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手負い虎の今日、昨日、明日

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手負い虎

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2018年11月17日
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カテゴリ:思想・宗教

この絵は、画家だった父の最期の作品である。『プリマ コムニオ プエラエ』都はラテン語で、『初聖体の少女』と言う意味。『初聖体と』カトリックの儀式で、だいたいカトリックの家庭で生まれた女の子は小学校1,2年で受ける儀式である。姉は小学校5年で他界したが、この絵に私はこだわって、母が亡くなってから、私の所有となった。其の物語を書こうと思う。

ーーーーーーー
「プリマ コムニオ プエラエ」のモデルは、私が幼少のころ10歳で他界した姉、櫻子である。

この姉が、「姉」として、私の肉眼に残る形で「実在」したのは、この『初聖体』と呼ばれるカトリックの儀式の服を着て、家庭祭壇の前に横たわっている姿が最後だった。其の時私は姉が「死んだ」と言う事を理解できないほど、幼なかった。

私はこの姉を、「小さいかあ様」と呼んでいた。上の兄たちが、母を「かあ様」と呼んでいて、私の本物の「かあ様」はこの姉だったから。

実は、私が出生する2週間前、盲腸の手術の失敗によって長兄が亡くなった。その時臨月にあった母は、病院にいた長兄の死に目に会う事が出来なかった。すでに満州で長女を失い、長男を再び失った母の嘆きは、「多分」尋常ではなかった。母は生まれた赤ん坊に愛情を感じなかった。長男の死に目に会えなかった嘆きをおなかの赤ん坊の責任にでもしないと、其の理不尽さに耐えられなかったのだろう。

母はその後、長男の死を嘆き悲しみ、家族の目を盗んでは、壁に頭をたたきつけて、泣いたのだと、実は88才で私の腕の中で死ぬ頃に、私に打ち明けた。

姉の姿が見えないなと感じた私は、本物の母に聞いた。「小さいかあ様はどこに行ったの?」母は何か仕方なさそうに答えた。「天国に行ったのよ。」私はその意味を理解しなかった。それで、私は門のところに立って、小さいかあ様が天国から帰ってくるのを毎日待った。そのうち私たちは防空壕と言われる穴に潜り込んで生活した。小さいかあ様は防空壕にも来ることなく、天国とやらに行ったままだった。

8歳の時に父が逝った。彼は家族の全員集まる目の前で、ロザリオ(カトリックの数珠)を唱え、力尽きてがくりとたてていた膝が折れ、完全に「死んだ」。8歳の私はすでに『父の死』を理解していた。
ところで、父と姉が私の現実の世界から姿を消してからも、私の「父と小さいかあ様」は、私が成長するまで、私の世界に生き続けた。姉は小学校5年で他界していて、私の世界で生きていた姉は、まったく成長しなかったが、他界したときの其のままの姿で彼女はずっと母であり、私がどんなに成長しようと、彼女は「小さいかあ様」として私の世界に生き続けた。父の姿はもっと鮮明だった。私は8歳で父の死を完全に理解し、死を別れと受け止め、そして号泣した。私にとって、父の死は完全にこの世の現実であった。ただ、いつのころからか、二人は私の「ある世界」に生き続けた。

このあたりから、私はおかしなことを言い始める。

父と姉が私の目に見えた世界は、『私の記憶の中』でなく、『星ほど遠い空のかなた』でなく、私の斜め前方もいつも見える距離の『空:くう』であった。

その『くう』に見える父と「小さいかあ様」は、私にしか見えないのだから、「化け物」と言ってもいい。関係者にしか見えない「ばけもの」の存在は世界各地にあるが、電気が発明されて世界が明るくなってから、「化け物」は活躍の舞台を失って、ほとんど「信じられなくなった」。

ところでこの私だけの物語は、誰かに言われて「信じている」話ではない。この物語は、嘲笑を恐れて誰にも言った事のない私の世界だけの話である。「信じる」と言う行為は、自分の経験なしに、誰か他人の言葉や、書かれている書物の内容を「うのみ」にすることであって、そこには相手を自分の権力の下に置かねば済まない「他人の圧力」がある。

攻め込んできた欧州の暴虐を前に、キリスト教を信じないなら皆殺しにすると言われて、世界各地の原住民が、知識階級を除いてはみな、「はい、信じます」と言って従ったのが「信仰」だと言えるんなら、信じさせた方も、信じると答えた方も、うそつきだ。

其れが信仰だというなら、私はそういう『信仰』を持った事がない。

ところで、聖書の世界には、「夢」によって人が行動をする話がよく出てくる。

「夢のお告げ」を神の言葉と信じたアブラハムは正妻が90を過ぎても息子の誕生を信じたそうだし、お告げが実現してやっと生まれ、生長した大事な息子を、生贄として神にささげるために殺そうとしたのも、「夢のお告げ」のせいと言う事になっている。

親に愛されて兄弟の嫉みを受け、エジプトに売られた旧約のヨゼフも、夢によって現実の行動を決めていたので「夢見の博士」と呼ばれていた。

新約になってからは、聖母と言われるマリアの見た受胎告知も夢であり、身ごもったマリアに対する疑いから結婚をやめようとした新約のヨゼフも、夢によってマリアを保護し、生まれた子供を皆殺しにするというヘロデの狂気を恐れてエジプトに逃げだした時も、彼は夢のお告げによって行動したと、聖書に記述がある。

聖書の中の「夢」とは何だろう。

日本語には「夢まぼろし」と言う言葉があり、夢はうそと同義語である。「夢のような話」と言うのは、架空の物語である。ところで、日本には古来「化け物」の話は腐るほどある。その「化け物」の方は、日本では案外まともに扱われている。

だから私がずっと見ていた父と姉の姿は、「夢」より「化け物」に近い。私は自分が夢の世界でなく、現実に生きて歩いている事を意識しており、父と姉の姿は、あくまでもその現実の世界に存在したのだから。

私はほとんど一生涯、化け物と付き合ってきた。

あの化け物は、私が怖い目にあった時も、痴漢に襲われた時も、その他公私全ての状況から暴力を受けて苦しんだ時も、『自分に』向かって手を合わせて祈る私を助け、斜め前方で私を守り続けた。

これは私が体験した事だから、誰かに信じさせるために努力する意味もなく、作り話のわけでもなく、まして、今まで語った事がないのだから、今ここで急に嘘を語る必要もない。

その二人の化け物が、あるとき消えたのは、私がある出会いから結婚し、結婚届けを出してからであった。あの時エルサルバドルで、私は化け物が消えた事に気がついた。

其の時私は生きている家族が許さなかった結婚を化け物の父が許したんだな、と本気で思った。「許した」というより、私を守り続けた化け物が、主人に『私を託した』と言う方がふさわしい。





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最終更新日  2018年11月17日 09時23分53秒
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