マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
関連 Back numberをラストに追加しました。当時のフランスには身分制度があり3つにカテゴライズされていた。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)当時のフランスの人口はおよそ2700万人。比率で言うと、特権階級の第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)が全体の2%。(52万人)残り98%が第3身分(平民)である。第1身分(聖職者)は0.5%(約12万人)、国王の権威は神から与えられたものと解釈されていたので、カトリック教会と聖職者は上位にある。司教、司祭、助祭と言っても司教座を持つ大聖堂などの高位聖職者は貴族出身者しかなれなかった。第2身分(貴族) 40万人。階級だけでなく、国王から年金の出る宮廷貴族や、荘園経営して地代の入る地方貴族。司法官などの官職に伴い地位を得た法服貴族の3種類の貴族がいた。※ 法服貴族の地位は金銭で購入する事もできた。貴族と言えど収入がなく、貧しい貴族もたくさんいたが、特権により税の免除などがあったので労働をして税を納めるのは第3身分の平民の役目であった。しかし、逆に第3身分(平民)でも、徴税請負人や銀行家、大商人などお金持ちのブルジョア層は、平均的貴族よりも裕福であったかもしれない。※ 都市のブルジョア10%、農村の大規模経営をするブルジョア13%彼らはポンパドゥール夫人のように貴族の子弟の行く学校で高等教育やマナーを学び、サロンではむしろ主催者側にいた。ルイ16世はフランスの抱えた多額の負債を返済する為に増税しか道がなく、とは言え第3身分(平民)からの徴収は限界。特権階級の彼らにも税を納めてもらうべく議会にかけている。※ アメリカの独立戦争に協力した事と前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金があった。特にアメリカへの参戦で用立てた借入金は非常に高利であった。しかし、議会は第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)に有利にできている。175年ぶりにルイ16世は全国3部会を開いて平民と共闘して特権階級から税を徴収する法案を通すつもりでいたのだ。その為に第3身分(平民)の投票人数を倍(600人)にまでした。第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)はそれぞれ定数300人。1789年5月5日、3部会開催。なのに王は身分毎に議決を取ると発表。(  ̄∇ ̄; ) ナヌ? (・_・?) バカなの? 当然だが第3身分(平民)は「身分毎に議決」をしたら勝てないので反対。議会は空転し解散となった。ルイ16世のそれ以降の対処は、もはや目的が何か解らなくなってきていた。王は選択を誤ったのだ。確かに当初市民らは王に新たな憲法を望んでいただけだったのだから・・。3部会開催の2ヶ月後、1789年7月14日革命が勃発する。最もその至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃身分制度マリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンマリーアントワネットの浪費革命後の放浪タンプル塔(Tour du Temple)パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)革命をあおったマスコミマリー・アントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)花の女神フローラの領域と言われるトリアノン域のフランス式庭園の中に小宮殿の建設を勧めたのはポンパドゥール夫人であった。結局夫人の存命中に完成できず、ここを最初に使用したのがポンパドゥール夫人の次にルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人である。そして奇しくもルイ15世はこの宮殿で病状が悪化し本宮殿に戻りそれから2週間後に崩御した。マリー・アントワネットの邸宅となったプチトリアノンと左方面がマリー・アントワネットが造りあげた王妃の村里です。この一帯がマリー・アントワネットの家と庭園と言う事になります。上はウィキメディアのプチトリアノンの空撮写真を位置紹介の為に部分カットさせてもらい。さらに書き込みしました。下の写真は、上から愛の神殿、小トリアノン宮殿、パヴィヨン・フランセが直線上に配置されていた。パヴィヨン・フランセ(Pavillon français)はポンパドウール夫人縁(ゆかり)の建物なので「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」でもふれているが、もともとデュ・バリー夫人の事を良く思っていなかったルイ16世は即位(1774年)後すぐにプチ・トリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたのである。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチ・トリアノンを自分の邸宅として好んで使用する事になる階段の手すりや2階の欄干、バラスター(baluster)はマリー・アントワネットの「M」が金箔でデザインされたおしゃれなアイアン・ワークとなっている。吊り燭台はナポレオン妃でありオーストリア皇女であったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の為に1811年に取り付けられたもの。1793年6月、革命で王政が終焉し主のいなくなった宮殿は競売にかけられ一時は居酒屋になっていた事もあるらしい。プチトリアノン内、マリー・アントワネットの寝室マリー・アントワネットが使用する時に大がかりなリフォームがされているが部屋は当時のものでなく、マリー・アントワネットを意識して再現したもののようです。マリー・アントワネットが使用した当時は鏡が下からせり上がり、窓を塞ぐ仕掛け等なされていたと言う。プチトリアノン内、音楽のサロンマリー・アントワネットの近しい親族、友人が集まった部屋(メイン・サロン)がここ。プチトリアノンではマリー・アントワネットが取り決めたルールがあり、マリー・アントワネットが部屋に入って来た時も皆、手を止める事無くピアノを弾いたり、刺繍の手を止める必要もなかった。現在この部屋に置かれている家具類はマリー・アントワネットの時代の物に似てはいるがナポレオン3世の妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)(1826年~1920年)が置いたものらしい。マリーアントワネットがハープを奏でている絵画が残されている。描いたのは1777年、内容は1775年らしい。場所は宮殿の王妃の寝室のようです。当時の宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) (1740年~1786年)マリー・アントワネットを描く画家自身が右端に見切れている。上の絵はウィキメディアからプチトリアノン内、サロンロココから新古典様式に移行する家具。神殿の柱を思わせるスラッとした脚。俗にルイ16世様式と呼ばれる椅子である。プチトリアノン内、ビリヤード・ルーム親しい友だけを誘って遊んでいたと思われる。先に「マリー・アントワネットの気晴らしと暴走」の所で触れたが、王妃になった途端にマリー・アントワネットの側近いじりがあからさまに始まる。プチ・トリアノン近くに建設されたマリー・アントワネットの劇場内部1780年、リシャール・ミック(Richard Mique) (1728–1794)により完成されたマリーアントワネットが演じる為に建設された劇場。その他の演者は近しい友人達。観客も親族と友人のみだったらしい。演目は喜劇や喜歌劇と日本訳されているが、おそらくオペレッタ(Opérette)だったと思われる。内部はベルサイユ宮殿の劇場に構想を借りているが素材など非常にリーズナブルに建設されているので現在では消防法の問題がありほとんど公開されていないようです。マリー・アントワネットの子供達ベルサイユ宮殿、王のアパルトマン、メルクリウスの間1787年 マリー・アントワネットと子供達の肖像画画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)(1755年〜1842年)結婚から7年を経て子供を授かる。母性愛が目覚めて夜遊びは減ったと言う。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女 左からマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)(1778年~1851年)※ 長女 唯一幽閉生活を生き延びた王女は後に叔父(ルイ16世の弟シャルル10世)の長男(ルイ・アントワーヌ王太子)の妃となる。ルイ・シャルル・ド・フランス(Louis-Charles de France)(1785年~1795年)※ 次男、父王ルイ16世の処刑によりルイ17世となるがタンプル塔に幽閉されたまま2年後に病死。マリー・アントワネットの膝の上の子。ルイ・ジョセフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)(1781年~1789年)※ 王位継承者であったが、病弱に生まれ乳母ポワトリンヌから結核をうつされ夭折。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)(1786年~1787年)※ 第四子で第二王女であったが結核により10か月で夭折。空のバシネット(bassinet)ベビー籠はソフィーのもの。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリード・メディシス(ルイ13世妃)からウジェニー・ド・モンティジョ(ナポレオン3世の妃)まで歴代の君主の妻の為の寝室がある。フランス宮廷では秋になるとベルサイユからフォンテーヌブローに宮殿が移動する。※ 秋の狩猟シーズンにあわせているのか?役者や舞踏家、音楽家もそうであるが王家が移動するのであるから、召し使いや取り巻きの貴族も移動となる。そればかりか役職もないのにただ居候するだけの貴族もやってくるので彼らにも部屋を用意しなければならなかったそうだ。フォンテーヌブロー宮殿の客室は172室。客室が一杯になると街に部屋を用意為なければならなかったと言うのでここでも、王室は無駄な出費を強いられていたのだろう。※ ルイ16世の頃には金銭的にかなり苦しくなっていたので役者の衣装は聖別式の衣装がリメイクされたりと倹約はかなりされていたらしい。頻繁には使用しないが、歴代の王は少しずつ宮殿を改築している。1786年から1787年にかけてマリー・アントワネット自身により彼女の住居棟の一部を新たに装飾させている。新古典様式のグロテスク仕様の壁面を持つ王妃の私室。とは言え、革命の時にベルサイユ同様にフオンテーヌブロー宮殿も家具調度は略奪と競売に駆けられているので現存しているのはナポレオン時代に修復されたものと考えられる。下はマリー・アントワネットの為に1787年に考案され有名な家具師により造られたと言う寝台。天井の装飾はマリー・レグザンスカ(ルイ15世妃)の時代のまま残っている。革命が起きた為にマリー・アントワネットは結局一度も使用できず、最初にこのベッドを使用したのはナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌだと言う。しかし、革命で家具調度が略奪され部屋の調度が持ち去られているのなら、これが革命前の本物のマリー・アントワネットの寝台なのか? ナポレオン時代の修復再現による寝台なのか? 疑問がある。フォンテーヌブロー宮殿のパンフレットにもそれは書かれていない。テキスタイルの壁布はリヨンの会社が20年かけてブロケードとシェニール(モール糸)で織った絹のランパス(浮き模様)が特徴。現在の物はそのオリジナルを忠実に再現したものらしい。※ テキスタイルは経年劣化があるので当時の物でないのは確か。寝台前の椅子は昔は無かったので近年造って置かれたもの。これらは妃の為にドレスやペチコート、下着などを渡す役職を持った貴族夫人らの待機席と思われる。マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン1783年、画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)による物議をかもした肖像画がportrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王の肖像画である。公式の肖像画なのにカジュアルすぎるとされた肖像画。 ウィキメディアから借りてきました。マリー・アントワネットは最先端のファッション「レイヤード・モスリンドレス(layered muslin dress )」を身につけていた。モスリンドレスはシンプルでフェミニンなデザインでこれからの女性のドレスの主流となっていくのだが、まだ普段着の域を出ていなかった?それ以前はパニエ(panier)でスカートをふくらませたりと重く体を締め付けたりと豪華ではあるが不自由なドレスであったのだ。マリー・アントワネットが嫁いだ頃1770年の主流はローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイル(robe à la polonaise style) 下メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)から借りて着ました。ぴったりとしたボディスとスカートの後ろが3つのパフで構成されスカートには横にボーンが入り広げられている。1788王妃マリー・アントワネットの肖像 絵はウィキメディアから借りてきました。ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin)のローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイルと思われる。マリー・アントワネットの時代のファッションと言うと大きなヘア・デザインも象徴的である。大きくふくらませた頭の上にはいろんな物がのっかっている。髪を結うと言うよりは髪と髪飾りがオブジェ化して巨大化して行くのである。マリー・アントワネットは頭の上にイギリス庭園の全景を乗せて登場した事があると言う。つまり頭の上に庭園のジオラマを乗せて来たのである。そこには牧場や丘陵があり、小川も流れていたらしい。こうしたけったいな度肝を抜くヘアデザインの発端はルイ15世の崩御に伴う悲しみの表現を髪飾りでした事から始まったらしい。最初は髪の毛の中に糸杉と豊穣(ほうじょう)の角をかざし、国王の喪と新しい治世への希望を象徴するような表現をした。もちろん目的は自分のアピールでもある。オリーブの枝を刺したりから豊穣の女神が刈り入れするジオラマとなり、頭に軍艦をのせているようなものまで現れる。機械じかけで可動するものまで・・。皆趣向をこらしすぎて大きくなり馬車にのれなくなり大変な事に・・。しかも造作にはお金もかかった。この髪結いの発端を作ったのが王妃が信奉するデザイナー、マリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と言われている。彼女はサントノーレに店(Le Grand Mogol)を構えるモード商。つまり宮廷ドレス専門ブティックのデザイナー。※ 1770年オープン。シャルトル公爵夫人がパトロン?シャルトル公爵夫人を通うじ紹介されるとマリー・アントワネットはすぐに彼女の店を王妃御用達としている。マリー・アントワネットはドレスのみならず髪型のアドヴァイスもローズ・ベルタンからもらっている。何しろ元が髪結いの美容師である。※ マリー・アントワネット専用の美容師は別に存在。とにかくローズ・ベルタンのデザインセンスを気にいり王妃自身が広報活動していたのでおおいに彼女の服は売れた。フランスのみならず諸外国の貴族からもオーダーは入った。マリー・アントワネットの影響でローズ・ベルタンのドレスは長きに渡り宮廷ファッションを牽引して行く事になる。マリーアントワネットが特に好んだのが羽毛の羽根飾りだそうだ。物議をかもした写真の帽子にも、1788年の肖像画などあらゆる帽子に羽根が描かれている。※ 珍しい羽根をプレゼントする者もいたらしい。王妃と同じ物が欲しい。真似したい。と回りの婦人らが思うのは当然、マリー・アントワネットはローズ・ベルタンのおかげでモードの最先端で流行を作って行くのである。が、女性達がエスカレートして行く様に「王妃がフランスの貴婦人を破産させるだろう。」と言われたそうだ。また、これらを母マリア・テレジアは苦々(にがにが)しく思っていたようで羽根の付いた娘の肖像画にケチを付けて送り返している。1775年の肖像画 油彩 画家は宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と思われる。ところで、服一つ着替えるにもベルサイユにはやっかいなルールがあった。下着を渡す者、ペチコートを渡す者、ドレスを渡す者など仕事が細分化されていたので、他人の仕事を奪う行為は許されない。が、目上の貴族が居る場合は権利はその者に渡る。ある冬の日に下着を着ようとしていたマリーアントワネットの所に次々貴族の夫人が来るので下着は彼女らの間を移動するばかりでマリーアントワネットはいつまでも震えて待ってい無ければならない状態。水が飲みたくても、水をマリーアントワネットに渡せるのは女官長と主席侍女のみ。彼女らがいなければ水さえ飲めない不自由。当初は怒りを笑いでごまかして済ませていたようだが・・。それ故、王妃となってからマリーアントワネットはルールの簡素化を始めたのである。よって仕事を失った貴族の恨みが増える事になる。因みにルイ14世が造ったこのルールをルイ15世もルイ16世も守っていたらしい。下は1785年のマリー・アントワネットと二人の子供の肖像。 ウィキメディアからの写真です。ドレスはローブ・ア・ラ・ポロネーズ? バックにはプチトリアノン庭園の中にある愛の神殿(Temple Amour) マリー・アントワネットお気に入りの羽根飾りの付いた帽子王妃の村里 ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」の中で王妃の村里については紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたので、王妃の関心はまずはプチトリアノンの改装に向かう。次に庭園造りに励む。※ 当時はイングランド・ブームが起きていた。庭園はイングリッシュ・ガーデンであったと思われる。庭園のみならず、トリアノンの域に「王妃の村里」ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)と言う村をまるごと造っている。しかし、そこでマリーアントワネットは農作業をしたわけではなく、ただ彼らの労働を眺めて居ただけ。むしろ王妃の村里自体をサロンとして利用していたと思われる。実際の農村と言うよりは、ランドスケープ(landscape)にこだわって、水車小屋を造ったり、見晴らしと塔を造ったりと、絵になる景観の良い村里なのである。この庭園や村は王妃マリー・アントワネットの理想郷(ユートピア・Utopia)として造られた物と思われる。(現在の庭園はそれに匹敵していない。)庭園と村里については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットは本宮殿での儀礼の簡素化をすすめたが、うっとおしい貴族の目から解放されるプチトリアノンでの生活をより好んでいた。問題は王妃のプチトリアノンや村里には限られた貴族しか出入り出来なかった事だ。マリーアントワネットの失敗はお気に入りのわずかの取り巻きのみをプチ・トリアノンや村里に呼んだので貴族の中に差別を造ってしまった事だ。マリーアントワネットの浪費「麗しいからっぽの頭」とはオーストリアの兄ヨーゼフ2世がマリー・アントワネットにつけたあだ名だ。彼女の浪費や経済改革をしていた大臣の罷免をするよう働きかけるなど無謀な振る舞いにあきれての事だ。ローズ・ベルタンの店「Le Grand Mogol」だけでもかなりの支払いがあったと思われるが・・。1775年の末に50万リーブルのダイヤのイヤリングを購入。さらに25万リーブルのブレスレッドを購入。その為に借金までしている。資料には1972年でトータル75万リーブル(1億5000万フラン相当)とされている。※ 1972年のフランス通貨はユーロ導入前のフランが使用されていた。フランは当時変動相場制であったので1972年の平均値は1フラン60.04円。1億5000万フランを換算すると当時の日本円で90億600万円相当になる。最もフラン(Franc)はどんどん暴落していくので1972年の90億600万円の価値は、現在は無いかもしれない。母、マリア、・テレジアは「将来の心配で胸が張り裂けんばかりだ」と手紙を書くと、娘は「こんながらくたの事で・・」と返す。母の言葉も兄の言葉ももはや届かない。遊びも外出が増え、オペラ座の舞踏会に朝までいたかと思えば一度ベルサイユに戻り今度はブローニュの森の競馬に出かける。それも各国大使の謁見をすっぽかしてだ。競馬にはまり馬の頭数はを300頭を越え先代王妃よりも20万リーブル多く40万リーブル以上の出費。夫、ルイ16世が古いフロッグコートを着ているのに対して、マリーアントワネットはゴージャスな毛皮をまとって舞踏会から朝帰り。金銭感覚は無かったのかもしれないが、プライドはあった。だから歴史に残るサギ事件に当事者として巻き込まれる事にもなった。「首飾り事件」の首飾りはもともとルイ15世がデュ・バリー夫人の為に発注していたダイヤの豪華ネックレスであった。ウィキメディアからの写真です。レプリカです。本物は当時、詐欺師にバラされて売り飛ばされている。ルイ15世が崩御したので宝石商はマリー・アントワネットに買い取ってもらいたかったのだが彼女は断る。値段もさる事ながら、それはデュ・バリー夫人の為の品であったからだ。高価なネックレス160万リーブルをどうしても売りたい宝石商とマリーアントワネットに好意を持つ問題ありの聖職者ローアン大司教がサギ師にひっかかったのだ。※ 1784年発覚し1785年裁判。※ 先の計算によれぱ160万リーブルは192億1280万円当時で軍艦2隻が買えたとか・・。それ故、マリーアントワネットには何の落ち度も無かったのだが、評判の落ちていたマリー・アントワネットが首謀者のように語られる事になり、より評判を落として行ったのである。フランス王宮の財政難については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」ですでに紹介しているが、ルイ15世の時代の7年戦争の債務に加え、ルイ16世がアメリカ独立戦争につぎ込んだ13億リーヴルと合わせてトータルで33億1510万リーブルの借金を抱えている。先に紹介した宮殿の改築や季節の移動など諸経費、ベルサイユなど王宮の維持費、衛兵含む雇用人の費用に加え、貴族への報酬など考えれば、マリー・アントワネットに贅沢の余地は無い。そもそも彼女は最高の王家に嫁に来たと思っていたからお金はいくらでもあると思っていたのかも・・。もはやフランス王宮は火の車。破産確定のところまで来ていたのだから彼女が賢ければ、贅沢はなかったかも知れない。夫(ルイ16世)が妻に優しすぎて何も言えなかったのか? いや、そもそも彼には妻に意見する気は何も無かったのかもしれない。ルイ16世は、パリ市の災害の時にも個人的に寄付を行っている。また毎日、朝に散策しては貧しい者に多少のお金を渡したり、裁きから助けたりしている。彼は本当に心優しい王であった。統治者としての王の能力は無かったが・・。革命後の放浪1789年5月、全国3部会が失敗に終わり、7月14日革命が起こる。革命後、国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄が移送される。この時、最後まで誠実に王妃に従ったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけだったと言う。※ さんざん寵愛され、一族まるごと優遇され批判の対称にもなったポリニャック公爵夫人は早々に亡命している。1791年6月20日、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。オーストリアにいる兄レオポルト2世の元に亡命するつもりでフェルセンに力を借りたのだ。が、王妃のワガママにより計画が大幅に遅れ、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し逃亡計画は失敗する。これにより国王一家は親国王派の国民からも見離され、パリ市民の怒りを買った。それまでは比較的自由にすごしていたのに、以降はテュイルリー宮殿の国民衛兵によって厳重な監視下に置かれる事になった。1792年6月20日武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。そして王政の廃止を最初に口にするジロンド派。1792年8月10日、民衆の総勢2万はくだらない大集団がテュイルリー宮殿へ向かった。一方、国王の側は、宮殿にルイ16世が契約していた950名のスイス人の傭兵。宮殿外に議会によって解散させられた元近衛兵や田舎から出てきた王党派支持者の若者(通称「聖ルイ騎士団」)、200〜300名とパリから国民衛兵隊2,000名が国王のために集結。スイス人の傭兵はかなりがんばったのに結局はルイ16世の采配のまずさで降伏となり最終的に生き残ったスイス人兵士等も殺害される。※ 以前「ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」でこの悲劇で亡くなったスイス傭兵の事に触れています。スイス側の資料では786名のスイス人兵士が亡くなったと記録されていた。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃で蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止が宣言される。この後、ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、マリー・テレーズ王女、ルイ・シャルル王太子、王妹エリザベート王女は脱出の難しい古い城塞に幽閉される事になる。タンプル塔(Tour du Temple)ウィキメディアから借りてきました。1792年8月10日市民によるテュイルリー宮殿が襲撃され国王一家は宮殿ではなく、タンプル塔に幽閉される事になる。(とりあえず内装工事はされたらしい。)※ 8月12日に移送場所の審議がされるがいつ移動したかの記録が無い。ただ9月3日にはタンプルに居る事が記録されている。タンプル塔では、従者2名、侍女4名の随行が許された。幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり家族の団らんもあり、使用人も雇えたので豪華ではないにしろ、後に革命裁判で移される旧王宮、コンシェルジュリーよりはましな生活がおくれていたと思われる。マリー・アントワネットの部屋には空色の絨毯が敷き詰められ、エンボス加工の青と白の絹の布が壁に貼られ、肘掛け椅子も置かれていた。折りたたみのハートの椅子も置かれ、ささやかながら優雅な部屋が造られていたらしい。そもそもバスチーユの監獄にしても、家具調度も持ち込みできるし、料理人を雇う事もできたし、娯楽室もあったと言う。好んでそこに住む者がいたと言うくらいフランス王政下での政治犯に対する扱いは悪くはなかった。とは言え、8月19日の晩にどこかに連れ去られたランバル公爵夫人の無残な遺体をわざわざテンプルまで引きずってマリー・アントワネットらに見せに来ると言う嫌がらせをされていた。マリー・アントワネットは見てはいないがその事実に気絶したらしい。ところでタンプル塔はもともとテンプル騎士団のパリの事務所でした。そもそもテンプル騎士団の解散はフランス王、フィリップ4世( Philippe IV)(1268年~1314年)がテンプルに借りていた多額の借金踏み倒しと、資産の没収が目的の蛮行であったと思われる。※ バチカンは正式謝罪はしていないようだが、認めている。1312年テンプル騎士団は解散。1313年総長ジャック・ド・モレーはシテ島の王宮前でフィリップ4世によって火刑にされる。テンプルの資産はヨハネ騎士団が引き継ぐはずであったのに、フランスだけはフィリップ4世が総取りし、タンプル塔(テンプルの事務所)だけがヨハネ騎士団の所有となっている。※ テンプル騎士団については以下に書いています。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)テンプル解散後は修道院になり、バスティーユ監獄が完成するまで牢獄にもなっていた曰くのある場所であった。ここにマリー・アントワネットやルイ16世が幽閉されていた事もあり、ナポレオンがこの塔を忌み嫌い1808年に取り壊されている。1790年のマリー・アントワネットの肖像画1789年にエリザベート=ルイーズヴィジェ=ルブランがフランスを去るとポーランドの肖像画家Alexander Kucharsky (1741年~1819年)がマリーアントワネットの画家となる。彼は幽閉中のタンブル塔で彼女や子供達を描いたと言われている。上の肖像画が1790年頃とすればヴァレンヌ逃亡前なのでタンプル塔ではない。因みに先に紹介したマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンは1793年2月、ロンドンへ渡るがその後もマリー・アントワネットの注文に応じドレスを届けたと言う。一説には、デザイナーとして宮中に出入リしていた彼女はメッセンジャーとして活躍したとも言われている。1793年のマリー・アントワネットの肖像画 上と同じポーランドの画家による衣装を喪服と考えるとルイ16世が処刑され亡くなった1793年1月21日以降からマリーアントワネットがコンシェルジュリーに移動される8月までの間にタンプル塔で描かれた肖像画と思われる。※ 衣装はマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンの作品だろう。パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)旧王宮、現 裁判宮 (Palais du Justice)ファサードまさにこの裁判宮の正面広場でテンプル騎士団が火あぶりの刑に処されている。フィリップ4世は宮殿の窓からそれを見ているのだ。1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。1793年8月2日、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され裁判が結審するまで閉じ込められる事になる。※ コンシェルジュリー(Conciergerie)は旧王宮であり現裁判宮の一部である。セーヌ川からのコンシェルジュリー(Conciergerie)5世紀、メロヴィング朝の時代に宮殿の基礎が築かれたと言う。かつては王が裁判で判じていた。ここは王宮でなくなった後も裁判所として残ったのだ。下、宮殿がこの形になった当初は王宮の食堂であったらしい。セーヌ川が反乱すると水に沈んだ広間。ネズミが行き交うジメジメした衛生の悪い場所。ここは革命裁判の時は一般の牢獄に利用された。リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)上のホールの左手方面、中庭に面した部屋に結審するまでマリー・アントワネットが入れられていた独房が下。若干部屋の位置は異なるが再現されている。部屋の中では、常に兵士2人が監視。マリー・アントワネットの最後のベッドは粗末な代物。実際は布団くらい差し入れできていたかもしれない。何しろ牢屋の環境は金銭でいくらでも改善できたからだ。1793年10月16日、コンコルド広場で夫と同様に元王妃マリー・アントワネットはギロチンにより刑が執行された。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」前日に義妹エリザベートに宛てた手紙であるがロベスピエールが秘匿し、この手紙の存在は1816年まで解らなかった。裁判自体がろくでもない罪状であったから理不尽な処刑であったのは言うまでもない。問題は「どうして市民が王様を殺す」等と言う状況を生んだのか? と言う事だ。諸外国も王政であるだけに、フランス市民の蛮行は許される事ではなかった。サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)歴代フランス国王ら王室関係者の埋葬墓地です。現在は大聖堂に格上げされています。下は1844年から1845年のサンドニの教会です。 写真はウィキメディアから革命以降うち捨てられて荒廃。ナポレオンにより修復が勧められたが、建築家ドブレの修復は重量計算もできなかったのか? 重すぎて1846年に取り壊さざるおえなくなったと言う。上が取り外された後、ノートルダムで問題の修復をしたヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)が1847年今の姿に・・。※ 首を持つ聖人サンドニの事もそこで紹介しています。サン・ドニ教会のルーツです。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題下はルイ16世とマリー・アントワネットの慰霊碑です。 こちらもウィキメディアから借りた写真です。革命で弾劾(だんがい)されギロチンで公開処刑された二人の遺骸は当初パリのマドレーヌ墓地に並べられた。王政復古の時にルイ18世が捜して王家の墓所にやっと葬られる事になったが、遺骸は一部しかなかったと言う。※ 王政復古が無ければ二人の遺物は何一つ見つからなかったであろう。取り外される前のサン・ドニの教会革命をあおったマスコミ冒頭触れたが、革命に至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。フランスの歴史において、16世紀末の宗教戦争時にはすでにマスメディアによる情報が市民を動かしていたらしい。印刷技術の進展は新聞やチラシを出現させた。確かに「全国三部会の開催」に王はマスメディアの力を借りているが、マリー・アントワネットの評判が落ちたのもこれらマスメディアによる所が大きかった。事実ではない噂話しが事実のようにマスメディアで流される。これは現在もある事であるが、今よりも情報が限られていた事。また市民がそれを見極められ無かった事により市民は心情を扇動されて行ったのだ。1789年7月、革命の後も食糧難は続いた。パリに小麦粉が無くなりパンが不足した。市民はそれを反革命派の陰謀とした。が、実際は1770年以来、不作が続いて小麦粉不足となりパンの値段が高騰したものだった。また商人たちの買占めや売り惜しみもあり1775年の時は市民が王に直訴するべくベルサイユに赴き小麦の値段を下げてもらうと言う事件があった。1789年の革命においても、女達がベルサイユ行進したのも王に直訴する事が狙いであったと思われる。※ 行進は違った意味に解釈されている。有名な「パンではなく、ブリオッシュ(菓子パンの一種)を食べればいいのに」と言ったエピソードはルソーの「告白」の中の一説らしい。20年以上前の出版物でマリー・アントワネットが言ったわけではなかったが今に至るまでそれを信じている者は多い。話しは戻って、革命期に新聞の数は増大する。出せば売れるから参入も増えた。また所謂(いわゆる)ビラの発行はとんでもない数に上る。ビラや冊子に通番がついて現在の週間誌の前身のような物も出現する。検閲をくぐり抜けた発行元不明のビラも増えて行く。煽動(せんどう)的な出版物に対する処分もあるにはあったらしいが、論点はだんだんにズレて行く。誤発信もあったであろうが、間違った解釈を訂正する物は無い。当初はそう言う目的では無かったはずがマスコミ同士の出版合戦で市民は王を憎む所まで持って行かれたのだ。後は祭りのような物である。一度燃えた闘志は頂点に達さなければ昇華(しょうか)できない。つまり行く所まで行かなければ納得や満足ができない状態だ。もはや王族を殺さなければ腹の虫が治まらない。と言う市民感情が造られたのだ。1783年、王妃マリー・アントワネットの肖像Marie-Antoinette with the Rose画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)物議をかもした肖像画portrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王を正装にして書き直した作品かも。最も可憐で美しかったオーストリアの姫は至上最高の王族に嫁ぎ、悲劇の王妃となってしまった。確かに彼女の贅沢は目にあまる金額ではある。が、ルイ14世の時代を考えればそれほどのものではない。むしろアメリカの独立戦争での負債の方が遙かに大きい。そのアメリカ独立を助けろと言ったのも市民である。そうか、これもブルジョワジーだね。※ ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、ただの市民ではなく、財力を持つ有産階級である。つまり資本家。当然学識もある。「民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」?フランス革命の本質は啓蒙思想を知るブルジョワジー(Bourgeoisie)から発信された陰謀か・・。「マリー・アントワネットの居城」全4編終わります。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃 マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃その他Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)