第八話ガチャガチャ……ズルズル……私は平成十三年の二月に、大阪にある病院で左眼の手術を受けました。 手術のため、数日間は精密検査を受ける必要があり、事前に入院しなければならなかったのですが、私は熊本に住んでいたので、前日には大阪のホテルに泊まることにしました。 早めに食事と入浴をすませ、ベットに潜りこんではみたものの、手術のこと、仕事のこと、そして熊本にいる家族のことなどが気になって、なかなか寝つくことができません。 それでも、何度か寝返りをうっているあいだに、いつのまにか、睡魔に呑みこまれていきました。 夢をみていました。 夢のなかで、誰かがドアノブを「ガチャガチャ」とまわしています。 その音は絶え間なくつづきました。 「ガチャガチャ……ガチャガチャ……」 神経を逆撫でするようなその音は、やがて夢の世界から私を引きずりだしていました。 一瞬、自分がどこにいるかわからず、薄暗がりのなかで、ぼんやりと天上を見ていたのですが<ああ、ここはホテルだ……>と気がついたとき、 足音が聞こえてきました。 <きっと、隣の部屋に酔っぱらいでも帰ってきたのだろう……> そう思って、時計を見ると、午前一時を少しまわっています。 もう一度、眠ろうと目を閉じたとたん、 「ガチャガチャ……ガチャガチャ……」 また、あの音が聞こえてきました。 しかも、それは隣の部屋ではなく、たしかに私の部屋のドアノブをまわしているのです。 酔っぱらいが部屋を間違えたに違いありません。 「何時だと思っているんだ!」 私は目を閉じたまま、怒鳴りました。 私の声が聞こえたのか、 「ガチャガチャ……ガチャガチャ……」という音は、すぐに聞こえて こなくなりました。 ところが……。 「ズルズル……ズルズル……」 今度は何かを引きずっているような奇妙な音が聞こえはじめたのです。 「ズルズル……ズルズル……」 何か重い物を無理矢理引きずっていくような音……。 しかも、それは、私のベットの真横から聞こえてきたのです。 「なんなんだ、いったい」 わけがわからないまま、私はベットの上に起きあがろうとしたのですが、 身体が動きません。 まるで、何かに押さえつけられているようでした。 「ズルズル……ズルズル……」 そのあいだも、奇妙な音はつづきます。 やがて、「ガチャガチャ……ガチャガチャ……」と、 またドアノブをまわす音が……。 それが延々とつづくのです。 私は渾身の力を振り絞って、顔をねじるようにしてドアのほうを見ました。 <どこから入ってきたんだ……!> 声にならない、私の叫び声が喉の奥でからまり、冷たい汗がどっと噴き出しました。 恐怖で歯がガチガチと鳴りました。 白い塊が私の部屋のドアノブにぶらさがるようにボーッと浮き上がっているのです。 それは、間違いなく人間の男の姿でした。 <夢だ……! 悪い夢を見ているんだ……!> 私は堅く目をつぶりました。 すると、突然、「ガチャガチャ……」という音は聞こえなくなったのです。 私は、大きく息を吸い込むと、ゆっくり目を開けました。 ……と、私の目の前に白っぽいパジャマのようなものを着て、 青白い顔をした男が、目を見開いて私の顔を覗きこんでいたのです。 「ヒーッ!」 叫んだつもりが、声が出ません。 男は、まじまじと私の顔を見たあと、ばたんとその場に倒れこむと、 「ズルズル……ズルズル……」と、 音をたてながら、ドアのところまで這っていき、ドアノブをまわしはじめたのです。 「ガチャガチャ・……ガチャガチャ……」 その音を聞きながら、私は気を失っていました。 目が覚めたのは午前八時ごろで、カーテンを開けると雲ひとつない空がきれいに広がっていました。 「やっぱり、夢だったんだ」 声に出して、確かめるようにそういったあと、私は急いで出かける支度にとりかかりました。 夢だと言い聞かせながらも、一刻も早く、その部屋から出ていきたかったのです。 身のまわりの物を持ち、ゆっくりとドアノブにかけたとたん、 「バシ!」 まるで、花火がはじけるような大きな音と衝撃とともに、 それは弾けとんで、バラバラになってしまいました。 身体がガクガクと震えましたが、私は一目散に部屋を飛び出すと、 フロントまで駆けて、 「ドアノブの修理くらい、きちんとやっとけよ! 危ないだろ!」 と、たたきつけるように言い残して、病院に向かいました。 いったい何が起こったのか、皆目わからず、恐怖はやがていらだちに変わりました。 「こんなんじゃ、精密権査にひっかかってしまうんじゃないか」 独り言をいいながら、病院に着いた私は、そのまま入院し、予定どおり数日間の精密検査が始まりました。イライラした気分はなかなかおさまりませんでしたが、手術の日取りが決まるまでは、特にすることもなく、そのうちに、ホテルでの奇妙な出来事の記憶もだんだん薄れていきました。 そして、手術当日。 全身麻痺ではなく、局所麻痺で行われた手術は四時間にも及び、私はこれまでに味わった事のないような苦痛に苛まれました。 手術が終わったのは深夜。痛みと疲れで朦朧としていたのですが、終了を告げられたとたん、私は激しい心臓発作に襲われたのです。 それまで、心臓に疾患があったわけでもないのに、締めつけられような痛みと息苦しさに、私は身体を苦の字に折り曲げて耐えなければなりませんでした。 眼科の病棟に内科と循環器科のスタッフが飛んできて大騒ぎの末、やっと普通の呼吸ができるようになり、病室に戻ったのですが、数時間もしないうちに二度目の発作が襲ってきました。 私はナースコールを押しながら、意識を失っていきました。 そして、気がついたとき、私はあのホテルのあの部屋にいたのです。 「ズルズル……ズルズル……」 私は音をたてながら床を這って、やっとの思いで、ドアのところまでたどりつきました。 懸命に手を伸ばしました。 「ガチャガチャ……ガチャガチャ……」 ドアノブをまわして、外に出ようとするのですが、どうしても、ノブがまわしきれません……。 そこで、私の意識は再び、ふーっと遠のいていきました。 目を覚ましたのは、病院の循環器科のベットの上でした。 眼科に入院した私が循環器科や内科にまでまわされるのは、あの奇妙なホテルのせいだ、そう思っても、誰に当り散らすわけにもいかず、私はひとりで入院生活をおくるほかありませんでした。 それでも、病院側の適切な処置と治療のおかげで、眼は順調に回復していき、心臓のほうも何とか落ち着いて、退院の予定も立てられるようになりました。 そんなある日、私の隣のベットにいた大学生のK君が 「いまだからいえるけれど」と話しかけてきました。 「僕の叔父がね、二ヶ月前に心臓発作で死んだんです。ちょうど佐藤さんと同じ年。だから佐藤さんもひょっとしたら……って、ほかの入院患者さん達とも話してたんです」 「そう、みんなに心配かけたね。それで、きみの叔父さんもやっぱり大阪?」 「いいえ、島根なんです。その日はたまたま出張で大阪に来ていて、近くのホテルに泊まっていたんですよ。夜中の一時ごろ、かなり苦しんだらしくて、部屋のドアを開けようとしていたんじゃないかって、警察の人がいってました」 「もしかして、そのホテルって……Sホテルで、○○号室じゃ…ないよな…」 K君の答えを聞く必要はありませんでした。 私は退院したあとも高熱が続き、そのために腎臓を悪くして、再入院しなければなりませんでした。 その後、退院をして普通の生活に戻っていますが、ときどき原因不明の微熱に悩まされています。 あのホテルで見た男は本当にK君の叔父さんだったんでしょうか。 それとも、私の未来の姿だったのでしょうか・・・ |