カテゴリ:会津の歴史
会津に関連した人物だと、松平容保をはじめ、幕末に活躍した方が有名ですが、明治時代にもたくさんの魅力的な人物がいます。
今日はその中から柴五郎(しばごろう)という方をご紹介します。 柴五郎とは? ![]() 晩年の柴五郎-『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書より- 柴五郎は幕末の会津生まれで、大正時代には日本陸軍の大将を務めた人物です。 日清戦争・日露戦争をはじめ大日本帝国が経験した多くの戦争に出征し、特に中国方面の作戦で活躍しました。外交では日英同盟の締結にも寄与するなど、軍人として大変高い評価を受けた人物です。 また、柴五郎は1860年に生まれ、1945年9月に亡くなっています。1868年の戊辰戦争から1945年8月の太平洋戦争の終戦までを間近で見届けるという数奇な人生を歩んだ人でもあります。 いまだに出版され続ける手記 そんな柴五郎ですが、現在はある一冊の本により、その名前がいまだに広く知られています。 それが柴五郎の手記を編纂し出版された『ある明治人の記録』という本です。 ある明治人の記録 ![]() 『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書 『ある明治人の記録』は、柴五郎が幼少年期の思い出を記した手記を編纂し出版されたものです。 軍人としては、西郷隆盛や乃木希典も務めた陸軍大将に就任するなど華々しい経歴を残した柴五郎ですが、少年期は苦難の歴史をもちます。 柴五郎の実家は会津藩士で、幕末の戊辰戦争では父親や兄弟が出征、会津城籠城戦も経験します。 幼年だった柴五郎は会津若松郊外に疎開し戦禍を逃れますが、 籠城戦の最中に、母親をはじめ祖母や姉妹が自害、家族も離れ離れとなるなど、五郎少年の心に深い傷を残しました。 戊辰戦争後、会津藩は解体され、藩士は青森の斗南へ移封となります。 続く苦難 斗南に移住した会津藩士の苦難の経験は有名ですが、柴五郎の手記にもそうした記述があります。 着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、 草の根を噛み、水点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月 と、当時の会津藩士たちの生活を生々しく書き残しています。 会津藩士が辿った運命を経験者の言葉から追体験でき、歴史的な価値も高い一冊です。 また、柴五郎は非常に美文家でもあります。柴五郎の兄である柴四郎は小説家として名を残しており、その影響?も垣間見えます。 斗南移封後の柴五郎は、青森県庁への給仕をきっかけに少しずつ人生が変わり始めます。陸軍士官学校へ進んだ後も、幾多の困難が続きますが、最終的には陸軍大将と明治政府の中で華々しい出世を遂げました。 会津藩士の体験 戊辰戦争を経験した会津の人物には、柴五郎の他にも幼少期の体験を近親者のみに語ったり、晩年になって手記として残すなどした方が何名かいます。 白虎隊士の飯沼貞吉や、新島八重の幼馴染の内藤ユキなどが有名です。 当時の体験を語るのは、明治の時代に会津の出身者としては憚られたなど、後世からは色々と考えられたりもしますが、『ある明治人の記録』の下記の一文に、その時代を経験した人物にしか語れない大きな感情があるのだと感じさせられます。 いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路を超えたり。 激動の人生 柴五郎、最後まで激動の人生を生きます。 昭和20年9月、太平洋戦争終戦後に85歳で自決。老齢のため最後までは果たされませんでしたが、その年に亡くなりました。 戊辰戦争から太平洋戦争まで、日本の近現代が経験した戦争を、会津藩士として帝国陸軍軍人として経験し見届けてきました。 会津藩士の子弟として過酷な幼少年期を経験し、明治政府の中で出世し、太平洋戦争の敗戦後に自決を選ぶという人生の中に、どんな原体験と感情があったのか、『ある明治人の記録』は激動の時代を生きた人物の貴重な手記であり、歴史について深く考えさせられる一冊です。 興味深いエピソードは多々ありますが、最後に幼年期の会津藩士の教育の様子と柴五郎の人柄が伝わる一文を共有します。 藩校日新館に通学するは十歳よりなれば、七歳になりてより、付近に住む桜井五郎、飯田文治両先生の塾にて孝経四書の素読を授けられたるも、意味を解さぬ棒暗記なればいっこうに興味わかず、ただ一つ桜井先生より鯉の仔をもらいてうれしかりしことのみ記憶せり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.04.13 13:09:05
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