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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

質時間・質時間回帰





行動・言動・体験1~4*質の科学*


意識の主体につく変化である、質時間、はある種のポテンシャルといっていいのかもしれない。

実際の言動の質の総和(時間で積分したものたちの総和)に、意識の主体に残る変化であるところの質時間の総和を加えれば、ゼロ質になる、という関係だ。

質時間の総和には、上限と下限がある。

その限度を越えると、意識の主体が壊れるので、意識の主体が壊れないための範囲、という性質のものだ(なんにおいてもそういう上限と下限というものがある)。

そこから、その、ある種のポテンシャルである質時間が、人の言動を駆動するケースがある、という仮説がでてくることになる。

質時間の総和が上限と下限を越えないように、人の言動が駆動されるケースが当然でてくる、ということだ。



質時間回帰則があると仮定すると、それだけではすまない。

自然や他人たちからやってくる、質時間回帰の駆動もあることになる。

それも結局は、対象にしている人の体験となる。

つまり、こうなる。

実際の言動の質の総和(時間で積分したものたちの総和)に、意識の主体に残る変化であるところの質時間の総和を加え、さらにそれに、自然や他人たちからやってくる、質時間回帰の駆動の質の総和(時間で積分したものたちの総和)を加えると、ゼロ質になる、という関係になる。

以上は、数式をことばで表現している。

つまり数式化できる。

それが正しいと仮定すると、それに応じたなんらかのフィールドがある、ということになる。


以上を、証明し検証するのは、今のところ完全になされているとはいえない。

そこで、哲学的手段を用いると、面白いことになる。

「人は皆、完全に平等である」「人は皆、完全に平等であるようにこの世界はできている」という命題を真とすると、以上は正しいということになるのである。

「平等になる」でもいいが「平等である」の方が完全に正確である。

その解説は、かなり長くなる。

まず、




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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 宇宙人がでました(?)






定冠詞と不定冠詞1~5



かなり前に、日本語の格助詞の「が」には、定冠詞の役割もある、と書いたことがある。

分析してみたことがあって、そういう結論に達していたからだった。


すると、養老氏の本に、「格助詞・が、には、不定冠詞の機能がある。格助詞・は、には、定冠詞の機能がある」という記載があるという情報をいただいた。

それによると、「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯にいきました」という文章から、そういえるという。

(以上、記憶に基づいて書いているので、間違いがあるかもしれませんが)


それは間違いだ。その「が」は、やはり、定冠詞の機能をもっている。

「この物語りで、着目している、その」ということになるからだ。

不定冠詞だと、だれでもいいが、だれか知らないが、ランダムで選んだおじいさんとおばあさん、ということになる。

それだと物語にはならない。

だから、定冠詞の働きがあるのだ。


それをそこで不定冠詞としたのはたぶん、分析もせず、エイゴの品詞の扱いをそのまま援用してのことだろう。

エイゴで、単数で、同じように物語の冒頭に、主人公的な人物で「an old man」とあったとしても、その「a(an)」は、同じく「一人のその」となって、定冠詞のようなものとなる。

その人物を任意に選んだのなら物語りにはならない。

その人物を任意に選んだのではなく、ちゃんと着目して選んでいるではないか。

先に日本語において述べたのと同じ理屈だ。


エイゴのばあい、まず、物語の冒頭に、「an old man」とでてきて、次から同人物を「the old manとかhe(屁ではなくて、ヒーです。ジョーク)」と呼ぶことになる。

その「a(an)」は不定冠詞とされる。

それをそのままもってきて、「が」に不定冠詞の機能がある、としたのだろう。

ところが、それは間違いだ。

既に述べたとおり、エイゴのケースでも、それは定冠詞的となる。

「一人のその」だ。

もっともかんたんに言えば、「この物語の主人公の」だ。


自分で分析しないと、そんなこともあるのだ。

すべては解明途上にある。

どれも完成していない。

だから、自分で考えないとよろしくない。



結局、「~が」は、「ほかでもない~」という強調の役割をもっているともいえる。


一方、「は」についていうと、「~は」は、「~について言えば、それは」という、今の状況で対象を決める、とか、主題における何らかの対象を示す、などの機能をもっている。

単に主格を示す、ととらえてもいいケースもある。

さらに「は」は、着目を示すケースもある。たとえば、否定形のばあい、「は」をつけた個所だけを否定する、といった役割をもつ。


で、先にでた何かについて言うことになるケースでは、当然、「は」に定冠詞にいくらか似たニュアンスを感じることもできる。



ひとつ、付け加えておくと、「が」は定冠詞的であるものの、読者にとって未知な人物などが初めてでてくるばあいは、読者にとって不定冠詞的要素がいくらかある、ということを否定はできない。

それでもなお、「が」は定冠詞的要素が最大である。





このコラムを書いていく中でも、「は」「が」「を」「も」などの使い分けに注意せざるをえなかった。とくに、どれでもいいケースが稀にある、ということを強調しておこう。ただしそのばあいでも、ニュアンスがいくらか異なるが。
実際には、「をも」とか、「をが」とか、「をは」、「もが」、「もは」などの省略形のケースもある。



日本語の文法の定式化もまだまだ不完全であって、それは解明途上にある。

誰かが挑戦する分野でもあるのだろう。

さらに、
日本語自体の文法も変化をしつづけてきているので、この先も変化しつづけていくことだろう。



日本語をはじめとして、そういった自然言語が完全に発達すると、その中に、さまざまな論理や文法が現れてくるだろう、と予想される。

その予想は、心脳工学のモデルとシステムに基づいてのことである。





つぶやき#3


世界情勢を見、どう対処するかを考えるにあたって、質の科学を活用できる、

世界中の人々の
Σsi(iは添字)=(ほぼイコールの代用)ゼロ質

任意の個人について、
S(インテグラルの代用)sidt=ゼロ質時間、になる時刻がとびとびに現れる

→人によって異なるし、同じ人でも時や時期によって異なる

→人における性質や世界のすべての人達についての性質について、統計的にわかる(ここでは、性質とは、人間にかかわるすべてをいう)

→それらの性質の変化についてもわかる



ただし、質の科学は完全に検証されているわけではない







(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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