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筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。
その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。 特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。 で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。 (――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす―― ――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。 ・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。 しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。 ・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。 それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。 (――ちなみに・・・、筆者は警察と連絡を取りあっているのである――) ・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・ 本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。 本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。 「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。 「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。 「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日’18・今加筆中の#3は、#882である) 筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。 ☆ 毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・ さて、今回は・・・ 1月13日'18・の分が膨大じゃったので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・ ☆ グチを一言・・・ 読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。 筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。 ・・・つひでに・・・ 筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。 加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす(その後からそれらをなすこともある程度ある)。 それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。 何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。 ・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・ ――「オボシメシ」とは、新種のウメボシ・オボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――; ・・・ついでに・・・ 「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、 「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている)、と思う。 おまけに、「おむすび」だと、手で作らなくてもいい、ということもある。 「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てはくるが――・・・ ☆☆☆――筆者も、カタいことばかり書かれた文書を読むのは苦痛であることもある。 そんな時は「フニャケた」文章を読みたくなるもんだ。 読者の方々も同じでせふ。 筆者の書くものに、ジョークやユーモアの部分がなかったら、「こんなもん、読みたくねえ~」と、読まれない度合いが高まるでせふ。 ということで、時々、ジョーダン・ユーモアを盛り込んだ「フニャケた文章」を書くのは、読者の方々のためでもあるし、筆者の息抜きでもありもうす――☆☆☆ ☆☆☆ 加筆用(どこかに挿入): ――このセクションは、「本論と本スレッド全体」の総まとめ・概観図・鳥瞰図・俯瞰図・大観図・大局図としていいのではないか、と思うので、当分、これに手を入れていこう・遊びングも入れながら・・・ ・・・(それにしても、加筆し杉て、読みに草が増殖・繁茂しすぎてきているなあ・・・書きに草も同じく、なんだが・・・ ・・・最後の方にまとめて注sとして書くやり方もいくらかとってはいるんだが、それでは、わかりにくくなるという面がでてくる。 必要なところに加筆すると、理解がしやすくなるのだが、それでも読みにくくなる、という面も発生する。 どっちにしても一長一短があるわけである・・・これもまた質の対生成の一種なのでアール・・・ それと、加筆するのに最適な個所を探そうとすると、時間がかかりすぎるしメンド草が増殖・繁茂するので、やる気がうせる、ということもあるのでアール・よって、テキトウなところに加筆することも多いのでアール・・・で、さらに読みに草が増殖・繁茂する、ということになるのでアールス・・・)―― さて、以下、こういった領域は筆者の大好物なんだが――こんなのがないと面白くない――、「トンデモない、トンデモだ~~」、と苦りきる方もおられることでせふ。 しかし、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)を、科学的に推し進めていけば、そういった領域に至るのである(最後の方で、あらためてそれを簡潔に記そう)。 ――・・・そして本スレッド全体を全部まとめると、「世界哲学」になる・・・―― ほんの少し前に戻って・・・ しかも、人類のほとんどが、なんらかの宗教に属しているし、ほとんどの宗教sが、だいたい以下のような内容を、文学的に説いているのである。 さらに、タネもシカケもないマジック(超常現象の一種)とか超常現象・奇跡という事象sは実際にあるのである・そのことは、本論の多くの部分sが正しいことの証拠・証明・実証にもなっている――既に何回かどこかに既述しているとおりである――・・・テレパシーもあるのである・・・――。 (・・・注: 証拠:証明のための事実や事象など。 証明:現実として必ずしも証明されていない可能性をもつ。 ・・たとえば、数学の証明などは、現実とは何の関係もない内容をもつものがある。 そのほか言葉や記号だけで証明のような内容を構成した証明もある。 実証:現実として証明されていること ・・・) まさに、世界は神秘と不思議さと謎に満ち満ちている・・・である。 そういうことなので、 以下の記述内容を拒否する前に、虚心坦懐・頭を空っぽにして――頭に先入観・固定観念などが詰まっていると、真っ先に否定してかかりがちなので、それらをはずして――、 その上で眉に唾をつけて、まずは冷静に見ていただきたい。 すると、以下の中に腑に落ちるところがあることに気づくのではないでせふか・ (腑に落ちる=意味が内臓に落ちて心から納得する・・・そして、ヘソが鳴るわけでア~ル・つまり、「鳴るヘソ、ナルヘソ」と納得するわけでア~ル・伴JK)・・・(「腑に落ちない」は一般的であるが、「腑に落ちる」も昔の作家さんたちは使っている・・・であるから、筆者がネット上で最初にそれを用いたときは、『「腑に落ちない」の反対は「腑に落ちる」であって、~~』と記した)・・・(ついでに・・・日本語に、「あいつは腹ができている」、という表現があるが、「あいつはガッツがある」の「ガッツ」は、エイゴで、腸・ハラワタ・内臓という意味である・・・発想が同じじゃじゃじゃ・・・じゃがいもじゃじゃじゃ・これはダジャレジャジャジャ・・・)・・・。 さて、 以下のタトエで、この世界全体を説明してみよう・・・トンデモな結論がいろいろとでてくるんだが・・・ ・・・(ワクワク)・・・(惑惑)・・・(獏獏・バクバク)・・・ ・・・その前に一言・・・ 「こういった文章を読んで納得して自殺することは禁じられておりもうす・この世界の法則の実態によって(既述)」・・・ ・・・その前に二言目を・・・繰り返しにもなるが・きわめて重要なことなので・・・ 上にも述べた「タネもシカケもないマジック(超常現象の一種)がある」、ということが、本論の多くの部分sの証拠・証明・実証になっている・・・ ・・・もう一言書いておきませふ・・・ 一般的に、「女性に生まれることは、男(田んぼの力)に生まれることに比べて、損じゃじゃじゃ・(だからじゃじゃ馬になるのじゃじゃじゃ・JK)」といった風潮があると思うけれども、それは「100パーセント解決される」ということも、このセクションなどでわかるので、期待されたい・・・ ・・・それにしても、男は「田んぼの力=牛や馬の代わりの力」などとは(笑)カンジ悪いなあ・(感じも漢字も悪い・笑)・・・ ・・・「田んぼの力(男)」ついでに・・・ engleeeeseの「boy」の原義は、「足枷をかけられた人→奴隷」だそうだ。 いったいどういう経緯でそうなったんだろう・・・ヒデーもんじゃな・・・ ということは、英語圏の男はすべて、「昔、奴隷(今は成年)」か、「今、奴隷(今、少年)」ということになるではないか・・・(ここで、「笑」、などとは書かないからな・・・書きたくなるんだが書かないからな・・・)・・・ともかく、英語圏のGuys・ (元もとGuyは、野郎とか、やつ、といった意味をもっている・・・しかし今ではこれを女性にも用いるようだ・皆んな、という感じで・・・このGuyの語源を辿ると、歴史の非常な重さを感じさせられる・・・) ・・・やり直して・・英語圏のGuysは、この問題の張本人を探しだし、なんとかすべきではないだろうか・・・そして、boyをboya(日本語で少年の意味にもなる・これは「お坊さん」からきている・昔の一時代、男児の頭を剃る風習があったそうで、それはお坊さんの頭と同じであるところからきたらしい)に改めればいいのではないだろうか・「a」をつけるだけで奴隷から脱出できるぜよ・・・ ・・・一方、「好」とか「妙」「娘」「安」「要」などといった、カンジのいい、いい意味の漢字もアールス・・・ (付記:以下で用いている「局所場・部分場」と「大局場・全体場・非局所場」は、本論での用語sであって、物理学用語とは異なるところがある。 「局」は元もと、「全体の中の一部分」といったような意味なので、そこに問題はない) ・・・さて、前置きが長くなったが・・・ 現代物理学は「場s=フィールドs」でさまざまを記述~説明する。 場場場場場場~~である。 馬場馬場馬場馬場馬場~~である。 (婆婆婆~~ではない) (爺爺爺~~でもない) (爺婆磁場磁場~~は、場の一種・場のひとつ、であるが・・・爺婆はジョーダン戯れであるが、爺婆の間でも場ができ、引き合ったり反発したりするので、一種の場の元となる、と言える) (「馬」、はジョーダンであって、場のことである。しかし、馬場は馬関連の平地という場のことなので、あながち不適当なジョーダンでもない) (・・・ちなみに、「場・ば」、は「庭・にわ」の転だそうだ。だから大和言葉である。 かなり前、「場」の読み方について、「ば(訓)」と「じょう(音)」のどちらが音なのか訓なのか首を傾げていた時に(どちらも音に思えた)、辞書sをひいたことがあって、そこは知っていたのであるが、「にわ→ば」は今回知ったのだった(あるいは忘れてしまっていたのかもしれない)・・・) (参考:訓読みの言葉は大和言葉であるが、ごくゴクごくゴクわずかながら漢語から派生し変化した訓読みの言葉もある・・・と、ゴクゴクお茶を飲みながら付記しておこう・・・お茶飲めば ノドが鳴るなり 法隆寺 ・JK戯れ・・・) さてそこで、 それ「場」を援用して、全世界全部を「エネルギー一元方式」で説明してみよう。 ここでは、「意識のそと・外界、には何があるかわからない、何らかのデータベースと情報(データs)があるとしか言えない」という立場(既述)をとらず、 普通一般の見解「見たとおり、聞こえたとおり、触れたとおり、そういう物質的世界がある」という立場にまずは立とう。 さて、そこで、 ☆場をタトエで説明すると・・・ 「水蒸気(のような微細なエネルギー・何か)=基本的なエネルギー素子、が空間に満ち満ちている、それが『場』である」、 というタトエのモデルで説明するとわかりやすいだろう☆ ――それは「空間と、タトエとしての水蒸気」である。以下、それを単に水蒸気と記すこともある―― ――現代物理学においては、空間~真空にもエネルギーが存在する、となっている・・・それもここでの補強材料になるだろう―― (・・・参考・・・ここで用いる「タトエ」という言葉について・・・ 「比喩」という言葉の系統には、直喩、明喩、暗喩、隠喩、諷喩、などがある。 ここで用いる「タトエ」は、「直喩・明喩」に属する(~~のような、とタトエる)。 で、比喩の「喩」自体が、「喩え」、という意味である。 「比喩」は、「比べて喩えること」といった意味である。 「喩え」のほかにも、「例え」、「譬え」、といった表記もある。 であるから、大きく捉えれば、「タトエ」=「比喩」であり、「タトエ」としては、「暗喩」、「隠喩」、など・ (~~のような、とせずに、「白髪を、頭に霜を置く」といったふうにタトエる・・・隠して暗にタトエるどころか(直截にタトエてないから、暗とか隠と形容しているのはわかるが)、「露骨タトエ」だな~・・・「露骨喩」とした方がわかりやすいと思う)・ をも含む、としてもいいはずである。 ・・・「諷喩(ヘンテコリンな字が登場・・言葉の風・言葉の風味雰囲気でタトエるといった意味だろうか)」というのもあるが・それは、タトエだけで、言いたいことを告げるやり方、といったところか・・ ・・・あと、「換喩」というのもあるが・それは、シンボルに言い換えてタトエる、といったところか・・・ ・・・さて・・・ で、そういった漢字sや単語sが、あまりにも、うぜらしかったので(うざかったので)、「タトエ」としたのだった(・・・「タトエ」が一番わかりやすいと思う・・これは実用主義にあるが、筆者もカッコをつけて難しい単語を使うこともある・滑り止めである・・・)。 ・・・以上、日本語と日本語の漢字体系のクオリア研究のヒトカケラとして・・・ ・・・それにしても、漢字の専門家でない人たち――普通の人たち――にとっては、そういった漢字体系や言葉などのあまりの煩雑さに、アホクサビリティを満腔に満杯に感じるのではないだろうか――少なくとも筆者は感じるんだが――・・・ ・・・外国人で日本語を勉強する人たちにとっては、さらに遥かに超煩わしいことだろう。 ・・・日本語には長所が満載されているんだが(既述)、そこはそのままにして、日本語において、そういった煩雑なところsを大きく減らすべきだと筆者は思うんだが・・・ ・・・そこで、日本語を簡略化して、しかも充分に日本語としての用を成すところの「(未来)ニホンゴ(未来日本語)、(未来)やまとの言の葉(略して、『ことのは』)」、あるいは「第二ニホンゴ(日本語)」、という言語体系を創ったらどうでせふか・・・ ・・・そうすれば、「ことのは、未来日本語」は、世界的に受け入れられるでせふ・・・ ・・・それにしても・・・いやはやイヤハヤ・・・ ・・・ついでに・・・ 筆者の分析によれば、単語の並べ方から言えば、日本語は「手順言語」であり、エイゴは「反手順・結論優先言語」である・既述。 両者の「基本的な文」においては、主語を除いて、語順がみごとにひっくり返る。それは感嘆するほどである。 で、日本語の語順が「手順」どおりであるという文例を示そう。 「私は、机の上で、割れた陶器とそのカケラに、接着剤をつけて付け合わせる(付け合せる、という言葉は普通はないが)」 語順どおりにやることが進む・すなわち「手順言語」と呼べる。 この文は、基本的な文ではないので、エイゴで正反対の語順にはならないところがありそうだが(主語を除いて)、 筆者が大昔(笑)分析のために用いた基本的な文は、 「私は、まな板の上で、包丁でタマネギを切る」(実際は、魚を切る、だったんだが、魚君に敬意を表して、ここではこうかえた)だった。 これだと、エイゴでは見事にひっくり返る(主語を除いて)。 で、 いちばんわかりやすい例として――これは文ではないが――、郵便物の宛て先と宛て名を書く順序を考えるとよい。 それを国際郵便物とすればもっと面白い――エイゴ式では国名が最後にくるところと、ファーストネームが最初にくるところが笑える――。 さて、 郵便物の宛て先と宛て名は、配達されることを目的として書くわけである・これがここでの着目点である。 で、 郵便配達関係の方々は、日本式では、頭から読んでいけばよいが、エイゴ式では、尻尾(後ろ)から読まなくてはならない・ (この後者はアホクサビリティに満ちている感じがする)・ (配達関係の方々をバカにしている感もでてくる・・エイゴ圏のGuysよ、配達関係の方々に敬意を表せよ、といったところか)・ (ただし、目的地に近づくにつれて、後者の書き方でも、さほど悪くはなくなるが) 以上、これで、「手順」と「反手順・結論優先」の意味がよくわかると思う。 ・・・ついでに、戯れを・・・ エイゴの「in」は、「に」と訳せるケースがある程度多いが、「ni(に)」と「in」も、みごとにひっくり返っているではないか・笑・・・ ちょっと違うが、「de(で)」と「at」「no(の)」と「of」もいくらかそんな感じだ・・・ さて・・・ 上述のように、日本語は手順言語であるが、日本語の中の漢字構成語は、エイゴとほぼ同じ語順である。 よって、日本語は両方の要素sをもつ、ということになる。 ・・・ここで付記を・・・ 上述の、 「エイゴ式では国名が最後にくるところと、ファーストネームが最初にくるところが笑える」の「ところが笑える」についてなんだが、これは慣用されているので、不自然さは感じない。 これは元もと、「ところ『を』笑える」なんだろう。 それに強調の「が」を付して、「ところをが笑える」になり、「を」が欠落して、「ところが笑える」となったと考えられる。 そこからいくと、どこかに書いた、「○○で、本が売っている(本が何を売っているんだい? と突っ込みたくなるではないか)」も悪くはない、ということになるが、こっちは広く慣用されているということがないし、教科書的な本には絶対にでてこないので、「方言扱い」になると思う(意味はわかるが、筆者にとって心の居心地が悪い)。 ・・・動詞によって、そういった「が」の用い方の慣用度に差があるようだ。 ・・・それから・・・ 「好き」という単語はややこしい。 「好き」は「好く」の連用形だと思うが、連用形は「名詞」扱いされる(慣用・既述)(元もとは連用形は用言(動詞・形容詞など)にかかる)。 「好く」は現代ではほとんど用いられない・あちこちの方言たちにおいては、使われているが。 「ぼくは、君を好く」などと言うと、古代に戻ったような優雅な雰囲気がでる・しかし、口で言っただけだと意味のわからない人たちもたくさんいそうだ(文字で示すとわかるが)。 このばあい、「ぼくは、君が好きだ」となる。 「ぼくは、君が好き」とも言う。 A・これも元もとは「ぼくは、君を好きだ」→「君」を強調して「ぼくは、君をが好きだ」→「を」が欠落して「ぼくは、君が好きだ」となったのだろう。 ちょっと離れた上にある「ぼくは、君を好く」を、「ぼくは、君が好く」とすると、意味不明の文になるではないか(「ぼくは、君が好くものを好く」、などとなりそうだ)・このことからも、上述「A」が理解されるだろう。 で、「好き」は連用形であるから、動詞にかけて、「好きだ」となるわけであるが、「好き」は名詞としても扱える。 上述「ぼくは、君が好き」においては、「だ(である)」が省略されている・・・言葉(言語)というのはこうやって変化していくんだなあ・・・ 以前書いた文章の中で、この「好き」の扱い方に迷ったことがあって(その文章は、このスレッドにも載せたと思う)、今、ここではっきり理解しておこうと思って、これをも書いたところでアール。 :以上、参考・・・) ・・・長々しい遊びングと参考の前に戻って・・・ で、 ☆その水蒸気(タトエの)は、超絶に極めてさまざまで複雑な振動――言ってみれば音・波動・波動模様――をもてる・何らかのエネルギー・☆『何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう・ (それらをまとめて「理念と・その内容の施工力」「理念と・その内容実現の施工力」と呼んでもいいだろう)・ (ここも重要である)・ (高度な「心器・知性体(後述)」はある程度そういう精神的なエネルギーをもつ)』☆・ を得て――。 もちろん、そのタトエの水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆ (ここは、注釈はあとにつけた方がいいんだが、流れに沿って書いた・・・読みにくい・・・で、うしろに載せる再掲の版sでは、そこをくふうした・・・) ――以上、それは、精神的な場、形而上的な場・非物質的で抽象的な場、イデア・実相の場、でもある―― (タトエとしての水蒸気は、「エネルギー量子」から成っているのではないかな。 最小エネルギー量子は、「h×1(Hz)」(hはプランク定数)である(というか、最小エネルギー量子は、「h×1(Hz)」のエネルギーのカタマリである、と言った方がいいのかもしれない・・「h×1(Hz)」の単位は、エネルギー(ごく微小なエネルギーの値をもつ)、である)・ 《これについては、既にさまざま詳細に述べている》・ 《ほかにも、「電磁波のHzは整数にならないだろう・秒の定義からいくと・・それが正しいとするとうんぬん・・という問題についても長々と検討して載せている》) それが「あの世・霊界」という「大局場・全体場」である。 「あの世・霊界」を満たす、そういった水蒸気は、さまざまで超複雑で超精密な波動文様状態にある――その波動の文様・模様・態様は、「基本的には」崩れない・現実世界のさまざまな存在のごとく―― そこをタトエて言えば、「長い時間・期間、形を変えない雲」のようなものである(現実の雲は形を変えていくが)―― つまり、 ☆そういった水蒸気を、「局所場・部分場」という実態が束縛して拡散させない、ということである(「局所場・部分場」と「大局場・全体場・非局所場」、についての詳細は以下に徐徐に述べていく)☆・・・ ・・・しかし変転していく風物・存在もある・夢の中のように・現世(この世)においても変転していく存在sや事象sなどは多い-それとも同じである・・・ (基本的に、長い時間のうちには、ほとんどすべてが変化変転していく。 変化変転しないのは「自分という意識」と、「最も基本的な法則」だけである《それでも、自由意思・意志はある》)・・・―― それが霊界の風物・存在である。 そこにはさまざまな「霊界人・霊人――過去にはこの世に生きていた――過去にはこの世の人間に宿っていた――」たちが住んでいる。 「霊界人」も、そういった水蒸気の、極超複雑で超絶精密な波動で構成されている――それは意識内容(心的内容)に対応している、と言える(どの心器の心的内容《~意識内容》に対応しているのか、それはちょっと複雑であるが)――・ (A・ここでは、表現として、「心的内容」を用いるか、「意識内容」を用いるか、考え中学生になっている・・・だから書き方がヘンなのでアール・・・うーん、うーむ・・・それはなぜなのか後ろの方でわかるし、その解明・解決もついていく・・・) (「心的内容」と「意識内容」は同値・等価であるが、情報構造・情報形態が異なる・何度も既述・うしろにもタトエをもってそれについても述べよう)――。 ・・・参考・・・ ちなみに、チベット仏教などでは、霊界人のことを「微細身(日本語訳で)」と呼んでいる? チベット仏教とは別に、「玄身」という言葉もある? 「隠り身(かくりみ)」もある? (ウロ覚えだが) ・・・おんぼろオボロ記憶によると、そうだったと思う・・・ ・・・こう書いたのは・・・ つまり、これも霊界人が存在する根拠のひとつになるのではないか、と考えて記したところでアール・・・ :以上、参考・・・ 「霊界人」は「心器」をもつ。 「霊界人」が「意識器」をもつかどうかは今のところわからない・・・という決めつけはよくない(――ここはややこしい・霊界で質時間回帰が起こるのかどうか、とか、など――)(上のカッコ内の「A」もそれと関連があるのでアール・・・ 1・霊界人も「意識器」をもつが、それは、「生前」の「心器」とは組み合わされていない・組み合っていない――それは質時間回帰という事象実態があるためである(それらが組み合わされていると、質時間回帰の支障になる・既述)・・・ (霊界人には意識器がなくても霊界人として成立する)・・・――。 霊界に存在する「心器」も「意識器」も「霊界人」に属する「局所場・部分場」である(直近上述「1」の条件がつく)―― 「意識器」は崩れない・永遠にそのまま存在する―― 「心器」は変化変転していくし、消滅することもある――・ (その根拠・論拠は、本スレッド全体+アルファに既述・このセクションにもそれを記そう)――。 さて、「霊界」という「大局場・全体場・非局所場」にはさまざまな領域sがある――それは「現世この世」にもさまざまな地域sがあるのと基本的に同じである――。 (上述しているとおり、このセクションで用いる「局所場」という単語は、物理学の一領域における正式用語――数学的な「点」を意味する――ではなく、「部分場」という意味である。 ただし本来、「局所」という言葉は、「部分」という言葉と(ほぼ)同じであるから、そこに問題はない――「局(所)」の基本的な意味は、「全体の中の一部分」といったところである――) それをゴクかんたんに言うと、 地獄、煉獄、極楽・天国、である。 それら、地獄、煉獄、極楽・天国、もそれぞれが多くの階層(s)(領域s、地域s)にわかれている。 それは、類は友を呼ぶ、という法則の実態によって、似たような霊界人たちが同じ領域に集まり、その中で、それぞれの領域sの風物・存在なども生じてきたし、生じるし、生じていくからである――それらは意識内容に対応している・・・というよりも意識内容(心的内容)そのものである(繰り返しになるけれども、意識内容と心的内容は等価・同値であるが、情報形態が異なる)――。 で、地獄の最深部における苦しみは言語を(に)絶するが(阿鼻叫喚)、それは「質時間回帰則の実態」によって、そういう事象実態になるのである。 「質時間回帰則」=「ある体験をしたら、将来必ずそれと正反対の体験を同じ量経験することになる、という法則」 からでてくる法則の3っつであるところの 「他人に為したとおりを将来必ず自分が受けることになる」と、 「いい思いをしたあとは、それと正反対の苦しい思いを同じ量体験することになる」と、 この2番目と似ているが、 「快楽を受けると、その正反対の痛苦や死の恐怖を同じだけ受けることになる」、 という法則から、そういう事象実態が生じるのである・ (・・・質時間回帰なる事象実態から生起する事象sは、そのほかにもいろいろある・既述・・・ ・・・質時間回帰は、この世に生きているときにも起こる・・・ ・・・「質時間回帰則」とは、 「体験s元戻り則」、 「体験sプラスマイナスゼロ化則」、 「万人平等化則」、 「科学的カルマの法則」、 などと言い換えることができる・・・)。 さまざまな宗教書sや預言書sは、地獄の様相や苦しみを詳細に描写している・絵sにもなっている(している)――そういった文献sをも参考にしてこれらを述べているところである・心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)にもとづいて――。 ・・・注・・・ 類は友を呼んで集まる(類は友を呼ぶ)(「吸引力」が働く)(エイゴではたしか、同じ羽の鳥たちは共に集まる、とか言うんだっけか? )が、霊界人たちが集まったその領域の中においては――特に地獄や煉獄においては――、「反発しあって」いがみ合い・混乱・闘争が起きる・・・まるでこの世と同じである・・・この世も地獄の一種か(非笑・否笑・不笑・無笑・笑うわけにはいかない)・ ・・・この世も本質的には意識内容・心的内容の世界であるから「この世も地獄の一種である」のは当然である。 もちろん、「天国の一種でもある」のも当然である。 ――それらは時を異にして人たちに(を)訪れる・・・「楽あれば苦あり・苦あれば楽あり(最後に「楽」がくるように書いた)、楽は苦の種苦は楽の種」・・・質時間回帰である・・・――・・・ :以上、注・・・ 煉獄は地獄よりはいくらか楽な領域であるが、それでも、そこでの霊界人たちは非常に苦しむ。 極楽・天国についても、さまざまな宗教書sで、詳細に描かれている(そこは平安で平和だそうだ・・・ただし、ナンとかカンとかほにゃららら・・・akitomanneritoumunotosjk・・・)。 ・・・さらに言うと、そういう環境にいると、マイナスの質時間を多く積み上げるのである(――困ったもんだ――)・・・そして質時間回帰が天国の霊界人たちを襲う・・・つまり、天人たち(天国にいる霊界人たち)も徳(質時間のプラス)を失って墜落するは必定・・・ここで、できたばかりの成句として「天人娯衰」・・・ ・・・さらに別な一面について加筆すると・・・天国・極楽においても、霊界人たちの間で反発は起こるはずである・当然ながら。 (・・・ここで連想した・中間子を・・・それと、電荷のプラスとマイナスをも・・・これについて書くと長くなるので、これだけのメモに留めておこう・・・) で、さまざまな宗教書sや預言の書sによると、「地獄に落ちる人たちは途轍もなく多い」、「天国に行く人たちは途方もなく少ない」、・・・そういうことだそうである。 ――つまり、ほっておくと、ほとんどの人間たちは、いい思いだけをしたがる・快だけを受けたがる・プラスだけを得たがる、ので、そういうことになるのである・・・質時間回帰である・・・―― さて、こういった方面のいろんな書sには、「転生するにあたって、霊界人は転生先を選んで生まれてくる」、などと書いてあるものがある・ (原始仏典にはそういった記述はない) (転生するのは意識器(既述・後述)である)。 そうであるとするならば、ほとんどの霊界人たちは恵まれた人間に転生しようとするはずである。 ところが現実はまったくもってそうではない。 であるからそういった記述は・・・没・・・没・・・ そこのところに言及すると・・・霊界人たちの意識器が各々蓄えている質時間の総量にしたがって、転生先は決まるという要素がきわめて多い(大きい)はずである。 ・・・付記・・・ 「転生」つまり「意識器の転生」は、女にも男にもまんべんなくなされていく。 現在までのところ、ある年齢までは男の人口が多い時代や地域sが多い、というケースが多いのかもしれないが、そこをも乗りこえてそうなっていく。 一般的に女の方が長生きするので、それによってもその問題は補正されるだろう。 それも質時間回帰則の実態のひとつの現われ(表われ)である。 ・・・参考・・・ 人間は・意識器は、女にも男にも転生していくのである。 そこでは、上にも少し述べたが、生まれてくる男女比という実態があるので(ある年齢までは一般的に男の方が少し多い・・・これに関連して・・一人っ子政策の地域では非常に困ったことが起こる・・・しかし、そういった地域では、一人っ子政策をとらないと、別な困ったことが起きる・・・質の対生成である)、その比に応じて、女または男に生まれる回数が定まるだろうが、「非常に長い年月のうちには、その比は1対1になるのではないだろうか」=「任意の意識器が女に宿っている総時間と男に宿っている総時間が1対1になる」。 それらについて補足すると・・・、 質時間回帰は任意の意識器が女または男に宿っている総時間に関係する・それぞれが同じ総時間になる。 で、一般的に女性の方が長生きなので、それによって人口における男女比(一般的にある年齢からは逆転するが、それを含めて)についての補正効果もでてきて、そういう結果「上述の『総時間が1対1』」になるだろう。 ・・・参考・・・ 「質時間回帰則」は、科学的に記述された法則であり、その記述・解説も既に何度もあちこちで微ニイリ細ヲウガッテなしている。 しかし、それだけでは具体性に乏しいので、「質時間回帰則の実態」について、既にあちこちで、手をかえ品をかえ、より具体的できわめて詳細に説明している (その検証についても既述)。 :以上、参考・・・ ・・・ついでに・・・ 「生命エネルギー(仮説・既述)」というエネルギーは、「タトエとしての水蒸気」・「あるいは、それから成るエネルギー」なのかもしれない・・・ ・・・さらにそれは、離れた上述の「最小エネルギー量子は、「h×1(Hz)」(hはプランク定数)」、なのかもしれない・・・ ・・・ さて、次に、この現世・この世「物質世界」の説明をなしてみよう・・・ 「物質世界は、タトエとしての水蒸気が冷やされて生じた・生じる世界である。 水が液体、氷が固体、である(タトエとしての水と氷――タトエとしての水蒸気が冷やされ多量凝縮されて、それぞれタトエとしての水と氷になる――)・ ――つまり、相転移(エネルギーなどの関係で状態が変わること)が起こる―― ――気体(普通に言う水蒸気をも含めて)は、微細な固体の集合体である・液体もそうである・・・分子・原子間の引き合う力が、気体、液体、普通に言う固体(物体)の順に強くなっている・・・ ・・・ただし、気体のばあいは、重力で地球に引き止められていないと、宇宙空間へと拡散していく(それでもわずかずつ宇宙空間にでていく)。 重力が弱いところでは、「容器・フタ付きウツワ」に容れて密閉しておかないと、同じく拡散していく。 この「容器・フタ付きウツワ」は、「まとめる力・束縛力」をもつ部分場・局所場のタトエにもなる―― ――ここに入れるのが妥当だと考えたので記すが・・・参考・・・ 上に記した物質世界にある「この「容器」は、「まとめる力・束縛力」をもつ部分場・局所場のタトエにもなる」について言うと、さらに、後ろの方でタトエとして、「ドンブリ」による説明もなしているのも併せて言うと、 霊界でのそういった「束縛力・器(容器)」も「エネルギーなどの関係で相転移を起こして生じる」のだろう・物質化しない程度の範囲で。 そこには、先述している「精神的エネルギー」が関わっている可能性が非常に高い(これについては後述しよう)。 :以上、参考・・・ そして、「タトエとしての水と氷」が複雑でさまざまに組み合わさって種々の風物・存在――物質的な――ができてきたし、できているし、できていく――大自然界の森羅万象――。 1・人間もその一種である――肉体は物質の組織sの集合体である――が、人間には、『タトエとしての水蒸気』でできた『心器』と『意識器』が宿っている――それらは霊界にある『心器』と『意識器』と素材も構成も種類も同じ範疇に属する・・・というよりも同じである・・・――。 ・・・注・・・ ――人間一人ひとりも、各々がひとつの「局所場・部分場」に束縛され、まとめ上げられている、と言える・・そうでないと拡散して人間として成立しない・・・物質的存在のすべてがそうである・・・それは、心器と意識器、霊界の多くの存在s、についても同じであることは上に述べているとおりである――・・・ ・・・で、人が死ぬと、その人の『心器』と『意識器』は『霊界・あの世』に移行する、と「表現できる」(わかりやすくするためにこう表現しよう・ここでは)――より正確にはいくらか離れた下に記そう・・・ 離れた上述「霊界人も『意識器』をもつが、それは、『生前』の『心器』とは組み合わされていない・組み合っていない――それは質時間回帰という事象実態があるためである(既述)――」にある『生前』とはそういう意味においてである・・・ ・・・ちなみに・・・ 「死後の神の裁き(死後における神による裁き)」という概念があるが、「死後の裁き」を為す(成す)のは、神ではなく、「質時間回帰則の実態」である・・・(「神」については後ろの方に記そう)・・・ で、もちろんそこ「物質世界・この世」には、ふたつの意味で、「水蒸気」もたくさん存在する。 その水蒸気について言えば・・・ (上にもいくらか述べたが)ひとつの範疇には、「タトエの水蒸気」が冷やされ凝縮してでできた「普通の意味での水蒸気」がある・・・「普通に言う水蒸気」も、「場」にある「水蒸気・タトエの」、でできている(相転移して生じる)――これは、現実世界にある物質的な水蒸気である――他の気体sも同じくそうである――・ (物質的な水蒸気は水分子はバラバラで1個ずつ離れている状態にあると考えられ、湯気は水分子が複数個くっついている状態にある――両方が混じって存在するケースもあるだろうが――これもエネルギーなどの関係で状態が変わるという実態の現われである――)―― もうひとつの範疇には、霊界の項で述べたように、非物質的・精神的世界を構成する「場を満たしている水蒸気・タトエの」がある。 そして、「物質世界・この世」にも、それから成る世界がある。 それは、超絶複雑にして超精妙な波動の世界である。 つまり、それ「タトエの水蒸気と、それから成る非物質的・精神的世界――意識内容・心的内容のような世界」は霊界にだけ存在するのではない、と表現・記述(叙述)できる。 人間のもつ『心器』と『意識器』、それに加えて、『心的内容』と『意識内容』はそこに属する(上述『1』においてもそこに言及している)・ ――つまり、それら「心器」と「意識器」は、現実世界と霊界に同時に存在するのである。 しかし人は現実に縛られているので、普通は現実世界だけに、「心器・心と心的内容」と「意識器・意識と意識内容」が存在するように人には思えるのである・ ――離れた上述「人は死ぬと、その人の心器と意識器は霊界・あの世に移行する」という表現は、正確にはそういうことである・ (そこでは、肉体だけが離散消滅・雲散霧消する――ただし肉体の構成要素sは消滅することはない・肉体の構成要素sはバラバラになって、散らばってしまう、ということである) ―― ・・・さて・・・ 眠っていて見る夢の世界は、霊界そっくりである。夢の中の世界には、記憶にあるものがいくらか混じっていることもあるが、記憶にないものの方が遥かに多い・ (人によって異なるかもしれないが) ・・・これも不思議な事象・実態である・・・まあ、夢の中の世界は、霊界の一種か、霊界そのものなんだろう・・・ ・・・で、脳の働きだけで夢の内容を創りだすことは絶対にできないだろう・よって、心器と意識器というフィールドたちが存在するはずである、という論理展開も可能である――これについても、もっと深めて考えていこう・ (「心器と意識器が存在する」という論証は、いくつかのやり方で徹底して既述している。ここのやつは、新たなやり方である)――・・・ ・・・ちなみに・・・ 「心」と「意識」を自分から取りだして、目の前に置こうとしても、それは、できない相談である。 「霊」と「魂」を自分から取りだして、目の前に置こうとしても、それもできない。 みなされ、同じではないか! (笑) ――これはジョーダンめいたフニャ論でもあるが、ある程度説得力があるのではないだろうか? ―― ・・・人の身体と脳や臓器sについては、ほとんどすべての人が、それらは物質的に存在するということを知っているが(現在における科学的知識)、 「心」「意識」「霊」「魂」については、「??? ・・・」という状態・実態にある・ほとんどの人たちが・・・ ・・・そこらの解明などをも、本論や本スレッド全体で追究しているのである(ほかにもさまざまを追究している)・・・ で、 心と意識、霊と魂、について言うと、「心(器)=霊」、「意識(器)=魂」、といえる・今ある単語を有効に活用すれば・既述――。 ・・・参考再掲・別なセクションからの・・・ ・・・参考・・・物理学の「場の理論」における「場(フィールド)s」は、目に見えず、手に触れず、あるかないかわからないなんらかの存在である。 しかし、磁石はくっつきあるいは反発し(磁場の励起)、静電気によってごく軽い物体はくっつきあるいは反発し(電場の励起)、電磁場を飛ぶ(走る)電波は現実にさまざまな通信・配信などに役立っている。 同じように、「心」=「心器というフィールド」(=霊)も、「意識」=「意識器というフィールド」(=魂)も、目に見えず、手に触れない。しかし、心脳科学(仮説)で明らかにしているように、それらは実際に存在する、と言うしかない・・・。 :以上、参考・・・ まあ、ともかく、カタい存在である物質には(液体や気体はある程度柔らかいとも言えるが、それでも、タトエとしての水蒸気と比べると相対的に非常にカタく重くアラい)心と意識は宿れない・圧倒的にそうである。 つまり、 ☆心と意識は、脳という物質の組織からは生まれない☆ のである。 なぜなら、(再掲になるが)、心と意識の世界は極めて超複雑・超精密な実態にあるからである――万人がそれを実感すると思う――。 ☆「タトエの水蒸気の集合体」は極めて柔らかく軽く精緻精妙であり、どんな複雑・精緻な波動態様でもとれる・物質ではそれは不可能である。 つまり、「心器と意識器」、「心と意識」、「心的内容と意識内容」、は、「タトエとしての水蒸気」の領域にしか存在しえない☆、 と言える、ということになるだろう。 ☆その水蒸気(タトエの)はさまざまで超複雑な振動――言ってみれば音・波動――をもてる・何らかのエネルギーを得て・☆『その何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう・ (それらをまとめて「理念と・その内容の施工力」「理念と・その内容実現の施工力」と呼んでもいいだろう)・ (ここも重要である)・ (高度な「心器・知性体」はある程度そういう精神的なエネルギーをもつ)』☆。 もちろん、そのタトエの水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆。 (ここは、最初書いたときには、間に注釈を入れたので読みにくかった。そこで、言葉を移動させて読みやすくした・それでも読みにくいが) ・・・参考・・・ この世の水蒸気や気体といえども、それらは物質化した存在であり、「微細な固体の一種」の集合体である・既述・・・ ・・・注・・・ 「心器と心的内容と心器の理活能力」は一応区別されるし、「意識器と意識内容と意識し味わう働き」も一応区別される(あとの方で、そこらをもタトエをもって説明しよう)。 (注:「理活」=「心器による心的内容論理活動」) そこにおいて、 「心器の理活能力(意味はわかるが意識し味わうことはできない)(意味がわからないと理活はできないだろう)」、 と、 「意識器の意識し味わう働き(理活はできない)(流動化・波動化した情報は操作できない)」、 は、実に不可思議で神秘的である。 しかしそれは実際にあるのである・あるではないか。 それこそ、それらの存在こそ、この世界の醍醐味であり、この世界が存在する意味・意義もそこにある・ それをかんたんに一言で言うと、「この世界に意識がないと、この世界はないに等しい」――・ 筆者は髪のある頭と心脳で、ハゲしくこれに同意・納得する―― ・・・これについても、今までにあちこちで、さまざまに論じている・・・―― ・・・もうひとつ・・・ 筆者の頭にひっかかっていた「霊界での情報形態」について・・・ 霊界には知性体たちと意識体たちが存在するはずであるから(詳細に既述)、霊界での情報形態は、ほかのところsで詳細に何度も述べているように、 「心器における情報形態」、 と、 「意識器における情報形態」、 の両方があるはずである。 で、霊能者が霊界のようすを垣間見るばあい、どちらの情報形態の情報を見るのだろうか? まあ、これは、どっちでも見ることは可能だろうが・・・これについては、もうちょっと考えてみよう・・・ (ここから何かがでてくるかもしれない・・・オバケとか妖怪とか・これはジョーク・・・) (「ここから何かがでてくるかもしれない」、というのは、マジメに言っているのでアール) (加筆) :以上、注・・・ で、 心器、意識器が扱う『意味』『心的情報』『価値』なども、 そこ2・『非物質的な世界・タトエの水蒸気の世界・心的内容~意識内容の世界』に属する。 人間が為す、「思考」「想像」「創造」「創作」「学問」「芸術」「人間の活動によって生まれた・生まれるさまざま」なども、 そこ『2』に入るが、そこでは物質的な存在が(を)伴うケースも多い・ (「が」だと「存在」が主格、「を」だと「存在」は目的格)・ ――たとえば、発明、彫刻、踊り、建築物、芸術、社会にある物質的なさまざま、などなどである―― ・・・まさに、この世は、「物質世界」と「非物質的な心的内容・意識内容の世界」が融合してできているではないか、 ・・・上述でそれがよくわかる・・・ 繰り返しを含めて言うと・・・ 「心的内容・意識内容の世界」という存在は、 まず、『場を満たしている水蒸気・タトエの』があり、 それから成る世界があって・ その世界「心的内容・意識内容の世界」は、 『エネルギーの、超絶複雑にして超精妙な波動の世界』 である。 :注・・・ ただし、ほかのところで詳細に述べているように、 心器が扱う心的情報は「心的情報スペクトル要素s」「心的情報スペクトル」であり、 それらは微細でバラバラなエネルギーのツブツブであって、流動する波動実態にはない・それでもそれらは微細度が極めて高いので、超絶複雑にして超精妙な心的情報の世界となる。 で、心器から意識器に「心的情報スペクトル」が送りこまれると、 「心的情報スペクトル」は混ぜ合わされ流動化し波動化し、『エネルギーの、超絶複雑にして超精妙な波動の世界=意識内容の世界』が現出する。 :以上、注・・・ その中で、 『心器は心をもち能動的に働き理活し』、 『意識器は意識をもち、さまざまを意識し味わう』、 のである(心器における情報形態と、意識器における情報形態は、異なる・同値等価ではあるが・ここも重要ポイント・既述)。 ――ただし、心器は自己教育などをなして鍛え上げないと能動性に乏しい(恣意性、ランダム性、動物性、が大)。 さまざまを学習し心を練り上げ鍛え上げ鍛錬していくと、心器の能動性は高まっていく。 そして遂には最高度の自由意思・意志をもつようになる・・・ ・・・(そしてそれは天衣無縫にして自在闊達な不死鳥となって宇宙全体を駆け巡る・・・だといいんだが・・・このカッコ内はカッコいいが、半分はジョーダン・・・)――。 ・・・参考のために再掲(何度でも強調)・・・ 「☆その水蒸気(タトエの)はさまざまで超複雑な振動――言ってみれば音・波動――をもてる・何らかのエネルギーを得て・☆『何らかのエネルギー・これは、形象や意味と価値などと、それらの実現を駆動する精神的なエネルギーなど、という精神的なエネルギーだろう・ (それらをまとめて「理念と・その内容の施工力」「理念と・その内容実現の施工力」と呼んでもいいだろう)・ (ここも重要である)・ (高度な「心器・知性体」はある程度そういう精神的なエネルギーをもつ)』☆。 もちろん、その水蒸気自体もエネルギーであるし、「場」からいくらでも、そういった水蒸気はでてくるし、引きだせる、のである☆」・・・ :以上、再掲・・・ ・・・以上、『エネルギー一元方式』での、『全世界全部についての説明』である・・・」 ・・・さて・・・、 以上の解説から言うと、 「霊界」が「物質世界」に先立って存在する、ということになるのではないか、とまずは思ってしまう。 それに関連して、いくつかの考察対象sにおいて、「どっちが先か」論をあちこちで何回も論じている。 そこでも結論は・・・うーん、なかなかむずかしい・・・というところに落ちついている・・・どちらも必要なんじゃないか・・・しかし、どちらかが先立っている可能性もある・・・そういったところだろうか・・・うーん、ムズムズするくらいムズムズかしい・・・ しかし、「卵が先か、鶏が先か」論については(ここでは、鶏が初めてこの世界に生まれるにあたって「卵が先か、鶏が先か」という論)、 「卵が先だ」という結論を得ている(これも既述)。 そこからいくと(そこからいっても)、なにごとにおいても「原因がまずある」、ということになるわけだが・・・ まあ、とにかく「原因が先にある」という命題には説得力がある。 しかし、現実世界(この世)の実態が、あの世(霊界)に反映されるということも事実である。 ・・・それに加えて、 1・「何かを創りだすエネルギー」、 2・「設計・企画・計画するところの意味と価値のあるエネルギー」、と、 3・「それらを施行・実行するエネルギー」 がないと何も始まらないのではないか、偶然だけでは何も始まらないのではないか、という感想もでてくる。 そういった精神的エネルギー「1」「2」「3」、はやはり霊界にあるのだろう、とも思えてくる(うしろの方で、「場の量子論における演算」をタトエにして、この論についての内容を発展させよう)。 人間もそういった能力と力をある程度もっているが、それは、心器が成さしめる(為さしめる)実態にあるのであるし、心器は基本的に霊界に属するのであるから、なおさらそう言えるだろう・・・ ・・・ということで、以上、これについての結論は、「霊界が一歩先んじている(いた)のではないか」ということに、ここでは一応しておこう。 (――以上で、『 』とすべきなのに、「 」としてある個所sがある・・・メンド草草なので――) ――以上において、「タトエとしての水蒸気」が絡んだ部分は、(あたり前であるが)、あくまでもタトエである。 それ以外では、タトエでない部分sが多い―― ・・・ここで少し解説を・・・ 上述「物質世界は、水蒸気が冷やされて生じた・生じる世界である」についてなんだが・・・ 「冷やされて」の部分が場の量子論から少しずれるが、「冷やされて」を「マイナスのエネルギーをいくらか得て」と記述すれば、数学的には整合性がでてくる。 それに、そういったタトエの水蒸気自体がエネルギーのカタマリの一種なのであるから、そこに問題はない。 しかも、「場のたとえ」としての「空間と水蒸気」であるから、そこに支障はない。 さらに・・・、 場の空間から「タトエの水蒸気」はいくらでも供給されるので、場の量子論と整合していないとは言えない、と言える・・・ ――このセクションでは、場の量子論のやり方と「似たやり方」で全世界全体を説明しようと試みているのである―― ・・・つけ加えると・・・ 場の量子論は完成しているわけではない・・・であるから、場の量子論からいくらか逸脱していても、世界全体の説明がつけば、その論は有望であると言える・・・ ・・・さらに、上にも記したが、「タネもシカケもないマジック(超常現象の一種)がある」、ということが、本論の多くの部分sの証拠・証明・実証になっている・ (これを用いて、場の量子論を発展させる、という方針・方向は正しいはずである)・ (場の量子論にせよ、超ひも理論にせよ、精神的エネルギーについては、手をだしていない。これからは、そこにも着目すべきなのは当然でせふ)・ (うしろの方で、場の量子論には、「知性」を思わせる部分がある、ということにも言及している)・・・ :以上、ちょこっとチョビット ちびっと解説・・・ ――以上の説明から、「霊界~精神世界」と「この世・物質世界」は共存していることもわかる―― ・・・ついでに・・・ ――霊界(あの世)の存在は、物質世界(この世)(あの世とこの世は重なっている・既述)の物質などを、普通は壊せないが、例外はある・・・タネもシカケもないマジック(超常現象の一種)や超常現象や奇跡を起こせる可能性があるのである・実際に起こせる・・・(ほかにも、あの世の存在「知性体――霊界人の心器――」は、物質世界に雲を発生させることもできる・ある程度気象条件が整っていれば)―― ――この世界の物質はあの世の存在を壊せない・・・人間の想念《心的内容と意思》がそれをなせるケースはあるが、それは例外である・・・「タネもシカケもないマジック(超常現象の一種)や超常現象や奇跡を起こせる可能性がある・実際に起こせる」、と、それは同等である・・・―― ・・・老練で熟達した心器・知性体は、物理法則の実態を、破るというか、ある程度コントロールできるのである・・・(筆者はトンコロールすらできないが)・・・ (つまり現在の物理学はまだまだ未熟・不完全であり、その上に未知の法則の実態があるのである・・・というよりも、知性は物理学的法則の上にあるのである、というか、知性は物理的法則から逸脱することもできるのである・そう言える)・・・ (知性のもつ「自由意思・意志」の解明はできない・既述・せいぜい統計的に知性の発動結果をいくらか予測できるだけである・既述)・・・ ・・・以上に関連して、昔の物理学者パウリについて、「パウリ効果」というエピソードがある(パウリの排他律ではなく)。 パウリが実験物理学者の実験装置のある部屋に入ると、その装置がよく壊れたのだそうだ。 で、その実験物理学者は、パウリを実験室に入れなくなったといわれている。 それをパウリは面白がっていたそうである。 ・・・これも、パウリに付いていた知性体の為せるワザだったんだろう・・・ ・・・さらに付記すると・・・上に述べている「老練で熟達した心器・知性体は、物理法則の実態を、破るというか、ある程度コントロールできるのである」という実態の中にはいる話しになるが、 知性体は、実験装置による実験の結果sを変えることができるのである(これは一種の霊界通信だと言える・後述の「エジソンの霊界通信機研究」を参照)。 よって、実験結果に再現性がないからといって、その実験の基になっている理論をかんたんに否定することはできない、と言える・・・ さて、 ただし、どんな心器・知性体といえども、意識器・意識体に付いた質時間には干渉できない・質時間を消滅させることはできない(それはエネルギー保存則に似ている)・・・ :以上、ついでの鱶事項ではなく付加事項・・・ ・・・参考・・・ 過去に、「意識の主体」という用語を使ったことがあるが、「意識の主体」の意味実態は、「自分という純粋意識」プラス「意識器・意識体」のことである。 で、「自分という純粋意識」とは、「自分が自分であると意識する意識」のことである・ 「意識内容」はどうにでも変化していくし、どうにでも置き換えることができるが、「自分という純粋意識」は永遠に変化しない(既述)。 さらに、「意識器という器自体」は、永遠に変化しないが、「意識器」には「質時間」という記録のような情報が付く――それをもとに、質時間回帰がなされていく(既述)――。 :以上、参考・・・ 少し遡って・・・ ――この世に生きている人間の「心器」と「意識器」は、あの世(霊界)にもいることになる(ほとんどの人はそれに気づかない)・これとは矛盾した記述だが、人間は死んだら、その「心器」と「意識器」は「霊界(あの世)」に行く(先に説明したように、こう記述するのが手っとり早い)、 つまり、人が死んだら、肉体は離散霧消し、その「心器」と「意識器」は、あの世でだけの存在となる(そのばあい、心器→知性体、意識器→意識体、と呼ぼう・既述)・ (ただし、あの世とこの世は共存しているので、知性体はこの世に干渉できる)・・・ ・・・そして、転生は永遠に無限回なされる――質時間回帰がなされながら――「質時間回帰が100パーセントなされるために」=「すべての人たち(意識たち)が完全に平等であるために」、転生が永遠に無限回なされる、とも言える――そこから、「宇宙は永遠につづいていく・途中途絶えることはあっても、永遠につづいていく」という結論もひきだせる・ つまり、霊界の意識器は無限回・転生する(心器はだんだん衰えて消滅するだろうが)・ 要するに、「人は死なない」=「意識器・自分という意識は死なない」=「人・意識器・自分という意識」は永遠に生きつづける、のである(・・・ここらには、ちょっと解りにくいところがあるが、本論で「心器」と「意識器」について詳細に既述しているので、それを参照されたい・・・)―― ―― ・・・付記・・・ 霊界の水蒸気・タトエの、は、物質を通り抜ける・・・ ・・・もうひとつ付記・・・ 精神世界関連のいろんな本sに、「霊界人は、この世のご馳走を食べることはできないが、匂いは食べることができる」とある。 この世の空気中に漂う匂い分子(タトエの水蒸気が固体になった物質)のもつ刺激――エネルギーの波動――を、霊界人は感じることができる、ということは納得がいく。 そういえば、故人の供養などにおいて、線香を焚くが、それは理に適っているのかもしれない・・・ (肉体に宿っている「心器」と「意識器」は鼻を経由してしか匂いを味わうことはできない。そこは霊界人と異なる。それは「心器」も「意識器」も肉体に強く結び付けられている・縛り付けられているからだろう)・・・ それが正しいとすると、霊界人と物質世界の存在は交信なり通信なりできるということになるだろう。 つまり、霊能者という不思議な方々は、霊界人から通信を受けたり交信したりできるということになるだろう(・・・ついでに・・・テレパシーは実際にあるのである・・・)。 そういった霊能者さんたちがなぜ霊界人たちから通信を受けたり交信できるのか、といえば、それは、そういった人たちの脳や身体にある「特定のタンパク質などの情報発受信物質s」によるのだろう。 霊能者でない人たちは、そういった「特定のタンパク質などの情報発受信物質s」をもたないのだろう。 (・・・そこにおいて、騙られないようにしないと困ったことになる・霊界人には騙る存在たちが多い。しかもその話す内容は・・・その情報や記憶は・・・いやはや困ったもんだ・・・後述・・・ ・・・さらに、過去世の記憶を思いだした、と思っても、それは、よってきた知性体たちが与えるのである・しかもその知性体たちはその人物とは無関係である・・・) 本論においては――その交信媒体はいろいろ考えられるが――まずは赤外線を候補の筆頭に挙げている(そういう候補sについては既述。情報発受信物質sについても既述。心脳科学と超弦理論との関係についても既述)。 ・・・つひでに・・・ 発明王エジソンは「霊界通信機」の研究をしていたそうである。 さらに・・・ エジソンは死の間際に、「あそこは綺麗だな」と言ったそうである・・・肉体的物質的束縛が弱まり、心器と意識器が霊界を垣間見たのかもしれない・・・(――こういった範疇内に分類されるエピソードsや話しsは、さまざまな本sに数多く書かれている――)・・・ ・・・さらに付記・・・ 精神世界関連のさまざまな本sに、霊界(あの世)の時間は複雑怪奇(かんたんに言うと)だと書かれている。 ・・・たぶん、基本的に、霊界には現実における時間と同等な時間がないのではないか――過去の風物sがそのまま残っているだけなのではないか・変化したり重なり合ったりしながら。 それを過去の時間や風物であると言っているのではないか――いずれにせよそれらは想念の世界・古ぼけた映画のフィルムのような存在である――。 (・・・ここから考えると、霊界における情報構造は、心器における情報構造――実時間がない――と同じなのではないか、という考察もでてくる《これは何か所かで検討中の課題である》。 つまり、霊能者さんたちは、心器で霊界の風物《情報》を捉え、それを意識器に入れている、という可能性も考えられる、ということである。 ・・・それにしてもしかし、霊能者さんたちの主張する内容は一致しないことがほとんどのようだ・・・困った困った・・・) 未来について言えば、霊界人がさまざま予測して予想してフィクションして――現実世界の科学やSFその他などをも取り入れながら――、霊界人の知性でさまざまな風物を創り上げていくのではないか・映画のように(過去も未来もどこにもないのであることであるし・既述)。 ・・・であるから、未来についての予言は当たらないケースが非常に多いのだろう(それは、天気予想と基本的には同じだろう。ただし、近頃の天気予想はかなりよく当たる)。 ・・・ちょっと遡るが、過去についても、上述「変化したり重なり合ったりしながら」どおりであるならば、ゴチャグチャしたおかしなことになるだろう。 ・・・つまり、霊界における過去のイメージ・風物は、霊界人たちの中にある古い記憶とその変形したイメージなのだろう。 霊界における未来のイメージ・風物などは、霊界人の創作なんだろう(夢の中の風物と同じく)。 実際、「過去はどこにもない・未来もどこにもない(既述)」のであるから、そういうことになる・・・ ・・・まあ、基本的に、霊界における時間やイメージ・風物は、夢の中のそれらと同じだと考えればよさそうである。 :以上、付記・・・ ・・・補記・・・ 場には「大局場・非局所場・全体場」と「局所場・部分場」がある。 もう一種、「自由場」――波動がどこまでも届いていく場――これは「大局場・非局所場・全体場」の一種である――もある(・・・遠方にあって、奇跡を起こしたりテレパシーをなしたりできるのは、この場によることが多いだろう・それと知性体がそこに移動してそれらを為すというケースもあるだろう・・・)。 で、「あの世・霊界全体」と「この世・この世界」はそれぞれ大局場・全体場である――それらは重なってもいる――。 「心器」、「意識器」、「それぞれの意識器がもつ質時間の場」は、それぞれが「局所場・部分場」である・「局所場・部分場」は器になる(――心器、意識器、霊界人の身体、などの器――)。 そして、それらそれぞれの「局所場・部分場」sが属する、それぞれの「大局場・全体場」sという「場」もある。 ・・・つまり、 1「個々の心器(s)という局所場(s)」は、「心器s全体が属する大局場」に属し、 2「個々の意識器(s)という局所場(s)」は、「意識器s全体が属する大局場」に属し、 3「個々の意識器(s)がもつ質時間の場(s)という局所場(s)」は、「個々の意識器(s)がもつ質時間の場(s)全体が属する大局場」に属する、 ということである。 :以上、補記・・・ (・・・さらに補記・・・(どこにこれを入れようか迷ったが、ここがよさそうだ)・・・ 霊界の情報構造・情報形態について・・・ まず、タトエの水蒸気は根本的なエネルギーである、と言える。 そのエネルギーは、当然ながら、粒子性と波動性(ここでは、エネルギーのもつ波動性であって、量子力学的確率の世界のことではない)をもっている。 上述「1」から、「心器・知性体」で扱われる情報は、エネルギーの粒子性を活用している、ということになる(あちこちに詳述)。 上述「2」から、「意識器・意識体」で扱われる情報は、エネルギーの波動性を活用している、ということになる(あちこちに詳述)。 ・・・ということは、霊界における情報形態は、「粒子性情報」と「波動性情報」の両方がある、ということになる。 で、 「心器・知性体」は、流れるような「意識内容を意識し味わうこと」はできない。 「意識器・意識体」は、「バラバラツブツブの心的情報を扱う(理活する)」ことはできない。 ・・・ということで、霊界の在り方も単純ではない、ということになるだろう。 で、霊界の風物は、どちらの情報形態にあるのだろう・両方か、片方か・・・両方だとすると、心器・知性体にとっては、「粒子性情報」形態であり、意識器・意識体にとっては、「波動性情報」形態である、ということになる。 さて、 「心器」と「意識器」なる「器」の形成についてだが・・・ 「心器・知性体」という「器」の形成について言うと・・・ ちょっと冷えて相転移して生じる。 あるいはそれに加えて、相転移したエネルギーsが結びついて生まれる、のかもしれない。 そこに、精神的エネルギーが関係している可能性がある(後ろの方で詳細に検討しよう)。 「意識器・意識体」という「器」の形成について」言うと・・・ ちょっと冷えて相転移して生じる。 あるいはそれに加えて、相転移したエネルギーsが結びついて生まれる、のかもしれない。 そこに精神的エネルギーが関与しているかどうか・・・(意識器は、その性質からいって、能動的に、意識器を形成する精神的エネルギーを発現することはなさそうだが・・・いやあるのかもしれない・・・後ろの方でそれらについて詳細に検討しよう) ・・・(さらに、「心器・知性体」がそこ「意識器の形成」に関与する可能性は充分あるだろう)。 質時間の場については、カッコ外の離れた上述「3」で述べている。 ・・・なにはともあれ、とにもかくにも、霊界は、「非物質的で精神的な情報の世界」「質・意味・価値などの世界」であると言える・・・「形而上的世界」、「精神世界」、「実相の世界」、「イディアの世界」、などをそこに加えてもいい。 ・・・いやはや、ちょっとややこしい・・・ :以上、補記・・・) 補記からでて・・・ ――以上の内容は、 質時間回帰が100パーセント確実になされる、 質時間回帰は100パーセント絶対になされる、 質時間回帰は100パーセント厳密になされる、 ということをも意味する。 ・・・ここから論を展開すると・・・ そうであるから、意識器は永遠に消滅することなく、転生・意識器の転生(意識の主体の転生)は永遠につづいていくのである。 そこをもっと詳しく言うと・・・ 1・「意識器のもつ質時間sには多くの種類がある」、 そして、 2・「それら質時間sが同時に消滅する確率はゼロである」、 ということは、 3・「意識器は絶対に消滅しないということである」、 よって、 4・「意識器の転生は永遠につづいていく」、 ということになる。 ・・・つまり、 「意識(心も)」が地獄で苦しんで質時間回帰がなされても、それでは全くもって不充分であり、転生して質時間回帰はさらにつづいていく、ということである・ (ということは、極楽・天国においては、ナントカかんとか~~・以下省略・・・) (質時間回帰が成されるのは、「意識器・意識体」においてであるから、・・・ここはちょっと複雑である・省略記述・・・本論全部を読めばわかるのであるが・・・)―― さらに・・・ そういう世界の中で、「質の対生成、質のもつれ、質の対消滅」、そして「質時間回帰」が起こるのである。 ――「質の対生成の原理」は、既述しているように、「何もないところから何かが生まれるとすれば、正と反が対になって生じる」というところにある。 それは、物理学における運動量保存則にも似ているところがある・・・物理学における保存則も「質の対生成の原理」のもとにあるのだろう・このばあい「質の対消滅の原理」は適用しない・・・(物理学においては、粒子sの対生成と対消滅という事象実態の説明もなされているが、これは適用範囲が広くないのでここでは採りあげない)。 数学的にそれを説明するとすれば、もっともかんたんには、プラス1+マイナス1はゼロになり、ゼロからマイナス1とプラス1が生まれる、という説明がわかりやすいかもしれない。 その中(内)の、「ゼロからマイナス1とプラス1が生まれる」が「対生成」にあたる・ (「プラス1+マイナス1はゼロになる」が「対消滅」にあたる) (ベクトルで説明すればもっとわかりやすそうだが、プラス1のもつ方向性とマイナス1のもつ方向性は正反対であるという見かたもできるので、これで充分だろう・プラスとマイナスについては、どこかに詳細な検討のようすを記している)。 さらに、「質の対生成」の結果生まれた・生まれる存在としては・・・ 女と男、物質と反物質、電荷のマイナスとプラス、磁極のSとN、冬と夏、朝・日中と夜(順序は逆だが、女性に敬意を表した)、易経にある「陰」と「陽」とか(質の科学ではもっと複雑精緻。易経を知ったのは、質の科学をほぼ完成させたずっと後のことだった)、弁証法における「反」と「正」(順序を逆にした・「正」と「反」)(質の科学ではもっと複雑精緻)とか、凹と凸とか、 ・・・ああ、そうだ、「女と男、凹と凸」を上に記したからには以下ここにも必然的に至る・・それは古事記にある「成り合わざるところ」に「成り余れるところ」を「挿し塞ぎて」なんだが(順序は反対だったと思うが、ここの記述に合わせた)・ (カッコ始め)(・・・ん? いったいなんの話しだろう・・・ニヤリ・・・ ・・・(ここから長々しくカッコ内を埋める話しが続く)・・・ ・・・神話なのにすごい・それによって神話も人間についての話しだということがわかるというものだ・神格化しているだけだ・・・ ・・・すべって転んでエッサホイのサッサ・ついでに・・・ ・・・アマテラスオオミカミを天岩戸(あめのいわと・あまのいわと)から引き出すための、あめのうずめの女命(みこと)のなんとか踊り・・・うひゃ~、これ以上書くのはやめた・・・でもまあもう少し書くと・・・それを観て周りの神々は喜んで手をたたいて囃し立てた・・・うひゃ~、これ以上書くのはやめた・・・ここからも、神話ってのは、人間たちと人間たちの言動を神格化している、ということがわかる・神々を人間化しているということは絶対にありえない・・・ ・・・いや~それにしてもなんとおおらかな話しだろう・・・日本はもともとおおらかなんだろう・・・ ・・・そこからさらに進んで・・・ 古事記や日本書紀の神話の舞台は九州なんだが・ (既述・最新の本がでている・著名な学者さんによる最新で綿密な研究による詳細な結論でそれは明らかである・その本の著者は現地を3回旅して巡り、さまざま調べさまざまを確認し結論をだしている・それは一番新しい綿密にして正確な結論である・そこでははっきりした結果がでている・・・ ・・・それ以前にある説sを主張する人たちは現地を巡って確認していないので、どうしようもない結論に陥っている・その点において、それら後者sの説sはまちがっている・・・その点における、それら後者sの説sは、机上のクーロンである)、 それをムリに別な地方に移して解釈して、過去から現在まで間違ったさまざまな営為sをやってきているとは、とんでもない話しである・・・いやはや困った困った・・・そこでは、めちゃくちゃで恣意的にして人為的なさまざまが行なわれてきたし行なわれていくと言う現実にある・・・うーむ、つまり、正確な結論を除いたそれらはすべて人間の欲による恣意的にして人為的な結果の論sとそれにもとづいた営為sである・・・それは言ってみれば人間の恣意的な欲望による結果と営為sである・・・ ・・・ここで参考のため、再掲と加筆記述を・・・ 日本書紀と古事記を分析すると、神武天皇の曾祖父母八人のうち、六人が鹿児島の人、一人が宮崎の人、一人が渡来人=高千穂峰に降臨したニニギノミコト、だそうだ ──それは日本で非常に有名な研究者(哲学者で作家。宮城県出身)の方による結論である。しかも、彼の研究・分析によると、アマテラスオオミカミは宮崎で生まれた(今の宮崎市で生まれた)人かもしれないそうだ(そう読めるところがある、と・・・たしかにそう読める・・・)。 アマテラスオオミカミの孫がニニギノミコトである── ──そうなると、ニニギノミコトは渡来人ではなく、南九州の人、ということになる。そのばあい、ニニギノミコトの天孫降臨は神格化ということになり、ニニギノミコトは宮崎生まれ(今の宮崎市生まれ)ということになる(神話というものはそういうものだ)・(そうなると、「神武天皇の曾祖父母八人のうち、六人が鹿児島の人、二人が宮崎の人」、ということになる)・・・── (筆者は彼の本を読んでそれらに納得した・・ただし、この項の上と下には、筆者の見解をも記している) (彼――その本の著者――は三回旅行をして現地sを三回訪れ、さまざまな取材を行い、遺跡sも多く見て、伝承などについての情報や資料sも多く仕入れたそうだ。 ・・・彼のように本格的で熱心な研究をした人物は以前にはいなかったと思われる)。 (――日本書紀と古事記には、日本の地名sが非常にたくさんでてくる。それらを無視することはできない。 で、彼は本居宣長の間違いをも指摘している――たとえば、古事記や日本書紀にでてくる地名で、その名の地が実際に宮崎(今の宮崎市)にあるのに、本居宣長の時代には、そのことを知ることができなかった、といったところからくる間違いなどを――。 ・・・さらに、大昔~昔、さまざまな地域の人たちが古事記・日本書紀などを読んで、そこから遺跡や伝承などを作りだした可能性の排除にも、彼は慎重に取り組んでいる―― ・・・付記すると、宮崎県の北に位置する方の高千穂(町)は、最も古い文献には、「高千尾」と記されているそうだ――) で、神話というのは、遥かな過去にそれに近い事実・そのとおりの事実があった、という検証がなされたものがいくつもある(・・・たとえば、トロイの遺跡・木馬、ノアの箱船など・・・) 宮崎県には国内最大級の古墳郡(西都原古墳群)があるし、ほかにも多くの古墳群がある。そこには天皇家の祖先の墓があるとされているそうだ 古事記・日本書紀によると、初代天皇・神武天皇(神倭磐余毘古命;カムヤマトイワレビコノミコト)は宮崎から東征して、大和地方を統一して国家をうちたてた、とある(神武天皇も瀬戸内海を経て紀伊半島に上陸した)。彼の研究・分析によると、神武天皇は、鹿児島を出発して宮崎に寄り、そこから瀬戸内海あたりを目指した、とみなすのが妥当だそうだ。 (――どこかに述べた述べた、「(省略)──古代日本と、アインシュタインが属する民族のこと。その民族が大昔に瀬戸内海から上陸した{原文のまま}、と。 神武天皇も瀬戸内海を経て紀伊半島に上陸した──)」をも参照――) 先に述べたとおり、「神話というのは、遥かな過去にそれに近い事実・そのとおりの事実があった、という検証がなされたものがいくつもある(・・・先にも述べたが、たとえば、トロイの遺跡・木馬、ノアの箱船など)、」 神武天皇は、天照大神の5代めの子孫(古事記・日本書紀によると) 以上を総合して考えると、ひとつの結論がでてくる「古事記・日本書紀の記述は(概ね)正しい」 神話というのは大きく活躍した人間sを神に格上げ――神格化――するものである(あるいは、日本神道では、人は死んだら神になる、とするそうだ)。 ・・・付記・・・さて、もっと突っ込んで検討していこう・・・ まず、 いろいろ調べていくと・・・先にも述べたが、 原則A・「神話というのは、人間たちと人間たちの言動を神格化している、ということがわかる・神々を人間化しているということは絶対にない」、 という結論に至る。 で、宮崎県の高原町(たかはる町)の近くには、天孫降臨神話の「高千穂(の峰)」があり、高原町には、「高天原神社」がある。 ほかにも、皇子原や狭野という地名があるし、狭野神社もある。 で、カムヤマトイワレヒコ・神武天皇の幼名は「狭野尊」である。 さて、 高原は高天原の略称との言い伝えがあるが、これは、上述「原則A」の原則から言うと逆であって、「高原」を神格化して「高天原」と呼ぶことにしたのである、という結論に至る(高原町は高地にある・防衛にもよい土地である・後述)――一般的に、「高天原」という地域は、空の上の、どこだかわからないところにある、とされているようであるが、「原則A」から言うと、「高天原」には人間たちが住んでいたのであって、それは地上のどこかにある、ということになる・・・つまり「高原」のことである、となる・するしかないだろう・・・ さらに、 上述の著者によると、「アマテラスオオミカミは宮崎出身? 」と一章を設けて検討している(上にも述べたが)。 なぜそういう検討がでてくるかというと・・・ 宮崎(今の宮崎市)のアワギガハラ(アハキハラ)には、わき水のでる池「御池・みそぎ池」があり、そこで、イザナギノミコトが禊ぎを行なって、アマテラスオオミカミが生まれた、という神話になっている(筆者もそこに何度か行ったことがある)。 これにも、「原則A」を適用すると、アマテラスオオミカミは、宮崎(今の宮崎市)で生まれた、ということになる。 そして、アマテラスオオミカミは、かなり近くの高地の土地である高原に住んだ、という結論になる(高原町は宮崎市に近く、防衛によい土地である。)。 (・・・結局、古事記に、アマテラスオオミカミは宮崎(今の宮崎市)で生まれた、と書いてある、ということなのである・・・) ここで、 ニニギノミコトが、タカミムスヒノミコトとアマテラスオオミカミの命を受けて、日向の高千穂に天下ったという神話に「原則A」を適用すると、ニニギノミコトが、高原から、低地にして広大な平野である宮崎平野に降りた(耕作にもうってつけ)、という結論になる。 (離れた上述をも参考に) 現在の高原町の海抜・標高は、211メーターあたりであるから、そこから宮崎平野に下りれば、ニニギノミコトが高天原から高千穂(このばあい、宮崎平野のこと、となるだろう・そこから高千穂の峰はかなり近い・宮崎市には高千穂通りがある)に天降ったと神格化できるわけである(「原則A」を適用)・ (その当時、当然、宮崎という地名はなかったはずであるから、宮崎平野も高千穂の一部、という認識だったのだろう)。 高原町からいくらか離れた所には、都城市がある。都城の古名は「都島都島」だそうだ。 これも補強材料になりそうだ。 それから、 宮崎と鹿児島には古墳たちが非常に多い、ということもそれらの傍証になる。 それから、これは参考のための付記だが、宮崎・鹿児島は、日本の中では、非常に温暖な地域である。大昔、衣服や暖房に乏しかった時代には、住むのにうってつけだったはずである。 (ここで、豊臣秀吉関連の本の中に、こういう一節があったのを思いだした。彼らの時代、冬、薪に乏しい時、武士たちが寒がるので、秀吉が「身体を動かすべし(正確な表現は覚えていない。武術の訓練をすべし、といったところだったかもしれない)と言った、と) 以上のさまざまを総合すると、以上どおり(再掲しない)の結論がでてくる(・・・これはちょっとヘンな文だが、テヌキした・・・テヌキそばでも食べようか・・・)。 ・・・テヌキから立ち直り追加:それらからの結論・・・アマテラスオオミカミは今の宮崎市で生まれ、近くの高原(今の高原町)に移動した(防衛によい土地である。宮崎平野には多くの人びとが住んでいたはずであるから、まずは高原に移動した、と理解できる)・・つまり、高天原は今の高原(町)・・アマテラスオオミカミの命により、ニニギノミコトが高原から宮崎平野に下りて活動した――天孫降臨――・・・「原則A」を適用すれば、こういう結論になる・・・ ・・・:以上、参考なる再掲+加筆と追加記述・・・ (・・・ここで、ジョークと豆知識を・・・ 遠く離れた上に、「ニヤリ」(=ニタリ)(笑いの一種の表現)と書いているんだが、そこから、「ニタリ貝」と「ニタリクジラ」を連想したのだった。 ニタリ貝は、ニタリ貝という呼び方以外にも意外にもイガイと呼ばれ(より正式)、その仲間には、いわゆるムール貝(ムラサキイガイ)もいる。共に食用になる。 で、ニタリ貝がニタリと笑う・・・これを言いたかったのだった。 ニタリクジラが鯨の一種であるのは、餅ついて餅ロンロン・・・で、ニタリクジラがニタリと笑う・・・これを言いたかったのだった・・・ほこほこ・・・連想ゲームも心脳にはナカナカいいもんだ・・発想の多くは、なんらかの連想が多く関与していると感じる・思える、と締めておこう・・・(「ほこほこ」についてはうしろに解説)・・・ :以上、ジョークと豆知識・・・) (・・・もうひとつ戯れを・・・ 本セクションの初めの方に、「獏」「獏獏・バクバク」を登場させて、以下このジョーダン話しを載せていたのであるが、読みに草が繁茂するといけないので、ここに移した・・・ ・・・(・・・ここですべって転んでファンタジーの世界へ・・・獏獏・バクバク・・・中国での想像上の動物である「獏」は悪夢を食べる、と伝えられている・・・獏君たちよ、現代社会の悪夢を全部食い尽くしておくれ・・・我願獏爆増而獏食悪夢在全世界的社会・爆加油獏獏獏而爆食悪夢(ヘンテコリン我流漢文)・・・ここでさらにすべって転んで滑稽な世界へ・・・バクからパクパク(食べる)を連想し、バクが悪夢を食うところから、パクパク食いまくるパックマンを連想したのじゃらすた・・・ついにパックマンまで登場! ・・・パックマン君たちも、獏君たちが現代社会の悪夢を食い尽くすのを手伝っておくれ・・・ファンタジーの世界も滑稽な世界もいいもんだ・・・ファンタジーといえば、夢の世界も霊界《上に本格的に述べている》も、一種のファンタジーの世界に見える、というところがある・・・)・・・)・・・ ・・・以上、この長々しいカッコ内の話しは(さらにいろいろ加筆したのでわかりにくくなったが)、歴史を通していつもそうだったし、現代でも同じような実態にあるのだろうし、これから先もそうなんだろう。 (カッコ内にさらにカッコをつけているので、わかりにくいところがあるが) ・・・いやはやイヤハヤ・・・ ・・・人類の定めは・・・ 質の対生成と質のもつれ、質の対消滅、質時間回帰、にあるとしか言えない・・・ ・・・(これで長々と続いたこのカッコを一旦閉じよう)(ここも読みにくいが)・・・)(カッコ閉じ) ・・・ここからは、遥か上にある「凹と凸・女と男」のところからの続きなんだが・・・読みに草が増殖・繁茂し杉ているなあ・・・ とか、 出目金(魚)と奥目金(魚)(そんなのいるか)・これはJK・とか、・・・ ほかにもいろいろあるだろうが・・・それらも参考になるだろう・・・ ・・・ほかにもあちこちでさまざまに説明している―― ・・・「質の対消滅」については、かなり離れた上に書いている・多く加筆したので離れてしまった・・・ そして、「質のもつれ」によって、 「ふたつの事象sや対象s~複数の事象sや対象s」の中間的~中間より、あるいは、より片方・より別な方寄り、の、あらゆるさまざま、が生じるのである。 現実世界のさまざまは、物質的にも精神的にも正にそうなっている・霊界においてもそのとおりである・・・。 ・・・以上についても、何回か既に詳述している。 ・・・注・・・ ――本セクションでの記述において、「この世界」を「この物質世界」の意味に用いている個所sがあるし、「この世界」を「あの世とこの世全体」の意味で使っている個所sがある。 それらは文脈でわかるので、そのままにしておこう(手を入れるのはメンド草草なので)・・・ (・・・ついでに・・・ 「メンド草・面倒くさい」を外国語に翻訳するばあいは、「なんらかの原因・理由(要因)によって、やる気が起こらない状態にある(形容詞的)」がいいと思う・これについて国語辞書sをひいたことはないが)・(面倒の語源を調べたことはあるが・面倒は当て字であった・愕然・既述・・・)―― :以上、注・・・ ・・・もひとつ注・・・ 拙者の記述の在り方のひとつについて(突然、一人称代名詞が乱調におちいった・ここでは、「筆者」を一人称として用いている)・・・ 「過去にあちこちに書いている」とか、 「既に何度か記している」とか、 「既述している」、という表現は、 「過去に書いている」を代表させて述べると、本来は、「過去に書いている」よりも、「過去に書いた」か「過去に書いたことがある」といったふうに書くべきであると思うが、 「過去に書いた内容が、今も継続して有効である」といった意味合いをもたせるべく、そういうふうに記している。 (・・・参考・・・ 「~~している」は現在進行形であるが、現在完了形とともとれる(この「と」はひとつでも意味は通じるが、「とと」の方が文法的により正式な感じがする・・・ん? 読み返しているうちによくわからなくなった・・・「~~ででも」ででも同じようなところがある・・・)。 「~~してきている」は、現在完了進行形プラス現在進行形である・・・) :以上、注・・・ (加筆) ・・・さて、ここで、「神」とは何か? という領域に踏み込んでみよう・・・ (結論は遥か後ろの方にある・遊んでゴチャぐちゃ書きまくったので・・・ほこほこ・・・)・ (「ほこほこ(ほっこり、あるいは、ほくほく顔の、ほくほく、などと同じ意味)」、を外国語に翻訳するとすれば、「ストレスや疲れを解消して身も心も癒されくつろいで暖かくなっていい気持ちの状態にある(こと)」、といったところだろう・・・ ついでに・・・ 「ほこほこ」の品詞は何か? 考えてみるに、「ほこほこしている」、と使えるから、副詞でもいいし、動詞の語幹ととってもいいし、「ほこほこ」だけだと、名詞――癒され、とか、いい気持ち、とか――ととってもいいだろう・・・ほこほこ・・・)・・・ 人類のほとんどが、なんらかの宗教に属しているのであるから、これは極めて重要にして最重大な設問である。 一般的に、ほとんどの宗教sにおいては、なんらかの「神」か「神々」を最上位に据えている。それに「精霊たち」「天使たち」が加わることもある。 そこでは、「神」に導かれる「人間」を崇めることもある。 仏教では、ブッダ――「目覚めた人=悟った人」――が主人公になっているわけであるが、原始仏教の聖典sにも、神々と悪魔たちがでてくる。 そこでは、ブッダが、神々や悪魔たちと会話を交わしたと記述されており、その会話の内容まで記されている。 ・・・参考・・・ 仏教の開祖であるブッダは、個人名「ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)」である。 ブッダ(目覚めた人)とは: (たぶん、こんなところだろう)・修行によって、人間が本来もついいところを最大限発揮できるようになり、この世の束縛から逃れる心を確立し、あの世の束縛から逃れる心を確立し、二度と転生しない状態を得、そして、多くの人々を救う、そういう人間である(原始仏典にある記述によると、あの世にいったらそういう存在は消滅するはずなんだが《既述》、そこらがより詳細にわかる文献はないようだ《既述》)・・・ ・・・原始仏教における霊魂観: 「A」(後述の「B」と「C」をも参照): 永遠恒在である不滅の霊魂はない。 原因と結果の法則によって、人が死ぬにあたって、霊魂のような何か(漢訳で異陰)が生じるが、原因と縁・ (縁:原因の一種であるが、「しがらみ」と「偶然」と「確率的必然性(蓋然性)」から生まれる原因のことである・たぶん・・・こう書かないと「縁」という概念は非常にわかりにくい・・・「偶然」については、追究してどこかに書いている・「必然」と「確率的必然性(蓋然性)」についても併せて) が消えれば、それは消滅する・・・ ・・・原因と結果の法則とは: 「これがある時・それがある、これがない時・それはない、(これが生まれると・それも生まれる)、これが消滅すると・それも消滅する」、そういう法則である・ (――それは形式論理による法則に見えるんだが・・・そういうケースも多いんだろうが・本質に根付いているケースsでは、それは成立することが多いんだろうが――それにしてもしかし、そういった「形式論理」においては、「ある原因から、特定の結果が生じる」ことが100パーセント起こるという事象は少ないだろう――・・・ たとえば、「自分の襟首をつかんで持ち上げれば、自分で自分を持ち上げることができる」という論理を形式的に振り回しても・・・、「??? ・・・」となる、というケースsもかなり多そうだ――)・・・ ・・・さらに・・・ 悟った人間は、死ぬと、ニルヴァーナ(涅槃)に入り、二度と転生しない、と、原始仏教では説いている・ (悟ると転生は自由自在になる、などとは説かれていない《そう説いている現代の本たちがある》。 ・・・それに転生が自由自在になるのであれば、極めて恵まれた人物に転生するだろう・へそ曲がりでなければ普通は・・そんな実態はどこにもない・文献sを見る限り・・・それにほとんどすべての人びとは幸福を求めているではないか・であるから、そういう条件であれば、恵まれた人物に転生するはずである。 ・・・上にも述べたが、悟ると転生は自由自在になるなどと説いてある本sが現代にはあるが・・・、イヤハヤいやはや・・・なんつーこった・・・)。 ・・・で、ニルヴァーナとは何かと問われたブッダは、「それは、体験すればわかる」とだけ説明されたそうだ(これについては、インドの某仏教学者氏が不満を漏らしている・正確に定義・説明すべきであった、と)。 で、ブッダは、既述のように、「霊魂という恒在の存在はない」と説いておられる・死ぬにあたって、悟っていない人は、「霊魂のような何か(漢訳では、異陰)」を生じさせるが(それが転生する、と)、悟った人はそういった存在を生じさせない(執着や煩悩の火が消えるので・かんたんに言えば)、よって、二度と転生しない、としている。 それなのに、悟った人は、死ぬとニルヴァーナに入るんだそうだ。 ニルヴァーナに入ったあとは、恒存なんだろう。 ・・・ここで、筆者は首をかしげるのである・・・ 悟った人は、死ぬにあたって、転生の実体(実態)となる「霊魂のような何か」を生じさせないのに、ニルヴァーナに入れるという。 そのばあい、ニルヴァーナに入る存在は何だろう? ブッダは「そんな恒存なる存在はない」と説いておられるわけなんだが・・・ ・・・首をかしげるしかない・・・困った困った・・・(・・・ちなみに・・・「困る」、を外国語に訳すばあいは、「今の時点では、なんらかの理由・要因によって、どうすればいいのか、わからない状態にある」がいいと思う・実際、そういう意味であると筆者は思う・これについて国語辞典sをひいたことはないが・・・)・・・ ・・・それから・・・上にも述べたが・・・ 「悟った人は転生が思いのままになる」などという文言は原始仏典sには載っていない(筆者が読んだ限りでは)。 そもそも、ブッダは「悟ると転生する要因がすべて消滅する(上述)」と説いておられるのであるから、そんなことを説かれるはずがないのである・・・ ・・・さらに・・・ 筆者の記憶によると・・・、原始仏典sには、「反省」と「空・くう」という文言はないんだが・・・それと、漢訳の「業」は「仕事」ではなくて「行為」なんだが・・・(これはさまざまな本sを読んだ上での注のようなものである)・・・ ・・・もうひとつ・・・ 原始仏典sに「八正道」という言葉がでてくるだろうか? (あとから誰かが整理して、「八正道」を打ちだしたのではないか? )・・・ ・・・縁起の法(原因と結果の法)も、あとになるほど、ごちゃごちゃと複雑化している(あとから誰かたちが、つけ足していったのだろう)・・・(これもさまざまな本sを読んだ上での注のようなものである)・・・ ・・・原始仏典にあった、捨てれば悟れるという捨てる対象であるところの「桁外れな喉の渇きからくるような欲求・ (うろ覚え。インドの言葉ではなんと言うのか忘れた)・ (インドのような暑い地方では特にそれが強いのだろう)・ つまり、桁外れな喉の渇きからくる、水を欲するような強烈な欲求、ということなんだろう(うろ覚えにもとづいた推測)」 あるいは、 「炎(燃えるような欲望)(うろ覚え)・ (インドの言葉で、ラーガ? だったっけか? )・ (あとになると、ブッダはこちらを多く用いるようになった(うろ覚え))・ つまり、炎のような執着と欲求・欲望、ということなんだろう」 ――そのふたつとも、「途轍もない執着・欲求・煩悩・欲望」という意味なんだろう・たぶん――が、漢訳では、 「渇愛」、のちに「愛」、とされてしまった(要確認)・・・なんということだろう・・・こんなおかしなことは・・・困り杉て・・・困った困った・・・そこから、「愛」を捨てる修行が始まったりしそうではないか・ブッダは「それをなくす・捨てる修行をしなさい」、と説いておられるのであるから・・・なんつうかかんつうか人類の営みは・・・困った困った・・・・・・ ・・・ちなみに・・・ 大乗経典sを読むと、古代インドにはタイムマシンがあったはずにちがいない、という結論に至る・・・(なんの○○にせよほとんどの経典s・聖典sは、後世の・・・・・・)・・・(ここの部分についての内容を、あとから上に加筆したのだが、その加筆項を後ろに移動させた・・・加筆すべき最適な個所を探しだすのがメンドウ豆なので、テキトーに加筆しまくって、メンド草と読みに草が増殖繁茂しすぎてきているのは困ったもんだが、整理するまではこの在り方で進もう・・・)・・・ ・・・うーん、うーむ、困った困った・・・ ・・・さらにもうひとつ言うと・・・ 知性体(後述する、神や悪魔や天使など)の中には、フィクション小説sや創作作文sの得意な存在たちもいるんだが・夢の中にあるような内容の小説sもそれらの中にはある・・・おまけに、知性体たちの中には名を騙る存在sが多いんだが・・・そもそも、知性体たちのもつ記憶や情報などはごちゃごちゃグチャグチャになっているんだが・・・ということで、霊界人(知性体)たちの言うことは、よくよくチェック・吟味・検討しないとナントカかんとか・・・(これもさまざまな本sを読んだ上での注のようなものである)・・・・・・ ・・・うーん、うーむ、困った困った・・・・・・ ・・・おまけにもうひとつつけ加えると・・・ 歴史上、霊言sは数多く記録されているが、それはフィクションの世界であることもあるし(それが多いと思う)、なにより、その人物「霊界人」の「方言」がメチャクチャなケースがあることは、何を物語っているのかよくわかる、というものだ・・・・・・ (・・・以上、文献sを引き合いにだしているところsは、昔、そういった文献sを読んだ筆者の記憶にもとづいて述べている・・・だからそこにはミスがあるかもしれない・・・) ・・・ついでに・・・ ほかのところにも書いているんだが、原始仏教の要約をここにも載せておこう・・・これはもっと上に入れたかったんだが、それでは、話の筋が中断してしまうので、ここに記そう(再掲的な内容や重複もあるが)・・・ 仏教の開祖であるブッダ・個人名「ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)」はこう説く・・・ この世・人生は苦である 恒在の霊魂などという存在はないが、人間はほっとけば、原因と結果の法に従って何度でも何度でも転生する・そういう転生するなにかが生じる 人生は苦であるから、私は二度と転生したくない そこで、原因と結果の法に則って、さまざま修行をして、私は転生の要因となるものをすべて滅してしまった よって私は二度と転生しない (・・・ところが・・・注:恒在の霊魂などという存在はない上に、自分にかかわるすべてを滅したので、ニルヴァーナに入る存在もなくなるはずなんだが、ブッダが言われるには、ブッダはニルヴァーナに入るんだそうだ・上述・既述・・・) :以上、これが、仏教「ブッダ・個人名『ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)』の経歴と教え」の真髄である(と思う)・ (ここに書いた「仏教」は、最初は「原始仏教」としていたのであるが、「原始」を削除した・・上述・後述・既述のさまざまな理由で、当然そうすべきである)・・・ ・・・さらに、仏教について検討していこう・・・再掲をも含めて・・・ (・・・ここの部分は、かなり上に載せていたんだが、そのさらなる上述とのつながりが薄かったので、ここに移動させた・・・読み返して加筆する個所を探し出すのがメンド草草で、テキトーに加筆しまくってきているので構成がわるい・・・) ・・・ここの副題:人類の欲望は全世界を滅ぼす・・・ 仏陀釈尊は執着妄執・つまり欲を捨てよと説かれたのだった――筆者はそれを聞いたことはないが――、一番古い古文献・原始仏典によるとそういうことになっている。 ・・・で・・・、 あとにできた仏教と名乗る自称仏教たちは・タイムマシンを使って過去に戻りブッダ(個人名:ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ))の言を聞いたことになっている・・・ しかし、「過去はどこにもない・過去に戻ることはできない・未来もどこにもない・今しかない・タイムマシンは造れない」・・・ただ、超高速の宇宙船に乗ると、そこでは時間が遅れ、元の所に戻ってきたときに、乗員の年齢が着いたところの人々――出発時は同じ年齢だった――よりもずっと若い、という事象はあるが(相対論によると)・既述・・・ (・・・ちなみに・・・ 「過去はどこにもない・過去に戻ることはできない・未来もどこにもない・今しかない」という実態について、文章による証明のような文章をどこかに載せている――それについて略記すると・・・ 1「自分という意識は、今・ここにしかない」という事実を用いて、 それと、 2「過去や未来が存在するのであれば、大宇宙の質量が無限大になって大宇宙が潰れてしまう」という科学的論理を用いて、 などである・・・) ・・・であるから、後世につくられたところの仏教と自称する宗教sにおいては、「かくの如く我は(ブッダから)聞いた」などとフィクションをかまさずに、「これはブッダの教えの記録・原始仏典から着想を得た新しい教えである・ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)から何も聞いたことはないが」と銘打って打ちだせばよかったのである。 あるいは、自分の想像の中で聞いた、とか、夢の中で聞いた、のであれば、そう記すべきであった・・・ ただしそうすれば広まりもしなかっただろうが・・・ ・・・「かくの如く我は聞いた(ブッダから)」などとかまして自称仏教をつくった者たちの質時間の総量は酷いもんだろう・・・質時間回帰で彼らはどうなることやら・・・ ・・・しかも彼らは後世の多くの人たちを迷妄や争いに陥れている・・・いやはやいやはや・人類の営為というものは・・・・・・ ・・・ただしそこには、多くの人々を救ったという面があるので――ただしその反対の面もあるが・それは質の対生成と質時間回帰にある――、そこには救いもあるという面はある程度あるにはある・・・ ・・・それにしてもナンというかカンというか、酷い話しではないか・・・・・・ ・・・それからさらに言うと、ブッダの教え自体についても、筆者はさまざま既に論じている・・・ブッダも当時の主流の教えを疑問視して自分なりの教えを説いたのであるから、ブッダも筆者に文句を言う資格も権利もないと筆者は思う・同じくキリストとキリスト教もそうである・・・仏教にせよキリスト教にせよ、そういったさまざまな問題が山積みになっている・・・いやはやイヤハヤ・・・困った困った・・・・・・ ・・・現代は科学が今までの中で一番進んだ時代にあるから(と「一応」思われる)、科学と宗教の融合を成せるはずである・・・宗教と科学の融合・・・科学と宗教の融合・・・科学による宗教の導出・・・この世界の宗教的・思想的「法」の実態を科学的に記述する・・・科学宗教の誕生・・・「『この世界・生命・人間・心と意識を総合したところにあるところの永遠の法則・真理』を科学的に明らかにした宗教なる『法・真理』――略して根本法・根源法――」の開示・・・ ・・・しかし、それができたとしても、受け入れる人はおらんじゃろ・ (最初このカッコ内に「笑」と書いたんだが、それはいかんとすぐ思い直したのだった。 で、この一言「しかし、それができたとしても、受け入れる人はおらんじゃろ」について言えば、これは、マジメに言っているし、ジョーダンでもあるし、笑いたくなるが(笑・と入れると誤解を招く)笑うわけにはいかない、というヘンテコリンな思いと心情からでてくる窮余の一策にある文言である・このカッコ内の文言も同じくそうである・・・ ・・・もう少し付け足すと・ここで「笑」「爆笑」と記したいが、ここは立場によっては、笑っていいところと笑ってはいけないところがあるし、立場によっては、「悲しい」「爆悲」と書くべきところもあるので、まったくもって単純には書けない・そういうところにここはある・・・ ・・・そこらの事情を要約すると、そこには感情反応すべき要素sがいくつもあって、しかも人によって立場が異なるというところもあるし、一人の人でもいくつかの立場sをもっているケースsもあるので、ここでは単純に感情的反応を言葉にできない・言葉にするわけにはいかない、というところである・・・ ・・・以上、心理分析をも含めて書いたが、これも心脳研究のヒトカケラになっている、と締めておこう・・・) ・・・・・・ ・・・で、上述「執着妄執・つまり欲、を捨てよ」に戻って・・・ しかし欲を捨てることは人間にはできない・絶対にできない・欲を捨てることは死ぬことと同値等価である(・・・考えても見られよ・・・、 呼吸欲を捨て、飲食欲をすて、睡眠欲を捨て、愛欲を捨て、趣味をなす欲を捨て、・・・となると、なにもかもが滅んでしまうではないか・・・)・・・ であるから、今までもこれからもそういったこと「人間が欲のままに動くこと(知性・理性でいくらかコントロールするものの)」は続いてきており続いていき、今や乱極まる時代に突入しているわけである・・・乱極・・・ランギョク(極にホクロがふたつ生じた)・・・極乱・・・キョクラン・・・いやはやイヤハヤ・・・どうしようもない・・・ ・・・結局世界は、質の対生成と質の対消滅、質のもつれと質時間回帰の事象実態にあるだけであるのだろうか・・・ その結果、世界の対消滅・・・どこかに書いた「世界春曲丼(ドン)」などなど・・・いやはやイヤハヤ・・・・・・ ・・・もうひとつ書き加えると・・・ ブッダは、当時の経典・聖典などを学んでいたはずである・当然ながら。 その中には、人間にとって恐ろしい実態が描かれている。 ――それは身の毛もよだつような内容をもっている―― それを一言で言えば、王たるもの人道に反した極めて酷いさまざまを為さざるを得ない、といった内容である――神話的な世界にある内容なんだが――。 それはとんでもなく酷い内容である。 それを読んでブッダは王になることを避けて出家したのではないか、と筆者は過去に思ったことがある・・・ ・・・さて、本題のひとつに戻って・・・ ・・・まずは感想などを・・・ ・・・霊魂も、原因と結果の法則によって生まれた、とはいえるだろう――「大自然の根本法則と理念と・その内容の施工力」「理念と・その内容実現の施工力」によって――。 しかし「意識体・意識器」は永遠に存在する(その論拠は、本セクション以外のあちこちに既に詳述・本セクションにも加筆しよう)。 しかし、知性体(心器とその内容)は消滅する(その論拠は、本セクション以外のあちこちに既に詳述・本セクションにも加筆しよう)。 ブッダの言われる「霊魂のような何か」というのは、知性体(心器とその内容)だと思われる。 ともかく、「意識体・意識器」は永遠に消滅することはない・ (質時間回帰が完全に成されるためには、そういうことになるし、それ以外の根拠・論拠をいくつも既述している)・・・・・・ ・・・ここでちょいと考察を・・・ 「器」と、「その内容」と、「その働き」、について追究してみよう・・・後ろの方で、上述の「悟ったら、煩悩の火が消え、二度と転生しなくなる(要約)」についても考えてみよう・・・ 「心器」も「意識器」も、「器と・その内容と・その働き」、から成る(上述の「知性体(=心器)」と「意識体」も同じくそうである)。 さて、そこの一番かんたんなタトエは・・・ たとえば、鰻丼を考えてみよう。 うな丼は、まず、ドンブリ=器(うつわ)があって、その中に「炊いたウルチ・ (うるち米のウルチ・日本のうるち米はジャポニカ種と呼ばれる。 ・・・あと、もち米とインディカ種米がある。 もち米は・・・うーん、餅入りの雑煮を食べたくなってきた・・・インディカ種米は、細長く、炊いてもパサパサで、ピラフなどにいい・・・ピラフも美味い・・・ ・・・ついでに・・・「米」の読み方には、コメ、ヨネ、などがある。 「ヨネ」、と「稲・イネ」、は発音が似てるヨネ・・・似てイネ~YO・・・???・・・そんなコメ~こと言うなYO・・・注:細かい→こまい→コメー・・・このコメーがコメ・米の語源なのではないだろうか・米粒は小さいので・参考:aiがエーに変わるのは一般的である・・・)」・ (途中にヘンなのが入ったが・・・略して「ルチタ(ウルチ・炊いた、ウルチ・炊かれた、の略。最初はタルチにしようかと思ったんだが、ルチタの方がよさそうだ・笑)」・笑――普通、飯とかご飯とか言うが・ 《「飯・めし」は「とる」とか「もつ」といった意味の「召す(このばあい食べる)」の連用形であり・それは名詞にもなるんだが、そこからきていると思う。 「ご飯・ごはん」の方は、音読みだから、中国的な呼び方だ。「中国的」としたのは音がずいぶん違うケースが多いからである。中国系と言ってもいいが、中国的の方がよさそうだ》、 どうにも冴えないネーミングではないだろうか。 そこで、「ルチタ」――これも冴えないか・・・ ・・・ちなみに、ウルチとライスは同じ語源から来ている・ローマ字で書けば似ている。 で、米に関してはイギリスより日本の方が先輩なので、ライスはウルチの方言と見なすことができる・笑・・・なので、「カレーライス・ライスカレー」は純粋の日本語なのである。カレーはもちろん辛れーである・笑・・・ということは・カレーライスの発祥の地は日本なのだった・・・というジョークの中身は、しかしながら、ボツであることは誰もが認めるところである(ジョークとしては成立するが)・・・「日本式カレー」は、インドのカレーがイギリス~日本と伝わり、日本で日本式に進化――インド人に言わせると退化だろうが? ――したものだ(筆者の記憶によれば)・・・なので、それは、「進化」ではなく「変化」としておこう・・・ただし、日本に来たインド人で、日本のカレールーを買って帰る人もいるそうであるが・・・ ・・・ついでにもうひとつ遊ぼう・・・ 食事とか、ご飯とか、飯(めし)、飲食物、などという対象の呼び方なんだが、どれも今ひとつ冴えないネーミングだと思う(個人的趣味からなんだが)。 そこで、「ハミー」というのはどうだろう。 食む(はむ)というのは古語で、食べる、飲む、飲食する、といった意味をもつ。 そこで、「ハム」を連用形を経て名詞化して、「ハミ」、それを長音化して、「ハミー」、というわけなんだが・・・ 個人的には気に入っているんだが・・・ ・・・参考・・・ 動詞を連用形にすると、そのまま名詞として用いる慣習ができあがっている。 たとえば、「いい走りをしている」とか、「動きがいい」とか、である・・・ ・・・) ・・・ありゃりゃ~~・・・ ・・・いつものように遊びまくって、ほこほこしたのじゃらすた・・・ ・・・で、やり直して・・・ 一番かんたんなタトエは・・・ たとえば、鰻丼を考えてみよう・ ウナ丼は、まず、「ドンブリ=器(局所場の一種)」があって、その中にルチタをよそい(装う・盛る)、その上にウナギをのせ、タレをかけ、山椒を振りかけてある(ほかに好みの具類をのせてもいいが)。 つまり・・・、 ドンブリという器(うつわ)の中にいろんな食材たち・調理した(調理された)、が入って(容って)いるわけである(参考:調理は心器では理活にあたる)。 ここで、上述・「心器も意識器も、器と・その内容と・その働き、から成る」に対応させて考えると、 ドンブリが「器(局所場の一種)」であり、 「その内容」が「いろんな食材たち」であり、 「その働き」について言うと、 「ドンブリという器は、食べ物を入れられる・容れられる働きをもつ(容器)」かつ「人間などに食べ物を提供する働きをもつ」、 ということになる。 鰻丼、海鮮丼、牛丼、カツ丼、丼丼丼丼、などなど、ドンブリという器に入れる食べ物はさまざまである。 世界中のどんな食べ物でも、ドンブリに程よくぶち込めば、「世界何とか丼」ができる。 つまり、器の中身・内容はどうにでも変化させる・換えることができるわけである。 (・・・ここで、器から連想したので、豆知識を・・・ 「身も蓋もない」という成句があるが、「身」は器の内部全体のことで、何かを入れる(容れる)ところのことである。 蓋は器の蓋のことである。 身も蓋もない、というのは、結局、器も蓋もない、ということで、本来なら、器に入れて(できるなら蓋もして)隠すべきなのに、丸出し露骨だ、ということで、そこから、表現があからさまで露骨すぎて、趣きや味わいや情味がない、といった意味に用いられるようになったのだと思う・・・(この前半の基本的なところは辞書で調べたのだった)・・・で、「心器」にも「意識器」にも、「身も蓋もある」のでアール・・・これがここでのオチでアールス・・・) さてそこで、本題のひとつに行こう(神についてはもっと後ろに・加筆や遊びが多いので)・・・ 心器について言えば・・・ 心器という器(うつわ)があって、その中に、心的内容が入って(容いって)いて、心器は理活(丼物では、料理)を為す(「そういう働きを為す」)、のである(理活については何度もあちこちに既述)。 その心的内容はどうにでも変化させる・換えることができる・消滅させることもできる(丼物では、中身は何にでも入れ換えることができるし、中身を捨てて空っぽにもできる)。 離れた上述の「悟ったら、煩悩の火が消え、二度と転生しなくなる(要約)」は、心器にある「心的内容」の消滅のことだと解すれば、納得がいく・ ――これについての参考: そこには、量子情報についての問題がある・・・、 それについては、長々と既述しているが――そこをかんたんに言うと、心器が仮に消滅しても「心的内容(もの凄く複雑な量子情報の一種だと思われる)」は消滅することはなく、移動するだけである――どこに移動するのか・心的内容の大局場へと、だろうか・・いや、そうではなく移動しないのかもしれない――、となるんだが・・・う~ん、う~む、ややこしい・・・であれば、心器も消滅しない、という論も可能だということにもなる・・・心器も消滅しないのかもしれない・・・ややこしい・・・ ・・・で、意識器について言えば・・・(ここに大幅に加筆するので、ますます読みにくくなるが)・・・(できれば、一番うしろの方に、「参考」などとして記した方がいいんだが、それでは、再掲をしなくてはならない項目がでてくるので、それもメンド草だ・・・)・・・ 「意識器という器」の中身「意識内容」は何にでも入れ換えることができる。 「意識器」は「意識し味わうという働き」をもつ。 さらに、無数(有限だがこう表現・超多数)にある「意識器という器」たちには、それぞれ異なるマークがついている――これは「自分という純粋意識」が、それぞれ異なるということのタトエである――これは難問なんだが、これについては、既に追究して、考えられる可能性sを記している――うしろの方にも新たな追究内容を載せよう――付記:これは対称性の破れの一種にある実態だろう――。 メンド草草を越えて、ここでも、それについていくらか発想してみよう・・・ここでは単なる発想のメモをすることにしよう・・・(どこかに書いているのは探しだして読む、ということにしませふ)・・・ 「B」(加筆と遊びが多いので、もの凄く離れてしまっている上述『「A」(原始仏教における霊魂観)』、と後述「C」をも参照): さて、 その観点において、意識器の何が異なるのか? たとえば、すべての水素原子(同位体を除く)たちは、同じである、と言われている(どの水素原子も同じ)。 しかし、ひょっとしたら、何かが異なっている水素原子(同位体は除く)もあるのではないか? 電子についても、その他、同じであるとされている、原子(同位体は除く)や分子(構成原子に同位体を含まない)についても、同じことが言える。 ・・・これは単なる思いつきであって、ここでは参考にならないと思うが・・・ 一卵性双生児といえども、どこかが異なっている・遺伝的には同じはずなんだが。 すべての意識器はタトエとしての水蒸気から構成されている(どの意識器もタトエとしての水蒸気から構成されている)・ (「どの」を用いるよりも、「すべて」を用いた方がはっきり・すっきりする。「どの」だと、ひとつひとつに着目して単数扱いだが、それをすべてに及ぼす。 「すべて」だと複数扱いになる)。 その「意識器の構成要素(タトエとしての水蒸気)」sはすべて(どれもが・・「どれも」としたら単数扱い・・上述「どの」についての説明と同じ説明ができる)同じはずである。 それとも上述の「ひょっとしたら、何かが異なっている水素原子(同位体は除く)もあるのではないか? 」のような実態があるのだろうか? 可能性として・・・ 意識器の中で、その構成要素sの配列に違いがある その違いが自分という純粋意識の違いとなる 意識器の構成要素sを何らかの束縛力が束縛して意識器ができている・ その束縛力に違いがある・ その束縛力は精神的エネルギーである・既述・ その精神的エネルギーから、その違い「自分という純粋意識の違い」がでてくる・ つまり、タトエとしての水蒸気の大局場・全体場には、もともと、精神的エネルギーが存在しているのだが(仮説・既述)、その精神エネルギーは多数あって、元もとそれぞれ個性・独自性をもっている・ その個性・独自性が、意識器を成す束縛力(上述)として現れ、意識器にその個性・独自性が反映される・ それが「自分という純粋意識」である・ さて、そこで、すべての意識器たちについて考えると・・・ 1・意識器という器自体は同じであり、そこに宿る精神エネルギーの個性・独自性だけが異なる ・・・その異なりの在り方はどうなっている? 2・意識器という器自体にも何らかの違いがでるし、そこに宿る精神エネルギーの個性・独自性も異なる ・・・以上「1」か「2」が正しいとすると――「自分という純粋意識の違い」の在り方の現実の実態を記述しているとすると――空間には元もと、個性・独自性をもつ個別化された「自分という純粋意識」、 あるいは、個性・独自性をもつ個別化された「自分という純粋意識の元(種)」が、 それぞれの意識器の数の分、異なって存在していた、ということになる・・エネルギー・物質の元が存在していたのと同じく・(ここも、表現と、単数・複数扱いがワッゼーむずかしかとじゃらすた・ワッゼカむずかしかとじゃらすた・凄くむずかしいのじゃらすた)・・・ つまり・・・ 空間にはエネルギーが満ち満ちている そのエネルギーには2種類あって、 「エネルギー・物質のエネルギー(タトエとしての水蒸気)」と、 「精神的エネルギー」、である ・・・うーん、うーむ、そうなんだろうなあ・・・だんだん納得してきた・・・かなり納得のいく仮説だ・・・(これに比べると、以前検討して書いたのは、チャチだ・チャチちゃちチャチャチャオモチャのチャチャチャ・・・)・・・ ・・・参考のための再掲・一部の再掲・・・上述の補強のための・・・(これは後ろの方にあるので、そこらあたりも参考にされたい)・・・ さて、何が局所場・部分場をつくるのか・・・ 局所場・部分場をつくる存在は何か・・・ それは、「精神的なエネルギー」である、としか言えない。 さて、 場の量子論において、もっとも基本的な概念は、「演算」である。 その「演算」とは、「物理数学内での計算の一種」である。 で、それは、現実においては――つまり現実においてその演算に対応する事象実態・ ☆(それは、その演算とは、わずかな誤差がある・・いや、現実の方が完璧であって、実際には物理数学的なその演算の方に誤差があるのだが)、 というのは、「設計力とその内容の施工力などをもつところの実施実態のような何か――それは物理数学的には不完全な演算だが、完全なその演算を現実において施工する事象実態・つまり『完全な演算内容とそれを施工する何かとその施工実態と言ってもいい――』」である。 ――そのことは「知性」「知性の存在」を感じさせるではないか・・・「空間・場」に「知性が存在する」、といった感じである・・・「知性」といえば・・・「心器」においては「理活(既述)(心的内容を構成すること)」・・・「意識(という知性)」といえば・・・「意識器」においては「意識し味わうこと」・・・(ここはもっと詳細に記したいんだが、あちこちに既述しているので省略)・・・ (・・・参考:ここの初めの部分を、最初は、 「場の量子論において、もっとも基本的な概念は、「演算」である。 その「演算」とは「設計力とその内容の施工力などをもつところの計算実態のような何か(物理数学的には計算内容とその施工実態と言ってもいい)」である」と書いていたのだが、 その表現では、 「物理数学における演算――それは不完全だし施工力もない・机上で記号が踊っているだけ――」と、 「現実におけるその施工事象実態――こちらは完全であり完璧な施工力もある――」、 をごちゃまぜにしていると、気づいたので、上述のように書きなおした・・そういったことについては、非常に気をつけているんだが、こういうこともあるんだなあ・・・ ・・・で、書きなおすのはけっこうむずかしかった・・・それにしても、読みに草の大草原が広がってしまった・・・筆者の書くこういった内容の記述においては、あちこちに読みに草の大草原sが広がっている・・・おまけにメンド草とメンドウ豆の大草原sもまでが(までもが)繁茂している・・・ ・・・ついでに・・・ 「法則」と「法則の実態」も異なる。 ・・・さらについでに・・・ 某大学のサイトに、「科学者が自然界にある法則をつくる」といったような記述があるのを発見して驚愕した・・そこを正しい表現で記述してメールを送ったことがあるがナシのツブテであった・(梨だとよかったんだが・JK)・忙しいんだろうな・これについての事実内容をネット上に載せている・・・) ・・・少し前に戻って・・・ それは上述「精神的なエネルギー」と同じ概念だと言える。 つまり、そういう何かが「場」には存在するのである(ということになる)。 ・・・ハゲしく強く強く強調すると・・・それは「精神的なエネルギー」である・・・「心器の理活」と「意識器の意識し味わう働き」・・・ ・・・で、場に存在するそういった「知性的な存在の能力」は数学的に記述できないはずである・心器のもつ理活や自由意志・意思が数学的に記述できないのと同じように(既述・・付記:統計的にはある程度扱えるが、自由意思はその統計をもひっくり返すことができる)。 であるから、自然界のすべてを記述する物理学的理論は、存在しないはずである・(場の量子論も不完全である)。 :以上、参考のために後方から再掲・・・そしてさらに加筆した・・・ (・・・構成がよくないなあ・・・内容があまりにもてんこ盛り・山盛りなので、今のところはそういうことになるようだ・・・) ・・・今度は哲学的にして文学的に攻めてみよう・・・拙者の好きなフニャ論だが・・・(一人称代名詞崩壊・笑・・・気分に応じて自在に使おう・・・ここでは、「筆者」を一人称として用いている・・・)・・・ ・・・「この世界に意識がないと、この世界はないに等しい・既述(拙者の大好きな命題)」、 しかも、「意識が1つだけだと、あまりにも寂しく侘しい」、 現に、この世界は存在する、 現に、意識は多数存在する、 それら意識たち(あるいは意識の元・種たち)は、元もと空間(場)に存在していたのであった――いろいろさまざま検討してみた結果、それ以外の在りようでは、意識は生じない、その在りようしかない、という結論に至る――。 ・・・うーん、うーむ・・・、 上述の検討やほかのところの内容をも併せて考えると、このフニャ論にも納得がいくではないか・・・ ――「意識の独自性と個別性(自分という純粋意識はひとつしかないこと。自分と他の人たちの意識たちは、それぞれすべてが異なること)」について、本スレッドの「初めの本論(基本的論)」のどこかで思考実験などをなして詳細に論考しているので、それらをも参照されたい・ (その思考実験などについて少し述べると・・・ 「自分という純粋意識」について考えて、まったく同じ「自分という純粋意識」がふたつあって、それぞれをもつ2人の人物たちが離れたところにいたらどうなるか」など・・そこから、「意識と心は異なる」という結論などがでてくる《「初めの本論(基本的論)」においては、「純粋」は付していないが》)―― ・・・以上の検討は、上述「これは対称性の破れの一種だろう」の検討にもなっている ・・・付記・・・「意識器たち」についていえば、それぞれにおいて何かが異なるのであるが、「その異なりは永遠に変わらない」=「自分という純粋意識は永遠に変わらない」・・・ ・・・とすると、心器はどうなる? 既述では、すべての心器たちは器としては同じとしているんだが、 心器もそれぞれが異なる? ・・・うーん・・・ということは、同じ精神的エネルギーといっても・・・、 ☆1・「意識器」のばあいは、「意識エネルギー(自分という純粋意識のエネルギー)」、 ☆2・「心器」のばあいは、「知性エネルギー(自分とは関係なく知性エネルギー)」、 の場である・それぞれが、 ということになるのではないか・・・ 「1」が意識器を形作る精神的エネルギーで、意識器に自分という純粋意識が宿る、 「2」が心器を形作る精神的エネルギーで、心器に知性が生じる、 ということになりそうだ・・・ ということは、どの心器も同じというわけではなく、それぞれ異なるということなんだろうか? ・・・それであれば、心器たちのもつ知性たちになんらかの意味で・・・(以下省略すべきなので省略)・・・これはヘンだと思うんだが・・・ ・・・いやまてよ・・・、 意識器と心器は基本的にはセットになっていないから――これは誤解を招く表現だ・意識器の質時間回帰を実現するために、一回の生だけで、セットになり、それ以外では別な心器が、その意識器とセットになる、ということ――別に問題はない・・質時間回帰・万人平等化の妨げにはならない・・・ ・・・そうだよなあ・・・ ・・・それでよさそうだ・・・納得・・・納豆食う? JK・・・ ・・・つまり、 空間にはエネルギーが満ち満ちている・ そのエネルギーには2種類あって、 ☆「エネルギー・物質のエネルギー(タトエとしての水蒸気)」と、 ☆「精神的エネルギー」、である。 しかも、その「精神的エネルギー」には直近上述の2種類・ 「☆1・「意識器」のばあいは、「意識エネルギー(自分という純粋意識のエネルギー)」、 「☆2・「心器」のばあいは、「知性エネルギー(自分という意識とは関係ない知性エネルギー)」、がある、 ということになるのだろうか? ・・・うーむ、どうなのかなあ・・・でてきた結論に一旦納得したのに、ここでまた考え込む・・・うーん・・・ ・・・いや、この問題についても、今までサンザン検討してきているんだが、やはり、それしかなさそうだ・・・ つまり・・・ ・・・「自分という純粋意識」と「意識器」についていうと・・・ ☆☆☆空間に元もと、「独自性と個性をもつ個別化された純粋意識エネルギー」たち、が存在していた・そしてそれぞれが、それぞれ別々の「自分という純粋意識」をもつ「意識器」を形成した☆☆☆ ・・・それしかないだろう・・・うん、そうだそうだ! ・・・それしかない! ・・・ ・・・で、「知性エネルギー」と「心器」についても上述の結論がでたんだが、これについてはもっとよく検討していこう・・・ で、 それらが正しいとして・・・ 空間に元もと存在していたところの・ ☆1「意識エネルギー(自分という純粋意識のエネルギー)(精神的エネルギーの一種)」も、 ☆2「「心器」のばあいは、「知性エネルギー(自分という意識とは関係ない知性エネルギー)(精神的エネルギーの一種)」も、 共に種(元)のような存在だと考えられる。 で、その種(s)はどこから来たか? 「元もと頑として厳として存在していたのである」で済ませられるといいが、「その種はどこから来たか? 」を追究していくと・・・ まず、 その種(s)の素材 この素材はどこからきたのか・・・元もと空間に存在していた・足しあわされて空に隠れていたとしても・既述(これ以外の答えはないだろう・物質も心器も意識器もエネルギーも現にあるのであるから)・・・ それら種sとしてのデータ・設計図 このデータ・設計図はどこからきたのか・・・ 1・元もと空間に存在していた 2・偶然によって生まれた 3・知性体が、なんらかの手を尽くしてそのデータ・設計図を得た+創った(改良をも重ねた) 4・その知性体はどこからきたのか・・・ 以下そういった論法の繰り返し・・・・ それらを併せて種を創り上げる知性と施工力 それらはどこからきたのか・・・ 上述と同じ論法がつづく・・・ 基本的に・・・ 知性体が、「データを得てそれを基に設計図をつくる」・これを繰り返していく、ということになっているだろう・・・ 元もと、「そういったデータと設計図・始めるに足る最初の段階の」が最初に霊界にあった可能性もあるが・・・ ・・・繰り返しになるが、その知性体はどこから来たのか? ・・・以下そういった論法の繰り返し・・・・ ・・・以上、これを、「『最初の種』はどうやって生まれたか論」と銘打とう・・・ 上述のほかに、思いつくことをテキトーにメモしてみよう・・・ 植物の種であれば 植物の花~結実~その中に種 植物~胞子(種の一種) 植物に先立って、種があった 植物は進化して、新しい種を生んだ しかし、一番最初には種があったはずだ その一番最初の種はどこからきたのか? 種をもたない超原始的生物のような存在が進化して種をもつようになった それ「超原始的生物」はどうやって生じたか 進化にはデータ・設計図と知性体が必要・既述 以下、上述の論法がつづく・・・ ・・・これは「生物全般」に適用できる論法である(かなり追究して既述している)・・・ ・・・ついでに連想することとして・・・ 種は原因であり(原因を含んでおり)、そこから生まれる植物は結果である(結果として植物が育つ)。 植物が育つにはさまざまな条件(それらを「縁」としていいかな)が必要である・水、養分、日光、空気、などなど・・・。 植物が花を咲かせ実を結ぶと、その中に種ができている。 このばあい、植物が原因であり、種は結果である。 (・・・卵(たまご)、卵子(らんし=らん)、精子、遺伝子、と、生物体、などの関係もその論法の範疇内で論じることができる・・・) ・・・これは、原因と結果の法則について論じているところにも再掲しておこう。 ・・・うーん、ここで、無限という概念をも連想する・・・ ・・・ここでは、 ・・・卵が先か鶏が先か問題・既述・をも参考に・・・ ・・・生物の発生と進化における、偶然と知性体の活躍、データ・設計図の蓄積、試行錯誤、などの追究・既述・をも参考に・・・ ・・・参考再掲: 基本的に・・・ 知性体が、「データを得てそれを基に設計図をつくる」・これを繰り返していく、ということになっているだろう・・・ 元もと、「そういったデータと設計図・始めるに足る最初の段階の」が最初に霊界にあった可能性もあるが・・・ ・・・参考(うしろの方からの再掲): 何かの物をつくる、という世界の範疇においては 意図――これが原因になるだろうが、その意図をもたらした事象が先行する原因・条件となる―― 試行錯誤 設計図 試行錯誤 材料集め 試行錯誤 施工 試行錯誤 チェック 試行錯誤 以上がからみあって為され(成され)、フィードバックやフィードフォワードもからみあって成される(為される) ・・・それらがずっと続いていく・・・ ・・・ ・・・うしろの方に記した「原因と結果」「論理」などの検討項sも参考に・・・ ・・・以上、ここでは、直近後述「D」とその付近をも参考に: 後述「D」: 1・「さらに、起源情報スペクトルがないと、現在のような世界と社会ができ上がるのに、無限の歳月を要しただろう・霊界にそれに匹敵する情報・データ・設計図の「蓄積」がなかったとすれば――無限の時間の間には、そういった情報・データ・設計図の蓄積も霊界においてなされていくだろうが――。 そしてそこでは知性体sがさまざまに活動して現在の世界にまで至ったのだろう」 2・「・・・この「1」なる論と同じような論法を、生物の発生や進化、人間の知性の進化や人間社会に創り上げられたさまざますべて、その他、などに適用して何度か詳細に論じて既に記している」 :以上、これが後述「D」(後述といっても、上に書くときに「このあとに記す」という意味で書いたので、さらにこのうしろからの再掲ではないのでアール)・・・ ・・・ほかのセクションで追究している「生物の発生と進化」問題も、この項の範疇にはいる。 「生物の発生と進化」も、この項と同じ論法で追究できる。 ・・・いやはやイヤハヤ・ハゲしくややこしいなあ~~・・・(ハゲしく考えすぎてハゲることのないようにしないと・・・)・・・ ・・・以上、思考がモメながらのメモ(これをモメモというのでアール・・・(仮の)カリのメモ・・カメモでもいいカモメ(カモネ)・・・カリ(メモ)といえばガン(メモ)・ガンメモっつうのは御免こうむる・・・)・「自分という純粋意識の違い」と、それと同じ範疇にはいる研究対象sについての(それよりもっと広がったが)・・・ ・・・ついでに・・・ 意識器については、種類においてたくさんある質時間s(超複雑な量子情報の一種だろう)すべてが、同時にゼロになることはないから、意識器は消滅することはない、という論も展開しているのだが、心器については、そういうことは言えないので、そこらはちょっとややこしい。 それから・・・、 あちこちに既に述べている「この世界に意識がないと、この世界はないに等しい」という説得力バツグン(筆者にとって)の命題を適用すれば、意識器は壊れることなく恒在である、という結論を得るわけである。 さらに・・・、 ほかのいくつもの論拠sによってもそれ「意識器の恒存性(恒在性)」について既にあちこちで論じている・・・そこからの結論sも「意識器は消滅することはない」となる。 で、 上に少し触れたとおり、「心器」はそれとは少し異なるところがある、と言える――つまり、「意識器の恒存性(恒在性)」の論拠sを必ずしも「心器」に適用できるわけではない、ということ―― まあ、とにかく、 「心は世界の窓・意識はそこからの情報を意識し味わう」、 「心は世界の焦点・意識はそこからの情報を意識し味わう」、 と過去に述べているんだが、それを適用すると、心器も壊れることはないのかもしれない、と言える。 ――たとえ壊れることがあるとしても、新たに心器が生まれるだろう・既述。 おまけに、心器という器だけについて言えば、すべての心器sは同じ器である(これについてはもっと検討すべきであると、上に加筆したとおりである)――ところが、意識器について言えば、「自分」という意識は、すべての意識器において異なる――。 (補遺)ただし、意識器は直接対象に共振して意識し味わうことができる可能性もある・そのばあいは、心器は必要ない・既述(それに関連して後ろの方にメモを載せる)(以上、補遺)。 以上、ややこしい課題・問題であるが、それについて総合判断すると・・・、 「心器の数」も「意識器の数」も一定に保たれるはずである、ということになる。 ・・・参考・・・「意識器」には「自分という意識(自分という純粋意識)」があるので、「意識器」について、壊れるか否かという問題はより重要である・・・これについて書くと長くなるので、ここではこの程度にしておこう・今までにネット上に筆者が載せたエントリーsを読んで総合すれば、結論はでてくるのである・・・その結論は『「心器の数」も「意識器の数」も一定に保たれるはずである、ということになる』である・・・さらに下にもそれについて記そう・・・ (心器の消滅の可能性については、上述に加えてさらに後述もしよう)。 (心的内容と理活能力と記憶については、後ろの方にもっと詳しく記そう・・・既にあちこちでさまざまに論じてはいるんだが・・・) ・・・さてここで、上でも触れた課題・問題をも含めて次なる設問sとそれらの考察に進もう(神については後ろの方に記そう・・加筆しまくったのでそういうことになるのでアール)・・・ 心器自体は変化しないが、 心器の器自体(心器という局所場)の消滅ということが(は)・ (・・・この「が」と「は」の使い分けはちょっとややこしい・めんどうだ・・「が」は主語兼強調の要素が満杯であるが(接続助詞を除く)(例外もある)(強調の要素満杯だ)、 「は」は「これについて言うと」、という意味なのであって(例外はあるだろうが)、しかも「は」が主語になっているケースもある・・しかも、「が」でも「は」でもどっちでもいいケースもあるのでアール・・・筆者は、一旦書いた「は」を「が」に直したり、一旦書いた「が」を「は」になおしたりすることもあるのでアール・・・) あるのだろうか(いくらか上と、本スレッド全体においては、一応「それはある」としているが): 可能性その1・「心器の器自体は、消滅することなく永遠に存在する(恒存・恒在)」 可能性その2・「心器の器自体が消滅することはある」 この「2」のケースでは、どういう原因によって消滅するのだろうか・・・ 心器という器なる局所場が消滅するのは、??? 3.超強烈な変動が心器という器に加えられたばあいである??? 4・心器という局所場を形作る束縛エネルギーが、長年月のうちに、なんらかの原因・要因で崩壊か散逸か発散したばあいである??? ――ここに、どこかに述べている「丼・ドンブリ」という「器」のタトエを適用すると、 「3」は、ドンブリを何かにぶつけたり落としたりして割れて壊れることにあたり、 「4」は、長年月のうちにドンブリが風化して崩壊することにあたる。 ・・・うーん、うーむ、・・・ようわからんが、そういうことなんだろう・・・今のところカンでいくしかない・・・それでも、このオンボロ頭でこれからも考えていこう・・・ ・・・しかし、「ドンブリという器」によるタトエをつけ加えたので、かなりわかりやすくはなった・・・ ・・・ここで思いついたことがあるので、再掲を含めて言うと・・・ 世界全体に存在する心器sの器s自体はすべて同じ(どの心器も器としては同じ)。 で、意識器について言えば・・・ 世界全体に存在するすべての意識器sの器sにはすべて異なるマークがついている・・・これは、「自分という純粋意識」が、意識器のどれもにおいて(どの意識器においても)(すべての意識器sにおいて)異なっているということのタトエである・・・ この意識器についての「特別な謎」にも挑戦してどこかに書いている(これは非常な難問であるが、それについて、上に大幅に加筆して筆者は納得している・・・本論は内容がとんでもなくテンコ盛りなので、構成がうまくいかない・・・整理するのは先の話しである・・・)・・・ ・・・いくらか前に戻って・・・ しかし、それでも、消滅した分、新たな心器が産みだされ、永遠に心器の器の総数は変わらないだろう(多少の変動はあっても、平均として)―― ――「一種の保存則の実態」によってそういうことになるだろう―― ――以上、ここは単に考えられる可能性を書いている―― (ここらあたりは(も)構成がよくないなあ・・・加筆しまくりで、あとからあとからよく読み返さず、テキトーなところに加筆していることもあって・メンド草なので・・・そこらを精密にやろうとすると、書く気がうせる・・・) さて、次に・・・ 心器の理活能力は変化していくが、理活能力の消滅ということがあるのだろうか: 可能性その3・「心器の消滅に伴って、その理活能力も消滅する」 可能性その4・「『可能性その3』においても、消滅することはなく、どこか他に移動するだけである(超複雑な量子情報についての問題)」 ――以上、ここは単に考えられる可能性を書いている―― さて・・・、 先に述べたように、心的内容はどうにでも変化させることができるし入れ替える(換える)こともできるのであるが、 理活能力はどうか・・・ ・・・赤ん坊が成長していく過程において、その心器の理活能力も成長していくという実態がある、という論とは異なる視座・着眼点にここはある・・・ (・・・メモ:「先」「前」については、文脈によって反対の意味になるといった分析を何度かどこかに書いているんだが、上の「先に述べたように」の「先」は文が過去形なので過去の時点を意味する。これを「先に述べるように」とすれば将来の時点を意味することになる(先に進もう、とかもある)。「前」についても同じことが言える(「前に述べるように」はあまり使わないかもしれないが)。 それは、時間についてのことなんだが、空間については、どういう仕組みになっているんだろう? 一意に決まっているのかな? (決まっていそうだ? ) ・・・うーん、それにしてもヘンテコリンな言葉sである・先とか前とかは・・・でも、少しだが、それらの複雑さの謎が解けた・・・ で、「あと」と「うしろ」については、もっと複雑だ・ようわからん・・・でもまあ、もうちょっとがんばってみよう・・・時間的にいうと、『「あと」「うしろ」を振り返る』は過去のことを言っており、「あと」「うしろ」に記そう、だと、将来のことを言っていることになる。空間についてだと、一意に決まるかな? どんなもんだろう? (決まっていそうだ? )・・・うーん、今回はこのくらいにしておこう・・・:以上、メモ・・・ ・・・これをのちに加筆・「先」「前」「あと」「うしろ」のもつ基本的な意味は、「時間的あるいは空間的に距離がある・離れている」、ということでありそうだ・・・:以上、メモ・・・) ・・・カッコの前に戻って・・・ A・コンピュータでタトエれば、理活能力のある場所は、中央演算処理装置CPU(GPUでもいいが)とその周辺あたりであり、理活能力そのものはプログラムとその実態のようなものである(本論と本スレッドのどこかに詳細に既述)(これはアクマデもタトエである)。 そこからいくと、変化させる・換えることはできるということになる。 で、可能性その1・変化させる・換えることができる その可能性2・変化させることはできるが、換えることはできない (変化させることができるのは間違いないだろう) ――以上、ここは単に、考えられる可能性を書いている―― さて・・・、 心器は、心的内容と理活能力と記憶をもつ 心的内容と理活能力 心的内容に理活能力を含めるかどうかは、定義の問題だが、含めない (上述「A」と同じく、含めない方がいい) 心器のもつ記憶 心的内容と記憶 心的内容に記憶を含めるかどうかは、定義の問題だが、含めよう (コンピュータでタトエると、心的内容はコンピュータが扱うデータの内容であり、記憶はコンピュータの記憶装置にあるデータの内容である) 心器での情報形態は、デジタル的である 心器で理活し完成した心的内容は、コンピュータでタトエると、モニタとスピーカーに出力される直前の情報のようなものである (本論で詳細に既述) (加筆) 心器の発生: B・生まれた人間には新たな心器が発生するだろう。 よって、そこでは、心器(知性体)の数が増える。 しかし、壊れる知性体(心器)もあるだろうから、平均すると、その数は一定に保たれるだろう・既述。 C・それ「新たな心器」のほかに、既存の知性体sが生まれたその人間にのっかる(のる)だろう――生まれてすぐにではなく、成長する過程で――(さまざまな文献sからそう言える)――(知性体は動物にも乗っかることができるだろう。知性体が乗っかった動物などを殺せば、その知性体の恨みをかう可能性もある。 渡り鳥たちにミゴトな編隊を組ませるのも、知性体である可能性がある)。 (上述「B」においては、「心器が人間に宿る」、と表現し、上述「C」においては、「既存の知性体sが人間にのっかる(のる)」、と表現する) そして、心器は、さまざまを学習し発達していく。 そして、自己教育などで自分の心器を鍛え鍛錬していけば(より強く鍛えていけば)、心器は高度な自由意思・意志をもつようになる(より高度な自由意思・意志をもつようになる)・既述。 ・・・参考・・・ 1・さまざまな本sには、「女性霊」、「男性霊」、といった言葉がでてくる。 さらに、「女は女に転生し、男は男に転生する」といった表現も載っている。 くわえて、別な文献sによると、「霊魂は女と男どちらにも転生する」と記しているものもある。 ――そこらの解明をもなしていこう―― で、 そういった本sに限らずすべてにおいて(辞書sをも含めて)、「霊」「魂」「霊魂」はすべて同じ対象を指している。 さらに、「心」「意識」「精神」などについても同じことがいえる。 辞書などによると、それらの説明は同語反復・類語反復になっており、さらに循環論法的に説明されているといえる――そこには科学的な分析や要素はない――。 さて、 「心器=霊」「意識器=魂」「心器+意識器=霊魂」の区別など誰もしていない・筆者を除いて。 ――「心器=霊」「意識器=魂」という対応は、今ある言葉を有効に活用してのことである――。 (・・・参考: 霊・・厳密な訓読みではないが、大和言葉式では、「ひ」「み」「ち」であり、音読みでは「レイ・リョウ・(ロウ)」である。 魂・・訓読みでは、「たま」「たましい」であり、音読みでは「コン」である。 ・・・ついでに・・・ 魂魄について・・魂は精神をつかさどる 存在で、魄は肉体をつかさどる存在だそうだ。人が死ねばふたつとも肉体を離れるとされている。 魂は知性体と意識体で、魄は生命体、という感じか・・・大昔の中国人の直観と分析力はたいしたもんじゃらす・・・ それなら、中国語での「霊」はどういう意味なんだろう、と調べてみたが、収穫ゼロじゃらすた・・霊は魂とほぼ同じ意味・ただし霊は死んだ人の魂・・で、魂の「鬼」は死者の魂の意味・魂の「云」はめぐるの意・・であるから霊と魂はだいたい同じと捉えることができるだろう・・・ :以上、参考・・・) で、上述「1」についてであるが、 それをどう考えればよいだろうか・・・ 2・まず、生まれてきた人間の性別――ここではそれは、「心性の性別・心の性別」のことであり、「肉体的な性別」のことではない――は、性ホルモンsの状態によって決まる・ (・・・肉体的な性別は、まず受精時に決まる《X染色体とY染色体関連》。 しかし、その上で、直近上述のように、性ホルモンsの状態の時期的な相違によって、性同一性障害――つまり、心の性別と肉体の性別の不整合――が生じる・・・しかも、肉体的にも特殊なケースがでてくることがある・・・ここはややこしい――・・・それについては、本スレッドのどこかに詳述している・・・) ・・・「2」は現代科学・医学をもとに述べている・・・ 3・「2」で述べたように、「心器の性別」は、基本的に、性ホルモンsの状態によって性別が決定される(本スレッドのどこかに、詳細に既述している)。 ☆このことは、新しく生まれてきた人間に新しい心器が生まれる、ということの証拠・証明・実証にもなっている(とまずは思う)☆ 離れた上に述べたように、☆生まれてきた人間には新たな「心器」が発生する、ことの証拠になっている(と思う)☆ ・・・ここ「3」の論理展開は少し厳密性が足りないかもしれない。 つまり、 いつの時点で心器が生まれるか、それと、性ホルモンsの状態はどうであるか、それらの絡み合いで、以上の論が否定される可能性もなきにしもあらず、といったところである・・・ ・・・ホルモンsや肉体が、心器の性別にどうかかわるか、この先も追究していこう・・・これはややこしそうだ・・・ ・・・ややこしそうなんだが・・・しかしもうちょっとがんばってみよう・・・ ・・・で、まずは、ここで思いつくことをちょっとメモしておくと・・・: タトエとしての水蒸気は、新しく生まれた赤ん坊にも浸透して(重なって)存在する・既述。 その赤ん坊に心器が生まれると同時あたりに、その赤ん坊の心的・精神的性別が決まるときに(これには遺伝子・肉体と性ホルモンsなどが関係する・既述)、 「A・その性別」が、心器を形成する精神的エネルギーに影響を与えて、その性別の性質を与える。 ・・・うーん・・・ ・・・そうなんだろうなあ・・・ 心器を形成する精神的エネルギー(か、その元・種)には性別はないはずである、どれもが同じはずである(既述しているんだが、下でさらに再検討していこう)。 ただし、それら精神的エネルギーsに性別があっても問題はないが・・問題がないと言う意味は、そうであっても本スレッドと本論にはなんの影響もでない、ということでアール。 既述の中にそこらの可能性をも盛り込んでいる。 その「既述」において、ただ、単に、それら精神的エネルギーsに性別はないということが、最も可能性が高いだろう、としているだけである。 ・・・で、再検討してみよう・・・ 「それら精神的エネルギーsには性別がある」可能性の程度と、そのばあい、どういったことになるか、ということを考えてみよう・・・ まず、5・「性別の精神性は、理活能力の中にあるだろう」。 それが、精神的エネルギーの性別から来ている可能性は・・・こう考えてくると・・・ありそうだ、となる。 そもそも、この世界は質の対生成の世界でもあるので(離れた上述やその他sの既述で、マイナスとプラス、凹と凸、女と男などさまざま例をあげて記している)、 4・「そういった性質が、タトエとしての水蒸気の満ちた大局場において、対生成で生じる可能性はある」(既述より内容が深くなってきた)。 で、そこから生じた性別が、その理活能力の中の人間の精神性を形成する、可能性はあるだろう(既述より深まってきた)。 仮にそうだとして、 上述「2」と「3」、それらを略記して6・「心・精神性の性別には遺伝子・肉体と性ホルモンsなどが関係する」、 さらに、 上述5・「性別の精神性は、理活能力の中にあるだろう」、 それらの関係はどうなるのだろう・・・ ・・・ますますややこしくなってきた・・・ ・・・うーん・・・ ・・・つまり、ここでは、 上述「4」・「そういった性質が、タトエとしての水蒸気の満ちた大局場において、対生成で生じる可能性はある」、 と、 上述「5」・「性別の精神性は、理活能力の中にあるだろう」、 と、 上述「6」・「心・精神性の性別には遺伝子・肉体とホルモンなどが関係する」、 それらの関係を考えてみればいいわけである・・・ ・・・うーん・・・ 7・『「6」がまず先にあるように思える。 そのばあい、それ「6」が「4」に働きかけて、「心・精神性の性別」を決める』のだろう。 8・『「4」が先にあって、それが、「6」に働きかけて、「心・精神性の性別」を決める』、という可能性も排除できなさそうだ・・・ その性別が、 上述「5」・「性別の精神性は、理活能力の中にあるだろう」、にある、「理活能力」の中に生じるのだろう。 ・・・うーん・・・ 「7」か「8」か・・・ ・・・うーん・・・ (・・・うんうん唸ってばかりだなあ・・・) (・・・うんうん唸ってばかりいないで、なんとかしろよ・・・) うむ・・・ ここで、強調すべきことを記すと・・・ 「物質世界と霊界は相互に影響しあっている・・そこでの情報は双方向の流れをもつ」 さて、そこで、思いきって書くと・・・ ☆『「7」の可能性が最も高い』! ☆ 「7」の可能性が60パーセントくらいで、「8」の可能性は40パーセントぐらいだろう、と、イイカゲンにしてテキトーに付記しておこう。 ――つまり、脳の性別が心器の性別を決める、という可能性が一番高い、という結論に至っているのである。 ・・・ここで、心器の性別の対生成について論じると、それは心器の大局場(全体場)において、それが起こるだろうので、個々のケースでは、対生成について論じる必要性はないだろう・・・ (以前より考察が深まったので、よし、としておこう) (加筆) ・・・付記・・・ 心器の性別の決定について、離れた上で、さまざま論じている。 で、 ヘン桃体(ヘンは偏の人偏をはずしたツクリだけの文字・この怠けPCではそのヘンがでてこない・なんとかすればだせるのだろうが・・・ここで新しい成句・「PC」は所有者に似る」・・・) ・・・あ、そうだ、扁平の扁だ。 そのヘンは「扁」だ・・・ 「扁桃体」の性質を知っていくと、「扁桃体」が異性の好みを決める、と思えてくるんだが、もしそうであれば、 離れた上で、心器の性別について論じているが、それに、「扁桃体」も参加させるべきである、ということになるだろう・・・ その前に参考を・・・ 「扁桃体」: 好きor嫌い、快or不快、という感情的情動的判断の主体のようだ。 大脳皮質などから扁桃体にやってくる「見聞情報、匂い・味覚情報、その他の感覚情報」などについて、好きか嫌いか判断する働きをもつ。 海馬: 新しい記憶が長期記憶として定着するまでの、一時記憶の機能をもつ。 で、 扁桃体は海馬のとなりにあり、そういった「好きor嫌い、快or不快」を判断した情報を海馬におくる。 海馬はその「好きor嫌い、快or不快」の感情・情動情報とともに「見聞情報、匂い・味覚情報、その他の感覚情報」などについての一時記憶をたくわえる。 感情・情動が大きく揺さぶられた情報は、強く記憶される(長期記憶として別な部位に送られ強く記憶される、といわれている)。 さて、 9・異性の好みについても、扁桃体が判断するのであれば・・・ それは同性についても同じくそうだろう・・・ よって、 10・心器の性別と、それは関係ない? と考えてみたが、 ここでの課題として結局、 11・心器の性別を扁桃体がもっているのだろうか、という設問に至ることになる。 うーん・・・ 心器の性別は、離れた上述のように、 遺伝子・肉体も関係するが、主に性ホルモンの状態とその分泌のタイミングによって、心器の理活能力の中に性別が生まれる、という結論に至っている。 そこの仕組みとして、上述「☆『「7」の可能性が最も高い』! ☆」という結論に落ち着いている(その可能性が一番高いと思える、ということ)。 で、ここで、上述「11」について考察してみると・・・ 上述「7・『「6」がまず先にあるように思える。 そのばあい、それ「6」が「4」に働きかけて、「心・精神性の性別」を決める』のだろう」 と絡めてそこを考えることになる。 うーん・・うーむ・・・ ここで、そこらについて端的に設問を立てると、 性ホルモンが扁桃体に性別を与えるかどうか、となる・・・ うーん・・うーむ・・・ それは、医学的・脳科学的に追究すべき問題だろう・・・ と一応逃げておこう・・・ ・・・でも、そこらのところも調べて考察していこう・・・ うーん・・うーむ・・・ ・・・で、調べてみた・・・ 男女の脳についての最近の研究で、男女の脳は基本的に構造は同じだが、いろんな部位sの大きさがそれぞれ異なる――ある部位は女性の方がより大きく、別な部位は男性の方がより大きい、そういう実態がいくつもある――という結論がでている。 それは、主に性ホルモンsのなせる業だ(上やその他のところに、それについて詳細に既述している)。 そこにおいて、扁桃体はどうなんだろう・・・その結論を筆者はまだ知らない・・・ ・・・たとえば、扁桃体の大きさの男女差が明確にある、という結果があるのであれば、「性ホルモンが扁桃体に性別を与える可能性はある」ということがいえるだろう。 上述のように、扁桃体以外の脳の部位sに、男女差があるという結論がでているのであるが、そういった部位sには扁桃体のような「好き・嫌い」「快・不快」を判断する能力はない(と思う・今まで調べた限りにおいて)ので、 ここでは、 「扁桃体」に偏執・着目しているわけである(語呂合わせをやった・・で、辞書によっては、扁平を偏平と「も」しているのがある)。 ・・・この先、そういった文献をも調べていこう・・・ ・・・で、調べてみた・・・ 扁桃体の大きさについて言えば、男女差はないようである。 しかし、さまざまな研究sから言えることとして、扁桃体が情動・感情反応する対象情報の質によって、反応の男女差がある、という結論になっているようである。 よって、 「性ホルモンが扁桃体に性別を与える可能性はある」ということがいえるだろう。 ★☆(ここは要確認)それから、扁桃体や海馬と視床下部やそれらの周辺の部位のあたりは、性欲や快感を司っているようである(ここは要確認)。 つまり、そのあたりは、一般的にいえば、性愛の対象を異性にする働き(例外があるが・既述)をもっていることになるだろう・・それは、言葉を換えれば、そこらが心~心器の性別を決める、といえるだろう。 それも、性ホルモンが性愛の対象を異性にする働きをそこらにもたせた(例外はある・既述)、ということになるだろう。 (ここらは基本的知見の取得と、論考が不充分にして不完全である) ・・・そこらについてももっと調べて追究していこう・・・ (まだまだわかっていないことが多いようだ) さらに、 女性のムフフな性愛反応(うれしはずかし)は男のそれ(萌え燃えギンギン)とは大きく異なる。 それも、「脳・心器の女性性」がなせるワザなのだろう。 心器の性別は、肉体の脳の性別からきている、という可能性が非常に高いという結論を一応だしているわけであるが、女性の性愛反応は(男のそれもそうだが)、脳が主体となり、それに心器が加担しているのだろう(繰り返しになるが男のそれも同じである)。 どういう仕組みで、そんな複雑で精妙な反応事象が生じるのだろう? ――それに関しては、それと同じようなテーマで、すでに詳細に論じているんだが、そこでは、「タンパク質などの情報発受信物質が発受信する心的内容情報スペクトル」=「起源情報スペクトル」が働いてそういう実態が生じるのだろう、という結論に至っている。 ・・・付記・・・ ・・・この『「タンパク質などの情報発受信物質が発受信する心的内容情報スペクトル」=「起源情報スペクトル」』が、「人間にかかわるすべて」において働いているはずである、という論考を、具体例sをさまざま多く挙げ、詳細に記している・・・ ・・・うーん、ここの主題について考察すべき内容はますますややこしくなってきたという感じだが・・・しかし、それでも、だんだんはっきりとその全貌が見えてきた、という感想もでてくる・・・ (加筆) ・・・この先、さらにそういった文献sを調べて追究していこう・・・ ・・・で、さらに、いくらかそういった文献sを見てみた・・・ 参考: 妊娠6週目までは、胎児は男女ともに同一の生殖腺をもつ。 その同一の生殖腺は「男性生殖器の原器と女性生殖器の原器」両方をあわせもっている(「未分化生殖腺」)。 6週目頃、Y染色体にある「性決定部位Y」遺伝子が、タンパク質を生成するようになる。 そのタンパク質が、未分化生殖腺細胞のDNAに結合すると、その「未分化生殖腺」は精巣に向かい成り、そのタンパク質が存在しないばあいは、その「未分化生殖腺」は卵巣へと向かい成る。 生殖腺の性別が決まると、その胎児の性別が決まる一連のプロセスが進行する。 男の胎児の精巣からでる「ミュラー管ホルモン」は、原器にある女性生殖器を退化させ、精巣からアンドロゲンを分泌し・ (アンドロゲンというのは男性ホルモンs一般の総称・・テステステロンはその中の一種・・・ここまでになると、どの男性ホルモンが何をどうしているのか判りにくくなる・ややこしい・・・)・ それが男性生殖器を発達させる。 女性では、先述どおり、その「ミュラー管ホルモン」がでず、つまりそのホルモンの働きがなく、女性生殖器が発達し、男性生殖器は退化する。 以上によって、胎児の生殖器の男性化あるいは女性化がおこる。 さらに胎児期にアンドロゲンを多く浴びれば、その胎児の脳は男の脳・その精神も男、となり、 胎児期にアンドロゲンを少なく浴びれば(しかも女性ホルモンを多く浴びれば? ・・・ここはいろんな文献を見たが、わからない・書いてない)その胎児の脳は女の脳・その精神も女、となる。 ・・・ただし、両者の脳たちは基本構造は同じであり、脳の部位sの発達の程度が異なるだけである(ようだ)・・・ ・・・以上の参考で、どこかに記しているような、男女の精神性と肉体においての不可解な実態s・実体s――抽象的に記している・具体的には書かない――が生じることもうなずける、というものだ。 (加筆) 上に多く加筆したので以下これは迷子になってしまった・これとはこれ「しかし、考察や論理によってもそうとう追究できるはずだ・・・」・ それは、 しかし、 医学的・脳科学的に結論をだせなくても、「考察や論理によってもそうとう追究できるはずだ」という意味である。 ・・・で、 一応それらを総合して――医学や脳科学における知見と、考察と論理による論考とを併せて考えると、具体性を省いて、つぎのような結論に至る・・・ 心器の性別は、肉体の脳の性別からきている、という可能性が非常に高い 肉体の脳の性別について言えば・・・ 「タンパク質などの情報発受信物質が発受信する心的内容情報スペクトル」=「起源情報スペクトル」、 と、 遺伝子とホルモンsが働いて、 肉体の脳の性別が決まる そこでは外見上は、遺伝子とホルモンsが主役になっているように見えるが、その根底では、 「タンパク質などの情報発受信物質が発受信する心的内容情報スペクトル」=「起源情報スペクトル」、 が働いており、 「タンパク質などの情報発受信物質が発受信する心的内容情報スペクトル」=「起源情報スペクトル」なしには、それらは実現されない ・・・つまり、遺伝子とホルモンsなどが働いて――つまり上述したような過程を経て――、 女性においては、女性的反応のための情報物質s(タンパク質など)が、脳や身体に設置され、精神的に女性としての脳と身体ができあがり、 田んぼの力(男)においては、男性的反応のための情報物質s(タンパク質など)が、脳や身体に設置され、精神的に田んぼの力としての脳と身体ができあがる、 ということなんだろう。 そして、それぞれの精神性――女性性と男性性――が、新しく赤ん坊に生まれる「心器」の理活能力の中に入っていく・反映されていく、のだろう。 ・・・うーん、以上の結論で、まあ、「よし」、としておこう・・・ ・・・そこらの具体sに頭を突っ込むと、離れた上述のようにややこしくなるんだが、抽象的にはそういった結論になる・・・(もちろんそれは推測・仮説だが)・・・ ・・・付記・・・ 情報発受信物質について・・・ 上述で論じてきた内容からいうと、情報発受信物質の「主役」は、タンパク質である、ということになりそうである。 なぜなら、タンパク質以外の情報発受信物質sは、男女共通だからである――タンパク質も一応男女共通ではあるが、性によってタンパク質なる範疇内の種類の用い方に差があるのではないだろうか――。 もちろん、ホルモンも情報発受信物質なんだろうが、それだけでは用をなさないだろう。 ・・・ついでに・・・ どこかに、遺伝子~生体について、女が基本形・大元か、男がそうなのか、主に、XY遺伝子からいって、女が基本形だろう、と記したことがある。 ・・・こういうことを考えたのは、筆者においては、聖書が発端になっている・既述・・・ その後、ネットで調べてみても、そういう結論が載っているのを見いだしたことがある。 上述の「ホルモンと性別の関係」ででもそう言えると思う。 で、 この間あることに気づいたんだが、ここで、女と男とどちらが基本形かということについて、さらに面白い観点として、それ「気づいたこと」を記そう・ 「男に乳首があるのはなぜか? 男には乳首は必要ないではないか。 男に乳首があるのは、女が基本形・大元だからだろう」 ・・・これにも納得がいくのではないだろうか。 それにしても面白い話しだ・・・ つけ加えれば、男の乳首は飾りとしてはできがいい。男にも乳首がないと、不恰好な感じになるだろう。 それについて、もうひとつあるではないか・・・ 女性はこどもを産む、男は産まない・産めない、であるから、女性の方が基本形である、と言えるはずだ。 (加筆) ・・・以上、付記・・・ ・・・長々とした付記の前に戻って・・・ ただし、その上に、霊界にいる心器(知性体)(s)が、新しく生まれてきた人間に載る(のっかる(のる))ケースもある――そのばあい、新しく生まれて得て宿った心器がもつ性別とは異なる性の心器(知性体)が載ることもある――・ (・・・上にも述べたが・・・ここでの「載る」、「発生する(宿る)」、の違いについて記そう・・赤ん坊に新たに発生した心器は赤ん坊に宿っている、と表現する。霊界の知性体は人間には宿れず、人間に載るだけである、と表現できる・・・) ・・・ここで付記すれば・・・霊能力(ここでは、主に、今生きている人物が霊界人と交信できる能力のことである)についていえば・・・ A・「脳や身体にある情報発受信物質(タンパク質など)の種類――タンパク質であればタンパク質の範疇内にある種類――によって、霊能力をもつか否か決まるのだと思われる」 よって、前の生sとは無関係だろう――遺伝子と意識器、遺伝子と心器、それらの間にはつながりはない――。 すなわち、前の生で霊能力をもっていたとしても、今回の生において霊能力をもつとは限らない(――ここで、転生するのは意識器であり、心器ではない、ということを付記しておこう――)。 それに、霊能力をもつ人は少ない、ということを加えると、なおさら、そこ「今回の生において霊能力をもつとは限らない」が強調される。 人間の心器自体が霊能力を発揮するようになるケースもあるだろうが(既述)、肉体に宿っている間は、上述「A」のとおりだろう。 ・・・付記・・・ 自分は「だれだれ」の生まれ変わりだ、と誰かが主張したとしても、それは、霊界にいる知性体が、その人物にのっかって、そう言っているだけである・・なぜなら、その人物の心器は、今回の生で新しく生まれたのであるから・・・ 幼児が前の生について何か述べるということがあるようであるが、それも、上述のように、霊界にいる知性体の言わせるところである、ということになる・・・ ・・・・・・ さて、 転生するのは「意識器」である。 「自分という純粋意識をもつ意識器」が転生する。 しかも転生は無限回つづいていく。 (その詳細についてはあちこちに何度も既述している) で、意識器に性別はない。 ・・・参考・・・心器には性別がある。心器自体には性別はないが、上述したとおり後天によって、心的内容と理活の性質として、性別が生まれる・できあがる・・・:以上、参考・・・ ただし、意識器に付く質時間の中に、女または男としての体験から生じる質時間という実態はある。 ・・・ここで、質時間についてかんたんな説明を載せよう(それについては、本スレッドやブログなどに、詳細に既述している)・・・ どんな存在でも、エネルギーや情報を受けると、それに応じた変化がつく・・意識器のばあいは、「経験からの情報・経験という情報(意識器が意識し味わう情報を『経験という情報』と表現する)」を受ける結果、それに応じた変化として質時間がつく・・質時間は、量子情報の一種(だろう)で、それは凄まじく複雑できわめて精緻な量子情報である・・・ 少し前に戻って・・・ その性別による質時間は、転生を重ねていくと、ゼロになる時点がトビトビに現われてくる――それも質時間回帰の中にある――。 つまり、人間は・意識器は、女にも男にも同じだけ転生していくのである。 そこでは、生まれてくる男女の比という実態があるので(ある年齢までは「一般的に」男の方が少し多い・・・しかし中国などの実態を知ると、人為性によって、そうでない実態になっていることがわかる)、その比に応じて、女または男に生まれる回数が定まるだろうが、「非常に長い年月のうちには、その比は1対1になるのではないだろうか」=「任意の意識器が女に宿っている総時間と男に宿っている総時間が1対1になるはずである」。 それらについて再掲を含めて補足すると・・・、 男と女に生まれることについての質時間回帰は、任意の意識器が女または男に宿っている総時間に関係する・それぞれが同じ総時間になる(女の性質、男の性質、をどれくらい発揮したか、という実態も関係するだろうが、そこらをも含めて、そう表現できる)。 で、一般的に女性の方が長生きなので、それによって人口における男女比(一般的にある年齢からは逆転するが、それをも含めて)についての補正効果もでてきて、そういう結果「任意の意識器が女に宿っている総時間と男に宿っている総時間が1対1になる」になるだろう。 (・・・付記: 結婚した男女について言うと、初めからかなりの期間は、男が先導し、女がそれに従う、という要素が多いだろうが――それは、カップルによって異なるだろうし、例外はあるだろうが、一般的にそういう傾向が大きいだろうという意味でこう言っている――しかし、後半には女の方が強くなって、男の方が小さくなる、というのは普遍的傾向である。 ・・・これは質時間回帰の一種である・・・ ・・そういったことも、上述の「補正効果」の一種になるのかもしれない・・・) で、 1・心器についた性別の実態要素を反転させることはできないだろう(ゴク稀に反転させることができるかもしれないが・・しかしそのばあいは、副作用がでて、結局反転させなかった結果と同じことになるだろう・長年月の内に)――それゆえに心器は質時間回帰の対象にはならないし、転生の主体にもならない――。 さて、 「知性体(心器)」は先にも述べたように、薄れ消えていくだろう。 しかし、また新しい心器が生まれる。 で、すべての心器は、「器」としては同じである(後述において、ここを再考する)。 ただ、心器に備わる、心的内容と記憶、もっている情報や理活能力、が異なる――タトエれば、同じコンピュータでも、ソフトやデータによって、異なる働きをもつようなものであるが、心器の性別だけには、それを適用して考えることはできない――。 ・・・上述「1」などもその根拠となる・・・ (ここらは再考の必要がある) (そもそも、「心器の性別」とは何なのか・・・心器のもつ心的内容と理活能力のたぐいだろうが・・・) ・・・以上、何を言いたいのか、というと、主に・・・ 現在までの説sにおいては、霊(心器)と魂(意識器)の区別がない。 霊(心器)は薄れ消えていくが、魂(意識器)は永遠に消滅せず久遠に転生をつづけていく。 「魂・意識器は女にも男にもまんべんなく転生していく(詳細に既述)」 「霊・心器は新しく生まれた人間に新しく生じる・ただし、その上に、霊界にいる霊(心器・知性体)が載るケースもある・その性別は、新しく生まれた心器が得た性別と同じでないケースもある」 ・・・以上である。 (・・・書くことにおいて、本スレッドなどのどこででもそうであるが、盛り込む要素sが多いと、有機的に構成・織り上げるのはむずかしい。そういうばあいは、羅列的に並べるのが早道である・・・ここでもそれをやっている・・・・・・筆者はあちこちで「めんどくさい」と書いているんだが、メンド草草の原因・要因はそういうところにもある・・・) :以上、参考・・・ さて、心器についての検討において、「心器が壊れたら」に関しての結論を述べよう・・・ 上でさまざま検討したが、仮に「心器が壊れることがあっても、また心器は生まれる」、これが結論である。 (加筆・手入れ) 次に・・・ 意識器について言えば: 意識器という器は・・・、 コンピュータでタトエれば、モニタ(or+スピーカーなど)である――心器が構成した心的内容なる出力情報を表現し意識し味わう働きをもつ器が意識器である(コンピュータのモニタとスピーカーには、意識し味わう機能はついていないが、タトエとしては、これ以上のものはない)――(本論で詳細に既述)・・・ 意識内容は「モニタの映像」と「スピーカーの音の世界」にタトエられる それはアナログである ――モニタの映像は、ドットsから成っており、そういう意味ではデジタルであるが、発された映像自体はアナログである。 それは、人間が何かを見るばあいと同じである。 人間が見る対象もドットsから成る光子sを発している(多くは反射であるが・既述)・・・ついでに・・・目と耳はアナログ情報をデジタル化して脳に送る――このアナログとデジタルの相互変換については、AMラジオを土台にして、そういった変換が何回も何回も成される様子を、どこかに詳述している――・・・ 意識器は変化しない(質時間はつく) (上に述べたように、心器自体も変化しない) 意識内容という内容は――さまざまに変化する・置き換わる―― 意識器は「意識し味わう働き」をもつ ――「心的内容と理活」、「意識内容と意識内容を意識し味わうという事象実態」、など、については、やり杉なくらい、さまざまなタトエsをもって詳しく桑鋤く、鍬鋤く、本論などに詳述している・ (ここには、頭痛が痛い、のような多重叙述あり・・・それと遊びングも・・・これくらい遊びながらやるとハカドル・・・ここでマジメに転調して・・・墓ドルというのは、この先現われる事態のシンボルか・・・いやはやイヤハヤ・・・)―― (加筆・手入れ) 生まれた人間において、「新たな意識器」の発生はないだろう・ 生まれた人間には「霊界に存在する既存の意識体(意識器)」が宿るだろう。 意識器は壊れることはないと思われるが、仮に壊れても、「まったく同じ意識器」が生まれるはずである・ ――「まったく同じ意識器」というのは、壊れた「意識器」にあった「自分という純粋意識」が、まったく同じであるところの「意識器」である―― ――以上、質時間回帰則からそう言える。 そこを解説すると、・・・メンド草草メンド草・・・それでも一言で言えば・質時間回帰が成されるためには、意識器は壊れないはずであるし、質時間回帰すれば、意識器は壊れない、と言える――意識器に限界を越えて質時間がつくと、意識器は壊れるかもしれないが――なんでもそうである、何の棒でも、曲げていって限度を越えると折れる・壊れるが、限度を越えないと壊れない――意識器が壊れる限界に達する前に、変化つまり質時間の付随という変化を元に戻す方に変化させれば・質時間回帰する方に質時間が付けば、意識器は壊れない――。 それと量子情報の関連からもそう言える。 そこを解説すると・・・メンドウが臭いの草草大草原・・・それでも一言で言えば・量子情報は消えてなくなることはないので、意識器は壊れない、つまり、この直上とほぼ同じ論理展開を辿ることにになる。 それらについての詳細は、 そのうちに書こう(――本スレッド全部を読めばそこらもわかるんだが――)―― ――以上において、「意識器」と「心器」とは異なるところがあることに留意・・・「意識器」は上に述べたとおりであり(他にも多く既述)、「心器」は存在する全部の「心器たち」が基本的に同じであり(器は同じであるが中身は異なってくる)、新しく「心器」が生まれても、それも同じ「心器」である・器としては(これについては、うしろの方で再検討する)―― (加筆) (・・・ここで遊びを・・・昔々、子供用トランシーバーのLC回路(共振回路)のコイルをいじくって、テレビの前で、そのトランシーバーのマイクに向かってしゃべったら、テレビに面白い「映像・模様」が入ったことがある。 近所のテレビにそれが入るといけないし、すぐに飽き秋がきて、一回だけ、ゴク短短時間しかやらなかったが・・・ ・・・これもなんか、ここらの参考にならないかな? ・・・音声情報が映像情報になったわけだ・どっちもアナログだが・・・) さて、 霊界人における「心器」と「意識器」について・・・ 基本的にそれらは、人間のそれらと同じである 霊界人における「心器」と「意識器」の組み合わせについては、上述やどこかで検討したとおりである (・・・このセクションは非常に書きにくい・・・あとからアトから加筆しまくっているので、加筆するにあたってあちこち読み返すなりして、どこに挿入しようか、などと精密・綿密にやると、メンド草草になってしまうので、テキトウにやっているのでアール。 挿入個所を探さずに新たに書くこともある。 よって、あちこち前後したり、重複がでてくるし、構成がよろしくない、という結果になるのでアールス。 超重要項目は、何度も再掲したということもある(これからもシツコクそうしよう・気が済むまで・耳と目にイカとタコができるくらいに)。 それから、興味を非常に強くもつ内容については、何度でも書きたくなるし、完成していない内容については、完成を目指して書きつづける・何度でも書こうとする、ということもある。 さらに、遊びングが多い、ということもある。 ・・・スッキリとさせるのは先の話しでアール・・・) (・・・繰り返しをも含めてもうひとつ書こう・グチなのか告白なのか遊びなのか、それら全部を兼ねて・・・以上、ここらの部分は整理しないと、構成とマトマリ方が稚拙である。手を入れるのは先の話しである・・・あ~あ~、メンド草草メンド草・・・ ・・・スパッとよさげな構成とマトマリがつくばあいもあるが、そうでないことの方が多い・込み入りすぎた内容を叙述し、加筆などを繰り返すとそういうことになる・・・つまりボクも苦労しているというわけなんだが(突然、一人称代名詞が乱調におちいった・ここでは、「筆者」を一人称として用いている)、 それでもヤメラレナイ止まらない・面白すぎて・やり甲斐があって・生き甲斐があって・・・ ・・・ここで滑って転んで転調して・・・ヤリガイというと、オウムガイに似た、殻のとんがった古代生物・ヤリイカがトンガッタ殻にはいっているような生物(化石だが)を連想する・・・たしかそんなのがあったと記憶する・・・で、調べてみたら、「カメロケラス」と名づけられた、「超巨大トンガリ殻もちヤリイカ」と呼びたいようなバカデカイ生物だった・・・それにしても、「カメロケラス」とは、日本人の語感では、ちょっと笑ってしまうような名前だ・カメのケラケラ・・・ で、イキガイというと、海に行って、潮干狩りをして波打ち際の砂を掘りくり返して、「やったぞ~~、生き貝を見つけたぞよ~~」ということで、イキガイは誰でも見つけることができるのでア~ル・・・と遊んで、このカッコを一旦閉じよう・・・ついでに・遊びは心脳に必須である、と締めよう・・・) (加筆・手入れ) ・・・さて、充分遊んでほこほこしたので、本題のひとつに戻って・・・ ドンブリという器(うつわ)は壊れることもある。 心器、意識器、という「器」はどうだろう・・・ 心器については上述している 繰り返しを含めて(加筆しまくっているので構成がよろしくない・その実態は上述したとおりでアール・・・それから、後ろの方で、前にでた結論がいくらか変化するケースもアールス・・・)・・・ 意識器では質時間回帰が起こるので、意識器は壊れない(上述、ほかの所sにも既述) 仮に壊れることがあっても、まったく同じ意識器がそのうちに生まれてくるだろう そのばあい、質時間の情報はどうなるか 1・どこかに保存されていたものが入る――このばあい、まさに当該意識器(自分という純粋意識がまったく同じである純粋意識をもつ意識器)に入る―― この「1」、ここは表現がちとむずかしい・・・Aさんという意識器が仮に壊れたとしても、また同じAさんという意識器が生まれ、その意識器に壊れる前のAさんの意識器の質時間が入る、ということ――・・・Aさんという意識器というのは、「自分が自分だ」と意識する意識器がAさんである、ということなんだが、これでは誤解を招く・・・うーん、どう表現しようか・・・うーむ、困った困った・・・誰もにおいて「自分という意識」は常に同じであり、他人にはならない・その「自分という意識」がたとえば、Aさんである、ということ。 で、さらに拡張一般化して、意識器の数だけXさんはいる。 つまり、このAというのは代数のXの一例とみなせばいい・すべての意識器についてそういえるということ・・・これでもちょっと誤解曲解を招くかもしれないが・・・うーん、困った困った・・・本スレッドを全部読めばわかるはずでアール・・・―― 2「1」ではなく完全に統計に任される この「2」は結局「1」と同値になる――ただし、このばあい、質時間回帰に非常に長い時間がかかる――。 (ここらあたりも、いつか整理しよう) (加筆) 上述の検討どおりであるが・・・ (まだつづく) (加筆) で、心器――霊界では知性体――、と、意識器――霊界では意識体――、・・・うーん、それらはそれぞれ同じものなんだが、ここは表現が、ちとメンド草だ・・・ 「心器とその働きとその内容と実態」を、「心器」と呼んだり「知性体」と呼んだりするんだが、この世に生を受けている人に宿る心器は「心器」と呼び、あの世に行った心器は「知性体」と呼ぶのがふさわしい、 「意識器とその働きとその内容と実態」を、「意識器」と呼んだり「意識体」と呼んだりするんだが、この世に生を受けている人に宿る意識器は「意識器」と呼び、あの世に行った(逝った)心器は「意識体」と呼ぶのがふさわしい、 と表現・叙述しよう。 (――まあ、ともかく、考えに考え試行錯誤しながら記述しているので、細かいところでは正確な記述でないところがある(筆者の書いているものは、かなり多くに渡ってそうである・加筆訂正や推敲をするのはあとあとのことになる)(試行錯誤せずに書くケースsもあるが)――) で、まあ、とりあえずそれらを「心器」と「意識器」とここでは呼ぼう・でないとあまりに読みにくくなるし書くのもメンド草草になるので・・・ さて、 何を考えているのかというと、 「心器」と「意識器」の組み合わせのことと、 「心器」の発生と発達などのこと、 そしてそれらの消滅があるかどうか、といったことなど(上に述べている内容と重複しているところもあるが)、 についてなんだ。 ここは重要な研究・考察対象なんだ。 (「~なんだ」とは、突然、ボクは若者になったようにみえる・笑・(一人称代名詞が突然乱調におちいった・ここでは、「筆者」を一人称として用いている)・・・ 誕生日を「歳脱ぎ祭り」にしているオイラ(またまた乱調)なんだから、当然といえば当然なんだぜ・笑・・・ちなみに、この「ぜ」というのは、もともと、「だ」「である」と同じ意味で、その音が変化して「ぜ」になり、念を♂ではなく、念を♀でもなく、念を押す意味の言葉だと思う・・・この「ぜ」というのは粋な感があっていいもんだぜ・・・(「ぞ」にも同じようなところがあるが、「ぞ」は、古文を含めると用法が「ぜ」よりも広いぞよ)・・・。 ・・・もひとつちなみに・・・「歳脱ぎ祭り」をつづけていくと、そのうち、「ぼくちゃん、なにして遊ぼかな~、そだ、積み木ごっこして遊ぼ~」となり、『オシャブリ口にしてハイハイし』となって、遂には、前の生に行き着くのかもしれない・笑・・・・・・それをつづけていくと、今回の宇宙の誕生に出会えるかもしれない・笑・・・SFファンタジー・・・・・・ ・・・オマケをもうひとつつけ加えると・・・、筆者は、ヴァカ者(年々若返るワカ者+バカ者)である、と言った方がいい・・・つまり、ちょっといいところのあるバカ・・転生すれば、筆者のバカの程度が下がっていくだろう・・・しかしそれでも質時間回帰するのでそれ以上は望めない・・・人のことをどうこう言いたくはないが・・・人は誰もが、ちょっと~ある程度・いいところをもっている・それで満足するしかないでせふ・・・人間にはそれ以上は望めない・それ以上の在りようはないので・・・) さて、遊んだあとは、マジメに本題のひとつに戻って・・・ そこには謎が潜んでいる・・・ そこらあたりを今から書いていこう・・・ ・・・しかし、そこらあたりは、かなり複雑で、記述も長くなるので・・・、 「う~ん、う~む」、とうなりたくなる・・・ ・・・しかも、今のところ、考えられる可能性を書くしかない・・・ ・・・しかし、「質時間回帰則の完璧性」を適用すれば、あちこちに既述したとおりの結論――「上述『そこらあたり』を検討してでてくる結論」・「上述『考えられる可能性』の中から、これだ! と、確信と自信をもって主張できる結論」――に至るのである・・・ ――「質時間回帰則の完璧性」については、あちこちで、さまざまに論じている。それ以外の考え方s――ここに適用できる――をもいくつも既述している―― (・・・うーん、重複が多い。構成がよくないなあ・・・整理するのは先の話しでアール・・・) ・・・ということは、ここはテヌキしてもいいということになるんだが・笑・・・ (テヌキ狸発生・テヌキ狸出現) (加筆) ・・・補遺・・・ ここの部分――心器と意識器についての部分――における記述は、かなり前に述べた内容と、記述上はいくらか異なる点sがあるかもしれないが、かなり前に述べたその内容は、「そうであるはずだ」という筆者の断定であり(根拠は既述)、ここの部分の記述は、さらに手広く検討する内容となっているのである。 そこらを整合させる記述をするのはメンド草草なので、これ以上手を入れることはしない(と、今は思っている)・・・メンド草草メンド草・・・・・・ (・・・何度も似たようなことを書くが・・・以上、ここの部分は整理しないと、構成とマトマリ方が稚拙である。加筆しまくっているし重複しまくってもいる・・・手を入れるのは先の話しである・・・ああ、メンド草草メンド草・・・) (加筆・手入れ) ・・・あ~あ~~、メンド草草メンド草~~・・・ ・・・メンド草の花が咲いたよ~~♪♪♪(カラタチの花じゃないよ~)♪♪♪~・・・虹色の綺麗な花だよ~~♪♪♪(白い白い花じゃないよ~)♪♪♪~(これを書いたあと、「カラタチの花」について調べてみて、その歌詞の背景・いわれを知って、しんみりとなって、意気消沈してしまった・・・初めて知ったのだった・・・合掌・・・)・・・ ・・・う~ん、う~む・・・ (しばらく間をあけて) (加筆) ・・・う~ん、う~む・・・ 花が咲いた花が咲いたメンド草のはーなーが~~♪♪♪・・・ ・・・うーん、うーむ・・・ ・・・そして、遂にはメンド草の花が実を結んだぜ~~♪♪♪・・・それは美味しい美味なフルーツなんだゾ~~♪♪♪・・・ジュースにもいいんだぜ~~♪♪・・・ ・・・うーん、うーむ・・・ (・・・ここで遊びと豆知識を: 「咲く」は訓読みだろうから、大和言葉だろう、と思っていたんだが、「音」は何だろうと思って、いろんな辞書sをひいてみた・・・それがけっこう面白い話しだった・・・音読みは「しょう」だそうだ。「咲」は「笑」の古字だそうだ(衝撃・笑撃)。 (ちなみに、ゴクゴク超ゴクゴク稀に漢語由来から変化した大和言葉もある) で、むかし昔、漢詩の「鳥鳴花咲」(鳥が鳴き花が笑(咲)う)の「咲」を、「さく」と読みならわしたんだそうだ・(読み慣わす? 詠み慣わす? 「ならわす」の漢字もいくつかあるが・・・この程度はかんたんな方だが・・・それでも・・・やぜろしか(うるさい、と同じ。《これは、いやになる・いやじゃ・やじゃ、からきているのかもしれない》)・・・うぜらしか(マトワリついてきてうるさい。うざい。《「うだる」ような感じにさせられる、からきているのかもしれない・うだるような暑さと言うばあいの「うだる」・「うだる」は、ゆでられる→うでられる→うだる、となったのだろう》)・・・せからしか(うるさくて、セカされて、気持ちが、せかせかさせられるという感じ《これは「せかされる」からきているのだろう》。やかましい・とくに音について。 せからしか、は、音がうるさいという意味合いが強いが、音以外についていう「うるさい」という意味をももつ)・・・・・・ ・・・う~む・遊びングが多いが・・・ ・・・さて、 なぜ、「さく」と読みならわしたのかについて調べてみても、どの辞書にも載っていなかった。 そこで考えてみるに・・・つぼみが「裂けて」花が開いた、というところではないか・・・「裂ける」の古語は「裂く」だろう・・・そこから「さく」と読みならわしたのだろう、という結論に至った。 ・・・それにしても、それ以前に「花が咲く」をどう言葉にしていたのだろう? ちょっとどころか大いに不思議な話しだ・・・ で、そこを考えてみるに・・・それ以前でも、やはり、「はながさく(裂く)」だったんだろうと思う。その「さく」に「裂く」を当てるよりも、「咲く」を当てた方が遥かに似合う、ということだったんだろう・・・・・・花が咲う=花が笑う~花が咲っている=花が笑っている・・・いい感じじゃん・じゃんじゃん・じゃじゃじゃじゃ~ん・・・かくして運命は花開くのであった・・・byベントーベン・・・ベートーベンがベントーが好きだったのかどうかは知らないが・・・じゃじゃじゃじゃーん・交響曲第五番ハ短調「運命」・・・ベートーベンいわく「かくがごとく、運命は扉をたたく」・そこからきた標題「運命」・・・交響曲第五番破綻調「運命」・・・ちなみに・ここでの「破綻調」というのは、「困った運命が破綻して喜ばしい運命が始まる調子」、という意味なのでアール・・・さらにすべって転んでひっくり返って・・・つまり、ベートーベンは、日本語が得意だった、ということが、このことからヨクわかるわけである・・・(おいおい、ほんとかよ)・・・こういう論理展開を破綻調展開というのでアール・・・)・・・ ・・・う~ん、う~む・・・またまた遊んでしまった・・・ほこほこ・・・(ここは遊びの「場」でもあるのでアール)・・・ (本題に戻ろうとして) ・・・うーん、うーむ・・・ ・・・ということで、ここは手抜きをして、テヌキ丼でも作って食べようか・・・ テヌキ丼の作り方: どこかに載せた「テヌキ蕎麦」の作り方に準ずる。 手抜きをするのも楽じゃない・笑。 ちなみに、食材は好みのものを・「世界何とかテヌキ丼」・世界中を駆け巡り世界の果てにまでも行って食材sを手に入れ、持ち帰り、「世界何とかテヌキ丼」をつくる・・・あ~あ、メンド草草メンド草・手抜きをするのは大変だ~~・笑・・・ ・・・ジャックと豆の知シ樹・・・桃太郎豆知識・・・(略して豆太郎知識)・・・ドンブリについて・・・ 「ドンブリ=丼」の語源は何なのか、訓読みなのか音読みなのか、??? 頭がそんな状態になったので、いろんな辞書sをひいてみた・・・ まず・・・、 丼は井の異体字だそうだ。 丼も井も井戸のこと(丼はそれプラスアルファ)。 井は井戸の上部を、木材で「井」の形に組んだ形からきているんだそうだ。 丼のもうひとつの意味は「物が井戸の中に落ちたときにでる音」だそうだ。 真ん中の「 、」が下に落ちる物のことなんだろう。 で、その音を、日本では、「どんぶり」としたそうだ。 「むかしむかしのその昔、川の上流から、大桃さんではなく、大きな桃が、どんぶりこ(どんぶらこ、もある)、どんぶりこ、と流れてきました(桃太郎伝説ではなく、桃太郎おとぎ話)」の「どんぶり(こ)」である・ (へーえ、大桃さんは桃太郎の子孫だったのか・JK・・・全国にいる桃子さんたちもそうかも・JK)・ (「ドンブリ」よりも「ドンブラ」の方がハチャケテいておもしろい・・・うなぎドンブラとか・・・)。 で、それ以上説明した辞書sはなかったので、ここからは推測で書くことになるんだが・・・ 1・その当時の近年、現在ドンブリと呼ばれる容器があったので――その当時より以前に――、それを井戸に見立てた(似てるといえば似てる)(その時点でドンブリを何と呼んでいたのかは知らないが・・・深器・ふかうつわ、とかだろうか) 2・そこから、誰かが、丼という漢字があることに気づいた(すごい) 3・井戸の中に物が落ちたときの音をドンブリとした(前後不明) 4・「ドンブリ」という音の響きがおもしろいので、その器をドンブリと呼ぶようになった ということなんだろう。 ・・・ところで、ドンブリに水を入れて、その中にチャーシューでも落としてみたら、どんな音がするだろうか・・・「ベチャッ」「ベチャン」とかだろうか・・・これからはドンブリを「ベチャン」と呼ぼうか・笑・・・それより、「ベチャンコ」の方が凄い響きかな・・・世界何とかベチャンコ・世界何とかドン・世界春巻きドン・世界春曲ドン・世界何とかペチャンコ・・・???? ・・・ ・・・さて、まあ何とか謎の解明ができたので、便秘が解消された気分・ (・・・ちょっと違うが・・・たとえば、思いだそうとして思いだせない状態は、便秘に似ている。わからないことがあることもそれに似ている)・・・ :以上、参考とジョーダンと豆太郎知識・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.05.19 07:56:26
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