2008/03/21(金)16:58
アフガニスタン人に直してもらった靴、イラクからの友人たち
イラン、シリア、ヨルダン。
何れもイラクと国境を接する国である。
私は、その3ヶ国を旅してきた。
アフガニスタンやパキスタンを含めて、この中近東地域、並びに全世界が平和だったら。
私は、『深夜特急』の沢木耕太郎のように、インドからパキスタン、アフガニスタン、イランと旅をしてみたかった。
そして、メソポタミア文明発祥の地、数々の遺跡があり、そして豪快で陽気な人々が暮らすイラクという国も普通に旅が出来たはずだ。
残念ながら、イラクやアフガニスタンでは現在も危険な状態が続いている。
今回の旅で、思いがけずアフガニスタン人にお世話になった。
私は、ドイツのドュッセルドルフからUAE経由でイランに入国し、テヘランからエスファハーンという美しい街へと旅をしていた。
そのエスファハーンのモスクへ行った帰り道だった。
周りとは違った雰囲気で、汚いボロボロの建物が並び、汚れた衣服を身に着けた明らかに貧しそうな人々が地べたに座っているスラムのようなエリアに遭遇した。
ちょっと足を踏み入れて散歩をしてみると、地べたに座り込んだ親子が縫い物をしていた。
彼らに近づいて、しばらく様子を眺めていた。
彼らは、汚い格好をしながらも、一生懸命に靴を修理していたのだった。
私は、ちょうど靴の修理屋を探していたので、彼らに直してもらうことにした。
彼に靴を直してもらった
英語が通じなかったので、同じく靴を直してもらっていたイラン人に通訳してもらうと、私の靴を直してもらえることになり、そして、彼はアフガニスタン人だと分かった。
ちょっと顔つきがイラン人と違ったので、どこの国の人なのかと聞いてみたのだ。
彼は、アフガニスタンからの難民のようで、他にも彼に靴を直してもらっているアフガニスタン人がいた。
やはり、顔つきが少し柔らかくて中央アジアっぽい感じであった。
彼の親父さん
直してもらったプーマのスニーカー(2006年撮影)軽くて歩き易い!
彼は、何年か越しに、アメリカやインド、オーストラリア、東南アジアにヨーロッパと何ヶ国も私と一緒に旅をしてきたスニーカーの右足の親指付近に開いた大きな穴を釘を刺したりして縫ってくれた。
彼は、私が日本人だとわかると、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
そんな彼に縫ってもらった靴。
そんな彼に少々の売り上げを貢献出来たことを嬉しく思った。
長い間、たくさんの国を共に旅をした、彼に直してもらったこのプーマのスニーカー。
今度は、どこへ行こうか?
今回の旅ではまたイラク人との多くの出会いもあった。
これまたエスファハーンでのことだった。
観光客に人気のあるモスクを訪れると、イラクから遊びに来た体育の先生たちに出会った。
英語も通じたので、少し雑談をした。
そして一緒に写真を撮ろうということになって、陽気な彼らと1枚の写真に納まった。
モスクで出会ったイラク人観光客
彼らからは、あまり悲壮感を感じなかった。
そして、少々失礼を承知の上で、『フセイン紙幣』を持っていませんか?
と聞いてみると、
「こんなの要らないから、あげるよ!」
という感じで、フセイン紙幣を渡してくれた。
その言動から、彼らの故サダム・フセインに対する気持ちを感じたものだった。
エスファハーンのエマーム広場にあるモスクでもイラク人ファミリーと出会った。
彼らはお金持ちのようで、私の3万円台のビデオカメラよりもかなり立派なSONYのビデオカメラを持っていた。
そのビデオカメラには、私のことを日本人だと紹介している映像が納められた。
4人家族で、とても楽しそうにイランを観光しているようだった。
夜のエマーム広場にあるモスク
イランのヤズドの旧市街で道に迷った時は、たまたま自転車で通りかかったイラク人が陽気に道を教えてくれ、私が日本人だと分かると笑顔で握手を求めてきた。
イラク難民最大の受入国でもあるシリア。
その数は130万人ほどといわれている。
そのシリアのアレッポでも何人かのイラク人たちと出会った。
アレッポの中心部にある広場で写真撮影をしていたら、手招きをされて、芝生に座って一緒に話をすることになったイラク人3人組。
私とほぼ同世代のイラク人3人組
彼らもイラクからの難民で、ここアレッポで仕事をしているようだった。
3人とも、私が日本人だと分かると喜んでくれ、シリアは良い国だとか、アサド大統領は好きだとか教えてくれた。
地味だがとても穏やかで優しさを感じた3人組だった。
アレッポ城で一緒に語ったイラク人。彼はイラクについて嘆いていた
彼らと出会って、とても親日的であることを改めて感じることが出来た。
また、彼らの国々に一刻も早く平和な日々が再びやってきて欲しいと強く思った。