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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

意識とクオリアの定義とその展開




*意識とクオリアなど*その260知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*イメージ思考でいこう*



意識とクオリアの定義とその展開(加筆した個所のある部分など)(次々と手を入れています)


注)概略を断定的に記します。証明のようなものはこのブログのあちこちに記してあります。
ただし、断定はしません。
それらの検証はなされていません。
考えられる可能性のすべてを追求していっているだけです。その中から、もっとも可能性の高いものを主に記していきます。


意識の定義
意識し感じ味わう性質(機能・働き)をもった存在

(意識は、それ以外の脳活動(どこかに解説)である、知性活動・情報・情動処理・自己維持機能・自己制御などの機能・働き・活動力などとは区別される)

意識は、波動性の極めて高いひとまとまりになったエネルギーから成っている存在・そのもの、としか考えられない
それ以外には候補がない
そのハードウェアを意識の器(主体)と名付ける

意識内容とは、その意識の器のエネルギーの波動パターンとその変化・展開、またはその内容、または、その味わい・感じ・質である
それ以外には候補がない

クオリアとは、その意識の器のエネルギーの波動パターンとその変化・展開の中に存在するところの味わい・感じ・質、である
それ以外には候補がない

ある体験をすると、それに応じた変化が意識の主体(またはその近辺、あるいはそれに関連した存在)につく

同じ体験を続けていって、その変化が限度を越えると、その意識の主体は壊れてしまう(すべての存在は、変化が限度を越えると壊れてしまう)

正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻るので、意識の主体は壊れない(これは、結局これと同値の内容になる命題をわかりやすく表現した)

意識の主体を壊さない仕組みがこの世界にはある

よって、すべての人は、ある体験をしたら将来それとは正反対の体験を同じ量体験していく流れの中にいることになる
それを体験総量プラスマイナスゼロ化則(質時間回帰則、精神的収支均衡の法則)と名付ける

転生がなければ、その流れは中途で止まってしまう

あらゆる可能性を追求していくと、
霊魂があってもなくても、転生はある、という結論がでてくる

その立場に立つと、転生を通じて、体験総量プラスマイナスゼロ化則が働いていくことになる、となる

注)ここまでは、質の科学だけでの記述である。次からは、それに加えて、世界哲学の内容も加味される。
注)質の科学は、科学的手法、世界哲学は、哲学的手法、をそれぞれとる。

あらゆる可能性を追求していくと、
宇宙は永遠に続いていかないとおかしい、という結論がでてくる
よって、宇宙は永遠につづいていくだろう
その中で、人間のような意識をもった生物は、途絶えることはあっても永遠に生まれつづいていくだろう
その中で、
すべての人(意識の主体)は、永遠に無限回、転生していくだろう

その中で、
体験総量プラスマイナスゼロ化は、完璧に成されていく
つまり、
すべての人は皆、完璧に平等なのである
完全に平等になっていく、ではなく、すべての人は皆、完璧に平等なのである

体験総量プラスマイナスゼロ化則を解釈してみよう
他人に為したとおりを将来必ず自分が受ける
今の自分とは正反対に将来必ずなる





脳での情報処理と意識


脳の中では、あちこちの個所たちで、いくらかの時間(的な)差をもって、ひとつの対象についての情報処理がなされている。

つまり並列分散処理・局所的処理がなされている。

そうであるのに、意識においては、それらは一本化・一体化された情報となって意識し味わわれる。

つまり、脳の中で局所的に処理されるそれらの情報は、なんらかのやり方で、総合・統合されるということになる。

どうやって、総合・統合されるのか。

脳の活動を観察しても、それはまったくわからない。

観察によって、脳の神経細胞たちの活動たちが、さまざまな情報処理を行っているようであることはわかるが、それ以上のことはまったくわからない。

ましてや、意識や意識内容の質(クオリア)については皆目わからない。

(なぜ人間には意識があるのか、意識とはなんだろう、といったことは万人がもつ問いである)。

そこの、情報の総合・統合のところが、現在、こういった方面のひとつの大きなテーマになっているようであることを、私はついこの間知りました。

それについて、そのあと研究し、このブログに載せてきました。

それについての可能性の高い仮説をひとつここにも挙げておきましょう。


脳は、意識の器の規格・性能・特性・性質に則ってつくられている、とすれば(仮定ですが、それ以外ないでしょう)、
脳のニューロンたちの活動(局所的・部分的な)によるエネルギーの変動たちがそのままで、あるいは、それらを脳のあちこち(それらに接している・連絡している)にそのまま送り込んだら、それらが意識の器全体に波及し、そのままで意識の器の中で、全体性・一体性をもった情報(心的内容・意識内容)(心的内容と意識内容は異なるのであるが、一応こう記しておきます)に総合・統合されてしまう、
ということである可能性が高い。

それはたとえば、池の水面に、砂粒をたくさん投げ入れると、砂粒たちによって波紋源がたくさん発生し、それら波たちが合成されて複雑な波紋のパターンがつくりだされ、それが展開されていく、しかもその波紋は一本化・一体化されたひとつの意識内容とその展開になっている、といったイメージである。

注)池の水面の波紋は、時間を除くと二次元的な三次元であるが、意識の主体のばあいは、それ以上の高次元であろう。
あるいは、仮説として、複素(数)空間が実在し、そこでの現象・実態である可能性も排除せずに追求してみるのもよいのかもしれない。その場合の観測装置の素子として、現在のトランジスタを越えた高性能の素子などが必要になってくるだろう。


ともあれ、質の科学においては、脳における局所的な情報処理による情報を、どうやって統括して一体化・全体化しているか、という点については、省いて質の科学が成立しているのであるから、そこの研究は重要ではない。




質の科学の発見に至った過程


自分とまったく同じ人が今存在したらどうなるか

→二重の意識状態になるが不思議ともなんとも感じない

→自分とまったく同じ意識(意識の主体)をもつ人が存在すればそれと同じ結果になる

→意識はどこに存在するか?

→脳の中の小さな一部に存在するか霊魂と呼ばれる存在に存在する

→意識の部分がまったく同じ人が将来生まれてきたらそれは転生



任意の人の脳の中の意識の部分とまったく同じ意識の部分をもった人が生まれてくればそれは転生であるが、そういった意識の総数よりも生まれてくる人間の数の方がはるかに多い

→つまり、霊魂はなくても転生はある

霊魂があれば転生はある

→よって、霊魂はあってもなくても転生はある



→ある体験をしたら、それに応じた変化が意識の部分につく

→同じ体験をしつづけるとその変化が限界に達して意識の部分が壊れてしまう

→意識の部分を壊さないために、正反対の体験を同じ量体験しその変化は元に戻される、という仕組みがある

→つまりどの人もある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる

→転生を通じてそうなっていく

→つまり転生を通じてすべての人は平等になっていく

→霊魂があってもなくてもそういう同じ結果になる



→体験・質には、ある性質のものがあれば、それとは正反対のものがある

→それらは対生成しているのだろう

なにもないところから質というベクトルのようなものは発生した

→正と反が対生成

→逆に正と反を足しあわせるとゼロのようなものに隠れる

→運動量保存則における運動量というベクトルの法則に似ている

→この世界の体験・質はプラスがあればマイナスも同じだけある


質の科学では、そういったふうに、有効な着眼・視点たちを発見して、そこからの考え方・思考実験によって、難しい数式・計算などは用いず、おおまかで概算的なやり方や概念による計算で、さまざまな結論をだしてきています。

以上の展開のやり方にすこし変化をもたせて;
「自分とまったく同じ人がもう一人いたら、どうなるか」
→「二重の意識状態になるけれど不思議ともなんとも感じない・思わない」
→「自分というのは自分の意識である」
→「自分の中の、意識以外はどう変化しようが自分の意識だけは変わらない」
→「自分の中の意識以外はどうにでも変化していく」
→「意識の主体の総数と、生まれてくる人間の数を比較すると、生まれてくる人の数の方がはるかに(無限に)多い」
→「意識の主体が、脳の一部であろうが、脳の全体であろうが、霊魂のような存在であろうが、転生はある」

「体験などを意識し味わうと、意識の主体(あるいはそれに関連した何か)にはそれに応じた変化がつく。
なぜなら、すべての存在は、なんらかのエネルギーを受けたら、それに応じた変化を受けるからである。
体験なども、なんらかのエネルギーの組織・複雑な波動(エネルギーに伴われる波動パターンとその変化)として意識の主体で展開され、それを意識し味わうから、そういえる」
→「その変化が限界に達したら、意識の主体は壊れる。
なぜなら、すべての存在は、壊れない範囲の限度を越えると、壊れてしまうからである」
→「意識の主体が壊れないためには、正反対の体験を同じ量体験すればよい(一時的には必ずしも、「同じ量」でなくてもよいが、ある程度の時間が経過すると、「同じ量」になるようなかたちになる)」
→「意識の主体を壊さない仕組みが、この世界にはあるはずである(意識最重要の原理by世界哲学)」
→「意識の主体を保護するために、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる、という法則がある」
→「その法則を、質時間回帰則、科学的カルマ、精神的収支均衡の法則、体験総量プラスマイナスゼロ化則、などと名付ける」

「質時間回帰=プラスマイナスゼロ化は、不完全になされることはなく、完璧になされるはずである(万人平等の原理by世界哲学)」
→「宇宙が永遠に続いていかないと、質時間回帰=プラスマイナスゼロ化は、中途半端で終わってしまうが、宇宙が永遠に続いていくと、それは完璧になされるので、宇宙は永遠に続いていくはずである」
→「その中で、意識をもった人間のような生物は、途絶えることはあっても永遠に生まれ続いて(生まれ続けて)いく」
→「その中で、質時間回帰は完璧になされていく」
→「つまり、すべての人間は完璧に平等である」

注)以上は、質の科学に世界哲学を混ぜて展開しているので、うさんくさくなっていますが(人によっては、とんでも系、と感じることでしょう)、
質の科学だけ抽出しても、多くの部分は成り立っています。


ここで、質の科学における「意識」について追加して述べておこう。
「意識」という単語は、もともとは「意識がある・意識がない」における意味から出発していると思われるが、そこから派生して、「認識」「心の傾向」「考え方」などの意味ももつようになっている。
質の科学でいう「意識」とは「意識し感じ味わう」ことについてのものであり、医学的に普通用いられる「意識がある・意識がない」における「意識」であり、それは「意識の主体」と名づけるべき存在とその働き・機能と「意識の主体」の中でおこる現象・意識し味わう現象をさしている。



(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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