黄火小話:2
驚いたっスわ、と軽やかな声が玄関を上がってリビングへと続く廊下に響く。火神はその声を背後に引き連れ、リビングに荷物を置いた。バッグのなかから洗濯物を取りだし、遅れて入ってきた黄瀬を見上げた。「なんなら一緒に洗っておくぞ」「さすが火神っち。よくできた嫁だよね」「……わかった、じゃあ持って帰れ」「あ、冗談だってば! お願いするっス」ゴメン、と叫びながら慌てて黄瀬がバッグのなかを探る。火神はやれやれと思いつつも、苦笑しながら渡されたものを纏めて洗濯籠のなかへと放り込む。遅い時間だ。洗濯機をまわすには気が引けたので、明日にしようと思った。リビングへ戻った火神は、ソファに座っている黄瀬になにか飲むかと訊ねた。「飲みもん、いるか?」「大丈夫っスよ。それより、こっち」黄瀬が手招く。そばへ来いということだろう。火神は素直にそうした。隣に腰を下ろすと、改めて同じ言葉を言われた。「マジ、ビックリっス。でもまあ火神っちらしいというか。俺らより先に目をつけられるなんてねえ」「変ないいかたすんなよ」目をつけられる、ではなく。目に留まったというのではないだろうか。「似たようなもんでしょ」違わないよと返す黄瀬に、火神は軽く眉間に皺を寄せた。なんとなくいやらしいふうに聞こえてしまうのは、黄瀬が口にしたからだろうか。なにいってんだと思っていると、不意に流れていた空気が変化した。「行っちゃうんスね」「……黄瀬」ふわりと黄瀬の両腕が横から伸びてくる。そのまま火神を抱きしめた。黄瀬の頭が肩に預けられる。明るい調子だった声が、少し低い。ジャバウォックとの一戦と餞別試合を終えたときまで、黄瀬はいつもの黄瀬だった。帰宅組と別れるまでそうだった。だから火神は事前に伝えていなかったことを失念していた。アメリカ行きを決めるまで、火神自身悩みぬいた。考えることは得意ではないけれど、そんなことを言っている場合ではなかった。悩んで、たくさん考えた。自分自身のこと、それからチームのこと。黄瀬のことも浮かんだ。そうして出した答えを今夜告げた。誠凛メンバーだけのつもりが、赤司によって数が増えたことは予想外だったが。黄瀬は笑っていた。にこりと、いつもの人を魅了する顔で笑っていた。それだから、伝えるタイミングを計りかねていた火神は安堵と拍子抜けした気分との半々を抱えて帰ることになった。黄瀬がついてきて泊まりたいと言ってきたことも、普段と同じようだと思いながら頷いた。こっちは少なからず考えたんだけどとこっそりため息を落としながら、黄瀬と帰ってきた。けれど、こうしているとそれは人目があったのだからと察した。火神を抱きしめてきた黄瀬は黙ったまま、動かない。腕の力をそれ以上強くするでもない。口は閉ざされたまま、沈黙だけが流れる。「……き、せ」そして火神はあることに気づく。あっさりとしていると思ったのは違ったようだ。まわされた腕が微かに震えているのが伝わってくる。そうだった、と火神は思いだす。お調子者に見えても。軽薄に思われても。それは見かけだけだ。互いにエースとして対峙したからわかる。黄瀬はそういう人間じゃない。「アメリカって遠くないスか」訪れた沈黙に紛れるような細い声が呟く。耳のすぐそばで呟かれたから、火神には聞こえた。「そうでもねぇよ」「ああ、そうか。アンタはあっちから来たんだもんね。帰るっていう気軽な感覚か」「いますぐじゃねぇし、ずっと会えないわけでもないぞ」「こうやって抱きしめたくなっても、すぐにはできないけどね」「……」手料理も食べられないし、ストバスもできないと告げられてしまえば確かにそのとおりで。火神は返す言葉を探して、迷う。「黄瀬は、こねぇの」火神に声がかかるなら『キセキの世代』に声がかかってもおかしくはない。むしろ完成度では彼らのほうが高いだろう。現実味はよほどあるはずだ。「どうかな。火神っちや青峰っちほど、熱望してるわけでもないし」興味がないわけではないけれど。黄瀬は淡々と返してくる。それを聞いて、火神は黄瀬らしいと感じただけだ。残念だとか、してねぇのかよとは思わない。好きなのだろうが、火神のように夢中ではない。進む道にもいろいろ選択肢を描いているほうがしっくりとした。「あーあ」「黄瀬?」する、と両腕が離れてゆく。黄瀬は顔を上げていた。「ゴメン、カッコ悪いね。俺って」そう笑う黄瀬はもう元に戻っていた。少しだけ下がっている眉毛があるだけで。こういうところが、と。火神はいつも思う。「そうでもねぇけど、な」黄瀬の前髪を掻き上げて、現れた額に火神はキスをした。かがみっちと、掠れた声があがるのがおかしかった。普段から散々、してくるし、ねだってくるくせに。こんな不意打ちに意外に弱いところも、さっきと合わせて好きだと思った。情けないと零しつつも、そのままを伝えてくれることは嬉しい。そして、なかなか素直になれない火神にはすげぇなと感心する部分でもあった。そうされることでたまには恥ずかしくなることもあるが、感謝もしていた。わかりやすくしかも手放しで、黄瀬はいつだって愛情を伝えてきてくれたから。「か、がみっち?」「モデルのくせに変な顔してるぞ」はは、と火神は笑ってから告げた。「そういうとこ、結構好きだし。あと、意外にかわいい」「――ちょっと、それは反則っスわー」手のひらで顔を覆った黄瀬に、火神はさらに声をあげて笑った。赤くなった耳の先は隠せていない。それを指摘すれば、誰のせいなんスかねと低い声が返ってくる。怒らせたか、それとも拗ねてしまったのだろうかと火神は思わず身構えてしまうが、次の瞬間強く抱きしめられてそうではないとわかる。「あのね、こんな調子であっちでもいろいろ誑し込まないでよね? 無自覚なんだからあぶなかっしいスわ、マジで」「たらしこむってなんだよ。こんなん、黄瀬相手にしかいわねぇし!」「そりゃそうだけど、そうじゃなきゃ困るけど。でも実際どんだけの人間が火神っちに惚れてんだって話なんスよ」わかってないでしょと強く問われ、火神は緩く首を傾げた。「ほらその反応。理解してないじゃないっスか」「黄瀬の勘違いとかだろ」「断言するあたりが火神っちらしいっス。誰に聞いても俺と同じこというはずだけどね」「へぇ……」「あ、信じてないね。まあいいけど、信じるとは思ってないし」理解してたらこんな状況になってない、とぶつぶつ黄瀬は続けるが、火神にはやはり心当たりもなければどうもよくわからない。惚れた云々というならば、黄瀬のほうが当てはまる。モテているのだし、そういったことは火神よりよほど多いはずだ。そういうことではないのかと考えていると、黄瀬ががしっと肩を掴んできた。「理解しなくてもいいけど、マジで警戒はしておいてよ。俺以外になにかされたとか想像だってしたくない」「……誰にもされねぇって」「わかんないじゃないスか、そんなの。なにもないなんていい切れる可能性なんてどこにあるんスか」「そういわれるとそうかもだけど」「とりあえず、あるかもしれないと思って行動してほしいっス。金銀コンビとかに再会しても気は許さないこと」「金銀……? ……あ、ナッシュとシルバーか」誰だそれ、と首を捻った火神は考えてから頷く。あのふたりか、と。「サルだってバカにしてきたような奴らだぞ。再会はともかく、そんな状況にならないだろ」「リベンジマッチで勝ったよね? 俺ら。でもって火神っちがあっちで強くなったら評価を変えるかもしれないでしょうが。そうなったときに興味を示されないって、いえるんスか」「……黄瀬、目が怖い」「真剣だから」「お、おう……」考えすぎじゃないかと反論できる空気は流れていない。火神は勢いに呑まれ、素直に返事をしていた。「ホントに?」「努力はする」大丈夫だと約束はできない。なんせ、火神は黄瀬曰く理解していないようなので。誰かに狙われるなど、そんな物好きは黄瀬しかいないと思うのだが。まあでも万が一、そんなことが起こっても火神としても歓迎しない。「あるかどうかはべつとして、おまえ以外になんかされるのやだしな」「火神っち」眉間を軽く寄せて口にすれば、黄瀬が嬉しそうに微笑う。撫でたら尻尾を大きく振る犬のようだと、苦手な動物を思い浮かべるくらいには黄瀬の笑顔は見ているとくすぐったくなる。あちらに行けば、いま以上にバスケ漬けになることは確実なうえに。変わる環境にも慣れなくてはいけない。生活自体はそのうち慣れてくるだろうが、勉強とバスケは現在よりもきっとさらに力を入れなくてはいけないはずだ。そうなったら周囲へ目を向ける余裕などなくなるだろう。かまっている余力などないから、黄瀬の心配するようなことが起こるとも思えなかった。しかしそれを口にしてしまえば、余裕がないからこそどこからなにをされても気づくのが遅くなるなどと言われてしまいそうだ。なんとなくそこまで考えられたので、火神は言わずにおいた。余計なことは伝えるべきではない。(……なんかあるとしたら黄瀬のほうだと思うんだけどな)ちょっかいをかけられるという点で言えば、モデルとしての知名度がある黄瀬のほうがよほどなにかありそうな気がする。それこそ離れている間に火神よりも気を揉むようなことが、と途中まで思いを巡らせ、けれど火神は首を横に振った。「火神っち?」そしてその仕草を黄瀬が目にして、どうかしたのかと訊ねてくる。無意識にしてしまったと、火神は小さく苦笑しながら答えた。「オレばっかいわれてっけど、おまえはどうなんだよって思ってた」「それって、俺が離れてる間に浮気するとかそういうことっスか」黄瀬のわずかに低くなった声に、火神は頷いた後に続けた。「でも思いかけただけだけどな。ないな、って否定した」オレのことが好きだもんな、と火神は黄瀬の頬を両手で触れた。言い過ぎというくらいに愛を囁いて。いつでもどこでも抱きしめられる。これだけされておいて、心配が入り込む余地などない。「しつっこいもんな、おまえって」「そのいいかたはヒドイっスよ」え~、と情けない声をあげる黄瀬に、火神は「バーカ」と笑った。「いい意味でいってんだけど? それに、こんだけされてるから誰が寄ってきたって関係ねぇよ」おまえのことで手いっぱいだよ、と。火神は目を細めた。いままでを考えれば、きっと向こうに行ってもマメなところは変わらない。どころか、拍車がかかるかもしれない。それでも鬱陶しいなどとは思い浮かばず、黄瀬らしいと笑ってしまうほどには充分火神も愛情が傾いているから。「あっちでも期待してるぜ」よろしく、と告げると、見惚れるくらいの美形は一瞬呆けたような顔になる。だが瞬きの後、いつもの表情が「任せておいて」と微笑む。「こっちにいる以上に愛しちゃうんで、受け止めてよね」「ははっ、楽しみだな」火神の手の上に、黄瀬の両手が重なる。ぐ、と絡んだ指先が熱い。触れたこの熱を持っていければいいのにと、火神は願った。それができないのであればなくならないように強く、深く。刻んでいきたいと思った。願ったことが黄瀬に届いたのかもしれない。火神が視線を外せないでいると、黄瀬が「しよっか」と誘いをかけてきた。掠れたような声のそれは火神を簡単に煽った。先に火神のほうがそういう気分になっていた。行くと決めたものの、まだ実感は薄かった。はじめての国に行くわけでもないから黄瀬ほど深く考えていなかったのかもしれない。具体的なことを言われて、ああそうかと、黄瀬の気持ちが移っていた。抱きしめられて、離れるんだと考えたら身体にスイッチが入ってしまった。「……ん、するか」迷いもためらいもなく、火神は頷いて自分から顔を寄せた。触れた黄瀬の唇は少しだけ乾いていたから、潤すようにぎゅっと思いっきり、唇を押しつけた。End.