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カテゴリ:SF
![]() 「A.I.」 A.I. Artificial Intelligence 2001年 アメリカ映画 監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 ハーレー・ジョエル・オスメント ジュード・ロウ 僕が敬愛するスタンリー・キューブリック監督が映画化権を手にし、企画を進めていた矢先、亡くなってしまったことで、スピルバーグ監督がその遺志を継ぎ、作られたSF作品です。 公開当時、非常に話題になり、TVCMも盛んにやっていたため、僕も観たかったのですが、劇場公開の機会は逃したため、DVDが発売されたら即座に購入し、満を持して観賞しました。 地球温暖化が進んで一部の海に近い土地が沈み、妊娠・出産に厳しい許可制度がしかれ、人間の代わりに多くの資源を必要としないロボットが活躍する未来の物語です。 その時代に、人間と同じ愛情を持つ少年型ロボットとして開発されたデイビッド(ハーレー・ジョエル・オスメント)は、彼を製作したロボット製造会社の社員、ヘンリーとその妻モニカの元へ試験的に送られます。夫妻には不治の病を持つ息子のマーティンが居ましたが、現在は冷凍保存で眠っていて目覚める保証はなく、実質的に子供がいないのと同じでした。 起動させたモニカを永遠に愛するよう、元々変更がきかないようにプログラムされたデイビッドでしたが、マーティンが奇跡的に病を克服して目を覚まし、退院して家に戻ってくることになり、それからモニカはデイビッドよりもマーティンの方に特に愛情を注ぐようになってしまい、困惑します。 ある日、マーティンとデイビッドが遊んでいる最中、マーティンの生命に関わる事故が発生し、デイビッドは森に捨てられてしまいます。 デイビッドは、再び母に愛されることを目的に、友達の玩具型ロボットのテディ、森で出会ったセックス・ロボットのジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ)とともに旅をします。 途中でロボットを破壊して楽しむショーの見世物にされかけるなど様々なトラブルに遭いながらも、デイビッドはただひたすらにモニカの愛を求めて旅を続け、最後は海に落ちてしまうのですが、それでも彼は意識を失うその瞬間まで「僕を愛して」と望み続けるのでした。 それから、2000年後……。 ![]() ぼくは、SF大好きなので、非常に高性能な子ども型ロボットのお話ということで、ワクワクして観始めたわけですが、はっきり言って、非常に気持ち悪かったです。人間型のロボットが壊される場面などあって、非常にグロテスクな描写もあったわけですが、別に吐き気をもよおしたということではありません。 何か得体のしれない嫌悪感を持ってしまったのです。やりきれない気持ちというのでしょうか、いたたまれない気持ちというのでしょうか、とにかく、納得できないもやもや感が、自分の気持ちを支配してしまったのです。 それは、結局最後まで救われなかったデイビッドが、かわいそうだとか、哀れだとかいう気持ちとも違うものでした。いや、確かに客観的に見れば、デイビッドは救われなかったのかもしれませんが、あのラストは、彼なりに納得したものであり、ある意味満足した結果なので、デイビッドの自己満足的には、成就できたものだと思います。 そう思っているので、デイビッドがかわいそうで、いたたまれない気持ちになっているのではありません。 映画を観終わった直後は、このもやもやした気持ちが一体なんなのか、全く見当がつきませんでした。しばらくして、落ち着いて考えてみて、やっとそれがなんなのかわかりました。 それは、非常にリアルな子どものロボットに対する違和感だったのです。 そもそもロボットとはなんでしょう。それは、人間にできないこと、危険なこと、大変なことを、人間に変わってやってくれる存在として、考えられてきました。 鉄腕アトムや鉄人28号の昔から、マジンガーZ、キカイダー、ライディーン、ガンダム(ロボットじゃなくてモビルスーツだというマニアックな意見はあえて却下します。)、ドラえもん、C3-POにR2D2、などなど、多くのSF作品に登場するロボットたちは、人に変わって戦ったり、分析したり、危険に立ち向かって行ったり、変な道具を出してくれたり、人間のために何かをやってくれる存在です。 現在、多くの工場などで働いている産業ロボットなどは、危険な作業や、非常に細かい作業、非常に正確性の問われる作業など、人間ができないことを、非常に早く正確に行ってくれる存在として、人間の役に立っています。 一方、子どもとはなんでしょうか。 子どもは、いろいろなことができない存在として、この世に生まれます。始めは、話すことも歩くこともできませんが、成長するにしたがって、様々なことを学習し、できるようになってきます。両親や先生など周りの多くの大人たちや、同じような子どもたちに囲まれ、助けられながら、自分の体を動かすこと、考えること、話すこと、知識を得ること、他人の気持ちを考えること、などなど、様々なことを学習し、体も大きくなると同時に、心も大きくなって、成長していく存在です。 デイビッドは、子どものロボットとして、人工知能にあえて知識を多く植え込まずに作られているようです。そして、人間の子どもと同じように、いろいろなことを学習し、成長していくように作られているようです。(もちろん、体の方は成長しないはずですが。) 本来、人よりも優れた能力(それはある特定の分野に関してということが多いですが、)を発揮するはずのロボットが、明らかに人よりも少ない知識量と能力しか与えられず、これから学習していくのだという、矛盾した存在、そして、本来人のために働く存在であるはずのロボットが、子どもとして、人間の庇護下に置かれるという矛盾。それが、デイビッドこと、子どものロボットなのです。 そんな矛盾に、違和感を覚え、気持ち悪さを感じていたのではないでしょうか。 ![]() この映画、スピルバーグ監督の手腕により、一見、感動を受けるファンタジーな作品として作られています。しかし、その下に流れる、ダークな雰囲気は隠しようがなく、異様な独特な空気を持った作品として完成し、公開されました。 難解で、シビアで、考えさせられる作品を作るキューブリック監督だったら、というのは考えてはいけないのかもしれませんが、でも考えてしまいます。キューブリック監督だったら、ダークなイメージと、ロボットであり子どもであるという矛盾を前面に出した作品を作ることができたのではないでしょうか。 まあ、商業的なことを考えれば、スピルバーグが作って、正解だったのかもしれませんが。 ということで、この映画のDVDは、最初の観た時以来、僕は見ていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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