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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

印象メモ;情報処理とニューロンの発火

私の基本姿勢は、研究対象の、ありうる可能性をすべて並べ挙げ、現実はどれに対応しているのか、そのどれが現実を記述しているか、現実はどうなっているのか、それを追求していくというところにあります。
ただ、稿の記述においては、一部の記述にとどまることが多く、誤解を招くことが多いと思います。
つまり私の記述は、どんなときでも、可能性のひとつとして挙げているにすぎません。
そしてそれも、「メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎」のどこかに位置づけられるものとして書いています。

いろんなものを読んでいて感じるのですが、
だれの書いたものであれ、書いた本人のもたせた内容どおりに読み取ることは非常に難しいものです。


さらに私の論の特徴として、こういった方面のどんな実験結果がでてきても、すばやくそれを検証例としたり、それならこう考えられるのではないか、といった思考・知性活動ができる枠組を提供する、という面がある、ということがいえると思います。


私の稿のすべてにおいて、いつでも訂正の用意があります。
 



印象メモ;知性の器(心の器)、そのアクセスとニューロンの発火1~9


印象から発想へ、そしていくつかの仮説へ。


さまざまなニューロンの一団の発火の役割・働きなどを解釈できるモデルのいくつかの構築をなしてみます。

それは、別な稿のどこかに位置づけられるものです。

もちろんそれは仮説の初歩であって要検証です。



知性の器(心の器)(解説は別な稿にあります。知性の器=心の器、とは形而上的活動をなすハードウェアのことです)の存在を仮定すると、ひとつの可能性としてうまく解釈・説明できるようです。


まず、次の文献を挙げます。

<認識におけるマッハの原理。抜粋>(by茂木氏)
>より正確に言うと、そのニューロンと相互作用によって結びついたニューロンの発火の連なり(クラスター)が、全体として「バラ」という認識をコードしていると考えられる。脳の中のニューロンは、一つを取り出しても意味がなくて、第一次視覚野からV2、V4、そしてIT野の「バラ」ニューロンの発火に至る、相互作用で結びついたニューロン発火のクラスターが全体として「バラ」という認識を支えているわけである。

<認識のニューロン原理。抜粋>(by茂木氏)
>つまり、私たちの心の性質は、どんなメカニズムに基づくにせよ、ニューロンの発火状態によってのみ決まるというわけである。これは、今日知られている様々な実験的証拠から考えて、妥当な仮定だということができるだろう。
>高次の視覚野にいくほど、より複雑な反応選択性を持ち、受容野(視野の中で、そのニューロンを発火させることのできる刺激の位置の範囲)の大きいニューロンが現れる。


以上とその他から発想したのは、コンピュータで例えるとして、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」(ソフトウェアについては活性化して稼働しているものという条件がつく。活性化していないソフトウェアは単なる記録のようなものである。RAM内にあるものは活性化しており、ハードディスクなどの記憶装置内にあるものは活性化していない、と表現する)がどこかにあるのではないか、ということです。

意識の器、と同じく、知性の器(心の器)、があって、その活動(=知性の主体=心の主体)が、コンピュータでの例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」として働き、脳のもつ情報をあちこち参照しているようにみえます(そのソフトウェアはRAM上にあり、活生化していて働ける状態にあるとする)。
あるいはそれに加えて、現在の状況にまつわるさまざまな情報をあちこちに記録しているようにもみえます。
その中でも例えば、「>高次の視覚野にいくほど、より複雑な反応選択性を持ち」からも、そういった情報にまつわるその個人独特の情報(過去からの経験などによって身についた傾向・特質・性質といったようなもので記憶のようなもの)や、色覚についていえば色の恒常性を保つ情報源などといったもの(色覚以外にもあろいろあるでしょう)、を参照して、その心的内容を構成・生成していっているように感じます。
あるいはそれに加えて、新しい情報・新しく生成された情報を記録していっているようにも感じます。
つまり、そういったところのニューロンたちの発火は、知性の器(→知性の主体=心の主体)がなさせているような印象を受けるということです。

ちなみに、意識と心(知性)の定義1の立場(メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎)にそれぞれ立つと、心の器・主体(知性の主体)では、認識内容をはじめ心的内容を構成・生成し(その時点では意識されない)、それが意識の器・主体に送り込まれてはじめて意識し感じ味わわれる、ということになります。
ペンフィールドの観察結果、リベットの実験の結果、などをも考えあわせると、その可能性は高いのかもしれません。
(ペンフィールドの観察結果、リベットの実験の結果、は難物です)。

注)日本語としての用いられ方から、「認識」という単語は、「意識」とは異なり、心の器・主体(知性の主体)の機能の一種としています(メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎)。

注)心の器・主体(知性の主体)の中には、顕在したもの(意識の器・主体で意識し味わわれるもの。いわゆる心=顕在意識=顕在心)と、潜在したもの(意識の器・主体で意識し味わわれないもの。いわゆる潜在意識=潜在心)がある(メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎)。


もとに戻ります。
コンピュータで例えると、脳のいくらか、から、かなりの部分がハードディスク+αであって、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」がそれにアクセス(そのとき発火)して情報をかき集めたり書き換えたり書き加えたり記録したりしていっているようにみえるということです。

コンピュータでも、記録場所としてはハードディスク+α上にある、レジストリや、記録場所、その他さまざまな個所の、読み出し、書き換え、書き加え、記録、などをやっています。
それにそっくりにみえるということです。

(ニューロンの発火とそこに至る経緯などを総合して考えると、そのハードディスクというのは、半導体タイプの風変わりなもの、あるいはCPU的な機能をもったもののように映る)

さらに、それと、ペンフィールドの観察結果、リベットの実験の結果、などをも考えあわせると、やはり、知性の器、が波動性の高い存在であって、それが目に見えない「CPU+RAM+ソフトウェア+α」のような知性として働いているという印象を受けます。

ある程度以上頻繁に発火し、加えて情報処理の対象がさまざまに変化しても発火しつづけるニューロンの一団があるとしたら、そこは、例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の中の少なくとも、「CPU」、あるいは「CPU+RAM+ソフトウェア」、または「CPU+RAM+ソフトウェア+α」、さらにあるいは「意識の器(別な稿にあります)。コンピュータではモニタにあたる」に関連した部位である可能性が高い。

さらに、最直近上に加えて、眠れば発火しなくなる(発火が極端に減る)ニューロンの一団は、例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の中の少なくとも、「CPU」、あるいは「CPU+RAM+ソフトウェア」、または「CPU+RAM+ソフトウェア+α」、さらにあるいは「意識の器(別な稿にあります)」に関連した部位である可能性がより高くなる。

そういった脳の部位(ニューロンの一団。ニューロンの一団だけだろうか、+α)そのものがそれ(例えとしての、「CPU」、あるいは「CPU+RAM+ソフトウェア」、または「CPU+RAM+ソフトウェア+α」、さらにあるいは「意識の器(別な稿にあります)」)である可能性と、そういった部位は、そういった存在との基本的な連絡の場所である可能性がある(逆方向のアクセスは自在。この文の解説はここではむりなのでそのうちに)。

しかも、そういった特性を示す部位がひとつ存在するか、ふたつ存在するか、三個所あるいはそれ以上存在するかで、異なった解釈ができ、可能性のより高い仮説を提供することができる。

情報処理の対象が変われば発火しなくなる(極端に減る)ような部位(ニューロンの一団)は、例えとしての、「CPU」、あるいは「CPU+RAM+ソフトウェア」、または「CPU+RAM+ソフトウェア+α、さらにあるいは「意識の器(別な稿にあります)」に関連しない部位である可能性が高い。




上に述べたように、
例えとしての「CPU+RAM+ソフトウェア+α」が脳の一部分として存在している可能性もあるわけですが、コンピュータ上での「CPU+RAM+ソフトウェア+α」は、発火というほどの反応はせず、発火に値するような反応は、ハードディスク上でしか観察できない、ということから、ニューロンの発火に対応することはハードディスク上で発生しているのではないか、という推測が立ちます。
しかも、ハードディスク上には、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」は存在しない(ソフトウェアについては活性化したものという条件がつく)ので、人間の中で「CPU+RAM+ソフトウェア+α」に匹敵する存在は、脳の中の物質的組織の中には存在しない、となる可能性もでてくる。

しかも、人間の中で「CPU+RAM+ソフトウェア+α」に匹敵する存在は、そんなに広い範囲をもたない(コンピュータで考えて。あるいは、脳の分業から考えて)という可能性が高いので、脳の広範囲で起こるニューロンの発火は、コンピュータで例えた「CPU+RAM+ソフトウェア+α」で起こっているのではなく、ハードディスクで例えられる部分で起きているのである、という可能性がある。

加えて、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」の活動は、同じところで繰り返し行われるので、それは脳での多くのニューロンの発火には対応していないようであって、脳の中でニューロンの発火が起こるところの多くには、コンピュータで例えた「CPU+RAM+ソフトウェア+α」は存在しない、という可能性がある。


などが考えられますが、もちろん、それは仮説であって要検証です。


もちろん、第一次視覚野などのニューロンの発火は、入力に対する・入力における反応にみえます。

上の発想の延長上でいうと、そのとき同時に、知性の器にその情報が送り込まれているのでしょう(もちろん仮説です)。
知性の器(心の器)と脳が情報のやりとりをなすときに発火しているような印象を受けます(仮説です)。

コンピュータのハードディスクにおいては、アクセス時にヘッドのコイルに電流が流れ磁界が発生(これは書き込み)(ニューロンでいえば発火?)(そのときハードディスクのシリンダの保持磁力たちに変化が生じる)、あるいは磁界により電流が発生(これは読み出し)(ニューロンでいえば発火? だろうか?)(そのときハードディスクのシリンダの保持磁力たちには変化は生じない。無視できるくらい・気づかない程度は変化するが)します。
書き込みと読み出しのときの、ヘッドの電流や磁界のレベルにはかなりの違いがあります。
書き込み時には、ハードディスクのシリンダに大きな磁界たちが加えられ、その保持磁力たちに変化がでる。
読み出し時には、そういうことはない。

電子的ハードディスクでも似たような反応がある。

以上の見解・仮説・見方に立っていえば、
ニューロンにおいては、いわゆる発火と、それよりもっと弱いなんらかの動作(変化、反応、とか)があるのでは、と予想される。
一応、コンピュータにならっていえば、記憶・記録時は発火、記憶・情報の読み出し時は弱い動作、となるかもしれませんが、あるいは、意識の器への形而上的情報の送り込みを(あるいは同時に)行う可能性があるので、そうとばかりは言い切れません。つまり、意識の器への形而上的情報の送り込みには、かなりの「瞬発エネルギー=発火」が必要である可能性がある。


別な稿にあるとおり、以上の考察・仮説から、次のような仮説と定義の体系が構築されます。
それらはもちろん仮説であって要検証です。

人間の形而上的活動を構成する要素は次のようなものである;

知性の器(心の器)(コンピュータでいえば、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」にあたる)、
知性の器には、顕在心と潜在心がある、
顕在心は意識の器でモニタされるが潜在心はモニタされない、
潜在心は裏方の運営力・駆動力として働く、

意識の器(コンピュータでいえばモニタにあたる)、

ニューロンのいくらか~かなりの部分は、なんらかの情報を蓄えるまたは再生する記憶装置のようなもの(コンピュータでいえばハードウェア+αにあたる)、



そういったニューロンの発火の一団たちのうちのいくつかは、知性の器(心の器)がアクセスしているものであり、別な一団たちのいくつかは意識の器へ心的内容なる形而上的情報を送り込んでいる、あるいは、その両者が重なっているケースもある、と仮説される。

そうやって生成された心的内容が、どこかのニューロンの一団の発火によって、意識の器に送り込まれ、意識の器で意識内容の波動パターンが生まれる、それが今のところでてくるモデル・仮説です。

以上は、コンピュータの構成・仕組みそっくりです。

ただしそれは、コンピュータを参考にしてでてきただけではなく、そのほかのイメージからもでてきたものです。


コンピュータが人間の形而上的活動の構造の完全なモデルになるということはない、という立場で考えています。




目から情報が脳に送り込まれ、まず、脳の一部(第一次視覚野など)で情報処理する、
それは、
コンピュータに接続されたカメラでは、カメラに組み込まれたLSI+ソフトウェアが、その脳の一部(第一次視覚野など)にあたり、
それは、「CPU+RAM+ソフトウェア+α」上にはない、




脳という物質の組織に、あるいは加えることのその活動上に、心、意識、が生じるという立場にまず立ってみましょう。

脳は分業になっている。
注)近頃は、脳は全体がホログラフィー的に働く、という説もでてきているようである。よって、その分業説はとりあえずとる、という形になる。

脳のかなりの部位を失っても、心、意識、そのものは変わらず存在する。
ただし、心のもつ形而上的処理能力は大きく変化(低下)し、心的内容、意識内容も大きく変化(豊富さが減る)する。

その立場に立った上で、以上からいえることは、脳の中で、心のある・生じる個所も、意識のある・生じる個所も、脳の中の一部である、ということになる。
(あくまでもその立場に立った上でのことです。可能性を追求しているだけであって、断定はしていません)

そういったことに関わる現在までのさまざまな研究からいえることは、その「脳の一部」というのは、非常に小さいといえそうである。







(いつでも訂正の用意があります。私のすべての稿についてそうです)





野元氏の投稿「「意識」成立のタイミングは?そのときの条件は?」から引用させていただきます。

「引用始め」

「坂井氏が参照している二つの論文を紹介しておきます。

「視覚刺激による一次視覚野の反応は、まず刺激を提示してから30ミリ秒付近で起こり、ついで100ミリ秒付近で起こる。このふたつめの反応がないと視覚刺激を主観的に感知できない」
(Super et al ., 2001)

「視覚刺激が提示されてから100ミリ秒後、つまり、一次視覚野から高次の領域へ行って帰ってきた時点で一次視覚野を抑制すると、視覚刺激の判別能力が低下する」
(Walsh&Cowey,1998)」

「引用終わり」


それらは、心も意識も継続して存在しているのに、脳の上にあるはずの心的内容、意識内容が心にも意識にも生じていない、ということがあるということを表して(現して)いる。
それらは、心的内容も意識内容も、脳の上(中)に存在していても、つまり、心的内容も意識内容も、脳の上で構成・形成中の間は、心にも意識にも存在しないで、なんらかの条件が満たされると・整うと、心、意識の中に生じる、ということを示している。
(人間は脳の中である程度時間をかけ、脳のあちこちで、ひとつの対象について形而上的情報処理をしているが、その過程は意識されない)。


それは、リベットの実験のひとつの結果に似ている。

それら、視覚野たちと視覚情報認識の成立の関係(実験結果)と、ペンフィールドの観察結果、リベットの実験の結果をあわせて考えると、私の稿「メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎」にある、「意識」「心」についての定義1(共に)が正しい可能性が高くなるような印象を受けます。





心において形而上的情報処理の過程にある情報は意識の主体によってモニタされない(意識し感じ味わわれない)。

心によってひとしきり完成された情報、一体性・全体性をもった情報のみが意識の主体によってモニタされる(意識し感じ味わわれる)。

心で行われている情報処理は、意識されないので、潜在心によって行われている、と表現できる。

「心によってひとしきり完成された情報、一体性・全体性をもった情報のみが意識の主体によってモニタされる(意識し感じ味わわれる)」なので、その時、心・心的内容を意識し味わい感じることになり、その時、心もあると意識し味わい感じられる。それは顕在心ととらえ表現できる。それは心的内容であり、意識内容でもある。

つまり、普通にいう心とは、意識の主体が意識し感じ味わったところに生じる意識内容である。

(仮説。要検証)





意識の主体;意識が活性化しており、




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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