181125:加筆形式#3(途中):質・クオリアの科学(仮説)~心脳科学(仮説)~世界哲学
筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。(――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす――――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日・今加筆中の#3は、#882である)筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。☆毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・さて、今回は・・・1月13日の分が膨大じゃったので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・☆グチを一言・・・読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。・・・つひでに・・・筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす。それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・――「オボシメシ」とは、新種のウメボシ・オボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――;・・・ついでに・・・「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている)、と思う。おまけに、「おむすび」だと、手で作らなくてもいい、ということもある。「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てはくるが――・・・――筆者も、カタいことばかり書かれた文書を読むのは苦痛であることもある。そんな時は「フニャケた」文章を読みたくなるもんだ。読者の方々も同じでせふ。筆者の書くものに、ジョークやユーモアの部分がなかったら、「こんなもん、読みたくねえ~」と、読まれない度合いが高まるでせふ。ということで、時々、ジョーダン・ユーモアを盛り込んだ「フニャケた文章」を書くのは、読者の方々のためでもあるし、筆者の息抜きでもありもうす――☆☆☆加筆用(どこかに挿入):さて、以下、こういった領域は筆者の大好物なんだが――こんなのがないと面白くない――、「トンデモない、トンデモだ~~」、と苦りきる方もおられることでせふ。しかし、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)を、科学的に推し進めていけば、そういった領域に至るのである(最後の方で、改めてそれを簡潔に記そう)。しかも、人類のほとんどが、なんらかの宗教に属しているし、ほとんどの宗教sが、だいたい以下のような内容を、文学的に説いているのである。さらに、タネもシカケもないマジックとか超常現象・奇跡という事象sは実際にあるのである――既に何回かどこかに既述しているとおりである――。まさに、世界は神秘と不思議さと謎に満ち満ちている・・・である。そういうことなので、以下を拒否する前に、虚心坦懐・頭を空っぽにして――頭に先入観・固定観念などが詰まっていると、真っ先に否定してかかりがちなので、それらをはずして――、まずは冷静に見ていただきたい。すると、以下の中に腑に落ちるところがあることに気づくのではないでせふか(腑に落ちる=意味が内臓に落ちて心から納得する)・・・(ついでに・・・日本語に、「あいつは腹ができている」、という表現があるが、「あいつはガッツがある」のガッツは、エイゴで、腸・ハラワタ・内臓という意味である・・・発想が同じだ)。さて、以下のタトエで、この世界全体を説明してみよう・・・トンデモな結論がいろいろとでてくるんだが・・・(ワクワク)・・・(惑惑)・・・(獏獏)・・・・・・その前に一言・・・「こういった文章を読んで納得して自殺をすることは禁じられておりもうす・この世界の法則の実態によって(既述)」・・・さて・・・、現代物理学は「場s=フィールドs」でさまざまを記述~説明する。馬場馬場馬場馬場馬場~~である。(婆婆婆~~ではない)(爺爺爺~~でもない)(馬、はジョークであって、場のことである。馬場は馬関連の平地という場のことなので、あながち不適当なジョークでもない)そこで、それを援用して、この世界全部を「エネルギー一元方式」で説明してみよう。ここでは、「意識のそと・外界、には何があるかわからない、何らかのデータベースと情報があるとしか言えない」という立場(既述)をとらず、普通一般の見解「見たとおり、聞こえたとおり、そういう物質的世界がある」という立場にまずは立とう。さて、そこで、☆場をタトエで説明すると・・・「水蒸気(のような微細なエネルギー・何か)=基本的なエネルギー素子、が空間に満ち満ちている、それが『場』である」、というタトエのモデルで説明するとわかりやすいだろう☆。――それは「空間と、タトエとしての水蒸気」である。以下、それを単に水蒸気と記すこともある――で、☆その水蒸気(タトエの)はさまざまで超複雑な振動――言ってみれば音・波動――をもてる・何らかのエネルギー・☆『何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう(ここも重要である)』☆・を得て――。もちろん、その水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆。それが「あの世・霊界」という「大局場・全体場」である。「あの世・霊界」を満たす、そういった水蒸気は、さまざまで超複雑で超精密な波動文様状態にある――その波動の文様・模様・態様は、「基本的には」崩れない・現実世界のさまざまな存在のごとく――そこをタトエて言えば、「長い時間形を変えない雲」のようなものである(現実の雲は形を変えていくが)――つまり、☆そういった水蒸気を、局所場・部分場という実態が束縛して拡散させない、ということである(局所場・部分場と大局場・全体場、についての詳細は徐徐に述べていく)☆・・・・・・しかし変転していく風物・存在もある・夢の中のように・現世(この世)においても変転していく存在sや事象sなどは多い-それとも同じである・・・――。それが霊界の風物・存在である。そこにはさまざまな「霊界人・霊人――過去にはこの世に生きていた」たちが住んでいる。「霊界人」も、そういった水蒸気の、超複雑で超精密な波動で構成されている――それは意識内容(心的内容)に対応している、と言える(どの心器の心的内容《~意識内容》に対応しているのか、それはちょっと複雑であるが)――・(心的内容と意識内容は同値であるが、情報構造・情報形態が異なる・何度も既述)――。「霊界人」は「心器」をもつ。「霊界人」が「意識器」をもつかどうかは今のところわからない・・・という決めつけはよくない(ここはややこしい・霊界で質時間回帰が起こるのかどうか、とか、など)・・・1・霊界人も「意識器」をもつが、それは、「生前」の「心器」とは組み合わされていない・組み合っていない――それは質時間回帰という事象実態があるためである(それらが組み合わされていると、質時間回帰の支障になる・既述)――。霊界に存在する「心器」も「意識器」も「霊界人」に属する「局所場・部分場」である(直近上述「1」の条件がつく)――「意識器」は崩れない・永遠にそのまま存在する――「心器」は変化していくし、消滅することもある――(その根拠・論拠は本論+アルファに既述)――。さて、「霊界」という「大局場・全体場」にはさまざまな領域sがある――それは「現世この世」にもさまざまな地域sがあるのと基本的に同じである――。それをゴクかんたんに言うと、地獄、煉獄、極楽・天国、である。それら、地獄、煉獄、極楽・天国、もそれぞれが多くの階層(s)にわかれている。それは、類は友を呼ぶ、という法則の実態によって、似たような霊界人たちが同じ領域に集まり、その中で、それぞれの領域sの風物・存在なども生じてきたし、生じるし、生じていくからである――それらは意識内容に対応している・・・というよりも意識内容(心的内容)そのものである――。で、地獄の最深部における苦しみは言語を絶するが(阿鼻叫喚)、それは「質時間回帰則」によって、そういう実態になるのである。「質時間回帰則」からでてくる法則のひとつである「他人に為したとおりを将来必ず自分が受けることになる」からそういう事象実態が生じるのである(質時間回帰則なる実態から生起する事象sは、そのほかにもいろいろある)。さまざまな宗教書は、地獄の様相や苦しみを詳細に描写している・絵sにもなっている――そういった文献sをも参考にしてこれらを述べているところである――。・・・注・・・類は友を呼んで集まる(「吸引力」が働く)が、霊界人たちが集まったその領域の中においては――地獄や煉獄においては――、「反発しあって」いがみ合い・混乱・闘争が起きる・・・まるでこの世と同じである・・・この世も地獄の一種か(非笑・否笑・不笑・笑うわけにはいかない)・(この世も本質的には意識内容・心的内容の世界であるから「この世も地獄の一種である」のは当然である。もちろん、「天国の一種でもある」のも当然である。――それらは時を異にして人たちに訪れる・・・質時間回帰である――)・・・:以上、注・・・煉獄は地獄よりはいくらか楽な領域であるが、それでも、そこでの霊界人たちは非常に苦しむ。極楽・天国についても、さまざまな宗教書で、詳細に描かれている(そこは平安で平和だそうだ・・・ただし、ナンとかカンとかほにゃららら・・・)。で、さまざまな宗教書sや預言の書sによると、「地獄に落ちる人たちは途轍もなく多い」、「天国に行く人たちは途方もなく少ない」、・・・そういうことだそうである。・・・参考・・・「質時間回帰則」は、科学的に記述された法則であり、その記述・解説も既に何回かなしている。しかし、それだけでは具体性に乏しいので、「質時間回帰則」について、あちこちで、手をかえ品をかえ、より具体的できわめて詳細に説明している。:以上、参考・・・さて、次に、この現世・この世「物質世界」の説明をなしてみよう・・・「物質世界は、タトエとしての水蒸気が冷やされて生じた・生じる世界である。水が液体、氷が固体、である。――相転移(エネルギ-の関係で状態が変わる)が起こる――そして、水と氷が複雑でさまざまに組み合わさって種々の風物・存在――物質的な――ができてきたし、できているし、できていく。1・人間もその一種であるが、人間には、『タトエの水蒸気』でできた『心器』と『意識器』が宿っている――それらは霊界にある『心器』と『意識器』と素材も構成も種類も同じ範疇に属する・・・というよりも同じである・・・――。・・・人が死ぬと、その人の『心器』と『意識器』は『霊界・あの世』に移行する、と「表現できる」(わかりやすくするためにこう表現しよう)――より正確にはいくらか離れた下に記そう・・・離れた上述「霊界人も『意識器』をもつが、それは、『生前』の『心器』とは組み合わされていない・組み合っていない――それは質時間回帰という事象実態があるためである(既述)――」にある『生前』とはそういう意味である・・・・・・ちなみに・・・「死後の神の裁き(死後における神による裁き)」という概念があるが、「死後の裁き」を為す(成す)のは、神ではなく、「質時間回帰則の実態」である・・・(神については後ろの方に記そう)・・・・・・で、もちろんそこ「物質世界・この世」には、ふたつの意味で、「水蒸気」もたくさん存在する。その水蒸気について言えば・・・ひとつの範疇には、「タトエの水蒸気」でできた「普通の意味での水蒸気」がある・・・「普通に言う水蒸気」も、「場」にある「水蒸気・タトエの」、でできている(相転移して生じる)――これは、現実世界にある物質的な水蒸気である――他の気体sも同じくそうである――。もうひとつの範疇には、霊界の項で述べたように、非物質的・精神的世界を構成する「場を満たしている水蒸気・タトエの」がある。そして、「物質世界・この世」にも、それから成る世界がある。それは、超複雑にして超精妙な波動の世界である。つまり、それ「タトエの水蒸気と、それから成る非物質的・精神的世界――意識内容のような世界」は霊界にだけ存在するのではない、と表現・記述できる。人間のもつ『心器』と『意識器』、それに加えて、『心的内容』と『意識内容』はそこに属する(上述『1』においてもそこに言及している)・――つまり、それら心器と意識器は、現実世界と霊界に同時に存在するのである。しかし人は現実に縛られているので、普通は現実世界だけに、「心器・心と心的内容」と「意識器・意識と意識内容」が存在するように人には思えるのである・――離れた上述「人は死ぬと、その人の心器と意識器は霊界・あの世に移行する」という表現は、正確にはそういうことである――・・・さて・・・眠っていて見る夢の世界は、霊界そっくりである。夢の中の世界には、記憶にあるものがいくらか混じっていることもあるが、記憶にないものの方が遥かに多い(人によって異なるかもしれないが)・・・これも不思議な事象・実態である・・・まあ、夢の中の世界は、霊界の一種か、霊界そのものなんだろう・・・・・・ちなみに・・・「心」と「意識」を自分から取りだして、目の前に置こうとしても、それは、できない相談である。「霊」と「魂」を自分から取りだして、目の前に置こうとしても、それもできない。みなされ、同じではないか! (笑)――これはジョーダンめいたフニャ論でもあるが、ある程度説得力があるのではないだろうか? ――で、心と意識、霊と魂、について言うと、「心(器)=霊」、「意識(器)=魂」、といえる・今ある単語を有効に活用すれば・既述――。まあ、ともかく、カタい存在である物質には(液体や気体はある程度柔らかいとも言えるが、それでも相対的にカタく重くアラい)心と意識は宿れない・圧倒的にそうである。なぜなら、心と意識の世界は超複雑・超精密な実態にあるからである――万人がそれを実感すると思う――。☆「タトエの水蒸気の集合体」は極めて柔らかく軽く精緻精妙であり、どんな複雑・精緻な波動態様でもとれる・物質ではそれは不可能である。つまり、「心器と意識器」、「心と意識」、「心的内容と意識内容」、は、タトエとしての水蒸気の領域にしか存在しえない☆、と言える、ということになるだろう。・・・参考・・・この世の水蒸気や気体といえども、それらは物質化した存在であり、「固体の一種」の集合体である・・・・・・注・・・「心器と心的内容と心器の理活能力」は一応区別されるし、「意識器と意識内容と意識し味わう働き」も一応区別される。そこにおいて、「心器の理活能力」と「意識器の意識し味わう働き」は、実に不可思議で神秘的である。しかしそれは実際にあるのである・あるではないか。それこそ、それらの存在こそ、この世界の醍醐味であり、この世界が存在する意味・意義もそこにある・それをかんたんに一言で言うと、「この世界に意識がないと、この世界はないに等しい」――筆者は髪のある頭と心脳で、ハゲしくこれに同意・納得する――・・・これについても、今までにあちこちで、さまざまに論じている・・・――。で、心器、意識器が扱う『意味』『情報』『価値』などもそこ2・『非物質的な世界・タトエの水蒸気の世界・心的内容~意識内容の世界』に属する。人間が為す、「思考」「想像」「創作」「学問」「芸術」「人間の活動によって生まれた・生まれるさまざま」などもそこ『2』に入るが、そこでは物質的な存在が(を)伴うケースも多い・(「が」だと「存在」が主格、「を」だと「存在」は目的格)・――たとえば、発明、彫刻、踊り、建築物、社会にある物質的なさまざま、などなどである――・・・まさに、この世は、「物質世界」と「非物質的な心的内容・意識内容の世界」が融合してできているではないか、・・・上述でそれがよくわかる。繰り返しを含めて言うと・・・「心的内容・意識内容の世界」という存在は、まず、『場を満たしている水蒸気・タトエの』があり、それから成る世界があって・その世界「心的内容・意識内容の世界」は、『エネルギーの、超複雑にして超精妙な波動の世界』である。その中で、『心器は心をもち能動的に働き』、『意識器は意識をもち、さまざまを意識し味わう』、のである。――ただし、心器は自己教育などをなして鍛え上げないと能動性に乏しい。さまざまを学習し心を練り上げ鍛え上げ鍛錬していくと、心器の能動性は高まっていく。そして高度な自由意思・意志をもつようになる――。・・・参考のために再掲・・・「☆その水蒸気(タトエの)はさまざまで超複雑な振動――言ってみれば音・波動――をもてる・何らかのエネルギー・☆『何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう(ここも重要である)』☆・を得て――。もちろん、その水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆」・・・:以上、再掲・・・・・・以上、エネルギー一元方式での説明である・・・」(――『 』とすべきなのに、「 」としてある個所sがある・・・メンド草草なので――)――以上において、「タトエとしての水蒸気」が絡んだ部分は、(あたり前であるが)、あくまでもタトエである。それ以外では、タトエでない部分が多い――・・・ここで少し解説を・・・上述「物質世界は、水蒸気が冷やされて生じた・生じる世界である」についてなんだが・・・「冷やされて」の部分が場の量子論から少しずれるが、「冷やされて」を「マイナスのエネルギーをいくらか得て」と記述すれば、数学的には整合性がでてくる。それに、そういったタトエの水蒸気自体がエネルギーのカタマリの一種なのであるから、問題はない。しかも、「場のたとえ」としての「空間と水蒸気」であるから、そこに支障はない。さらに・・・、場の空間から「タトエの水蒸気」はいくらでも供給されるので、場の量子論と整合している、と言える・・・:以上、ちょこっとチョビットちびっと解説・・・――以上の説明から、「霊界~精神世界」と「この世・物質世界」は共存していることもわかる――・・・ついでに・・・――霊界(あの世)の存在は、物質世界(この世)(あの世とこの世は重なっている・既述)の物質などを、普通は壊せないが、例外はある・・・タネもシカケもないマジックや超常現象を起こせる可能性があるのである(実際に起こせる)・・・――――この世界の物質はあの世の存在を壊せない・・・人間の想念《心的内容と意思》がそれをなせるケースはあるが、それは例外である・・・「タネもシカケもないマジックや超常現象を起こせる可能性がある」、と同等である・・・――――この世に生きている人間の「心器」と「意識器」は、あの世(霊界)にもいることになる(ほとんどの人はそれに気づかない)・これとは矛盾した記述だが、人間は死んだら、その「心器」と「意識器」は「霊界(あの世)」に行く(先に説明したように、こう記述するのが手っとり早い)、つまり、その「心器」と「意識器」は、あの世でだけの存在となる・・・・・・そして、転生は永遠に無限回なされる――質時間回帰がなされながら――・つまり、霊界の意識器は無限回・転生する(心器はだんだん衰えて消滅するだろうが)・つまり、人は死なない=意識器は死なない・・・「人・意識器」は永遠に生きつづける(・・・ここらには、ちょっと解りにくいところがあるが、本論で「心器」と「意識器」について詳細に既述しているので、それを参照されたい・・・)――――・・・付記・・・霊界の水蒸気・タトエの、は、物質を通り抜ける・・・・・・もうひとつ付記・・・精神世界関連のいろんな本sに、「霊界人は、この世のご馳走を食べることはできないが、匂いは食べることができる」とある。この世の空気中に漂う匂い分子(タトエの水蒸気が固体になった物質)のもつ刺激――エネルギーの波動――を、霊界人は感じることができる、ということは納得がいく。そういえば、故人の供養などにおいて、線香を焚くが、それは理に適っているのかもしれない・・・それが正しいとすると、霊界人と物質世界の存在は交信なり通信なりできるということになるだろうつまり、霊能者という不思議な方々は、霊界人から通信を受けたり交信したりできるということになるだろう本論においては――その交信媒体はいろいろ考えられるが――まずは赤外線を候補に挙げている・・・さらに付記・・・精神世界関連のさまざまな本sに、霊界(あの世)の時間は複雑怪奇(かんたんに言うと)だと書かれている。・・・補記・・・場には「大局場・全体場」と「局所場・部分場」がある。「あの世・霊界全体」と「この世・この世界」はそれぞれ大局場・全体場である――それらは重なってもいる――。「心器」、「意識器」、「それぞれの意識器がもつ質時間の場」は、それぞれが「局所場・部分場」である・「局所場・部分場」は器になる(――心器、意識器、霊界人の身体、などの器――)。そして、それらそれぞれの「局所場・部分場」sが属する、それぞれの「大局場・全体場」sという「場」もある。・・・つまり、「個々の心器(s)という局所場(s)」は、「心器s全体が属する大局場」に属し、「個々の意識器(s)という局所場(s)」は、「意識器s全体が属する大局場」に属し、「個々の意識器(s)がもつ質時間の場(s)という局所場(s)」は、「個々の意識器(s)がもつ質時間の場(s)全体が属する大局場」に属する、ということである。――以上の内容は、質時間回帰が100パーセント確実になされる、質時間回帰は100パーセント絶対になされる、ということをも意味する。・・・ここから論を展開すると・・・そうであるから、意識器は永遠に消滅することなく、転生・意識器の転生(意識の主体の転生)は永遠につづいていくのである。そこをもっと詳しく言うと・・・1・「意識器のもつ質時間sには多くの種類がある」、そして、2・「それら質時間sが同時に消滅する確率はゼロである」、ということは、3・「意識器は絶対に消滅しないということである」、よって、4・「意識器の転生は永遠につづいていく」、ということになる。・・・つまり、(「心」)「意識」が地獄で苦しんで質時間回帰がなされても、それでは不充分であり、転生して質時間回帰はさらにつづいていく、ということである(ここはちょっと複雑である・省略記述)――さらに・・・そういう世界の中で、「質の対生成、質のもつれ、質の対消滅」、そして「質時間回帰」が起こるのである。そして、「質のもつれ」によって、「ふたつの事象sや対象s~複数の事象sや対象s」の中間的~中間より、あるいは、より片方・より別な方寄り、のさまざま、が生じるのである。現実世界のさまざまは、正にそうなっている・霊界においてもそのとおりである・・・。・・・以上についても、何回か詳述している。・・・注・・・――本セクションでの記述において、「この世界」を「この物質世界」の意味に用いている個所sがあるし、「この世界」を「あの世とこの世全体」の意味で使っている個所sがある。それらは文脈でわかるので、そのままにしておこう(メンド草草なので)――:以上、注・・・(加筆)・・・さて、ここで、「神」とは何か? という領域に踏み込んでみよう・・・人類のほとんどが、なんらかの宗教に属しているのであるから、これは重要な設問である。一般的に、ほとんどの宗教においては、なんらかの「神」か「神々」を最上位に据えている。それに「精霊たち」「天使たち」が加わることもある。そこでは、「神」に導かれる「人間」を崇めることもある。仏教では、ブッダ――悟った人――が主人公になっているわけであるが、原始仏教の聖典にも、神々と悪魔たちがでてくる。そこでは、ブッダが、神々や悪魔たちと会話を交わしたと記述されており、その会話の内容まで記されている。・・・参考・・・ブッダとは:(たぶん、こんなところだろう)・修行によって、人間が本来もついいところを最大限発揮できるようになり、この世の束縛から逃れる心を確立し、あの世の束縛から逃れる心を確立し、二度と転生しない状態を得、そして、多くの人々を救う、そういう人間である(原始仏典にある記述によると、あの世にいったらそういう存在は消滅するはずなんだが《既述》、そこらがより詳細にわかる文献はないようだ《既述》)・・・・・・原始仏教の霊魂観:永遠恒在である不滅の霊魂はない。原因と結果の法則によって、人が死ぬにあたって、霊魂のような何かが生じるが、原因と縁(縁:原因の一種であるが、しがらみから生まれる原因のことである・たぶん)が消えれば、それは消滅する・・・原因と結果の法則とは:「これがある時、それがある、これがない時、それはない、これが消滅すと、それも消滅する」、そういう法則である(――それは形式論理による法則に見えるんだが・・・そういうケースも多いんだろうが、たとえば、自分の襟首をつかんで持ち上げれば、自分で自分を持ち上げることができる、という論理を形式的に振り回しても、??? となる、というケースもある――)・・・・・・さらに・・・悟った人間は、死ぬと、ニルヴァーナに入り、二度と転生しない、と、原始仏教では説いている。で、ニルヴァーナとは何かと問われたブッダは、「それは、体験すればわかる」とだけ説明されたそうだ。で、ブッダは霊魂という恒在の存在はない、と説いておられる・死ぬにあたって、悟っていない人は、「霊魂のような何か」を生じさせるが(それが転生する)、悟った人はそういった存在を生じさせない(煩悩の火が消え、二度と転生しない)、と。それなのに、悟った人は、死ぬとニルヴァーナに入るんだそうだ。ニルヴァーナに入ったあとは、恒存なんだろう。・・・ここで、筆者は首をかしげるのである・・・悟った人は、死ぬにあたって、転生の実態となる「霊魂のような何か」を生じさせないのに、ニルヴァーナに入れるという。そのばあい、ニルヴァーナに入る存在は何だろう? ブッダは「そんな恒存なる存在はない」と説いておられるんだが・・・首をかしげるしかない・・・困った困った・・・(以上、昔、文献sを読んだ筆者の記憶にもとづいて述べている)・・・・・・感想・・・霊魂も、原因と結果の法則によって生まれた、とはいえるだろう。しかし「意識体・意識器」は永遠に存在する(その論拠は、本セクション以外のあちこちに既に詳述)。しかし、知性体(心器とその内容)は消滅する(その論拠は、本セクション以外のあちこちに既に詳述)。ブッダの言われる「霊魂のような何か」というのは、知性体(心器とその内容)だと思われる。ともかく、「意識体・意識器」は永遠に消滅することはない・・・・・・・・・ちなみに・・・大乗経典sを読むと、古代インドにはタイムマシンがあったはずにちがいない、という結論に至る・・・・・・ここでちょいと考察を・・・器と、その内容と、その働き、について・・・後ろの方で、上述の「悟ったら、煩悩の火が消え、二度と転生しなくなる(要約)」についても考えよう・・・心器も意識器も、「器と・その内容と・その働き」、から成る(上述の「知性体(=心器)」も同じくそうである)。さて、そこの一番かんたんなタトエは・・・たとえば、鰻丼を考えてみよう。うな丼は、まず、ドンブリ=器があって、その中に「炊いたウルチ(うるち米のウルチ)」・(略して「ルチタ(ウルチ・炊いた、の略。最初はタルチにしようかと思ったんだが、ルチタの方がよさそうだ・笑)」・笑――普通、飯とかご飯とか言うが・《「飯・めし」は「とる」とか「もつ」といった意味の「召す(このばあい食べる)」の名詞形だと思う。「ご飯・ごはん」の方は、音読みだから、中国的な呼び方だ。「中国的」としたのは音がずいぶん違うケースが多いからである。中国系と言ってもいいが、中国的の方がよさそうだ》、どうにも冴えないネーミングではないだろうか。そこで、「ルチタ」――これも冴えないか・・・ちなみに、ウルチとライスは同じ語源から来ている・ローマ字で書けば似ている。で、米に関してはイギリスより日本の方が先輩なので、ライスはウルチの方言と見なすことができる・笑・・・なので、「カレーライス・ライスカレー」は純粋の日本語なのである。カレーはもちろん辛れーである・笑・・・ということは・・・カレーライスの発祥の地は日本なのだった・・・というジョークの中身は、しかしながら、ボツであることは誰もが認めるところである(ジョークとしては成立するが)・・・「日本式カレー」は、インドのカレーがイギリス~日本と伝わり、日本で日本式に進化――インド人に言わせると退化だろうが? ――したものだ(筆者の記憶によれば)・・・なので、それは、「進化」ではなく「変化」としておこう・・・ただし、日本に来たインド人で、日本のカレールーを買って帰る人もいるそうであるが・・・)・・・ありゃりゃ、いつものように脱線したので、やり直して・・・一番かんたんなタトエは・・・たとえば、鰻丼を考えてみよう・ウナ丼は、まず、「ドンブリ=器」があって、その中にルチタをよそい(装う・盛る)、その上にウナギをのせ、タレをかけ、山椒を振りかけてある(ほかに好みの具類をのせてもいいが)。つまり・・・、ドンブリという器の中にいろんな食材たち・調理した(調理された)、が入っているわけである(参考:調理は心器では理活にあたる)。ここで、上述・「心器も意識器も、器と・その内容と・その働き、から成る」に対応させて考えると、ドンブリが「器」であり、「その内容」が「いろんな食材たち」であり、「その働き」について言うと、「ドンブリという器は、食べ物を入れられる・容れられる働きをもつ(容器)」かつ「人間に食べ物を提供する働きをもつ」、ということになる。鰻丼、海鮮丼、牛丼、カツ丼、丼丼丼丼、などなど、ドンブリという器に入れる食べ物はさまざまである。世界中のどんな食べ物でも、ドンブリに程よくぶち込めば、世界何とか丼ができる。つまり、器の中身・内容はどうにでも変化させる・換えることができるわけである。さてそこで、本題に行こう・・・心器について言えば・・・心器という器があって、その中に、心的内容が入って(容いって)いて、心器は理活を為す(「そういう働きを為す」)、のである。その心的内容はどうにでも変化させる・換えることができる・消滅させることもできる。離れた上述の「悟ったら、煩悩の火が消え、二度と転生しなくなる(要約)」は、心器にある「心的内容」の消滅のことだと解すれば、納得がいく。(心的内容と理活能力と記憶については、後の方にもっと詳しく記そう)・・・さてここで、次なる設問sとその考察に進もう・・・心器の器自体(局所場)の消滅ということがあるのだろうか:可能性その1・「心器の器自体は、消滅することなく永遠に存在する(恒存)」可能性その2・「心器の器自体が消滅することはある」その「2」のケースでは、どういう原因によって消滅するのだろうか心器の器という局所場が消滅するのは、??? 超強烈な変動が心器の器に加えられたばあいである??? (ようわからんが、そういうことなんだろう)しかし、それでも、消滅した分、新たな心器が産みだされ、永遠に心器の器の総数は変わらないだろう(多少の変動はあっても、平均として)――一種の保存則の実態によってそういうことになる――――以上、単に可能性を書いている――心器の理活能力は変化していくが、理活能力の消滅ということがあるのだろうか:可能性その3・「心器の消滅に伴って、その理活能力も消滅する」可能性その4・「『3』においても、消滅することはなく、どこか他に移動するだけである」さて、先に述べたように、心的内容はどうにでも変化させることができるし入れ替えることもできるのであるが、理活能力はどうかコンピュータでタトエれば、理活能力のある場所は、中央演算処理装置CPU(GPUでもいいが)であり、理活能力そのものはプログラムとその実態のようなものである(本論に詳細に既述)そこからいくと、変化させる・換えることはできるということになるで、可能性その1・変化させる・換えることができるその可能性2・変化させることはできるが、換えることはできない(変化させることができるのは間違いないだろう)心器は、心的内容と理活能力と記憶をもつ心的内容と理活能力心的内容に理活能力を含めるかどうかは、定義の問題心器のもつ記憶心的内容と記憶心的内容に記憶を含めるかどうかは、定義の問題――以上、単に可能性を書いている――次に・・・意識器について言えば:意識器という器コンピュータでタトエれば、モニタ(or+スピーカーなど)である(本論で詳細に既述)意識内容という内容――さまざまに変化する・置き換わる――意識し味わう働きをもつ霊界人における心器と意識器について:さて、ドンブリという器は壊れることもある。心器、意識器はどうだろう:心器については上述意識器では質時間回帰が起こるので、意識器は壊れない仮に壊れることがあっても、まったく同じ意識器がそのうちに生まれてくるだろうそのばあい、質時間の情報はどうなるか1どこかに保存されていたものが入る2「1」ではなく完全に統計に任されるそれは結局「1」と同値になる(加筆)上述の検討どおりであるが・・・(まだつづく)(加筆)で、心器――霊界では知性体――、と、意識器――霊界では意識体――、・・・うーん、それらはそれぞれ同じものなんだが、ここは表現がむずかしい・・・「心器とその働きとその内容と実態」を、「心器」と呼んだり「知性体」と呼んだりするんだが、この世に生を受けている人に宿る心器は「心器」と呼び、あの世に行った心器は「知性体」と呼ぶのがふさわしい、「意識器とその働きとその内容と実態」を、「意識器」と呼んだり「意識体」と呼んだりするんだが、この世に生を受けている人に宿る意識器は「意識器」と呼び、あの世に行った心器は「意識体」と呼ぶのがふさわしい、と表現しよう。――まあ、ともかく、考えに考え試行錯誤しながら記述しているので、細かいところでは正確な記述でないところがある(筆者の書いているものすべてに渡ってそうである・加筆訂正や推敲をするのはあとあとのことになる)――で、まあ、とりあえずそれらを「心器」と「意識器」とここでは呼ぼう・でないとあまりに読みにくくなるし書くのもメンド草草になるので。何を考えているのかというと、「心器」と「意識器」の組み合わせのことと、「心器」の発生と発達などのこと、そしてそれらの消滅があるかどうか、といったことなど、についてなんだ。ここは重要な研究・考察対象なんだ。(「~なんだ」とは、突然、若者になったようにみえる・笑。誕生日を歳脱ぎ祭りにしている筆者なんだから、当然といえば当然なんだぜ・笑・・・この「ぜ」というのは、もともと、「だ」「である」と同じ意味で、念を♂ではなく、念を押す意味の言葉だと思う・・・。・・・ちなみに・・・歳脱ぎ祭りをつづけると、前の生に行き着くのかもしれない・笑・・・)そこには謎が潜んでいる。そこらあたりを今から書いていこう・・・・・・しかし、そこらあたりは、かなり複雑で、記述も長くなるので・・・、「う~ん、う~む」、とうなりたくなる・・・・・・しかも、考えられる可能性を書くしかない・・・・・・しかし、「質時間回帰則の完璧性」を適用すれば、あちこちに既述したとおりの結論――「上述『そこらあたり』を検討してでてくる結論」・「上述『考えられる可能性』の中から、これだ! と、確信と自信をもって主張できる結論」に至るのである・・・――「質時間回帰則の完璧性」については、あちこちで、さまざまに論じている――・・・ということは、ここはテヌキしてもいいということになるんだが・笑・・・(加筆)・・・補遺・・・ここの部分――心器と意識器についての部分――は、かなり前に述べた内容と、いくらか異なる点sがあるかもしれないが、そのかなり前に述べた内容は、「そうであるはずだ」という筆者の断定であり(根拠は既述)、ここの部分の記述は、さらに手広く検討する内容となっている。そこらを整合させるのはメンド草草なので、これ以上手を入れることはしない(と、今は思っている)・・・メンド草草メンド草・・・・・・(加筆)・・・あ~あ~~、メンド草草メンド草~~・・・・・・メンド草の花が咲いたよ~~♪♪♪(カラタチの花じゃないよ~)♪♪♪~・・・虹色の綺麗な花だよ~~♪♪♪(白い白い花じゃないよ~)♪♪♪~(これを書いたあと、「カラタチの花」について調べてみて、その歌詞のいわれを知って、しんみりとなって、意気消沈してしまった・・・初めて知った・・・合掌・・・)・・・・・・う~ん、う~む・・・(しばらく間をあけて)(加筆)・・・う~ん、う~む・・・花が咲いた花が咲いためんど草のはーなーが~~♪♪♪・・・・・・うーん、うーむ・・・・・・ということで、ここは手抜きをして、テヌキ丼でも作って食べようか・・・テヌキ丼の作り方:どこかに載せた「テヌキ蕎麦」の作り方に準ずる。手抜きをするのも楽じゃない・笑。ちなみに、食材は好みのものを・「世界何とかテヌキ丼」・世界中を駆け巡り世界の果てにまでも行って食材sを手に入れ、持ち帰り、「テヌキ丼」をつくる・・・あ~あ、メンド草草メンド草・手抜きをするのは大変だ・笑。・・・豆豆知識・・・ドンブリについて・・・「ドンブリ=丼」の語源は何なのか、訓読みなのか音読みなのか、??? 頭がそんな状態になったので、いろんな辞書sをひいてみた・・・まず・・・、丼は井の異体字だそうだ。丼も井も井戸のこと(丼はそれプラスアルファ)。井は井戸の上部を、木材で「井」の形に組んだ形からきているそうだ。丼は「井戸」「物が井戸の中に落ちたときにでる音」だそうだ。真ん中の「、」が下に落ちる物のことなんだろう。で、その音を、日本では、「どんぶり」としたそうだ。「むかしむかしのその昔、川の上流から、桃が、どんぶりこ、どんぶりこ、と流れてきました(桃太郎)」の「どんぶり(こ)」である。で、それ以上説明した辞書sはなかったので、ここからは推測で書くことになるんだが・・・1・近年、ドンブリと呼ぶ容器があったので――近年より以前に――、それを井戸に見立てた(似てるといえば似てる)(その時点でドンブリを何と呼んでいたのかは知らないが。深器・ふかうつわ、とかだろうか)2・そこから、丼という漢字があることに気づいた3・井戸に物が落ちたときの音をドンブリとした(前後不明)4・ドンブリという音の響きがおもしろいので、その器をドンブリと呼ぶようになったということなんだろう。(ドンブリに水を入れ、その中にチャーシューでも落としてみたら、どんな音がするだろうか・・・「ベチャッ」「ベチャン」とかだろうか・・・これからはドンブリをベチャンと呼ぼうか・笑)まあ、何とか謎の解明ができたので、便秘が解消された気分(ちょっと違うが・・・たとえば、思いだそうとして思いだせない状態は、便秘に似ている。わからないことがあることもそれに似ている)・・・:以上、参考とジョーダンと豆知識・・・さて、神についてだが・・・1・「神」=「根本神」=「根源神」とは:「この世界全体の法則とその実態」、「大宇宙と大自然と生き物たちを生みだす力と執行力・実行力・それらの実態」、あるいは、「大宇宙全体・大自然全体・すべての世界全体」、のことである。それは人格をもたない。それは人間などには働きかけてこない(人間や大自然を生みだす、という意味においては、働きかけていると言えるが、そういう意味においてではなく)。2・「人格神なる神」:人が死んで、その心器が霊界に移行した存在である――このばあいそれを「知性体」と呼ぼう――。これは、人間に「ちょっかい」をだす。人間にさまざまに働きかける。それは何らかの点sにおいて優れた人間の、人格と記憶と性質と考え方と実行力などそのものである(そのものを備えている)。それは霊界人(霊人)(既述)である。「2」において、人間がその存在を「総合して考えたばあい、自分にとって善」と評価・判断したばあい、その知性体は神(人格神)である。――人によってその評価・判断は異なる――「2」において、人間がその存在を「総合して考えたばあい、自分にとって悪」と評価・判断したばあい、その知性体は悪魔である。――人によってその評価・判断は異なる――(――そこにおいても、「質の対生成の実態」がよく現われて・表われている――)(ちなみに:「2」に付記:人格神に意識器はなくてもなんの支障もない・・・人格神は心器だけを備えていても人格神として成立する)精霊とは:「2」の範疇に入る・・・知性体――人格と記憶と性質と考え方と実行力などそのものである(そのものを備えている)――。天使とは:「2」の範疇に入る・・・知性体――人格と記憶と性質と考え方と実行力などそのものである(そのものを備えている)――。で、さまざまな本などによると、「自然霊」という存在もあるそうだが、それは、自然界において、生き物によらずに自然に発生した知性体であろう(ありうると思う)。あるいは、人間の知性体が変化した存在であろう。もしくは、人間以外の動物の知性体であろう。あるいは、植物の知性体であろう。または、上述のそれらが時を経すぎて変化した知性体であろう。「2」の範疇にある「人格神」「精霊」「天使」などの中には、「超常能力・超自然能力(上述『タトエの水蒸気で構成された存在のもつさまざまな可能性についての記述』を参照)」をもつ存在がある。いわゆる「神通力」と、「それをもつ存在」である。その「超常能力・超自然能力――神通力――」には、さまざまなタイプがある。治病、タネもシカケもないマジック、テレポーテイション、壁抜け、物体瞬間移動、読心、物質に変化を与えること、人の心に変化を与えること、空間から何かを取りだすこと、(以上は、非常な遠隔地との間ででもなされる)、非常な遠隔地のようすがわかること、非常な遠隔地のさまざまに影響を与えること、などなどである(――それらは本論によれば可能であることがわかる・さまざま既述――)。上述「2」において:霊界人には、意識器が備わっていなくても、べつに何の問題もない・・・それは、この世の人間においてもそうである・・・動物においてもそうである・・・摩訶不思議・・・――それは哲学上の課題のひとつ・・・そうではあるが、いや、哲学上では解決のつかない問題だ・・・本論を適用しないと解明できない・しかも、そこではなんらかの計測が必要である・・・――――世界には神秘と不思議が満ち満ちている・満天の星星のごとく――・・・――以上、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)にもとづいて、さらに、さまざまな文献などをも参考にして、主に断定調で書いてみた・・・つまり、以上の内容は仮説s体系なる記述であり、世界の在りようの可能性を述べているのである・確信と自信をもって――・・・・・・ここで、つけ加えを・・・このセクションの初めに、「ここでは、『意識のそと・外界には何があるかわからない、何らかのデータベースと情報があるとしか言えない」という立場(既述)をとらず、普通一般の見解「見たとおり、聞こえたとおり、そういう物質的世界がある』という立場にまずは立とう」、と記し、その立場でここまで進んできた。さてここで、「外界・意識のそと」には何があるかわからない、という立場に立とうとすると、どういうことになるか・・・1・以上の説明の世界は「心的内容~意識内容の中にある世界」であり、そういう「心的内容~意識内容」に対応するデータベースと情報が外界にある。言い換えれば・・・以上の説明の世界は「心的内容~意識内容の中にある世界」である、つまり、それらは何らかの情報であって、そういう「心的内容~意識内容」に対応するデータベースと情報が外界にあるのである、としか言えない。他にも・・・2・考究するにあたって構成したモデルを捨ててしまうこともできる――これについては、他のところで長々と詳細に既述している――ここでは、物質世界の説明に、水や氷などを、タトエとして打ちだしていることを指す――そういったタトエのモデルを捨ててしまうとどうなるか・・・上述「1」となる。(・・・この、「つけ加え」は、このセクションにおいては、ちょっと説得力が足りない? だろうか・・・)・・・さて、ここで、上述・本セクションに結びつけるべく、結びつけながら、本論(本スレッド全体)を軽くて重くて簡略に展望してみよう・・・まず、超超蝶蝶超超かんたんに言うと・・・脳における情報形態と情報処理構造、それと、人間の内省・内観から、「心器」と「意識器」の存在が必然・必須であることが導かれる(これについて「も」、手を変え品を変え何回も詳しく詳しく詳しく詳述している)。つまり、心器も意識器も、それら専用の局所場・部分場である、ということである。(場については、上でタトエをもって解説している)さて、ここで、重要ポイントを再掲しよう・・・離れた上述・【まあ、ともかく、カタい存在である物質には(液体や気体はある程度柔らかいと言えるが、それでも相対的にカタく重くアラい)心と意識は宿れない・圧倒的にそうである。なぜなら、心と意識の世界は超複雑・超精密な実態にあるからである――万人がそれを実感すると思う――。☆「タトエの水蒸気の集合体」は極めて柔らかく軽く精緻精妙であり、どんな複雑・精緻な波動態様でもとれる・物質ではそれは不可能である。つまり、「心器と意識器」、「心と意識」、「心的内容と意識内容」、は、タトエとしての水蒸気の領域にしか存在しえない☆、と言える、ということになるだろう。☆その水蒸気(タトエの)はさまざまで超複雑な振動――言ってみれば音・波動――をもてる・何らかのエネルギー・☆『何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう(ここも重要である)』☆・を得て――。もちろん、その水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆】・これである。以上、そこから、「霊界(あの世)」、「現実・物質世界(この世)」、の存在があるという結論も導きだされるわけである。そして、それらの世界は、離れた上述のようである、という結論もでてくるのである。そして、その中で、この世で楽しんだり苦しんだりし、死んだら、あの世で苦しんだり楽しんだりし、転生し・・・、・・・と、それが永遠につづいていく。質時間回帰が成されながら、永遠に転生は無限回つづいていく・・・・ということが、上述と本論全体でわかるのである。・・・以上、それらすべてを極めて抽象的にまとめると、この大宇宙・全世界には「さまざまな場sが存在する(局所場s、大局場(非局所場)s」、そして、「質の対生成」、「質のもつれ」、「質の対消滅」、「質時間回帰則――それは、全世界を牛耳る法則とその実態のことである――そういう実態を記述しているのが、文字上では質時間回帰則である――」、それらが全世界の「あらゆるすべて」である、と言ってもいいだろう・・・・・・ところで、どうやって、以上の内容を検証できるかな? ・・・・・・それはかんたんなことさ・・・ほっときゃ自然に検証がなされるさ・すべての人たちにおいて・・・(ただし、「検証がなされた」、と気づく人はいない)・・・(加筆)加筆用(どこかに挿入):1・一般的に「脳の一部が損傷しても・欠けても、自分という意識に変わりはない」と言える。2・欠けると意識がなくなる、という部位・脳の、はある。・・・ここから、その部位に意識がある、とか、そこは「心器」か「意識器」につながる部位である、といった解明もできそうである――これについてはかなり検討して既述しているが、さらに踏み込んでみよう・・・・・・眠りの実態からそこに踏み込んで検討して既述している。それをここに再掲するのはメンド草草なので、やめておこう。参考・・・物質代謝(物質交代、新陳代謝)して脳が物質的にすべて入れ替わっても、「自分という意識」は変わらない。脳の活動は刻一刻と変化しているが、「自分という意識」は変わらない。こういう課題については、さまざまな方面から検討済みなので、テヌキして結論だけを書こう(メンド草草なので)・・・――脳という物質の組織に「心」や「意識」が生じることはない。「心器というフィールド」と「意識器というフィールド」に、「心」と「意識」がそれぞれ生じる――(加筆)・・・さて、手抜きをしたあとは、テヌキそばでも食べようか・・・笑・・・・・・テヌキ蕎麦の作り方・笑・・・畑を手に入れて、蕎麦の種をまく。そして、芽がでたら毎日蕎麦に声をかける・「おいしい蕎麦にな~れ」「おいしいテヌキ蕎麦にな~れ」(笑)・・・蕎麦が実ったら収穫し蕎麦を抱っこして脱穀して、石頭ではなく石臼で挽いて蕎麦粉にする・・・それから入念にテヌキ蕎麦を打ち、茹で上げる・ツナギはできるだけ少なくするか入れない。それをタヌキ君の絵柄の入ったドンブリにいれ、好みの具類を載せ、好きなスープをかけて、刻み小ネギを載せてできあがり・・・おっと、忘れていた・その前に、海か川に行って魚釣りをして、ダシ用の魚を釣り上げておく・それでスープを作る・テヌキ蕎麦のスープは自分で釣り上げた魚でつくるに限る(なんの根拠もないが。dagashikashitokorogadokkoiosennoarunohabotuimahasekaijuugasounatteiruga)・・・シロナガスクジラのでっかいのを一匹(一頭より一匹の方が面白い)釣り上げたら、水族館に寄付しよう・笑・・・・・・うーん、テヌキをするのも楽じゃない・笑・・・・・・ただし、テヌキをすると、こういうふうに笑えるから悪くない・笑・・・・・・ここで、心脳についての研究に戻って・・・「笑い」や「感情のこみ上げ」は、ふたつの(or複数の)情報sの干渉による「ウナリ」なのではないだろうか、という仮説を何回か既述していることをつけ加えておこう・・・そうだとすると、意識器から心器と脳へ情報のフィードバックがある、ということにもなりそうなんだが、それについても既述している・・・心脳研究の本題に戻って締めることができてホットしてホットな飲み物でも飲もうか~・・・――筆者も、カタいことばかり書かれた文書を読むのは苦痛であることもある。そんな時はこんなふうに「フニャケた」文章を読みたくなるもんだ。読者の方々も同じでせふ。筆者の書くものに、ジョークやユーモアの部分がなかったら、「こんなもん、読みたくねえ~」と、読まれない度合いが高まるでせふ。ということで、時々、ジョーダン・ユーモアを盛り込んだ「フニャケた文章」を書くのは、読者の方々のためでもあるし、筆者の息抜きでもありもうす――加筆用(どこかに挿入):脳に重大な変化がないにもかかわらず、「記憶喪失」という事象がある、ということから言えること・・・うーん、うーむ、どう攻めていこうか・・・そうだ!手抜きをしよう。手抜きをして、考えられる可能性を記すことだけをなしてみよう・・・1・記憶喪失状態というのは、「記憶にかかわる情報発受信物質sと心器との交信がうまくいかなくなっている状態」なのではないだろうか。これには、1-1・脳になんらかの問題がある1-1-1・記憶にかかわる情報発受信物質sは情報の発受信をなしている1-1-2・記憶にかかわる情報発受信物質sは情報の発受信をなしていない1-2・心器になんらかのフィルター機能があって、そういう状態になっている2・忘れたい重大なこと、と、それに関連する記憶、を抱えているので、不思議なメカニズムが働いて記憶喪失状態になる、という可能性もある。これには、上述「1」の分析も採用することになる・・・2-1・脳にその機序がある2-2・心器にその機序があるそのふたつの可能性があるだろう。(加筆)・・・さて、テヌキをしたあとは、テヌキうどんでも食べようか・笑・・・・・・テヌキうどんの作り方・・・べつなところに書いた「テヌキ蕎麦の作り方」に準じる・・・うーん、手抜きをするのも楽じゃない・笑・・・☆☆☆西山浩一(世界人・春楽天)