2008/12/31(水)15:29
*心脳問題の基礎1~77の2*その358*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*
*心脳問題の基礎1~77の2*その358*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*
1からの続き
ここからは、参考)の直前について;
もちろんそこにおいて、物質・物質の世界は在る、とするのは当然であるが、物質・物質の世界はない、という立場を立ててもよい。
ただし、物質・物質の世界はない、という立場にたつのならば、物質の世界である、人間の外界も、それに対応する世界が知性の内部または知性的空間に存在する、としなくてはならないので、それら外界と知性の間での情報のやりとりなどについて納得がいき整合性のある説明・理論が要求される。それは例えとして、すべては大宇宙コンピュータの中での情報とその変化である、といったような世界となる。しかし、その大宇宙コンピュータは何でできているのか、という問題がでてくる。その大宇宙コンピュータは物質でできている、とするしかない
という結論がでると、物質・物質の世界はやはり存在する、という逆転がおきる。
その大宇宙コンピュータは、先に述べた心・知性の器のようなものでできている、という結論がでるのならば、物質・物質の世界はなくても成立しそうであるが、物質・物質の世界がない、などということがほんとにあるのだろうか(その結論が正しいという立場に立ってのことです)。
そこは、こうなるのではないか。
前述の「物質・物質の世界はない、という立場にたつのならば、物質の世界である、人間の外界も、それに対応する世界が知性の内部または知性的空間に存在する、としなくてはならないので、それら外界と知性の間での情報のやりとりなどについて納得がいき整合性のある説明・理論が要求される」において、納得がいき整合性のある説明・理論は本質的にない、つまり、現実はそうなっていない、となって、物質・物質の世界はある、となるのだと思われる。
あるいは、そういったコンピュータ上で完璧な仮想現実の世界は構築できない、現実世界とまったく同じ仮想現実の世界は構築できない、ということが証明され、物質・物質の世界はある、となるのだと思われる。
ここは余談ですが、興味深いところです。
別な在り方(仮説)
上のCνiはひとつひとつ異なっており、固有の振動数も異なる、という仮定である。
それとは別に、Cνiのどれもが(すべてが)まったく同じで、ただ、活性化した時、倍音構成が異なる、という在り方をもっている存在も想定できる。
その場合、
そこの鍵はフーリエ変換・解析
(ただしどちらであっても、知性の器のとる波動パターンたちはまったく同じだろう。
波動パターンの変化については何かが異なってきそうだが、
脳から、情報を受けたときの反応が異なるだけだろう、
そこに研究課題あり)
(研究中)
さらに別な在り方(仮説)
心・知性の器が、ひとつの(ような)エネルギー(のような)存在から成っており、それが活性化した時、無数のさまざまな倍音構成をとる(フーリエ変換した次元で)、それは、それ自体では波動パターンとなっている、という在り方の存在も仮定できる。
そこの鍵はフーリエ変換・解析
(これについても同じことが言えるだろう。つまり、どちらであっても、知性の器のとる波動パターンたちはまったく同じだろう。
波動パターンの変化については何かが異なってきそうだが、
脳から、情報を受けたときの反応が異なるだけだろう、
そこに研究課題あり)
(研究中)
心・知性・論理などを考えていくにあたって、次のような箱を想定してみよう;複雑な共振(共鳴)をする箱=共振箱(共鳴箱)
その箱の共振(共鳴)のし方の考えられるもの
複雑な形の箱(共振箱=知性の箱)に、
いくつかの音を入れたら(=触発情報)、箱の中で複雑に共振変化しつづけ(=思考過程)、やがて定常波におちつく(=結論)、
そのモデルが見つからない、
箱の形状を変化させる、変化させない、
変化させるとすると、その変化させる基準が論理ということになる、
そのモデルとしては、人間の発声・歌うたい、
口、口腔、のど、気管、肺、などの形状を変化させる、
息の吐き方も変化させる、
すると、千変万化の豊饒な音声の世界が現出する、
それらは人間の心・知性・潜在心が操る、
つまり、人間の心に、それらに関わる論理が潜んでいる、
どういった形で潜んでいるのか、
どういった形で発現するのか、
(同じようなことを別なところに記)(研究中)
可能性のある似たモデルは後のほうに記、
(共振素子たち知能組織)
そういった知性において、今の段階では、人間の知性がなんらかに操作するものとしてのモデルしかでてこない、
統計・確率、ランダム、関数、などを用いるにしても、
後述の、DNAの塩基配列(コード)とタンパク質の対応関係などからなにかを掴めるかもしれない、
さらに、そこのコードとタンパク質の形の対応とそれらの(流れのある)変化などからなにかを掴めるかもしれない、
つまり、タンパク質の形たちが意味を担い、コードが記号としての言葉を担う、といった、
それらの(流れのある)変化などに、論理があるといった、
楽器に例える
バイオリン、ギター、
ピアノ、トロンボーン、トランペット、
共鳴箱の形状は固定されていて同じで、振動源の振動数を変化させる、
振動させるタイム(時刻あるいは継続時間)をいろいろ変化させる、
振動のさせ方に変化をもたせる、
アナログシンセサイザー
フーリエ変換的に、さまざまな倍音を重ね合わせる
さまざまなフィルター(時間変動をするフィルター)(フィルターをかける振動数の範囲はさまざま。しかも複数のフィルターをかける)
増幅(時間変動をする増幅)(増幅をかける振動数の範囲はさまざま。しかも複数の増幅をかける)
音の立上り・始まり、音の変化、音の維持、音の開放減衰、
デジタルシンセサイザー
ずばり、波形を紙(図)に描いて、そのとおりの音をつくる、
オーケストラが奏でる音楽
自然の音
風の音
波の音
滝の音
いろんな音
意識の器の場合、個別性は何によって生じるか、
Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識、
(どこかに記しましたが、これについては決定的な仮説の結論はでていません)
?
振動数たちの違い?
素子数たちの違い?
質量の違い?
構成要素のなんらかの違い?
構成・組織化のなんらかの違い?
?
同じ歌を歌っても、人によってそれぞれ異なって聴こえる歌になるが、それに似たなにかによる? これは、心はそうだが、意識についてはそんなことは在り得ないと思う、
?
かなり整理されてきて見通しが立ってきました
つづく。
研究中です。
クオリアの定義
クオリアもはっきりと定義しておかないと、コミュニケーションにおいて、さまざまな誤解や衝突、混乱が生じると思われます。
クオリアの定義も意識内容あるいは心的内容の定義とかなり重なる。基本的には同じである。
(私はこの稿におけるそれらの定義の第一を可能性第一としている。そこにおいては、心的内容は心には意識されない。心的内容は意識の器に送りこまれてはじめて意識し感じ味わわれる。クオリアが意識し感じ味わわれるのは意識の器においてである)。
これは、意識の定義が複数あるので、それらに対応して以下に記すものより複雑で数が多くなる。
必要なら、全部書きますが。
クオリアのハードウェアの定義1;意識内容のハードウェアの定義と(に)同じ。
クオリアの内容の定義1;意識内容の定義と同じである。
クオリアの定義は更にそれに加えて、少しあとの「クオリアについて」で述べる複数の立場を織り込む(織り込み方を研究中です)。
次のクオリアの定義も同じく、心の定義が複数あるので、それらに対応して以下に記すものより複雑で数が多くなる。
必要なら、全部書きますが。
クオリアのハードウェアの定義2;心的内容のハードウェアの定義と(に)同じ。
クオリアの内容の定義2;心的内容の定義と同じである。
クオリアの定義は更にそれに加えて、少しあとの「クオリアについて」で述べる複数の立場を織り込む(織り込み方を研究中です)。
注)クオリアが、感覚質と訳されているばあいがあるが、感覚というのは、感覚器官という単語・表現があるように、感覚器官での形而上的情報を発生させる機能などを指すことが多く、誤解を招く。本来、感覚は感じ覚える、であって、感じ味わい意識する、という意味にとれるものの、感覚質よりは、意識に伴われる質、意識内容の質、体験のもつ質、などの表現の方が誤解が少ないと思われる。
(既存の単語はさまざまな意味をもつが、最も有効な活用をして、メジャーでない使い方は避けるしかない)。
クオリアについて。
クオリアの研究・探求において、複数の立場がある。
1;クオリアの具体・実態・内容を研究する、人間的・文学的・芸術的・人文的・社会的・歴史的・その他の立場。
2;クオリアの具体・実態・内容の発生や変遷を研究する、人間的・文学的・芸術的・人文的・社会的・歴史的・その他の立場(1;と重なるところが多いですが、必要性を感じるので記しておきます)。
3;クオリアの物理的・工学的側面を研究する立場。クオリアのハードウェアを研究する立場。
4;クオリアを抽象的に言語表現する立場(1;2;と重なるところが多い)。
5;クオリアを具体的に言語表現する立場(よくわからない考え・内容・命題ですが、記しておきます。1;2;と重なるところが多いでしょう)。
6;その他。
ここでたとえば、赤色というクオリアについての考察をなしてみよう。
意識内容の質=クオリアの定義、の立場にたつとする。
その意識とは、意識の第一定義とする。
その意識の器のとる波動パターンのひとつに、たとえば赤という色のそれがある。
それはすべての意識の器がとれる波動パターンである。
その波動パターンが、本質的に(本質的に;ここにはいる単語・概念はなんだろう? 本質的にしか思い浮かばないが、それだけではない。追記;必然的に、この世界の法則にしたがって、もっとも効率的な対応関係によって、もっとも適切な対応関係によって、などだろうか)、外界の赤色の光のもつ情報(波長、振動数、など)に対応している。
注)もちろん、赤色といってもさまざまな赤色がある。決まった波動パターンには決まった振動数の光が対応している、と一応みなすが、同じ振動数の光を受けても、目や脳の情報処理の状態によって、色調が微妙に~おおいに異なってくる。
したがって、そういったことを標準的に論じるばあいは、脳が標準的な状態にあって標準的な情報処理をするケースについて述べるとする。
その対応をなさせるのが、脳~心である。
(別の稿に記したが、脳は必ずしも必要でない可能性もあ
る)。
よって、外界からやってきた赤色の光(と呼ぶ。その振動数の光。意識の器で赤色の波動パターンを発生させる振動数の光)を目(網膜)が受け、それを目が形而上的情報に変換し、さらにその形而上的情報を脳が処理し別な形の形而上的情報(この段階ではその情報は一体化していない。脳には、一次視覚野、二次視覚野、などがあるそうだ。いずれも分散並行処理=非確認
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(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)
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