358784 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2007年06月07日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

小沢征爾からヴェルザー・メストへ  ウィーン国立歌劇場指揮者を交代
 
 次期ウィーン国立歌劇場の監督が、2010年にこれまで15年間この座を占めてきた現在のイアン・ホレンダーから現在パリのシャンゼリゼ劇場の監督を務めるドミニク・メイエールDominique Meyer (51)へ交代することが決まった。契約は5年間。昨日水曜日の午後に、文化省大臣のClaudia Schmiedが語ったところでは、首相のAlfred Gusenbauerと会談を行った結果、フランス人Dominique Meyerの選定を決定したということである。もともとGusenbauer首相は、テノール歌手のNeil Shicoffを推薦していたが、文化省大臣Claudia Schmiedが自分の主張を押し通した形となった。またそれに伴い、音楽監督は現在の小沢征爾から、Franz Welser-Moestへの交代もあわせて決まった。以前から小沢の後継として、メストとティーレマンの名前が挙がっていたが、長年待たれたオーストリア人の指揮者の誕生に沿って、メストがその座を占めることになった。この国では首相に次いで大きな権力を持っているように見える国立歌劇場監督の権力を、フランス人がどのように行使していくのかが見物である。

mesut
 

ウィーン国立歌劇場監督は、G.マーラー以来さまざまな政治的な影響力のもとで話題となる地位であるが、1992年から2010年まで18年間この座に君臨するイアン・ホレンダーの卓越した指導力・経営能力は、あのカラヤンを凌ぐものであった。ホレンダーはユダヤ系のルーマニア人で、始めは技術者になるべく大学教育を受けていたが、学生運動に加担したため放校となり、ウィーンにやってきて声楽の勉強をはじめる。卒業後はKlagenfurtやSankt Poeltenの劇場で歌手やアドヴァイザーとして働いていたが、特に彼が評価されたのはオペラのエージェントとしての才能で、彼自身それに関連するイヴェント会社も経営していた。彼が転機を迎えるのは、Eberhard Waechterが1991年にウィーン国立歌劇場の監督になり、そのアドヴァイザーとして迎えられたときである。そして翌年の1992年にWaechterが急逝すると、その後を受け継いで劇場監督となる。就任当初は契約などについてマスコミから様々な攻撃を受け、関係が良くなかったが、彼の革新的な姿勢が次第に評価され、ウィーンの音楽界に隠然たる力を持つようになる。特に前任者のWaechterが、きわめて保守的でかつての演出を新たに再演する方向、ウィーンで以前採用されていたアンサンブル方式へ傾いていた方向を完全に否定し、前任者のカラヤンやDreseが示した短い契約期間でのレベルの高い客演を増やすような方向へと変えていった。あるいは他のオペラハウスとの交流(演出の売り買い)なども積極的に進めた。
 

 一方Dominique Meyerは、名前から類推できるかもしれないが、アルザス出身で、外交官である父の仕事の関係でしばらくボンに暮らしたことがあり、そこでドイツ語を習得したと言われている。彼はパリで経済学を勉強し、卒業後産業省に勤めるが、 文化省大臣のJack Langに呼ばれ、アドヴァイザーになる。それから最初1986年にパリ・オペラ座で働くが、三年後そこの総監督になる。バルチーユ・オペラの開場にも関係し、1991年に再び文化アドヴァイザーとして文化省に呼び戻されている。しかし彼のオペラへの欲求は高く、ローザンヌ・オペラの監督となり、革新的な上演を推し進め、1999年には再びバリに戻ってシャンゼリゼ劇場の監督となっていた。シャンゼリゼ劇場は、ウィーンのテアター・アン・デア・ウィーンのような劇場と見なされているようである。
 

 またフォルクス・オパーの劇場監督の交代の発表も先日あり、先日紹介した俳優ローベルト・マイヤーが就任することになった。これで2つの国立劇場はいずれもマイヤー氏が監督となることが決まった。

 退任する小沢に対する言及が少ないのは、残念である。


http://derstandard.at/?url=/?id=2909360

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年06月08日 03時58分23秒



© Rakuten Group, Inc.