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湖の彼岸 -向こう岸の街、水面に映った社会、二重写しの自分-

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2007年01月18日
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カテゴリ:思想家・シリーズ
第3節 カントの道徳観
(1) 理論理性と実践理性
カントは「理論理性」の捉える現象の世界と「実践理性」の働く道徳世界とをはっきり区別し,それそれの批判を目指した.理論理性の批判の眼目は,いかにして純粋理性がア・プリオリに客体を認識しうるかであり,たいして実践理性の批判の眼目は,いかにして意志を客体に関してア・プリオリに決定しうるかを研究する.実践理性の批判においては,意思の決定が問題となのである.理論的認識を本源的に規定するものは直観であるが,たいして意志を本源的に規定するものは原則と概念である.したがって,実践理性は,道徳的原則から出発しなければならない.
つまり,「存在」としての自然の事実を説明する理論理性の立場と「当為(Sollen,まさになすべきこと)」>の世界としての実践的理性の立場,自然科学的観点と道徳的行為的観点とはそれぞれまったく別の秩序と法則によって方向づけられているとしたのだ.因果律や空間・時間の概念は,現象世界に関するものであり,理論理性の世界であった.ここでは,われわれは自由・不死・神といった理念を追求することはできなかった.だが,実践理性の世界では,理性と外的事物の関係ではなく,内的なもの,意志との関係であり,ここにおいて,自由・不死・神の理念もまた,確実性を取り戻すことができるのである.
では,どのようにして実践理性によって,この因果律に縛られた現象世界,経験世界を超えることが出来るのか.それは,道徳律(Sittengesetz)を仮言命法としてではなく,定言命法(kategorischer Imperativ)として受取ることである.

(2) 仮言命法と定言命法
仮言命法とは,「もし…なら…べきだ」というものである.道徳律においても,このようなものは多く見られる.たとえば,「もし人から信用されたいのならば,嘘を吐いてはいけない」だとか「早起きは三文の得」などがそれにあたる.それにたいして,条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という.
たとえば,「もし人から信用されたいのならば,嘘を吐いてはいけない」という道徳律があったとしよう.そうすると,この道徳律は,「人に信用されなくても構わない」という人には通用しない.カントは道徳律とは仮言命法ではなく,定言命法でなくてはならない,と考えた.「嘘を吐いてはいけない」という道徳律があったとすると,それがたとえ人を助けるためであったとしても,嘘を吐いてはいけないのである.
それに,仮言命法は,道徳律が「手段」となる.「…のため」にという考え方は,まさしく因果律に縛られたものだ.われわれの理性はその因果律の縛めから逃れようとしているのだから,そういう意味でも道徳律は定言命法であるべきであり,それが「自由」なのだ.たとえばわれわれは,「お金がないから(法を破ってでも)盗みをする」ということがしばしば「自由」であると考えがちだが,そうではない.「お金がないから,盗みをする」というのは必然によるものであるから,因果律を超え出ていない,すなわち「自由」ではないのだ.欲望のために物事をなしてはならない.
欲求能力の対象(質料)を意志の規定根拠として予想する全ての実践的原理は,一般に経験的であり,実践的法則をあたえることはできない
のである.だから,ある規則があったとして,その規則を守るにあたり,「この規則を守ればこんないいことがある」とか「この規則を破ればこんな悪いこと(罰則)がある」とか考えてはいけない.
このような実践のために私たちは,目先の欲望にとらわれないためにも,自分で決めた規則を守るようにすべきである.それが格率(Maxim,マキシム)である.たとえばどのような状況にあろうが,「嘘をついてはならない」と自分で決めたらついてはならないのだ.たとえそれが友人や家族を守るため,であっても嘘をついてはいけない.そしてそのような格率は,しかし,自身の快不快で決めてはならない.それは
汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ
といわれるように,ここの格率は,普遍立法によって定めなければならないのだ.「純粋実践理性の根本法則」である.

(3) 善意志
「冷静で的確な判断力」や「勇気」などは一見,「善い」ものだとみなすことが出来そうだが,これらはこれらを使用する意志が善くなければ有害になりうる.たとえば,この「冷静で的確な判断力」や「勇気」が備わっている犯罪者は,そうでない犯罪者より有害であろう.同様に,権力や富,名誉,健康といった一般に「幸福」といわれる状態も善いものだといわれるが,それらが心に及ぼす影響を制御できなければ,それらを所有する人間を奔放にさせ,高慢にさせる.
このように見てくると,人間が備えることが出来るもののうちで無条件に善い,といえるのは「善意志」のみである.さらに,カントによると,この「善意志」はそれが何かを達成したり,何かに役立ったりするから「善い」のではなく,「それ自体において善い」のであって,たとえ「善意志が最大の努力を払ってもこの意志によってなにごとも成就せず,ただ善意志のみが残る」としても,
この善意志はあたかも宝石のように,自らの全価値をおのれ自身のうちに持つものとして,それだけで光り輝く
のである.
われわれがここで思い出すのは,ドゥンス・スコトゥスの主意主義だろう.それまでの哲学においては,われわれは「善」を知っていると必ずそれをおこなうものだと考えられていた.しかしスコトゥスの登場によって,われわれは善を知っていならがそれをおこなわないことができるということになったのである.そしてスコトゥスのいうことによると,われわれは信仰をしないこともできる.だからこそ,そこであえてみずからの意志において信仰を選び取ることに意義があるのであった. 
カントにおいても,(ライプニッツモナド論における「欲求」を通じて)この考え方は受け継がれたわけなのである. 


出典
勝手に哲学史入門
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html





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最終更新日  2007年02月16日 04時08分57秒
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