固定された考え方を手放すための仏教の空という概念
小さいころ、周りの大人につられてお寺へ行き、当たり前のように手を合わせてお祈りしていました。なんでそんなことするのかなんて、まったく考えずに、ほぼ習慣のようなもの。法事という行事では、お寺の坊さんが登場するけど、なんだか数年に1回の恒例行事のような印象でした。地方を離れ、時代も変わり、お寺の坊さんを見ることもなくなりましたが、あのとき一生懸命にお祈りをしていた大人たちは、いったい何を思っていたのでしょう。お寺といえば仏教なのですが、インド生まれの仏教にはむつかしいけど合理的な考え方があります。自分で調べていけばいくほど理系人間にとっては納得いく教えがたくさんあります。古代の人間がこんな考え方できたなんて、かなり不思議です。経典がある宗教のように自分の人生で教えを守ることを重要視しているではなく、仏教では自分の人生を豊かにできるヒントがたくさんあるように思います。仏教では、生きること自体が苦しみであるという考え方があります。一切皆苦(いっさいかいく)。これだけ聞くと「絶望感」の方が先に立ちますが、そうではないようです。でも、仏教では「空(くう)」という概念があります。すべての存在が固定的な実体を持たず、変化し続けるという概念です。実体がない。。。。理系人間的には、皮膚も髪の毛もどんどん生まれ変わって、成分が入れ替わっていると考えれば納得です。人間関係に当てはめると。。。。目の前にいる人が、長い目で見れば実体がなく常に変化していくものと気づけば、どんなに気が楽になるか。群れている昆虫のなかに、偶然隣同士になってぶつかり合って、その後離れていった2匹の虫を、自分自身が遠目で見ていたらどうでしょう。例えば、数年間にわたってイライラをぶつけてくる同年代の上司がいたとします。そんな関係が続くと身体的にも精神的にもかなり傷んでいます。そんなとき、仏教の「空(くう)」という考え方を持ち込めば。「すべては独立して存在するのではなく、さまざまな要素や関係によって成り立っている」と考えます。自分に意地悪を言う嫌な人は、いつまでも固定されているわけではない。育ってきた環境、職場での立場、その日の体調や気分など、いろいろな条件が「数年かという短い期間に」その言動をつくり出しているのかも。ずっと心の中で怒りを燃やし続けるよりも、「いろんな背景が変われば相手は変わるかもしれない」と考えられるかどうか。苦しむ原因の一つは、「あの人はこうであるべき」「私はこう扱われるべき」といった思い込みかもしれません。「空」の視点をもてば、どんな人もどんな出来事も、固定されたものではなく条件によって変化する「関係性の一部」です。それに気づけば、「まあ、そういう言い方しかできない人もいるし、そういう時期もあるかもね」と受け流す余裕が出ます。「空」は、物事の本質を捉える仏教の深い教えですが、難しい理屈ではないかもしれません。人との関係に悩むとき、自分を責めすぎてしまうとき、「これは絶対的で永遠に続くの?」と考えるだけでも、自分の心は自由になれます。固定された見方を手放す。藤井風さんの「満ちてゆく」の歌詞には、仏教の考え方が入っている気がしてならない。