2010/09/19(日)16:24
角田光代 『八日目の蝉』
読売新聞・夕刊に連載していた 角田光代『八日目の蝉』 が、24日に最終回を迎えました。
不倫相手の留守宅に忍び込み、眠っていた赤ん坊を見て、思わず連れ去ってしまったヒロイン・希和子。生まれるはずだった子供と、不倫相手の妻が産んだ女児を重ね合わせ、希和子は薫と名づけたその子を抱いて逃亡生活を始める――。(読売新聞より)
昨年の11月から掲載されていた小説です。
<本の話>としましたが、そんなわけでまだ正しくは<本>にはなっていないのですが、
感想を書かずにいられません。
…些かネタバレぎみになってしまったらごめんなさい…
希和子は短大を卒業後小さな会社に就職した、いかにも平凡な女性でした。
彼女が社内の男性に恋をして、不倫と知りつつ溺れていく――このあたりはどろどろとして、暗い先行きを暗示もし、読むのに気の重さを感じたこともあります。
妻のある人と秘密の恋愛をすることも、今は<平凡>のうちに数えていいことなのかもしれません。
しかし、不倫相手の妻に「あんたなんか、がらんどうじゃない」と、嘲りと罵りの言葉を浴びた希和子は、人格を崩壊させるように平凡なはずの人生を踏み外していきます。
その過程は緻密に描かれて、毎日の掲載は短い断片ながらも、いつの間にか重苦しさも忘れさせ、成り行きを見守らずにいられなくなっていました。
子供を望む切実な感情のまま罪を犯す希和子。子供をさらわれた不倫相手と妻。その誘拐犯の女に、愛情を込めて育てられた娘。(同上)
誘拐事件は、事件としては解決を見、赤ちゃんだった娘は本当の両親の元に戻されます。
けれども、そこは<家庭>と呼べるものではありませんでした。
何故、私だったのか?
何故、私は私なのか?
娘は、その問を抱えながら成長します。
平凡な人生を歩んでいたら、抱えることはないであろうほどの大きさの問なのです。
自分自身が、透明な何かをまとった存在のような、現実が現実として肌で感じ取れないような娘。
平凡とはこのようなものだ、と教えられることさえなく、彼女は成人していきます。
物語は、希和子と、さらわれた娘の視点を行き来しながら語られます。
タイトル『八日目の蝉』とは、7日しか寿命がない蝉が、何かの拍子で8日目まで生きたら、どんなだろう…という意味です。
物語の中でも、登場人物たちが折にふれその疑問を思い浮かべます。
平凡な人生を、ふとしたことで逸脱し、それを生きることになったら…
それでも必死で生きるしかないのだけれど、それは寂しいのか?苦しいのか?楽しいのだろうか?
登場人物の心のひだが、丁寧に、淡々と、緻密に描かれる一方、展開は起伏に富んで、鈍行のジェットコースターに乗っているような数ヶ月でした。
平凡な主婦の毎日を送っていると、私は誰なのか、何故ここにいて、どこへ行くのか…それは常につきまとっている疑問です。
疑問というより不安、と言った方がしっくり来るでしょうか。
ですが、この小説を読んでいる間、これだけ安寧とは逆の人生を見せつけられながら、何か励まされているような感じがしてなりませんでした。
最終回は、ありたりのハッピーエンドではありません。
けれども、主人公たちの「8日目」の人生が、いかにも明るい光に照らされたものになりそうな予感とともに終わります。見事です。
本の形になって刊行されたら、オススメの一冊に数えたいと思います。
八日目の蝉