「サンタアナ」編(8)
「サンタアナ日記」8:グアテマラを散歩する 私は或る時,二日ばかりだったが,隣の国,グアテマラを散歩する機会を得た。グアテマラシテイーに降り立ったとたん,私はまるでそれが現実の世界ではないように感じた。町はインデイオの色に満ちていた。インデイオの女性達は原色の美しい織物を身につけ,リボンを編みこんだ長いお下げ髪をたらして,赤子を背に,荷物を頭に,町にひしめいていた。町が赤い!と私は感じた。身につけている縞の織物や,荷物を包んだ風呂敷や,赤子を背負う背負い布が皆赤っぽかった。髪飾りも華やかで色が見事だった。 彼らは観光用に歩いていたわけではなく,一般の生活者として生きていた。ほとんど呆然として私は人々の群れを眺めた。アメリカ大陸の中にあって,しかもこんなにアメリカに近いのに,ここはアメリカ文化に汚染されていない!一般の生活者の中に,テイーシャツがいない。ジーンズがいない。ミニスカートがいない。20数年前日本ではミニが流行っていた。私もひざより上のスカートを身につけていた。テイーシャツにジーンズ姿は旅行者だけだった。ももももしかしたら,この国の人々は1000年間ぐらい,自分の文化を守り抜いてきたのかもしれんぞ。 グアテマラは90パーセントの国民がインデイオで,10パーセントに満たない植民地時代の白人が支配している。インデイオの教育は顧みられない.…と,或る観光誌に書いてあったのを読んだことがある。多分,と自分は考えた。どこでも横暴な白人がここではインデイオを自分流儀に教育したりしないから,今でもこの鮮やかないろとりどりの織物に身を包んだ人々が,自分の文化を保っていられるのだな。その時私は浅はかにも,白人がこのインデイオ達の文化を尊重して手を触れないのかと思って感動したのである。(私はこの国の原住民が長年の白人の支配のもとで、軍事政権から原住民掃討作戦の対象になり、30数年間白人の虐殺に耐えて来た民族である事など,その時知る由も無かった。) 私はその歴史を知らなかったとはいえ,自分にとってかくも異質で,しかも現代文明の汚染を免れている民族の姿に感動した。それは異質であったが,まさしく固有の,それ自身価値を持った文化なのだ。 エルサルバドルは混血の国である。何が固有であるのか分からない。しかし彼らは混血なりに混血の生き方をしている。インデイオ的であり,スペイン的であり,混血的である。マヤの神々もキリストも混血的である。私がこの国を受け入れると言う事は,この混血文化を受け入れると言う事である。ブラジャー文化と無ブラジャー文化を同時に受け入れ、ポリガミーとモノガミーを同時に受け入れ、蟻とキリギリスを同時に受け入れ、灯火親しみながら太陽を浴び、キリストとアラーと仏陀とお月様とおいなりさんを同時に受け入れ、生きた鶏を食卓に運ぶ神経を養い、値切りに値切って毎日同じ物をべつの値段で買い,原語交じりのスペイン語を日本的思考方法でもって使いこなす。そう言う心構えで生きて行くと言う事だ。 私は故国を賛美しすぎる事が,もう故国に帰る予定のない私の精神衛生にとって危険である事を知っていた。しかし私は,グラナデイージャの冷たい汁を乾いた喉に流し込みながら,この国に住めるかな,ノイローゼにならないかな,公害をもたらすあの現代文明が恋しくならないかな,などと考えた。私は始め,星と花ばかりを眺めていた。日本からもってきた工芸品を穴のあくほど眺めつづけた。美しいものがほしかった。美しい臭い,いや,せめて,無臭状態,ほんの少しの清潔さ,文化の初歩,自分の価値観に少しでもちかい物を捜し求めた。 私のこう言う心はグアテマラを散歩してから変わり始めた。私が自分のもっている文化のみを正しいとする態度は,ナチがユデァ人を虐殺し,スターリンが仲間を粛清し,アメリカがベトナムを攻撃している態度と何ら変わることは無いだろう。もしそれらを間違いだと言うなら,私がエルサルバドル人に背を向けて,ひたすら日本の工芸品にほほを摺り寄せているのも間違っている。 日本のように,一億国民総学生で、何も生産活動に従事するものがいない状態が文明的、すなわち、善とはいいがたく、高校にも大学にも行かないで、スペイン以前の生活を保持したまま生産活動に従事しているインデイオは必ずしも非文明的,すなわち悪ではない。お互いにお互いを布教する必要は無い。同時に,外側がみすぼらしく見え様と,開けてみたらどんなものが発見できるか分からないこのエルサルバドルと言う国を,開けてみても良いじゃないかと思ったのだ。グラナデイージャは開ける前にみすぼらしいけど食べてみようと,開ける前に受け入れたのだ。これで行こう,と私はやっと長い戸惑いの末にたどり着いたのである。(完。1977年,サンタアナにて-サンタアナ篇)