反対側にも砲撃跡と泰緬鉄道線路跡が カンチャナブリーの奥へ[16]
泰緬鉄道の線路跡を離れると、この辺りは水深が浅いのか、立ち枯れた木々が湖面から突き出ているのが多く目につきます。お、近付いてきました。ランティー川に架かる橋に。昨日ヒンダート温泉から乗ったバスが渡ったのをよく覚えています。橋の近くにも湖上集落があるんですね。Uターンして反対側の陸地伝いに船は進みます。シラサギみたいな鳥が時折枯れ木の上で休んでいます。なぜか気になって船の進むすぐ先の湖面に目をやると何かが横切っているではないですか。よ~く見ると、長い体をうねらせています。…ヘビだ!!ヘビが湖面を泳いでる!!子供船頭さんに告げると、船を操るお父さんに向かって「ヘビが泳いでたってさー!」と大声でわざわざ知らせています。「父はヘビが大嫌いなんですよ」嬉々として話す子供船頭さんの顔を見て、大人顔負けのしっかり屋さんだけどやはり子供なんだなと微笑ましく思った私でした ^_^;)「歳を聞いてもいいですか?」と子供船頭さん。うげっ。正直に答えると、「お父さん! この人お父さんと同い年だって!」うひゃーーーーー。船は対岸の岩山に近付きます。「あそこだよ。砲撃跡」とさっきまで私とまったく言葉を交わさなかったお父さんが解説をし出しました。同い年と知って扱いが変わったのかな? ^_^;)それよりもどこ、砲撃跡は?指差してくれるんですが、うーん、よくわかりません。あれかなぁ。まぁ、砲撃跡があるっていうんだからあるんでしょう。それでヨシとしますか。お父さんはそのまま船を岩山近くに寄せていきます。「そこにも泰緬鉄道の線路跡があるよ」と船を止めました。「こっちは2つの盛り土の間の溝に線路が通っていたんだ」そうかなー。私には盛り土2つは本線と待避線に思えるんですが、いずれにしてもここが泰緬鉄道の線路跡に間違い無さそうです。線路はさっき見たところの先で直角に右へ曲がり、さらに直角に左へと曲がってここに至っていたようです。実はこのかつての谷間、現在の湖底にはニーケという駅がありました。ランティー川を渡った先に存在していたようなので、もしかしたらこの場所がニーケ駅だったのかもしれません。数本の待避線に、三角方向転換線、給水塔、機関庫があり、さらに兵站も置かれ、戦後も1946年10月の引き揚げまでこのニーケ駅に連合国軍の下、日本兵が361人配備されていました。戦後すぐに泰緬鉄道はこのニーケ駅を境にしてビルマ側と遮断されたんだそうで。きっと全線の中でも重要な位置づけの駅だったんでしょうね。実はそのニーケ駅の写真が残されているんです。 (出典:Coördinatiepunt Netwerk Oorlogsbronnen オランダ)駅名板はカタカナでも書かれていたんですね。ちなみに12km余り先の次のソンクライ駅はビルマ国境にありました。線路跡はまたもやこの先で湖に沈んでしまっています。ありがとうございました。お父さんにお礼を行って、船に戻ります。時刻は、10:07。岩山から離れ西へ向かう船から、線路が伸びていたであろう方向を眺めてみます。「泰緬鉄道は岩山に沿って回り込み、 あの奥へと伸びてミャンマーまで行っていたんだ」とお父さん。地形から考えても間違い無いでしょう。船は再び狭くなっている部分を抜け帰途に。…かと思いきや。「ここまだ見てませんよね?」と子供船頭さん。確かカレン族の寺だったとの説明だったような気がします。今は陸地に移転してるものの、船でないと行けない場所だと言っていたような。泰緬鉄道線路跡を見れた余韻にまだ浸っていたのでよく覚えてないんです。すみません m(_ _)m船は再び走り出し、金色のチェーディー・プッタカヤーの前を通過すると、モン橋が彼方に見えてきました!「ミャンマーまで船で行けるんですよ」と子供船頭さん。本当ですか! またの機会にお願いしてみたいですね。「この船もミャンマー製です。30年経ってますけど」どうりで時々溜まった水をコップで掻き出していたワケだ(笑)「水位が高い時期には船でターク県まで行けます」そんな旅も面白いでしょうね~。グーグルマップの航空写真を拝借した各場所の説明に対岸の砲撃跡と泰緬鉄道線路跡も追加しておきました。<旅費交通費>船賃未払いなので:0バーツここまでの合計:975バーツ※旅は2014年4月1日(火)~2日(水)に行いました。<参考>『泰緬鉄道-機密文書が明かすアジア太平洋戦争-』吉川利治著,同文舘,1994年つづく※当ブログから1日旅の記事だけを抜粋し見やすくまとめたブログ『タイ~バンコク周辺バス日帰り旅~』 もぜひご覧ください。そちらのブログは左側の「旅ごとに見る」欄で旅名を選ぶと順を追ってお読みいただけます。旅の参考になれば幸いです。