Last Esperanzars

Last Esperanzars

赤いスカート

注:
この小説には、暴力的かつグロテスクな描写、及びに一部の障害者に対して不当、不適切な表現がありますのでご了承ください




 あるところに、ちいさい女の子がいました。その子はとてもきれいなかわいらしい子でしたけれども、貧乏だったので、夏のうちははだしであるかなければならず、冬はあつぼったい木のくつをはきました。ですから、その女の子のかわいらしい足の甲(こう)は、すっかり赤くなって、いかにもいじらしく見えました。
 村のなかほどに、年よりのくつ屋のおかみさんが住んでいました。そのおかみさんはせっせと赤いらしゃの古切れをぬって、ちいさなくつを、一足こしらえてくれていました。このくつはずいぶんかっこうのわるいものでしたが、心のこもった品で、その女の子にやることになっていました。その女の子の名はカレンといいました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



 パンを口に咥えたまま、携帯をいじくってニュースを確認した。……また殺人事件か。ここらも物騒になったもんだ。……まあ、俺のせいもあるんだけど。そう独りごちると、携帯をしまって昼飯を再開した。
 九月。東北に当たるこの辺では大して長くもない夏休みも終わり、暑さの抜けない教室で雪也は昼の栄養補給をしていた。パンとお茶のみという一人暮らし故の手抜きを見せるものを抱えた手は……左手だった。

「……どうしちまったのかねえ」

 最近左手を使うことが多くなった己のみに対して呟いた。首を傾げてはみるものの、まあおとなしいなら問題はない。
 と、そこで足に何かがぶつかる感覚がした。机の下を覗いてみると、ペットボトルの紅茶だ。転がってきたらしい。

「あ、あの……」
「ん? ああこれあんたの?」

 見上げた先に女生徒がいた。確かちょっと前に転入してきた女だったはず。おとなしめでショートボブの可愛い娘と、クラスの男共が騒いでいたのを思い出した。

「う、うん。ごめんね落としちゃって」
「いいって。ほら」

 ペットボトルを拾って手渡した。なんか顔が赤くなっている気がするが、暖房が効き過ぎかな。
 おずおずと差し出された指先がちょんと雪也の手に触れると、電流が走ったように転入生は腕を引っ込めた。

「? どうしたの?」
「い、いえなんでもないです。ごめんなさい!」

 今度はほとんどひったくるように取り上げて、そのままの勢いで自分の机に駆け戻っていた。なんだあれは。
 で、その転入生が自分の席に戻ると、一緒に食していた友人がニヤニヤ顔で肘でつついてきて、顔を一段と紅潮させた。

「……変なの」

 首をかしげながら雪也はパンにまたかじりついた。



 赤いスカート



カレンは、おっかさんのお葬式(そうしき)の日に、そのくつをもらって、はじめてそれをはいてみました。赤いくつは、たしかにおとむらいにはふさわしくないものでしたが、ほかに、くつといってなかったので、素足(すあし)の上にそれをはいて、粗末な棺(かん)おけのうしろからついていきました。
 そのとき、年とったかっぷくのいいお年よりの奥(おく)さまをのせた、古風な大馬車が、そこを通りかかりました。この奥さまは、むすめの様子をみると、かわいそうになって、
「よくめんどうをみてやりとうございます。どうか、この子を下さいませんか。」と、坊(ぼう)さんにこういってみました。
 こんなことになったのも、赤いくつのおかげだと、カレンはおもいました。ところが、その奥さまは、これはひどいくつだといって、焼きすてさせてしまいました。そのかわりカレンは、小ざっぱりと、見ぐるしくない着物を着せられて、本を読んだり、物を縫(ぬ)ったりすることを教えられました。人びとは、カレンのことを、かわいらしい女の子だといいました。カレンの鏡は、
「あなたはかわいらしいどころではありません。ほんとうにお美しくっていらっしゃいます。」と、いいました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



「ねえねえ、今度の休みどっか行かない? パフェの美味しい店見つけたんだ」
「ご、ごめん、日曜はちょっと……」
「ああ、またあ? この前もじゃん、なんか日曜用事でもあるの?」
「ちょっ、ちょっとね、ごめんね……」

 授業中、なんか女子のヒソヒソ話が聞こえる。さっきの二人みたいだな。この退屈な授業に耐えきれないのは雪也も同じだった。眠い……

「……ん?」

 不意に、左腕がピクリと脈動したような気がした。
 気のせいか? 最近は随分おとなしかったんだが……
 しばらく考えて、気のせいと判断する。そもそもこの二カ月が変だったのだ。

 二か月前――そうだな、あの上半身だけの断罪剣を刈ったのが最後か? あれ以来プッツリとこの左腕の……アオの“断罪”衝動はなくなっていた。雪也を襲うこともないので、ここ最近は左腕を使っても問題ないくらいだ。
 どうしてだか見当もつかない。それ以前は二、三週間に一度暴れだし、ちょっと騒ぐくらいなら週に何度かあった。そのたびに切って回ってたんだが……こう静かだと逆に不気味だな。

「だったらさ、この後いつもの店行かない章? ほら、あいつ用に勝負服とかさ……」
「ちょっ、ちょっと由子ちゃん……!」
「おい鐘崎、紫檀。私語は慎め」
「す、すみません!」
「はーい」

 紫檀と呼ばれた気の小さい転入生と、鐘崎と呼ばれた気の強いクラスメイトは、対象的な反応を返した。
 何してんのかなあ……と雪也はたるそうに、携帯で常連の携帯サイトを調べていた。
『怪異~暗黒都市に潜む怪物たち』……なんとも脳みその搭載量の少なさを物語るようなサイト名だ。でも俺はこのサイトを多用していた。
“断罪”を求める『同類』を見つけるため、こういった都市伝説の中に潜む『情報』が必要なのだ。

「……赤いスカートを履いた殺人鬼? わりと近くだな……ん?」

 影が差したのに気付いた雪也が顔を上げると、このつまらない授業の主催者たる強面の教師が眼前に立っていた。



 あるとき女王さまが、王女さまをつれてこの国をご旅行になりました。人びとは、お城のほうへむれを作ってあつまりました。そのなかに、カレンもまじっていました。王女さまは美しい白い着物を着て、窓のところにあらわれて、みんなにご自分の姿が見えるようになさいました。王女さまはまだわかいので、裳裾(もすそ)もひかず、金の冠(かんむり)もかぶっていませんでしたが、目のさめるような赤いモロッコ革のくつをはいていました。そのくつはたしかにくつ屋のお上さんが、カレンにこしらえてくれたものより、はるかにきれいなきれいなものでした。世界じゅうさがしたって、この赤いくつにくらべられるものがありましょうか。
 さて、カレンは堅信礼(けんしんれい)をうける年頃になりました。新しい着物ができたので、ついでに新しいくつまでこしらえてもらって、はくことになりました。町のお金持のくつ屋が、じぶんの家のしごとべやで、カレンのかわいらしい足の寸法をとりました。そこには、美しいくつだの、ぴかぴか光る長ぐつだのがはいった、大きなガラス張(ば)りの箱(はこ)が並んでいました。そのへやはたいへんきれいでしたが、あのお年よりの奥さまは、よく目が見えなかったので、それをいっこういいともおもいませんでした。いろいろとくつが並んでいるなかに、あの王女さまがはいていたのとそっくりの赤いくつがありました。なんという美しいくつでしたろう。くつ屋さんは、これはある伯爵(はくしゃく)のお子さんのためにこしらえたのですが、足に合わなかったのですといいました。
「これはきっと、エナメル革(がわ)だね。まあ、よく光ってること。」と、お年よりはいいました。
「ええ。ほんとうに、よく光っておりますこと。」と、カレンはこたえました。そのくつはカレンの足に合ったので、買うことになりました。けれどもお年よりは、そのくつが赤かったとは知りませんでした。というのは、もし赤いということがわかったなら、カレンがそのくつをはいて、堅信礼(けんしんれい)を受けに行くことを許さなかったはずでした。でも、カレンは、その赤いくつをはいて、堅信礼をうけにいきました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



「ったく……今時授業中携帯いじくったぐらいで没収するなよ、時代遅れのカタブツ教師が……」

 自業自得なクセに悪態をつきながら放課後の廊下を歩いている雪也は、すっかり暗くなった教室へ戻っていた。
 お説教があまりに長かったのだ。よりによってあの野郎メールやサイトの履歴まで調べてここぞとばかりにネチネチと。強面でガタイばっかりでかいクセにやることは陰険、おまけに授業はクソつまらなく全然わからんときた。生徒の中であいつを好いているのはいないだろうとよく噂を聞くが間違いはあるまい。

「まあいいか、帰って来たんだから……さっさと鞄持って帰ろ……ん?」

 大して息を荒げず教室の扉に手をかけると、ガラガッシャンと何かが倒れるような音がした。

「え?」

 眉をひそめた雪也、何事かと一瞬硬直するが、このままでも仕方ないかと扉を開けてみた。
 教室の机がいくつも倒れていた。さっきのはこの音かと思ったが、その視界の端に女子の制服が。

「た、いた……」
「な、なんだ?」

 うめき声がして、反射的に扉を開いた。
 さっきの紫檀とかいう女子生徒が倒れていた。しかも右脚から血を流している。あれ? こんな光景どこかで見たような……

「え、と……紫檀だっけ。どうしたんだ?」
「う……あれ、ゆ、雪也君? どうしてここに……」

 雪也に気付いて何故か顔を真っ赤にした紫檀に駆け寄る。

「おいおい大丈夫かよ、血が出てるぞ」
「こ、これくらい大した怪我じゃないですし、大丈夫……!」

 笑っていた顔が突然引きつる。脚の血に気付いたらしい。

「い、いや、脚が……!」
「ん、あーこりゃちょっと切ってるな。保健室行った方がいいんじゃ」
「嫌っ!」

 いきなり突き飛ばされた。無論そんな強い力でなかったが、ちょっと倒される。
 助けようとした女に押されるなんて不意打ちにもほどがあるが、驚いたのは起きたところにあった、紫檀の涙目で口元を押さえてる顔。

「え、な、なに?」
「あ、あの、その、ごめんな……」
「……しゃあねえな、ちょっと待ってろ」

 パニクってるなーと判断した雪也は、自分の鞄から消毒薬とガーゼと包帯を取り出した。

「――あ、あれ、それは……?」
「これ? 俺の私物だよ。生傷絶えない生活してるもんでね。いいからじっとしてろ」

 有無を言わせず消毒薬を塗り、ガーゼと包帯を巻く。いっつも碧に切られていたから慣れたものだ。他人にやるのは初めてだが。

「あ、ありがと……」
「礼なんぞいらんよ。歩けるか?」
「あ、ええと……痛っ」

 傷はそんな深くはないが、結構響くらしい。これでは歩いて帰るのは困難だろうと判断した雪也は、はあと嘆息して手を差し出した。

「ほら」
「え?」
「それじゃ歩けんだろ。ほら」

 と言ったら、紫檀はまたしても顔をボッと効果音が出るんじゃないかというくらい真っ赤にした。茹でダコみたい。

「な、な、な……そ、そんな、お姫様だっこなんて……!」
「……は? いや、肩貸してやるってだけで、え、お姫様?」
「! い、いや、なんでもないですごめんなさい!」

 ひょっとして、頭も打ったのだろうかなどと失礼なことを考えつつ、とりあえず肩を貸すことにした。紫檀の右手をこちらの左肩から右肩に回して持ち上げる。

「……ん?」
「ど、どうしたの? もしかして重かった?」
「いや……」

 気のせいか、紫檀の体に触れた途端、左手がこれまでなかったほど蠢いたような……ってそれどころではない。こいつをなんとかせねば。



 たれもかれもが、カレンの足もとに目をつけました。そして、カレンがお寺のしきいをまたいで、唱歌所の入口へ進んでいったとき、墓石の上の古い像(ぞう)が、かたそうなカラーをつけて、長い黒い着物を着たむかしの坊さんや、坊さんの奥さんたちの像までも、じっと目をすえて、カレンの赤いくつを見つめているような気がしました。それからカレンは、坊さんがカレンのあたまの上に手をのせて、神聖な洗礼のことや、神さまとひとつになること、これからは一人前のキリスト信者として身をたもたなければならないことなどを、話してきかせても、自分のくつのことばかり考えていました。やがて、オルガンがおごそかに鳴って、こどもたちは、わかいうつくしい声で、さんび歌をうたいました。唱歌組をさしずする年とった人も、いっしょにうたいました。けれどもカレンは、やはりじぶんの赤いくつのことばかり考えていました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



「……とか思ってたのに、俺なんでこんなとこいるんだ?」
「あ、ごめん、ハンバーガー嫌いだった?」
「いや、好きだけど……そういうんじゃなくて」

 妙にテンパって顔を赤らめる紫檀を不思議に思いながら、ストローからぞぞぞとコーラを飲み下す。
 高校から近くだというのでちょっと送ってやるだけのつもりが、いい時間だからお礼とか今日お父さんもお母さんも遅いしとか言われてハンバーガーショップに押し入れられた形になってしまった。なんでこんなことになってるのか、何処をどう間違えたのか今でもわからん。
 まあとにかく、奢ってくれるというのだから断る理由もない。それに断るとあからさまに目に涙を浮かべて顔を俯ける女を前に毅然とした態度を取れる男が何人いるか。これはしょうがないことだ、と自分に言い聞かせる。
 ――いや、言われるまま席に座ったのは、そんなことじゃない。妙な疼きを感じたからだ。この腕が……と、ポテトをつまんだ左手を見つめる。

 なんてことをしていると、シェイクを両手でリスみたく持った紫檀が恐る恐る訪ねてきた。

「ね、ねえ……その左手、どうしたの?」
「ん? ああこれ? 聞いたことあるんじゃないの? なんか変な噂になってるみたいだし」
「い、いや、そんなことないよ……?」

 そう口では言うものの、絵に描いたような目の泳がしっぷりには説得力の欠片もない。なんか噂話の種になってるのは知っていたが、実際おかしな腕だし気にする理由もないので相手にしていなかった。

「別になんでもないさ。ちょっと前に怪我してさ、手術して治ったことは治ったんだけど調子悪いんだ。いつもは動かさないんだけど、最近は何故かね」

 嘘はついていない。しかし本当でもない。ま、真実を語ったところで信じてくれるわけもなし、言う必要性もない。両親にも友人にも――そんなものはいないんだが――語ってない秘密を、昨日今日会話したのが初めてのクラスメイトに語る理由などどこにあろう。てかキモがられるか引かれるだけだし。

「ふうん……大変だったんだね」
「いやいや、こうして五体満足で生きてるだけでもめっけもんだって、あはは」

 ……まあ、『五体満足』で生還した故に、こんな血みどろの日々を送っているのだがな。まったく、何が幸いか不幸かわからんな世の中は。

「うん、まあ、そうだよね……」
「そうだって、ははは……おっと」

 話に夢中で、つい携帯をテーブルの下に落としてしまった。やれやれとばかりに下へ潜ると、「キャッ」と可愛い悲鳴がした。
 反射的に顔を上げると……眼前に白く輝く脚があった。

「あ、ごめん……」

 つい何の気なしに潜ってしまったが、スカート穿いた女子に対しては無神経すぎたか。あわてて出てくる。こういうところは昔から治んないなあ。しかし、この女だって悪いだろ。見られるの嫌ならそんなスカート短くする……あれ、なんか左手がざわざわするぞ。

「あ、ううん、いいの。ちょっとびっくりしただけで、別に大したことじゃないし」
「や、ちょっと待ってくれ別に何も見てないから。綺麗な脚だな思った程度で……」

 アホか俺は。自分で墓穴掘ってどうするんだ。泣いて逃げる姿が目に見えるよう……とはならなかった。
 赤くなってはいたものの、紫檀は惚れ惚れと自らの脚を見つめ撫でさすっていた。

「え、し、紫檀さん?」
「……よく言われる」
「え?」
「紫檀の脚は綺麗だね、ってよく言われる」

 ――つまりチャームポイントということか。そのさすり方といいとろける様な視線といい、己でもかなり自慢に思ってるのは間違いない。確かにすらりとして綺麗な脚だった。この地味な顔からよくあんな脚が生えているものだと言わんばかり……さすがにこれは失礼すぎるか。

「……てことは、さっき教室であんな動揺してたのは、自慢の脚に傷がついたからか」
「あ、あはは、ごめんね、驚いちゃって……」
「ま、いいけどさ……そういや、なんであんな時間まで教室いたの?」

 え、と顔が引きつる。なんだ、聞かれたくないことでもしてたのか? 質問したこちらも別に興味も関心もなかったので、まずかったかと不安になる。

「ちょっ、ちょっと教室で落し物しちゃって……そ、そういう雪也君だってどうしてたの?」
「俺? 俺はほら、携帯没収されただろ。その回収しに行ってたの。あのクソ教師、ネチネチネチネチ嫌み言いやがって……ガタイに似合わず陰険なんだから」
「……ふうん。そうなんだ」

 一瞬、ほんの一瞬。まばたきでもしていれば見失ったであろう短い時間だけ、雪也は感じた。
 彼女の、紫檀の瞳に影が差したのを。

「……!?」

 思わずソファの背にぶつかるほど後ずさる。すると、その様に紫檀はキョトンと首をかしげた。

「どうしたの、雪也君」
「あ、いやなんでもない……」

 とっさに誤魔化す。さっき感じた感覚は消え失せて、いつもと変わりない明るい顔があるだけだ。気のせいだったか? ――違うな。あの感覚は肌に焼きついている。あれは、

「――あ、いけない。今日約束あったんだった。行かないと」
「え?」
「ごめんね、お金は払っておくから」

 明細書を手にそそくさを立ち去ろうとする紫檀。先ほどといい、一刻も早くここから逃げようとするようなその姿に違和感は確実なものへとなっていったが、それを言及するわけにもいかず、別れ際に一言気になることを告げるだけにした。

「なんだ、噂の彼とデートの約束でもしてたのか?」

 そんな話を聞いたことあるから、程度で思いついただけであり、特に何の意図もなかった。
 が、背にその言葉を受けた途端、紫檀はピクリと立ち止まり、こちらに顔も向けず呟いた。

「――彼氏とは、別れたから」

 びっくりした雪也が引き止めようとしたが、その時はもう紫檀はいなくなっていた。



 お寺のなかでは、たれもかれもいっせいに、カレンの赤いくつに目をつけました。そこにならんだのこらずの像も、みんなその赤いくつを見ました。カレンは聖壇(の前にひざまずいて、金のさかずきをくちびるにもっていくときも、ただもう自分の赤いくつのことばかり考えていました。赤いくつがさかずきの上にうかんでいるような気がしました。それで、さんび歌をうたうことも忘れていれば、主のお祈をとなえることも忘れていました。
 やがて人びとは、お寺から出てきました。そしてお年よりの奥さまは、自分の馬車にのりました。カレンも、つづいて足をもちあげました。すると老兵はまた、
「はて、ずいぶんきれいなダンスぐつですわい。」と、いいました。
 すると、ふしぎなことに、いくらそうしまいとしても、カレンはふた足三足、踊の足をふみ出さずにはいられませんでした。するとつづいて足がひとりで、どんどん踊りつづけていきました。カレンはまるでくつのしたいままになっているようでした。カレンはお寺の角のところを、ぐるぐる踊りまわりました。いくらふんばってみても、そうしないわけにはいかなかったのです。そこで御者がおっかけて行って、カレンをつかまえなければなりませんでした。そしてカレンをだきかかえて、馬車のなかへいれましたが、足はあいかわらず踊りつづけていたので、カレンはやさしい奥さまの足を、いやというほどけりつけました。やっとのことで、みんなはカレンのくつをぬがせました。それで、カレンの足は、ようやくおとなしくなりました。
 内へかえると、そのくつは、戸棚にしまいこまれてしまいました。けれどもカレンはそのくつが見たくてたまりませんでした。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



 数日後、深夜夜更かしをした雪也は、月曜日の高校にHRギリギリで飛び込んだ。
 しかし担任はまだ来ておらず、だとしても教室は異様な雰囲気に包まれていた。

「……?」

 その空気は感じたが、何がそうさせてるのかわからず困惑した雪也は、とにかく誰かに聞いてみることにした。と言っても適当な友人もいないので、近くにいた女子――たしか紫檀の友人で、鐘崎由子だったか――に声かけた。

「おい、何かあったのか?」
「は? あんた知らないの? センセが死んだんだよ」
「……死んだ?」

 狐につままれた気分で話を聞くと、死んだのは数日前俺から携帯を奪ったあの陰険教師だった。

「マジかよ……死ぬようには見えなかったのに。なんか事故か?」
「事故? ジョーダンじゃねえよ。殺しだってよ殺し!」
「殺し!?」

 驚いた雪也に鐘崎が詳しく話してくれた。無論情報が流れてきてから時間もなく、殺人ともなれば秘密にされていることも多いから情報は少なかったが、ただの殺人ではなく、異様な『猟奇殺人』だったらしい。その詳細はこうだ。

 日曜日の深夜、教師の自宅に誰かが訪ねてきた。奥さんが入院中のため一人で暮らしていた教師がドアを開けた途端、刃物で斬り殺されたらしい。
 その遺体は、『斬り殺された』というよりは『切断された』というのが正しく、腹のあたりから真っ二つに分断されていたそうだ。
 深夜アルバイトの学生が目撃しネットでその情報を流したためここまで伝わっている。現職教師が殺害されたということで、教師たちも本日は休校にすべきかも判断できず大あわてだ。
 ――なお、そのネットに書き込んだ学生はこう証言している。
 顔などは遠くだったからわからなかったが、なんかギャリギャリとチェーンソーのような音が鳴っていた。
 そして、その殺人犯は『赤いスカート』を穿いていた、と……

「赤い、スカート……」

 その名前には聞きおぼえがあった。都市伝説のサイトで拾った噂の殺人鬼……無論ああいうのにはデマも多く、そのすべてを信用することはないのだが、今回は当たりだったらしい。
 では、これも“断罪剣”の仕業――? ざわめく教室で思いふけっていると、その視界に一人の女子生徒が映った。

「ん――?」

 共学の高校なんだから、女子生徒はいて当然。
 しかしその女子生徒は、この喧騒の中――
 あまりにも、『静か過ぎた』

「――!」

 その時雪也は、ここ二カ月ほど久しく感じていなかった、いつもは連日のものだった感覚を取り戻した。
『殺気』である。

「ったく、最近立て続けに知り合いが死ぬなんてよ、縁起でもねえったらありゃしねえ」
「……知り合い?」

 どうもそのフレーズが妙に頭に残ったため、思わず聞き返した。
 聞かれた鐘崎は最初言いにくそうにしながらも、陰鬱な気持ちを吐露したい心があったのか、ペラペラと話しだした。
 聞いていくうちに、雪也の顔、のみならず全身青ざめていく。と同時に、あるものが脳内で響き渡っていた。

 ――台風の中、人は風にただ飛ばされるしかできない。だが、飛ばされない者も二種類だけいる。それは……

 馬鹿な、あり得ない。いくら否定しようとも、浮かんでくるのは“恩師”の言葉。それを何度も反芻していくと、自然と手が右ポケットの携帯に伸びていた。

「……俺だ。ちょっと会って話したいんだが、予定取れるか?」

 携帯を耳にあてたのと反対側の腕が、まるで動かなくなっていくのを雪也は察知していた。


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