Last Esperanzars

Last Esperanzars

楽園のサジタリウス3 二

   1TURN GAME START?

「――さんっ! 一機さん!」
「……ん?」
 真っ暗な闇の中、激しく揺さぶられて一機はまぶたを開いた。どうやら眠っていたらしい。後頭部がなんかズキズキしていたが、また麻紀が固いもので殴りでもしたのかと。
「っさいな……今起きるから」
「なに寝ぼけてるんですか! 早く逃げますよ!」
「ん、え……?」
 切羽つまった麻紀が、腕を引っ張り上げてきた。まだ視界が回復していない一機はわけもわからず戸惑う。
「おい、なにがどうしたって……」
「どうしたって……上ですよ上!」
 上? どうやらあわてているらしい麻紀の様子がわからず、言われるまま空を見上げてみると、
「――え」
 そこに空はなかった。
 あったのは、毛むくじゃらの十メートル近い巨獣の肉体。白無垢でゴツゴツした肉付きはまるでゴリラだが、こんな巨大なゴリラが存在するわけがない。相貌は紅蓮に染まり、犬歯を剥き出しにしたその様はまさに化け物。
「う、うわぁ!」
 その異形に、一機は思わず腰を抜かしそうになるが、ぐいと引っ張られた腕に促されて走り出す。
「な、なんだ、どうなって……!」
「そんなの、こっちが知りたいですよ! とにかく逃げるんです!」
 困惑する一機に対して、麻紀自身も状況を理解していないらしい。いったいなにがどうなっているのか。走りながらふと、一機は自分と麻紀が高校指定のブレザーを着ていることに気付いた。
 奇妙なことだ。あの日、麻紀は帰ったはずだし、一機も制服を脱いでそのまま寝た。だというのにこれはいったいなんなのか。
 そこまできてやっと一機は、自分たちが走っているのがコンクリートではなく、草が生い茂る土であるのを知覚した。周りは木に囲まれた森、こんなところ群雲市にはない。ますます一機は困惑してしまう。
 ――どうなってる。ここはどこだ? 昨日は鉄伝を終えて麻紀が帰ったらさっさと寝たはず。それで、それ、で……?
「……つっ!?」
 そこで、一機の頭に激しい痛みが襲った。頭部全体を叩き潰そうとするその痛みに意識が遠くなる。同時に、見に覚えのない光景が頭をよぎった気がした。
 ――暗くなった部屋、段ボール箱、『チケット』、それで何かが光って、なに、が……?
 何か、忘れていることがある。一機が悟ったその時、地面が大きく揺れた。
「うわっ!」
「きゃあ!」
 一瞬体が浮かんだ二人はバランスを崩して転んでしまう。その眼前にさっきの巨大な化け物の足が、周りの木々をいとも簡単に踏み砕いて迫ってくる。
「ひっ……!」
 一機は息を呑む。逃げなくてはと思うのに、体が思うように動かない。動揺と混乱が頭を満たしてしまっている。なんで、どうして、なぜ、わからない、わから……
「一機さん、逃げて!」
 麻紀の悲痛な叫びが、化け物の咆哮にかき消された。化け物は、その大きな足で、アリでも踏み潰すかのように一機を――
(うおおおおおおおおぉ!)
 踏み潰す直前の足が、化け物の肉体ごと吹き飛ばされた。化け物と同等の巨体が体当たりをしたのだ。
「な、なんだ……?」
 今起こったこと、いやそれならば先ほどからのこと全てだが、にわけもわからず呆然とする一機。とにかく、巨体が過ぎ去った先に視線を向けると、
「――え」
 そこには、巨大な野獣と組み合っている、同じく巨大な人間がいた。――否、これは人間ではない。
 全身鎧、フルプレートアーマーとかいう名の鎧に包まれた体躯には生き物の気配は感じられない。尖った印象を持たせる銀色の鎧は西洋の甲冑そのもの。兜には王冠に刺さった剣の紋章が刻まれている。羽織られた真紅のマントが押し合うたびに揺れ、腰にはロングソードが吊るされていた。
 これはなんだ? 一機がいくら考えても、混乱しきった頭で浮かぶものではない。と、そこでその鋼鉄の巨人から声がした。
(何をしている! お前らさっさとここから逃げろ!)
 一機は目を見開いた。明らかにその声は、眼前の鋼鉄に包まれた巨人からしたのだ。高く澄んだ、女性の声。とてもこの鉄の塊から出たとは一機は信じられなかった。
 いや、そもそもこの甲冑型の巨人は何だ? 一機の見立てでは生命体の気配は感じられず、少なくともこいつは生きていないとわかる。だがこれからたしかに声が……こいつ、は?
「だから、ボケーっとしてないで逃げますよって!」
「うおっと!」
 何か気付きかけていたが、麻紀がまた一機の手を取って駆け出した。そこで、視界が開けた。
「……!?」
 森から出た二人が目にしたのは、巨人たちの戦場だった。
 無色の毛を逆立てた化け物が、先ほどと同じ甲冑に包まれた巨人と戦っている。その鎧の巨人は白銀の巨人と違い全体的に丸みを帯びており、装甲は深い海のように碧く輝いていた。
しかしその美しい巨人は剣を持ち、その刃で野獣を斬り裂いて絶命させた。またあるものは十メートルはある自身に勝るとも劣らない長さの槍を野獣へ刺し貫いた。
「な、なんですかこれ……」
 さすがの麻紀も目を見開いている。無理もない、一機だって自分の目が狂ったんじゃないかと疑っている。
しかし、一刀により断ち切られた巨獣が泣き叫ぶ声は耳に響き、肉片と己そのものが地面に崩れ落ち生じた揺れは足元から伝わってくる。そして、辺りに散らばった赤い鮮血からは強烈な鉄の匂いが湧きあがってきている。
この光景は、まさしく現実。さながら二人は、巨人の国に迷い込んだガリバーだ。
「――とにかく、逃げますよ。こんなとこにいたんじゃ、いつ踏み殺されてもおかしくありません」
「あ、ああ」
 冷静さを取り戻した麻紀の判断は簡潔だった。互いに暴れる巨獣と巨人を無視して二人は戦場から離れようとする。
 すると、一機の胸ポケットから何かかポトリと落ちた。
「ん?」
 思わず視線を下ろすと、そこにあったのは手のひら大ほどのキラキラ輝く石。拾い上げてみると、それはゴツゴツ固く透明で、向こうが透けて見える。ガラス玉、いや、ダイヤモンド? こんなもの、一機は持っていない。持っていな……
「……っ!」
そこでまたフラッシュバックが起こった。違う。一機はこれを知っている。この石が光ってそれで、
「だから、ボケっとしてるんじゃありませんて!」
「わ、悪いっ」
 とろい一機に癇癪を起した麻紀の声で現実に戻り、再び駆けだす。石はつい胸ポケットにまた収めてしまった。
 だが巨人たちの戦場において二人はあまりに矮小な存在だった。ケダモノが雄叫びを上げるだけで耳をつんざくように響き、足の動き一つで地面は大きく揺れて足元がおぼつかない。
「……なあ、どうなってると思う、これ」
「知りませんよ。説明だったらこっちが欲しいくらいなんですから」
 にべもなく言い切った麻紀に完全に同意した。どうやら状況は麻紀にもわかっていないらしい。
 それと、気がつけば周囲には飯ごうとかテレビで見た昔のテントのような布が踏みつけられ散らばっている。どうもここでキャンプしていた輩がいたらしい。それらは人間サイズだが……
 その時、一機たちの傍に蒼の巨人が倒れてきた。
「うわああぁ!」
「きゃあ!」
 なにぶん目の前だったので二人は胆を潰されたが、その巨人は倒れたきりピクリとも動こうとしない。気絶した――? いや、生気のかけらすら感じられない。と、そこで、一機が気付いた。
 その巨人の腰あたり、そこの装甲にポッカリ穴が開いていた。いや、元々ここの部分は開くようになっているらしい。西洋鎧に詳しいわけじゃない一機だが、そんな構造の鎧は聞いたことがない。なんとなく気にかかり、巨人に近寄る。
「ちょ、危ないですよ!」
 そう麻紀が引き止めるのも聞かず、巨人の腹によじ登る。「ああ、もう」と舌打ちしつつ麻紀もついていく。そして二人は、ガパッと開いた穴をのぞき込んだ。
 その中には、グロテスクな臓物――などは一切入っていない。
「な、なんだこりゃ……」
 唖然とする一機の瞳には、何もない空洞が映っていた。
 いや、正確には空洞ではない。マジックミラーの一種なのか、空洞の内側から外の様子が伺え、その中心には妙なくぼみがいくつもついたシートが一つ固定されている。
「これって……きゃっ!」
「わあっ!」
 ひと際大きい振動が走り、そのショックで二人が空洞に落ちる。ちょうど一機が麻紀の下敷きになる形で。
「ぐぇっ! 重っ!」
「な!? ちょっと、女性に対してそれは失礼じゃありませんか!」
「実際重いんだからしゃーないだろ! いいから降り……降りなくていいです」
「は? 重いとか言っておいてなに……っ!」
 そこで二の句が告げなくなった麻紀はやっと状況を把握した。
 あお向けに倒れている一機の顔に、麻紀のヒップがちょうどうまく乗っていることに。呼吸によってスカートが乱れる様に顔を真っ赤にする。
「こ、このど変態!」
「だから落ちてきたのはお前、って待て、腰上げるな」
「なんですかそれ! 立たないわけないでしょこれで! まさかこのまま私のお尻を楽しみたいと……!」
「違うって! だって、今視界塞がれてるからいいけど、立ったら完全に見え……」
「! ……い、一生目開けんなぁ!!」
 ゆでダコのようになった麻紀がツインテールを振り乱し無防備な一機の腹に見事なかかと落としをかますと、瞬間的に意識が暗転した一機はスカートの中身を見ずにすんだ。
「げほっ、げほっ……俺悪いことしたのか」
「いい思いをした代償と思ってください。さて……なんですかここ」
 ブレザーを整えると、その奇妙な空間に視線を這わせた。もっとも、全面ガラス張りみたいなものなので狭い感覚はまるでないのだが。
「巨人の中――ですよね。とてもそうは思えませんが」
「同感。生物じゃないのは確かみたいだな。まるで……」
 そこで一機は言葉を切る。確信してはいるものの、あまりに滑稽なので口に出せるものではなかったからだ。
 鋼鉄の体、その姿からは生気というものは感じられず、中からは場違いな女性の声がする。そしてその体内にある空洞とシート。
 まったく理解不能なほど奇々怪々。その様は、まるで、まるで――
「まるでロボットみたい、ですか?」
「――っ」
「それくらいわかりますよ。何年私が貴方に付き合わされて鉄伝やってるとお思いに?」
「……いや、あり得ないだろそんなの」
「ここまで来て、その台詞はないでしょ」
 んとアゴで示された先には、相変わらず化け物と巨人が戦っている。なるほど、今この場で常識なんて言葉に意味はない。
「まあ、これが何かは後で考えるとして――どうします、これから」
「……どうするって言われても……うわっ!」
 狭い空洞――もう操縦席ということにしてしまおう――が激しく揺さぶられた。戦闘は続いている。ここも安全とは言えないらしい、と一機は舌打ちした。とにかく危険なので、開いていたハッチを閉じる。
「なんとか逃げ出したいところだけど、これじゃそれもままなら……って、何してるお前」
 気がつけば、麻紀がシートに座って周囲をキョロキョロ見回している。
「何って、わかるでしょ。これ動かすんですよ」
「はい!? 動かすって、これを!?」
「他に何があるってんですか。仮にこれがロボットなら、動かせて当然でしょ。……にしては操縦桿とかないですね。どうやって動かすのでしょう」
「いや無理だろ! こんな初めて見たようなもん、動かせるわけが……!」
「動かせなきゃ、死ぬだけですよ」
 ゾクリと、一機の背に冷たいものが走った。こちらに目を向けず、ひたすら動かそうとする今まで見たことのない必死な姿の麻紀に思わずたじろぐ。
「――ああ、ダメですね。操縦方法がわかりません。こんなカラッポの箱の中でどうやって動かすんでしょう」
「……何もないんだったら、何も使う必要がないとか?」
「は? なんですかそれ、動けと思えば動くとでも? そんなわけ……」
 突き刺さるような視線をかけようとしたその矢先、二人がグラリと揺れた。否、巨人そのものがぐらついたのだ。
 わけがわからず動転する二人だったが、ふと周囲を見回すと、マジックミラー越しの景色が変化している。今までと視点が高くなっていた。
 より正確には、倒れていた巨人の上半身が起き上がったのだ。
「な……え、動いた!?」
 ビックリした一機が振り向くと、麻紀自身も驚愕した様子である。
「ど、どうやったんだお前?」
「いや……『起き上がりなさい』と思っただけですけど」
「思っただけ……? ――要するにこれは、頭で考えただけで動くってことか?」
 アニメや漫画などの知識から想像するに、そんな結論しか出せない。一機も信じられなかったが、それを否定することは現に動かした麻紀にはできなかった。
「と、とりあえず立たせてみせますね……うっ」
 目をつぶり、シートに深く座った麻紀が念じてみると、尻もちをつけていた巨人がその両足をゆっくりと動かし、見事立ち上がった。
「お、おお……すげえなおい! ってん? ど、どうした麻紀」
 気がつくと、麻紀が顔をうつむけて青い顔をしている。ツインテールが垂れて向日葵が揺れていた。
「――気持ち悪いです」
「は、はあ?」
「なんか、急に体重が増えたような、体型が変わったような、そんな気分です」
 ――なんだろう。理屈はわからんが、これが精神操作だということが関係してるのか? 『考えただけで動く』というより、『パイロットが巨人になる』のだろうか。だとすると、このまま
「っ! どこかにつかまって!」
「なに? ……うっわ!」
 麻紀の警告に間髪入れず、巨人に衝撃が走りコクピットが振動した。壁にしたたか頭をぶつけ一機は昏倒しそうになる。
 今度はなんだと揺れる視界に最初入ったのは、眼前にまで迫った野獣の相貌だった。
 そのあまりの恐ろしい光景に言葉を失う。棒立ちのこちらを察知し狙ってきたのだ。
「ちいっ!」
 苦悶の表情を浮かべつつ、麻紀は必死に巨人を動かそうとする。ぎこちない動作ながら巨人の右腕が野獣の顔面に拳をかます。グギャアと悲鳴を上げて野獣が横転した。
「す、すげえなおい……」
「はあ、はあ……気楽なことを。結構疲れるんですよ何故か」
 息を切らせ苦言を呈す麻紀はたしかにさっきより具合が悪く見える。かなりきついらしい。
「だ、大丈夫か?」
「……平気ですよこれくらい。それよりどうします?」
「――逃げるか。これ以上は限界みたいだし」
「だからあたしは疲れてなんて」という麻紀を無視して、一機はマジックミラー越しに戦況を観察した。野獣の数が減っている気がする。やはり肉と得物を持った鋼鉄の巨人とは分が悪いか。勝敗は決まったなと鉄伝で鍛えた情報分析能力が告げていた。
 だけど、この戦の勝敗が二人の安全とは何の関係もない。この鋼鉄の巨人、ロボットらしきもののパイロットと意思疎通できるらしいことが判明したとして、それが友好的なものかどうかわからないのだ。
 つーか、こんなSF物みたいなロボット(もん)乗って戦ってるやつらがまともかね、と一機は呟いてみる。となれば、
「ここは逃げるが勝ちで決定だな。道が開けたところから走って逃げ」
「んなうまくいけばいいんですけど!」
 ヤケ気味に叫んだ麻紀が巨人を大きく横っ跳びさせる。野獣が霊長類というより犬か猫の類に近い長く伸びた爪を振り下ろしてきたのだ。なんとかギリギリ回避したものの、跳んだ際に壁に顔をしたたか打ちつけた一機には関係ないことだった。
「……あの、もうちょっとゆっくり丁寧に操縦できないものでしょうか」
「やかましい! こっだってシートベルトとかないから必死に掴まってんです、自分で何とかしてください!」
 二人とも半死半生で、コクピットはまさに鋼鉄の棺になろうとしていた。その矢先、突然全く別の声がした。
(おいお前! 誰が操っているんだ、その素人さながらの動きはどうした!)
 一機も麻紀もギョッと顔を見合わせる。声は外からではなく、確実にこの狭いコクピットの中からした。しかし、ここに二人しかいないのは自分たちが一番知っている。だが、幻聴でない証にまた怒声が響いた。
(聞いているのか!? だんまりを決め込んでいないで、名を名乗れ!)
 声は一機の耳が確かならば、コクピットの正面に位置する備え付けの小さな箱のようなものから発されている。通信機か何か入ってるのだろうか? とにかく返事をすることにした。
「あのー、どちらさまで……」
(は!? だ、誰だお前!? どうしてMN(メタルナイト)に乗っている!?)
 メタルナイト、とはこのロボットの名称か。『乗っている』というフレーズを使った以上多分当たってるだろう。待てよ、その言葉どこかで……なんて考えていると、麻紀が通信機に応えていた。
「いや、こちらは成り行きというか、好き好んで乗りこんだわけではないんですけど」
(なんだと?……あっ! お前ら、さっきの二人組か!?)
「さっきのって……ああ、貴方ひょっとして先ほどのおばさん?」
(誰がおばさんだ! 私はこれでも二十四だぞ!)
「……なあ、麻紀」
 巨人の中から顔も見えない輩と会話に、一機が思わず割り込んできた。
「先ほどの人って、何のこと?」
「……へ?」
 麻紀の顔が、今まで一機が見たこともないくらい呆気にとられたものになった。相当予想外の台詞だったらしい。
「何のことって……さっき湖で会った人ですよ。何ボケてるんですか?」
「さっきって、昨日は俺あの後すぐ寝て……づっ!」
 そこで、再び頭に激痛が走った。フラッシュバックの兆候、そして見えた物は、先ほどとは全然別のものだった。
 キラキラ輝く水面、そこに浮かび上がる、まばゆい煌めきを宿した黄金の髪。その幻想的な光景に佇むのは、佇むのは……
「やっぱ俺、なんか忘れ……ぐわっ!」
 視界が横に吹っ飛んだ。否、野獣に体当たりされて巨人――MNとするか――が弾かれた。ゴロンゴロンとコクピットの中で転がる一機の脳内に乾燥機にかけた服が浮かんでは消えた。
「つぅ……たた、やっぱこのままじゃ無理があるよ、な……」
 起き上がり、痛む頭部をさすって麻紀に顔を向けたところで、一機は絶句した。
「う、くう……っ」
 倒れた麻紀は頭から血を流し苦しそうに呻いていた。左腕はあらぬ方向に曲がっている。
「ま、麻紀!」
 あわてて駆け寄るが、麻紀は激痛で返事もしない。次第にコクピット内に鉄臭さが充満するにつれ、一機に寒気が走った。
 やばい、どうにかしないと。そんな言葉が頭に浮かぶが、またしても何もできなかった。体がガタガタ言っている。怖い。動きたくない。
「ぅ……一、機さん……」
「……っ」
 息も絶え絶えの中、自分を呼ぶ声がした。烏の濡れ羽色をした髪の両端には、可愛らしい、しかし古くくすんだ向日葵が。
「――だあっ! ど畜生!」
 悪態をついてなんとか己を奮い立たせ、どうするべきか思案する。
「……そうだ、こいつを動かせれば!」
 麻紀だってできたんだから、自分にもできないはずがない。そう判断し、コクピットに着席した。転がされてちょうど腰を下ろした体勢になったのが幸運だった。
「ええと、精神を集中して、動けって……」
 とにかく、麻紀がやったように念じてみる。息を止めて、動けと……
「……あれ?」
 指先一つ動かない。それ以前に、麻紀が感じたという気持ち悪い感覚がこれっぽっちもない。
 やばい、全然ダメだ。疑問と恥ずかしさと情けなさで頭がいっぱいになる。
 だから、野獣が牙をむき出しにして飛びかかってきたことに気付くのに遅れてしまった。
「……!? しまっ……!」
 たの文字が口から出る前に、視界から野獣は姿を消した。いや、横から何かがタックルしてきたのだ。
(何を戦場でボケっとしてるんだ! さっさとどこかへ逃げろ!)
 再び声がした。これはさっき通信してきた……違う。森から抜ける直前、襲われた一機たち二人を助けた白銀の巨人から聞こえた声だと一機は思い出した。そしてその巨人が、叩きだされた野獣に代わり一機の正面にいる。
(誰だか知らんが、動かせるんだったらさっさとここから離れろ! 後でMNは回収させてもらうがな!)
「いや、そうしたいのは山々なんだけど、これが動かなくて……」
(なにぃ!? お前、さっきは一応動かしていたではないか!)
「それは俺じゃな……ちょっ、後ろ!」
(!)
 白銀の巨人がこちらへ気を取られているすきに、白毛の野獣が咆哮と共に爪を振り下ろさんとした。
(ふんっ!)
 しかし白銀の巨人はそれを左腕に装着された小型の盾で難なく受け止める。
(でえぇやあああああああああっ!!)
声の主が女なのか一機が疑いたくなるほど力強い叫びと共に野獣を押し返す。勢いに飲まれ後ずさった隙を、白銀の巨人は逃しはしなかった。
(せえいっ!)
 マントを揺らめかせてロングソードを構え直し、いわゆるけさがけの形で野獣の肉体を一閃した。
 間欠泉のように真っ赤な血が噴き出し、巨人を染めていく。通常おぞましい光景であるはずなのに、一機はその様に魅せられていた。
「――綺麗だ」
 自分でも自覚せぬうちに、そんな言葉を発していた。理由は一機自身皆目見当つかなかったが。
(ん!? 何か言ったか!?)
「い、いえ別に……」
(ええいわかった! そこでじっとしてろ! すぐに終わらせる!)
 そうやけ気味に怒鳴るとまた威勢よく敵へ向かっていった。
 たしかにマジックミラーを通して見る戦いは、終結しつつある。それは鉄伝で鍛えたトッププレイヤーの眼――ではない。素人でもわかる。戦場で立っているのはほとんど鋼鉄の巨人ばかりになり、あの禍々しい巨大な野獣は数えるほどしかいない。片付くのも時間の問題だろう。
 なんとかなりそうだ、と思うと、ドッと脱力した。ずいぶん長い時間だったような気もするし、ほんの数分だった気もする。とにかく疲れた……と、麻紀が怪我をしているのを失念していることを思い出した。
「おい麻紀、大丈夫か――」
(!! 馬鹿、危ない!)
 またあの巨人が叫んだ。今度はなんだと振り向くと、
「――え」
 上半身だけになった野獣の肉片が、こちらへ落下してきた。
「う、うわぁ!」
 避けなきゃ、と思うが動かなければどうしようもない。ぶつかると思った体は、意図してないがとっさに倒れている麻紀の前に出て壁になった。両腕で頭を覆った刹那、今までで一番ひどい激震が襲いかかった。
 ガシャアンと割れる音が響く。鎧の装甲がどこか砕けたらしい。強烈な揺さぶりになんとか耐え、収まったところで目を開いた一機の前には、マジックミラーがバラバラになって正面に本物の青い空が広がっていた。
 視界をそらすと、さっき見た野獣の肉片もある。どうやら誰かが真っ二つにした肉体がこちらへ落ちてきたらしい。誰だか知らんが粗忽だことと一機は呆れた。血の匂いがこちらまで浸食してきている。
「う、ううぅ……」
 すると、背中越しにうめき声がした。麻紀が目覚めたようだ。
「ようティンカーベル、無事かよ」
「いたた……腕折れてる人が無事に見えますか。まったくフレークのくせに貴方がポキポキ割れればいいの、に……」
 いつもの軽口が、血まみれの顔を上げた途端途切れた。血で塞がれていない左目を見開いて硬直している。
「……? どうした、俺になにかついて……」
 麻紀の視線をたどって自分の胸元へ目を落とした一機は、
 そこで初めて、自分の胸に装甲の破片が突き刺さっていることに気付いた。
「あ、あれ? なん、で……」
 二の句を告げる前に、一機の全身から力が抜けて崩れ落ちる。狭いコクピットの中、あお向けに倒れる形になった。その間にも、制服の中から血がどんどんあふれていく。
「一機さん!」
 一機のもとへ、これまで見たこともないような悲痛な表情で麻紀が駆け寄る。ずいぶん面白い顔だな、と一機は笑いたかったが、口も顔も思い通り動かず、痙攣したようにピクピクするだけだった。
「一機さん、一機さん! しっかりしてください!」
 麻紀自身怪我をしているはずなのに、目に涙をためて抱き起こしているのが一機にもわかった。しかし、もう一機の意識は薄れ、視界もはっきりしていなかった。
「お願い、死なないでください! 貴方がいなかったら、私、私は……!」
 何か叫んでいるのはわかったが、その内容まで一機は把握できなかった。耳も目も機能を果たしていない。暗い。寒い。
 でも、不思議と恐怖はなかった。
 あの日、自分の世界を失った時と同じ。驚きと絶望はあっても、まあ仕方がない。そんな思いを抱いていた。
 ――結局、兎には会えなかったな。
 沈む意識の中、失笑と共にまぶたを閉じようとしたその瞬間、
「おい、中にいる奴、無事か?」
 外から、ハッチの向こうから誰かが呼びかけてきた。ひび割れで姿が見えないが、どうやら先ほどの女性らしい。
「どうした、返事をしろ!」
「さ、さっきの人ですか? 助けてください、胸に破片が突き刺さって……一機さんが……!」
「なに!? わかった、すぐ看護兵を呼ぶ。……くそっ、搭乗口が歪んでいるな。離れていろ!」
 そう言うと、外にいた女性の気配が少しの間消え、すぐさまバキッと何かが砕ける音がした。
 その音は断続的に続き、霞んでいく視界に破片が飛び散るのが映る。どうやら、外部からハッチを叩き壊しているようだ。
 そしてハッチが破壊され、本物の光が入ってきた。
「――うっわ」
 視界が狭まり、物が見えなくなってきた一機にもはっきり映った、黄金の輝き。
 デジャヴに現れた神秘的なまでに美しい金髪が、幻覚ではなくたしかにそこにあった。
 ――あ、そうか。そうだったっけ……
 意識を失う直前、一機の脳内で欠けていた記憶全てが再生された。


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