タイとタイ語に魅せられて

2013/03/11(月)11:24

スックター橋 71年前の足跡を訪ねて[7]

タイ旅行記(789)

さぁ、いよいよスックター橋へ! 送迎カートがのんびりと往来しています。 少し橋上を歩いて行くと、 海の上に出ました! 海に向けて真っ直ぐ突き出た橋なんですね。 ここバンプー保養地は1939年オープン。結構な歴史があります。 なんでもその2年前、ピブーン首相がサタヒープ港視察の折りにこの地を通った際、 バンコクからほど近い上に海に面して雰囲気が良いと感じたことから、内務省に この地に市民向けの保養地を設けるよう命じたことが始まりなんだとか。 しかしオープン2年後には、ここに日本軍が上陸。 終戦まで日本軍がここを接収している間、保養地としては閉鎖されていたそうで。 まさにこの橋に日本軍が上陸したんですね。感慨深いです。 そうそう、タイ側の資料と突き合わせたところ、前回の日記中の上陸等の時間が 間違っている可能性が高いことが判明したため、修正しました。 参考資料の時刻表記を日本時間だと思ったのですが、 どうやらタイ時間だったようです。すみません。 したがって上陸時間は、12月8日の3~4時の間です。 敷地内宿舎で就寝中だったバンプー保養地所長は、未明に裏のスクンビット通りを 走るトラックの音で目覚めました。恐らく日本人「別働隊」が用意した車でしょう。 そして04:30、一人の職員が所長の元へやって来ます。 日本軍が橋先端にある休憩室にいた職員全員を拘束し、 海岸付近の道に日本軍兵士が溢れていると知らされました。 急いで電話をしようとしたものの繋がりません。 「別働隊」が道すがら電話線を切断する手はずになっていたので、 そのせいで繋がらなかったのでしょう。 それでチャルーンクルン-バンプー線のバス運転手に命じて地方警察へ報告に行かせ、 警察隊がそのバスに乗り込んで現地に急行したところで バンコクへ向けて進軍中の日本軍と遭遇、対峙することになったのです。 タイ側のスウィット・エーカシン警察少尉は、即座に日本軍と交渉する決心を決めます。 時刻は06:00。 その際の写真がここにあります。 まだ暗い時間だったことが分かりますね。 後列左から2人目が、タイ側のスウィット警察少尉。 多勢に無勢の状況できっと決死の覚悟で臨んだことでしょう。 日本軍チュムポーン上陸は、『ユワチョン・タハーン』(少年義勇兵)で 映画化されていますが、ここバンプー上陸の話も映画化できそうなくらい 十分に劇的です。 上陸部隊メインの近衛歩兵第4聯隊第3大隊(隊長は吉田勝中佐)のその後はというと、 近衛歩兵第4聯隊に合流して競馬場(BTSラチャダムリ駅前の?)に駐屯した後、 12月11日にマレー作戦参加のために鉄道で南タイのヤラーへ向かいます。 翌42年1月1日には英領マラヤ(マレーシア)のイポーから船でキンタ川を下り、 2日未明、トゥルッ・アンソン(現トゥルッ・インタン)にまたしても奇襲上陸して 占領に成功。 2月9~10日にはジョホール水道を渡河してシンガポールに進攻し、 15日の英軍降伏を迎えています。 さてさて、話を現代に戻しましょう。 このスックター橋から西側を眺めてみます。 右遠方にタンカーが見えますね。 でもチャオプラヤー川河口西岸のポム・プラジュンまでは見えず。 期待していたのにちょっとガッカリ。 一方、東側はというと、 海岸に沿って竹柵が延々と続いています。 ここでも海岸浸食の被害が深刻なようですね。 ところで、頭上を頻繁に飛び交うものあり。 正体は… カモメ~。 ここはカモメも売りにしているらしく、カモメの餌売りもいれば、 カモメにも実は色んな種類がいるんです、ってことを説明した案内板まで 設置されてたりもします。 目と鼻の先を飛んでいくんで、写真好きの人には面白い写真が撮れて楽しいかも~。 橋の先端まであと少しです! <交通費> 歩いただけなので:0バーツ ここまでの合計:74バーツ ※旅は2012年12月28日(金)に行いました。 <参考> 『マレー進攻作戦』防衛庁防衛研究所戦史室、朝雲新聞社、1966年 バンプー保養地ウェブサイト(タイ語) ReurnThaiWichakan.com(タイ語) つづく

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