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小沢征爾からヴェルザー・メストへ ウィーン国立歌劇場指揮者を交代
ウィーン国立歌劇場監督は、G.マーラー以来さまざまな政治的な影響力のもとで話題となる地位であるが、1992年から2010年まで18年間この座に君臨するイアン・ホレンダーの卓越した指導力・経営能力は、あのカラヤンを凌ぐものであった。ホレンダーはユダヤ系のルーマニア人で、始めは技術者になるべく大学教育を受けていたが、学生運動に加担したため放校となり、ウィーンにやってきて声楽の勉強をはじめる。卒業後はKlagenfurtやSankt Poeltenの劇場で歌手やアドヴァイザーとして働いていたが、特に彼が評価されたのはオペラのエージェントとしての才能で、彼自身それに関連するイヴェント会社も経営していた。彼が転機を迎えるのは、Eberhard Waechterが1991年にウィーン国立歌劇場の監督になり、そのアドヴァイザーとして迎えられたときである。そして翌年の1992年にWaechterが急逝すると、その後を受け継いで劇場監督となる。就任当初は契約などについてマスコミから様々な攻撃を受け、関係が良くなかったが、彼の革新的な姿勢が次第に評価され、ウィーンの音楽界に隠然たる力を持つようになる。特に前任者のWaechterが、きわめて保守的でかつての演出を新たに再演する方向、ウィーンで以前採用されていたアンサンブル方式へ傾いていた方向を完全に否定し、前任者のカラヤンやDreseが示した短い契約期間でのレベルの高い客演を増やすような方向へと変えていった。あるいは他のオペラハウスとの交流(演出の売り買い)なども積極的に進めた。 一方Dominique Meyerは、名前から類推できるかもしれないが、アルザス出身で、外交官である父の仕事の関係でしばらくボンに暮らしたことがあり、そこでドイツ語を習得したと言われている。彼はパリで経済学を勉強し、卒業後産業省に勤めるが、 文化省大臣のJack Langに呼ばれ、アドヴァイザーになる。それから最初1986年にパリ・オペラ座で働くが、三年後そこの総監督になる。バルチーユ・オペラの開場にも関係し、1991年に再び文化アドヴァイザーとして文化省に呼び戻されている。しかし彼のオペラへの欲求は高く、ローザンヌ・オペラの監督となり、革新的な上演を推し進め、1999年には再びバリに戻ってシャンゼリゼ劇場の監督となっていた。シャンゼリゼ劇場は、ウィーンのテアター・アン・デア・ウィーンのような劇場と見なされているようである。 またフォルクス・オパーの劇場監督の交代の発表も先日あり、先日紹介した俳優ローベルト・マイヤーが就任することになった。これで2つの国立劇場はいずれもマイヤー氏が監督となることが決まった。 退任する小沢に対する言及が少ないのは、残念である。
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最終更新日
2007年06月08日 03時58分23秒
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