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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

意識とクオリア・まとめ2




意識とクオリア・まとめ2


*クオリアと意識17*その261*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*イメージ思考でいこう*


クオリアと意識について17(主に過去に書いたものをまとめる・手を入れる)


意識内容の実体・実態/もっとも本質的・根元的な情報・表現・内容形態/意識の器の中での波動パターン


さてここで、その変換について考えるためにもということも含めて、
意識の器の中ではいったいどんな波動パターンが生じているのか考えてみましょう。

つまりたとえばそれは、ひとつの景色をとりあげ、その景色からの光の集団(その景色の情報をもつ)と、それが意識の主体(器)で意識し味わわれるときの意識の主体内での波動パターンとの関係はどうなっているのだろうか、ということも含めた問題提起です。

それは、
意識の器の中で、その景色の映像がそのまま生じ、それを意識し味わうのか、それとも、意識の器の中での波動パターンは、その景色の映像をなんらかに変換したもの、または、より本質的な表現形態の波動パターンなのか、それらのうちのどれなのだろう、またはその他の在りようなのか、
といったような課題設定です。

まず、もっとも本質的・根元的な情報・表現形態とは、いったいどんなものなのでしょうか。
それは、その景色からやってくるその映像情報の光の集合(集団)、それそのもの、でしょうか。

そのばあいの光の集合は、たとえば観測者を設定して、その観測者の一部(いくらかの領域を占めている)にやってきた場合、そこから見たとみなされるその景色の映像情報のすべてを(一応)もっています。

その景色からの光の集団は、光についての、強さ・波長・位相(波が歩いていく=進んでいく、と考えて、その波の足どり・波の形、の、基準の波からのズレのようなもの)をもっています。

その三つの情報がそろっていれば(あるいは加えることの、それぞれの光がやってきた方向)、元の景色の映像をカラーで立体的に再現できます。

そのうちの強さと位相の情報を記録してしまうのが、ホログラフィーというやり方で、それを映したものが、ホログラムと呼ばれる縞しまの写真のようなものです。

(このシリーズで、ホログラフィーと記すべきところを、ホログラムと書いてある個所があります。訂正はしません)

なんらかのやり方で、波長の情報(色についての情報となる)も記録しておけば、カラーの立体像が再現できます。

そのばあい、レンズは用いません。

面白いですね、レンズなしですよ。

それにたいして、
その光の集団に対して、たとえばピンホール(針穴写真機という楽しいおもちゃがあります)やレンズを用いて、像を結ばせることができます。

それを写真撮影したものが、映像写真であり、そこには、その三つの情報のうち、位相についてのそれは含まれず、強さと波長の情報が記録(完全ではなく合理的に)されます。
位相についての情報は切り捨てられてしまいます。
(そのうち、電子的に位相についての情報も記録(三原色の)できるようになれば、さらに、それら情報を再生できる画面がつくられれば、すごいカラーの立体映像再生装置ができることになります)。

(以上、ホログラフィーに関わった記述には、まちがいがあるかもしれません。ネットで短時分勉強、しただけですので)

今の研究の流れの上で、ここで考えるべきことは、結ばせた像とその直前の像の光の集合、のどちらが、より本質的・根元的であるか、ということです。

注)対象そのものがもっとも本質的な情報でしょうが、それを直接認識ことはできない、という立場で考えています。
ただ、意識の主体が、空間のエネルギーなどを使って対象と共振し、対象を直接認識・意識できる可能性はあるのかもしれません。

普通、レンズなしでは(特に眼にあるレンズ)景色は見ることができない、と思いますよね。

ところが、そうとはいいきれないようです。

前の方には、映像としてのすべての情報が含まれています。
あとの方では、位相についての情報が映像化した時点で失われてしまいます。

ということは、
意識の器にとっては、というか、本質的な存在にとっては、レンズを用いて結ばせた像の波動パターンよりは、その前の段階の光の集合の方が、波動パターン(対象の映像情報としての)としてなじむのではないか、と考えるのは妥当なことだといえるのかもしれません。

注)このブログでの結論として、地上に生物が存在していなかった時点でも、知性体という存在があった可能性がある、という内容があります。
その立場に立つと、知性体には目にレンズがないはずであり(たとえ目はあっても)、そういった光の集団をそのまま認識できないと、行動が恐ろしく不自由で、たいした活動ができなかったでしょうから、そうできたはずである、という結論に至ります。
あるいは、すでに述べたように、知性体は、空間のエネルギーなどを使って対象と共振し、対象を直接認識できるのかもしれません。

肉体の経験やコントロールのために、レンズのついた目は必要なのであって、本来、意識の器・本質的な存在、にとってはレンズなんていらなくて、対象からやってくる光の集団=直接映像、をそのまま直接意識し味わうことができるのではないか、と推察するのに有効な根拠がある、といえるでしょう(知性的な存在においては、映像情報を直接認識することができるのではないか、となります。意識の主体と知性的存在は異なる)。

そこで、
意識の器は、脳を覆い、脳に覆われているから、直接映像としての光の集合は受けられないので、
目~脳を通して変換した情報として意識の器に送り込んでいるとして、
その情報は、直接映像としての光の集合、に戻してやっているのではないか、
そういう可能性をも考えてみるわけです。

もちろん、そう戻してなくて、二つの目からの情報を立体映像として、意識の主体に送り込んで、それを意識の主体が意識し味わう、という可能性も残したままで考えています。

意識の主体は、そのふたつのモード、または、それ以上のモードを駆使できる、という可能性もあるでしょう。


そこで、
ふたつの眼によるふたつの映像を、視差によって立体映像にするのは、どういったやり方でなされているのでしょうか。

それはホログラムではない。

(このシリーズで、ホログラフィーと記すべきところを、ホログラムと書いてある個所があります。訂正はしません)

二つの眼それぞれにやってくる対象の景色からの光の集団は、わずかな違いがある。
つまり、どちらか一方の眼にやってくる光量子たちのすべてとまったく同じそれらが別な方の眼にやってくることはなく、いくらか異なったものたちがやってくる。
それらやってくる光の集団をそれぞれの眼が位相情報を切捨て情報化する。
そして、それら二つの眼からの映像情報を突き合わせると、そのわずかな違い・差の間に干渉が起こって、新しい一本化された情報となる(それが意識の主体の中で自然に起こる、という可能性も考えられる)。
その一本化された情報とは、対象の立体映像である。
そうなっているのだろうか。
その一本化された情報の中に、位相の情報を甦らせている、ということはありうるのだろうか。
景色からの直接の情報が最も情報量が大きく、元の情報(眼たちからの)はそれより情報量が小さい。
元の情報(眼たちからの)から一番情報量の大きな原情報(景色からの)を再構築することは不可能だろう。削ぎ落とした情報を再生させることはできない(難しい)からである。
(ただし、再生する定式化された方法があれば話しは別だが。たとえば、コンピューターで3Dアニメをつくるソフトのようなものがあれば。それでも細部まで完全には再構築できないはずだが)。


ここで少し前にもどります。

景色からの光の集団=直接映像、が意識の器に至るとどうなるか、考えられることをあげてみましょう。

その中のそれぞれの光量子たちが、意識の器を構成するエネルギー素子に入り込み、
とか、
意識の器を構成するエネルギー素子が、それぞれの光量子たちから情報を受け取り、
とか、
意識の器の中で、それら光の集団がいっぱいに広がって、
とか、
ともかく、その光の集団そのものか、それからの情報が、意識の器の中で波動パターンになる、
といった可能性はあるでしょう。

もしそうであるなら、それは、意識の主体が脳から離れたら、レンズなしで直接景色を意識し味わうことができる、ということを意味します。

注)意識の器は、なんらかのひとつのエネルギー的存在である可能性についても既に言及しています。


さてそこで、それ以外の;

音の世界についても同様で、意識の主体(器)は、音の振動に直接触れると、そこから情報を得て、直接音の世界を意識し味わうことができてもおかしくはない。

匂いの世界についても同様で、意識の主体(器)は、匂い分子に直接触れると、そこから情報を得て、直接匂いを意識し味わうことができるのかもしれない。


そのほか、意識の器は、空間のエネルギーなどを用いて、対象と共振(共鳴)できるのかもしれない。
意識の器は波動性がきわめて高いから、すべての存在に共振できる可能性をもっているのではないか。
それは映像や音による認識(意識)ではない。
それは直接認識(直接意識)といえる。
その共振による情報も、最も根元的な情報・表現形態のひとつである可能性が高い。

(意識の主体が他の意識の主体と共振したらどうなるか。
知性体<別なところで述べる>が他の知性体と共振したらどうなるか。
そういった方面の研究もできる)。


ここでは、意識の器の中での波動パターンは、どういった姿をとるのだろうか、ということも追求しているわけですが、それについてどう考えていけばよいのでしょうか。

抽象的に考えると:
視覚情報の場合、対象の映像がどのような形で反映されているか、
聴覚情報の場合は、音そのものがどのような形で反映されているか、
そのものずばりの情報がそのままで波動パターンをとる場合、どうなっているのか、なども課題として考えられます。
注)そのものずばりの情報というのは、視覚情報、聴覚情報も含めて言っている。そのほか匂い情報もあるが、そのものずばりの情報、という表現は意味がはっきりしない表現で削除しようかと迷う。しかし、なにかしら魅力があるので、あえて残しておきます。イメージ思考を刺激してくれるから。
ほかにも追求すべきことはたくさんあります。

そのほかの情報の場合は(思考、感情、知性的な働きによる心的内容、身体を動かすときの心的内容、感覚、そのほか)、まったく推察もできない(それも、そのものずばりの情報ともいえるだろう)。
実際に意識の器のそれを観察するしかなさそうである。



さて、
意識の器の中での波動パターンを計測するには、現在のトランジスタを越える性能をもつ素子が必要である。


さらに、
量子力学でたとえば電子の振舞いを記述すると、複素数が現れるが、その複素数を想定する複素空間は実在するのか実在しないのか、という問題もある。

それが実在するとなると、意識の器は、その空間に存在するという結論がでてくるかもしれない。

その立場で、複素空間の情報・エネルギーを感知できる装置は、それに適用できる新しい素子たちを開発できるか否かにかかっているのだろう。


(以上、意識とクオリア02まで)


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