く生きることを説いているので、これを信じて生きるべきであろう。換言すれば、人生は「向上」の一路をもってその目的としなければならない。人は日常生活においても常に現状よりはよりよく生きることを目標とし今年よりは来年、来年よりは再来年、20代よりは30代、30代よりは40代と生活も向上し思想も漸次円熟しなければならない。さらに、自分の代より子の代、子の代よりは孫の代とおいおい向上しなければ人生の落伍者になることをまぬかれない。私は事業の上にも個人的に従業員の身の上についても常に向上の方法はいかんという点について所感の一端を述べる。
 浩助の日本人論(ニッスイの原点P114)
由来日本人は、模倣性に富んでいて、独創性には劣るということは日本人自身でも信じている人が多い。これについて、私自身も同様の考えを持っていて、欧米人はわれわれよりも優秀な民族であり、またはるかに独創性には勝っていると信じていたこともあった。ところがそれが非常な誤りであったことに気づいたのである。
それは英国人で元来は外科医で同時に評論家として知られたサー・フレデリック・トリーヴスという人が書いた“Other side of Lantern”という同氏の世界一周紀行の見聞記を読んで、日本について書かれた部分に次のように記されていた。
「日本人はすこぶる模倣性に富んでいる国民である。しかし独創性には欠けている」ということは日本人も信じており、特に独創性においてはとうてい欧米人に及ばぬものと自ら卑下しているし、欧米人もまた自ら優越感を持っていることもある。しかし私が見るところでは、これは非常に誤った考えであり、事実とは大いに異なっているのである。もし、日本人がこのような誤った考えを持っていれば日本の将来の発展に大きな支障をきたすものであるし、また欧米人がこのような日本人観を持って日本人を見下すなら、大きな錯誤をきたすものと戒めなければならない。日本人がきわめて、模倣性に富んだ民族であることを私も認めるものである。しかしながら、見逃すことができないのは、日本人は模倣で満足せず、さらに進んでこれをインプルーブする(改良する)ことを考える。言い換えればより善くすることについて驚くべき特殊の能力を有しておりこれが他の民族の模倣と異なる点である。その実例としては、仏教ももともとインドに生まれた宗教である。それが中国、朝鮮を経由して日本に伝来した。その教えは日本において非常に発達しついに日本独自の宗教であるような観を呈した。儒教も同様、中国で生まれた孔子の教えは今は中国よりも日本に真の儒教を見ることができる。絹織物もそうだ。これも中国から渡来したものだが、現在は日本製品のほうがすぐれている。陶磁器も医術も教育もすべて発祥の地よりも、優れたものを生み出している。
○ 人生の灯台と帆船の航海に学ぶ人生論(ニッスイの原点P~114)
 このトリーブスの評論を読んで私は、はっとした。そして自分の進むべき道を発見した、という。すなわち、トロール漁業は先輩である英国で学び、英国の漁船を買い、英国人の船長を雇ってスタートした。最初は英国並みのレベルまで到達するのを目標にした。が、その水準をさらに改良して、日本独自の改良進歩を心がけた。船長も日本人を雇ったがこの人は、漁船には全く未経験の商船の機関長だった。甲板員は島根県の漁村から屈強な青年数名を連れてきて、これを養成した。その人たちは漁船のコンパスも知らず漁具、船具の名も一切わからなかったが、これらの人々を手取り足取り教育した。爾来10年それらの人々が成長してそれぞれ立派な船長になり、機関長になり活躍している。日本人は模倣性に富んでいるが、その模倣に甘んずることなく、改善、進歩させることに長じている。その長所に結びつけて大をなすことを私たちは心がけなければならないと思う。いたずらに、独創性にこだわって夢想するのは愚なことであり、最初は、模倣から始まって、さらにそれをより善く改善進歩させることを心がけるべきである。

 ではいかにしてより善く生きることを達成できるか。常に、優れた相手を求め、これを目標、教訓として励むことが、最もよい方法である。私はかつて百五十トンくらいの小さな帆船の練習船で一年間過ごしたことがあった。あるとき、紀州潮岬沖の沖合を順風に帆を上げて走っていた。誠に気持ちよく船は前進していると思っていた。しばらくして沖から陸を見ると船は前進どころか後退しているではないか。これは逆の潮流が激しいためであって人間というものは誰でも自分は努力して、大いに進んでいるつもりでも、ときどきゲージ=ものさしを当ててみないと、自分だけは進歩しているつもりで実は後退していることがあるものである。
○ 逆境、ピンチ、停滞への対応、その心構え
 もう一つ、帆船生活で学んだこと。それは、外洋に出ると、なぎに遭うことも多い。そういうときに血気にはやる未経験な船員は、躍起になって、ピンチを脱出しようとする。しかし、自然の前には人間がいくら逆らっても、到底抗しえない。さんざん悪戦苦闘の末、諦める。しかし老練な船長は、部屋で休息しながら風や潮を待つ。待っているが決して心は眠っていない。ちょっとでも風や潮が変わったら、時期を逃さず、錨をまいて出ていくことを怠らない。経験のないものは、それだけの周到な注意が足らず、潮や風が変わったときをとらえることができない。ここが人生の航路に最も、大切な事柄の一つである。人間はすべて向上の一路に精進しなければならないが、船が順風満帆のみに航海することのできないように、いろいろな逆境にさらされることもある。その時に老練な船長のように風や潮が待つことを知っていれば、必ず、順境に進む時期をとらえることができる。他の人が、チャンス到来を見逃している間に、自分はチャンスをとらえ、ずんずん進んでいくことができるのである。潮や風の変化の到来は実に早いものであって、これをとらえることができた人は成功し、とらえることができない人は、成功できないのである。
 この点では、私(義彦)は低迷期にジタバタして、かえって「遠回り」どころか場合によっては、一生を誤るリスクも侵していたことは前述のとおりだが、詳しい話は本文第1章で。

 開業医で病院の医師よりも信頼されている医者がいた。彼は、常に、大学や名医の情報や意見を参考にして、自分の医療にあたっていることがわかった。つまり、自分で判断しかねる症状は躊躇なく意見を求めて、最良の医療を提供できるようにしているという。だから、めったに、診断、処置を誤ることはない。つまりこの開業医はどの専門病院の医師よりも、謙虚に、最高の医療を求めていたのである。自分より優れた人に教えを乞うことを情けないとか意気地なしと考え、そういう方法を避けることがあるが、それではいけない。

 現代人に欠けているのは、自分が畏敬し崇拝する人を持たないことである。昔は、子はその親にかなわないと思っていた。若い者は年寄りにはかなわないと思うことが普通だった。そこで、子はひたすらに親を尊敬し、自ら親に如かずと考え自らを不肖と卑下した。ところが今の世は、進歩、変化が激しく、己の親は頭が古くて話ができない、などと平気で言うし、若い者は年長者を敬うことを忘れている。

 海上生活をした者にとって、闇夜に灯台の明かりくらい頼りになるものはないものである。現代の青少年はこの灯台と仰ぐものがない。一種の不安を持って世の中を渡っている。
 私は英国カーディフにおいて灯台としてはやや規模は小さい感はあったが、JJニールという漁業者、水産家として模範的な人物を見出し、この人についていろいろのことを聞き、示してもらったのである。私が自己の業務に携わって爾来十数年処世の指針として灯台としてその人のやり方に追随できたことは大変幸運であった。

 今、なかなかそういう個人を見出すことは困難であるが先輩のいいところを見習って、灯台になる人物像を創造すればよい。それにはいろいろ長所のある人に面接してその人格、言行に接して自己修養の資とすべきであろう。若い人はかくありたい、かくあるべきと、人格としても事業としても精々理想を描くことである。航海者は常にその船の出発に先立ち目的地を定め、これに向かって進路を定め、最も安全にして最も近い航路を辿るのである。また、建築家が建物を建てるにはまず、ひとつの図面を描き、これを仕様書を作って建築に取り掛かる。

 それと人生の門出においてはまず、自己の向うべき理想の目的物を作りそれに向かって進んでいくことは、ちょうど、航海者が目的地を決めて進路を決め建築家が図面を作るのと同様誰にも必要なことである。

 現在では高等教育を受けたものまでが、いかなる方向へ向かうかわからず、卒業後も五里霧中に彷徨し風のまにまに漂うがごときものがすこぶる多い。航海に針路なく建築に図面なきと同様すこぶる危険である。これで座礁したり、倒壊したりすることなく安全に航海ができると思うほうが間違いである。

 国司浩助はカーディフで最初の指導を受けたニール一族への感謝を、終生忘れなかった。そのことは、後で紹介する、「N&WESTの歴史」の中にも表れているし、この講演録の中にも出てきたとおりである。帰国して十年で国司浩助の事業は先生だった英国のニール&ウェストをはるかに凌ぐほどになったが、非常に謙虚に自分を見つめることを忘れなかった。

 それは、創業の時スポンサーになってもらった田村市郎とその一族に対しても同様だった。国司浩助のリーダーシップで会社は大きく発展した。その間、トロール船が大戦後のブームでブローカーの標的になったときにも、田村氏と共同戦線を張って危機を救ったが、田村さんというオーナーは概ね「金は出すが口は出さない」というありがたいオーナーだったようだ。そして、昭和の時代に入ると共同漁業も2世の社長田村啓三の時代に入った。が、国司浩助は養子の田村氏を社長としてたてた。が、だれの目から見ても国司浩助が実質的に経営を動かしていることは明らかだったようで、実業功労者として皇室の行事の観桜会にも専務の国司浩助に招待状が来た。国司浩助は、社長でなく専務の自分が招待されたことを大変気にしていたようで、その旨を伝える書簡も残っている。
 そういえば「国司浩助氏論叢」を高く評価して、垣添直也氏に勧めたのは、田村啓三[啓三は岸本家から田村市郎の娘信子の婿として迎えられた]の親戚で日本水産の岸本副社長だったという話もある。これを裏付ける話としては、岸本氏と親交のあった理研ビタミン名誉会長(社長)長持英之進氏も岸本氏からよく国司浩助の話を聞かされたといっている。
 国司浩助の「公的精神を物語るエピソード」
 国司浩助は、また、「くしゃみさえ無駄にしない」と言われた。これは、船内急速冷凍装置&ディゼルトローラーの発明など、創意工夫の才能をさしたほめ言葉の反面、「ケチ」という陰口でもあった。というのは、国司は、一般に寄付には応じなかったからである。そのことを国司も承知していた。このことに関して、国司の寄付や支援あるいは、当節流にいえばボランティア活動に関する考え方が次の発言に現れている。
「自分の財産は自分のものであって、自分のものでない」と考え、彼は日本水産に有事の時は、即座に全財産を投げ出す覚悟だった、という。在職中に、私腹を肥やそうとする現今の経営者に聞かせたい。いわんや、公的立場にある政治家や上級公務員が、在職中に汚職をしたり、天下り先を作ってしがみつくーこういう輩は恥ずかしくて顔をあげることもできないだろう。
合理主義を貫き堅物と言われた国司浩助だが、時に、目的に応じて、柔軟で温情を示した。彼の「公的な心がけ」はタイムリーに、困っている事業者の支援、救済にも向けられた。次のエピソードから、そのことをうかがい知ることができる。
昭和12年(1937年)日中戦争がはじまったとき、北海道では、釧路管内の輸出向け昆布が売れず漁民は死活問題に追い込まれていた。当時北海道庁の遠山経済部長と水産課の安藤孝俊は日本水産を訪れ、販売部長の安倍小次郎を介して国司専務に面会を求めた。通常なら断るところなので、安倍部長が断ろうとすると、国司は「ちょっと待った」と言った。
「東山さん、私のところで扱うことに公的な意味はありますか」と質した。
遠山「日中戦争のために売れなくて漁民が困っているのですが国としても道としても財政的に厳しく、手を打てない状況です」と答えると、
「そうですか。では、やりましょう」と回答した。
あまりにスピーディな即断即決に、役人二人は驚いたり、安堵したり、だったということである。
こうして道漁連の出資金が三万円だった時代に二十万円の巨費を出して昆布を引き取った。しかし、国司としてもむやみに引き取ったわけではなかった。成算ありと見たからである。これを自社の流通経路を通じてさばき、若干の利益も得たという話である。
これにより、釧路管内の漁民は窮地を脱したのだが、安藤経済部長はいつも当時を回想して「国司さんの温情と決断は北海道漁民にとって非常な恩義であった。(情報源―水産タイムズ社前社長越川三郎)
国司が公人として国民大衆の利益を優先したのは虚栄や売名や安っぽいヒロイズムではなく、彼の頭は日本の水産業と安くて栄養価の高い食糧を万民に供給するということで、いっぱいだったことを物語っている。






最終更新日  2018.10.11 00:00:26
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