重松清「木曜日の子ども」
重松清「木曜日の子ども」【ネタバレあり感想】少年による無差別大量殺人と、継父と義理の息子の関係を書いたミステリー小説です。まず、この小説の感想として、1番最初に思ったのは、「母親が介在しない不思議さ」です。この小説の母親自体が薄っぺらく、誰かの意思に寄り添う理想像のような現実味のない存在です。途中、息子が連日「高木」という友達と毎晩遅くまで、勉強を理由に外出しだします。この時点で多くの母親が「高木くんて誰やろう」とクラス名簿を確認すると思うのです。そこで、「おらんやん」で物語終了です。他にも隣の家の女の子に、「クラスの様子」を尋ねるのは、多くは「母親」なのではと思ってしまいます。そこで、女同士何かしら隣人の娘の様子がおかしいことに、気づくのではないでしょうか。他にも、息子を虐めていた相手の名前を尋ねられて、答えられないというのも、共感できません。おそらく、母親の多くは、一生忘れないし、一生許さないでしょう。とにかく母親が母親という、キレイな薄いイラストであるかのような物語ですが、手に取ったのには、理由があります。タイトルですが「木曜日の子ども」となっています。なぜ、「木曜日の子供」でないのか、不気味に感じるのです。これは、以前からある一種の「規制」が元になっています。「子供」というのは、こどもを「お供」として見るから良くなく、「子ども」と表記するようにという考えがあったことに由来します。デリケートな方もいるので、私も「子ども」と表記することもあるのですが、言葉にデリケート過ぎるかな、と個人的には考えています。新聞・雑誌いずれも「子供」表記が多く、そもそも「子供服・子供部屋」など熟語になると、断然「子供表記」が多くなります。これを大量殺人事件の犯人が犯行予告等にも「木曜日の子ども」と表記するのは、普通に不気味です。どこの誰に配慮したか分からない言葉が、ついには無粋な犯行予告にも使われる。改めて思うのですが、例えば昔の小説とか映画は、人を罵る場面では、普通に罵ってました。でも今は、表現に規制があり、罵っているようで配慮があります。もちろん、現実では違いますが、公になると大人の配慮を求められるからでしょう。不気味な小説の中のデリケートな配慮、そしてキレイなイラストのような母親、心の芯まで描かれる継父と義理の息子の関係、色々なことを考えさせられます。読後感は個人的にはあまり良くなかったですが、一気に読めました。木曜日の子ども (角川文庫) [ 重松 清 ]