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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2006年01月20日
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カテゴリ:政治・社会学小論
二部 第一次訴訟で問われたチッソ側の<過失>


1,熊本水俣病事件第一次訴訟(損害賠償請求事件)
熊本地裁昭和48年3月20日判決

<事件の概要>
 X(原告)らは、Y(チッソ)工場からの汚悪水によって水俣湾周辺で水俣病の集団発生が生じたとし、原因物質、発病の機序などを証明しなくともYらは損害賠償責任を負うべきだと主張し、民法709条に基づき患者一人あたり1600万円から1800万円の包括慰謝料、患者家族一人あたり300万円から600万円の固有の慰謝料及びこれら請求についての弁護士費用を請求する本件訴訟を提起した。Yは、Y工場の製造過程で排水中にメチル水銀化合物が生成・混入し、魚介類を汚染し、これを摂食したXらが発病したことは、事件発生後の調査研究により明らかになったのであり、当時Yは予見不可能で過失がないこと、XY間の見舞金契約によりXらはYへの請求権を放棄していること、消滅時効が成立していることなどを主張した。

<判旨>
一部容認、一部棄却。
(1)因果関係
 「水俣病の原因物質はY工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたメチル水銀化合物であって、それが工場排水に含まれて水俣湾およびその周辺の海域に流出し、魚介類を長期かつ多量に摂食した地域住民が水俣病に罹患した」とYの排水と水俣病発症との因果関係を肯定した。
(2)過失
 「化学工場が排水を工場外に放流するにあたっては、常に最高の知識と技術を用いて排水中に危険物質混入の有無および動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽くしてその安全を確認するとともに、万一有害であることが判明し、あるいは又その安全性に疑念が生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。」
 Yは、「アセトアルデヒド廃水を工場外に放流するに先立って要請される注意義務を何ら果たすことなく、ただ漫然とこれを放流してきたものと認めざるを得ないから、既にこの点において過失の責任を免れないものというべきである」とした。


2,不法行為

 不法行為とは、ある者がその権利ないしは利益を他人によって違法に侵害されるという仕方で損害を被った場合に、その侵害者をして当該被害者に対してその損害を賠償すべき義務を負わせる制度である。このように、不法行為は、私法上、特定人間に法定の債権債務を発生せしめるところの法律要件の一つである、とされる。


3,故意と過失

 不法行為責任は故意または過失がなければ成立しないのが原則である。少なくとも過失があることを要するから、過失責任の原則とよばれる。故意とは、一定の結果の発生すべき事を意図し、またはすくなくともそうした結果の発生すべき事を認識ないしは予見しながら、それを容認して行為をする、という心理状態を言う。過失とは、そうした一定の結果の発生すべき事を認識ないし予見することが可能であり、また認識ないし予見すべきであるのに、不注意のゆえに認識ないし予見せずに行動することを言う。


4,予見可能説と回避可能説

 過失には、違法な結果の発生を予見し得るのに不注意のためこれを予見しえないという心理状態を過失とみなす予見可能性説と、ある状況のもとでは一定の行為をなすべきであったのにそれをしなかったという一種の行為義務違反を過失とする回避可能説がある。
 熊本水俣病第一次訴訟判決は、後者の立場を形式的・建前的には踏襲しており、「水俣病は予見不可能であった」というチッソの主張だけでは過失責任を免れえないといえる。


5,注意義務違反

 注意義務違反の有無は、人間一般といった抽象的なものを基準に考えられるものではなく、当該の種類の行為についての、当該の職業・地位・立場等に属する通常人ないし一般人を意味している。したがって、当該行為によって生ずる危険の大小によって、要求される注意義務の範囲や程度にはおのずと差異がある。たとえば、人の生命・身体に直接に被害を与える危険性の大きい行為者は、重い注意義務を負わされることになる。すなわち、行為義務違反にあたる回避可能説の基準は操作可能であり、極めて高度な注意義務違反を課すことも場合によって可能である。
 さて、チッソの水俣工場は、かなり規模の大きな有機合成化学工場であった。そこでは非常に危険な原料やプロセスを使いながら化学製品を製造していた。しかも周辺には住宅が密集している。そういう環境で危険な製造工程を使って操業している以上、工場排水によって付近住民に危害を加えないという高度な注意義務が課せられていると考えざるを得ない。
 当時、水俣工場は日本でもトップレベルの優秀な化学技術者をたくさんかかえていた。しかもチッソは、最先端の分析機器をいち早く設備して高度な分析を行っていた企業であるから、排水の分析等は簡単に行えたはずである。それにもかかわらず、チッソはきわめて危険な排水を無処理のまま水俣湾に流しつづけていた。これは明らかな注意義務違反といわざるを得ず、その点で過失の責任は免れない。


6,過失の判断基準

 どのような行為義務があったかは、損害発生の蓋然性と被侵害利益の重大さ、そしてそれを回避するためのコストとの相関によって決まると言うことができる。アメリカのハンドという判事が次のように定式化した。過失の判断基準として広く受けいられている。
 回避コスト(B)<損害発生の蓋然性(P)×被侵害利益の大きさ(L)→過失あり
 前述したように、チッソ水俣工場は優秀な技術者と、高度な機器をあらかじめ有しており、工場廃水による被害を回避するのに費やすコストはかなり低いものであったと考えられる。これに対して損害発生の蓋然性は、水俣が八代海に臨む漁民の町であり、彼らが毎日海で捕れる魚を主食としていたこと、その海にチッソ工場から毎日汚水を流していたことを考えれば、当然に高いものではないだろうか。被侵害利益の大きさは、人命を奪っている時点で言うまでもないだろう(経済的にもいわゆる逸失利益としてあらわれる)。というよりも、他人の生命・身体に被害が及ぶ場合は、損害回避コストの大きさは必ずしも決定的なファクターではないというべきである。


7,因果関係

<新潟水俣病事件>
 熊本水俣病第一次訴訟判決の2年前に、新潟地裁において新潟水俣病事件の判決がでている。判決は、本件のような「化学公害事件」において、被害者に因果関係の「科学的解明を要求することは、民事裁判による被害者救済の途を全く閉ざす結果になりかねない」と述べ、因果関係を被害者の人体から企業の門前までたどれば、因果関係が推定され、あとは企業のほうで因果関係がないことを証明する必要があるという「門前理論」をとった。しかも判決は、証明すべきなのは法的因果関係であって、100%の科学的証明ではないと言う。

<ルンバール事件>
 熊本水俣病第一次訴訟判決の2年後には、東大病院ルンバール事件と呼ばれる医療過誤訴訟において、以上の法理を確認した判決が最高裁で下された。最高裁は、事実的因果関係の立証に関する一般原則を次のように述べる。「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明(まさに近代的思惟様式の忠実なあらわれ!)ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである」(傍点、カッコ内筆者)。
 以上二つの判決と熊本水俣病第一次訴訟判決は、不法行為における因果関係の立証に関して、重要な意義を持っている。








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最終更新日  2006年01月21日 00時29分23秒
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