アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
デルフト(Delft)の写真を追加しました。関係上、今回は宗教の話が中心になりました。なぜなら、今回メインになるネーデルランド(オランダ)はプロテスタント(Protestant)の国。これに触れないわけにはいかないのです。プロテスタント(Protestant)はカトリック教会(Ecclesia Catholica)から大きく分派した宗教集団ですが、その特性はカトリック教会からの乖離(かいり)から始まっているので両者の対立はすさまじかった。16世紀初頭から17世紀、その対立は、やがて各国の政策にも影響を及ぼし、どこの国にも大騒乱を引き起こしたのです。歴史的に避けるわけにはいかない重大案件なのに日本の世界史ではあまり触れない欧州史。それはカトリックとプロテスタントと言う欧州を分けた2つの宗教が解っていないと事の重大さがわからないからかもね※ カトリックについては以前からかなり詳しく紹介しています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナこのプロテスタントと言う宗教はたまたま大航海時代に重なるように発生して広がっている。しかも、プロテスタント(Protestant)の先鋒(せんぽう)がネーデルランド(オランダ)。前回、スペイン帝国の話と共にネーデルランド(オランダ)が台頭してくる所で終わったのでこのタイミングでプロテスタントの説明を私流に簡略ですが入れ込みました。プロテスタントについては、そもそも、万人が理解できるような説明している所が無いのです。教会自体も、世間からしたら、カトリックの教会系か? プロテスタント系か? 一見では解らないのがほとんどです。それくらい両者は似ているけど、似て非でもあるのです。写真は、80年戦争で英雄となったオラニエ公からデルフト(Delft)の写真を中心に選択。以前デルフトは公開しているので被る部分はあると思います。また、このデルフトには大航海時代に造られた海に関する国際法に関係する人物もいたので加えました。アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭プロテスタントの台頭とカトリックの戦いプロテスタントの改革諸派贖宥状(しょくゆうじょう)が発行されるに至った経緯ルター派とカルバン派 誕生の経緯カトリックとプロテスタントの違い[1] 聖書のみ[2] 万人祭司[3] 義認の教理[4] 統一組織[5] その他プロテスタントのヴァニタス(vanitas)画「人間の人生の虚しさ」の寓意「虚栄のはかなさ」の寓意独立の父 オラニエ公ウィレム1世オラニエ公の暗殺オラニエ公ウィレムの最後の言葉オラニエ公の霊廟国際法の父 フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)国際法ができた訳フーゴー・グローティウス亡命の件ネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由(前回落ちた分)集団肖像画と自警団デルフトのヴィッテ・ヴェンデルの士官たち夜警(The Night Watch)聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会ネーデルランド(オランダ)の外洋進出は、割と急激に行われた事が解り、17世紀初頭にはあっと言うまに東南アジアを物にしていた。武力行使が凄かったと言うのが理由ではあるが、ポルトガルの追い出し方やイングランドとのアンボイナ虐殺など見ると非常に強引で残虐なやり方なのである。また、海上の船を強制的に拿捕しての略奪なども行っていた。アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)に至っては国による取り決めも無視して一方的に武力行使。(後でまた触れます。)獲った者勝ちの理論がまかり通っていた進出の仕方。倫理的にどうなのか? 宗教的に許されるのか? ネーデルランドはプロテスタント(Protestant)の国。カトリック(Catholic)とは倫理観も違うのか? 前回ちらっと書いたが、ネーデルランド(オランダ)はプロテスタント信仰に変わりローマ教皇圏から完全に外れた。つまり治外法権になったので、教皇の粛清(しゅくせい)も届かない。とは言え、プロテスタントだって教義の中心(使徒信条)はカトリック教会とほぼ同じ。つまりプロテスタントも今まで通り、イエス・キリストを主とした信仰に変化は無いはずだが・・。三位一体(Trinitas)の教義の確立も、イエスの復活信仰も変わらない。また、ナザレのイエスの死を通しての贖罪も認めている。ではカトリックとプロテスタントは何が違うのか?それが、ネーデルランド(オランダ)の進出の仕方に関係あるのではないか? と考えてみた。プロテスタントの台頭とカトリックの戦いマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)が起こした宗教改革(1517年)から発展して登場した新宗教「プロテスタント(Protestant)」は、最初フランドル北部に広がる。※ 80年戦争以降、フランドル北部の17州は「ネーデルランド17州」として共闘。後のネーデルランド(オランダ)となる。そもそもフランドルはかつてのブルゴーニュ公領の一角。カール5世はブルゴーニュ公女の孫。※ 以前、「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の所でブルゴーニュ公領の事は説明。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)新教のプロテスタントがネーデルランド(オランダ)全域に広がる頃、ネーデルランドの領主がカール5世から息子のフェリペ2世に代わると言う代替わりをした。※ 以前は神聖ローマ皇帝の支配下に属していたが、フェリペ2世からハプスブルグ家はオーストリア系とスペイン系に分裂。ネーデルランドはスペイン系ハプスブルグ家の所領になった。つまり、フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)の即位(1556年)からスペイン・ハプスブルグ家による少し強めのカトリック所領となった事で、新興してきたプロテスタント勢力との宗教摩擦が始まったのである。1566年、プロテスタント民衆の反発(聖像などの破壊活動)が始まるとスペインは軍隊を出動。それはスペインとの80年に及ぶ戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)に発展して行く事になる。(前回詳しく説明済み。)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防プロテスタントの改革諸派新教(プロテスタント)問題は、ルター派以降、改革諸派が現れる。要するに新教(プロテスタント)は、カトリックをベースにしてはいるが、指導者により解釈、あるいは切り捨てる箇所がかなり違ったと言う事だ。つまり、解釈を異にする多数の諸派が生まれるに至ったのだ。※ ルター派の正式名称はルーテル教会(Lutherische Kirchen)プロテスタント諸教派(聖公会、アナバプテストを含む)の系統概略※ ウィキペディアにあったプロテスンタントの教派・潮流の略図をお借りしました。徐々に他国に伝わり、隣国フランスでは40年に渡るユグノー戦争(1562年~1598年)を引き起こし、宗教対立は国内を二分してたくさんの死者を出している。※ ユグノー(Huguenot)はフランスのカルバン主義者。海を越えたイングランドでも清教徒革命(Puritan Revolution)(1642年~1649年)が起きてイングランド・スコットランド・アイルランドは内戦が勃発。それは今に続くアイルランド紛争の要因ともなっている。※ イングランドのピューリタン(Puritan)はプロテスタントの事であるが改革諸派がいるので一つではない。また、それらは清教徒(Puritan)のアメリカへの移民の要因でもある。※ メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)。新大陸のプリマスに上陸したのが41/104人がイングランドからの清教徒(Puritan)。彼らは迫害を逃れて新天地に渡った。移民と言うよりは亡命に近い。※ アメリカ中部大西洋とニューイングランドへの移民の多くはカルヴァン主義者だったらしい。結果的にはフランスの君主はカトリックで落ち着き、イングランドでも王政復古(1660年)し、王室を頂点とするイングランド国教会で収まったが、どちらの国もひどくもめたし、影響は残った。プロテスタントの台頭とカトリックの対立は、16世紀から17世紀の欧州各国で大混乱をもたらしていたのである。しかも、それらは、欧州各国の海洋進出の時期に重なっていたのだから驚いた。贖宥状(しょくゆうじょう)が発行されるに至った経緯ルターが激怒したきっかけがカトリック教会による贖宥状(しょくゆうじょう)の乱発である。善行をするわけでもなく、ただお金を支払う事で天国に行けるなどあり得るわけがない。ヒートアップしてくると、聖遺物をたくさん見る(お金を払って)事でより天国は近づいたらしい。神学教授であったルターが、特に憤りを感じた部分だろう。※ ルターのいたヴィッテンベルク(Wittenberg)は聖遺物の収集でもヨーロッパ最大であった。※ 日本では免罪符(めんざいふ)とも呼ばれるが、これは誤訳とされる。以前書いているが、そもそもはマインツの司教が借金を返す為に始めた行為(お札販売?)だった。その集金方法でローマの為にお金を集めたのだ。ルター派とカルバン派 誕生の経緯事の発端は、ローマで老朽化したバチカン(Vatican)のサン・ピエトロ大聖堂(St. Peter's Basilica)の再建費用の為にお金が急務となった事。ローマ教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)は、建築家ブラマンテ (Bramante)(1444年頃~1514年)にバチカン(Vatican)の再建計画を依頼している。1506年、礎石。1515年、集金目的の贖宥状(しょくゆうじょう・indulgentia)は教皇レオ10世(Leo X)(1475年~1521年)の名の元に発行が始まった。実際、サン・ピエトロ大聖堂建設には120年、広場を含めた装飾にはさらに50年と、壮大な時間と費用がかかってバチカン(Vatican)は再建されている。ルター派(ルーテル教会)1517年、神学者マルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)による問題提起(95ヶ条の論題)がカトリック教会に出された。そもそもは贖宥状問題に端を発した疑問の数々である。ルターは大学の神学教授でもあったから、キリスト教を神学的に解釈して煉獄(れんごく)と贖宥状(しょくゆうじょう)の否定か? とも思ったが、それらが全てではない。司教、主任司祭らの説教についても言及しているし、86項目に教皇の方がお金をもっているのだから教皇が自身のお金で教会を建てるべきとも主張している。この際、腹がたった事を全て言葉にして提出してみた。・・と言う内容かも。因みに、これらはヴィッテンベルクの教会の門に貼り出された。とは言うが、ラテン語で書かれていたので一般庶民は読めなかった。1521年、怒ったローマ教皇はルターを異端と断定。破門とした。ルターは、ヴァルトブルク城(Wartburg Castle)でフリードリッヒ3世にかくまわれ聖書の翻訳活動をしていた。1522年、ルターによるドイツ語翻訳の「新約聖書」初刊発行。爆発的に売れて増刷が間に合わないほど。※ ルターの聖書の独占印刷権を獲得したのが友人であり画家でもあるルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)である。以前クラナッハの所で紹介しています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)1545年、トリエント公会議にて、カトリック教会はプロテスタントの宗教改革に対する見解と姿勢を明確化した。1555年、ルター派(ルーテル教会)はアウクスブルグの和議により条件付きでドイツ国内での法的権利が認められた。※ ただし、個人単位ではなく、自治体毎申請。領主がカトリックかプロテスタントを選択する都市単位の宗教選択だった。要するに、カトリックの町かプロテスタンの町かをハッキリ決めさせた。この為に自分の信仰と違った場合、住民には移動の経過措置がとられている。※ 例えば、アントウェルペンの場合、改宗できないプロテスタント住民は都市やハプスブルク領を離れる前に4年間の猶予期間が与えられた。因みに、アウクスブルグの和議では、カルバン派の信仰は認められなかった。1580年、ルター派の教理的な立場を示す「和協信条」が制定。ルター派の三大原理、聖書のみ信仰義認万人祭司の確立カルバン派ジュネーブに亡命していたフランスの神学者ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509年~1564年)から始まる。一部ルターに同調はするものの、改革内容は、むしろスイスの宗教改革者、フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)(1484年~1531年)の流れを汲んでいるらしい。1536年、カルヴァンの著「キリスト教綱要」出版。※ 聖書註解は、教会の信仰告白文書に大きな影響を与え、改革派教会の思想をヨーロッパに広めた。1610年、ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議にて改革派(カルバン主義)の神学が論議され93の教会法を制定し、ベルギー信仰告白とハイデルベルク信仰問答の権威を確認。5つのカルヴァン主義の特質が定義された。全的堕落 (Total depravity)無条件的選び (Unconditional election)制限的贖罪 (Limited atonement)不可抵抗的恩恵 (Irresistible grace)聖徒の堅忍 (Perseverance of the saints)カトリックとプロテスタントの違い前回、「プロテスタント信仰ができた訳」については、簡略に紹介しました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防今回は両者の思想の違いについて簡略にまとめました。最も、プロテスタントは一つではなく、多数の教派に分裂して行ったので当てはまらない教派もあるかも。以下は、ほぼルター派です。[1] 聖書のみ・・ローマ・カトリックが行ってきた祭祀祭礼をプロテスタントは全て否定した。教えは、全て聖書の一言一句から。聖書は神の言葉であり、信仰生活は聖書の啓示をよりどころとする。教派で若干の違いはあるルターの不満は、カトリックの教会自体にあった問題がほぼ全て。キリスト教自体を批判した訳ではなかったが、そもそもカトリックの典礼の多さも問題である。※ ルターの95箇条には聖人についての否定は無い。当然、典礼の元となる「聖人信仰」も聖書になければ、基本否定である。※ ルーテル教会は聖ベネディクトゥスに関しては認めている。聖母マリアに対しても、敬意は示しながらも基本否定。(崇敬している教派もあるらしい。)※ 確かに「無原罪の御宿り」や「聖母の被昇天」の話は聖書の記述には無い。カトリックにおける聖母の扱い問題は、それこそ第1ニカイア公会議(325年)以降で決められた事だった。因みに、聖母信仰の拡大は、十字軍の進軍以降に重なる事から戦士らの母(母への思慕)が重ねられているのではないか? と推察する。13世紀以降、欧州各地に聖母に献堂する教会がたくさん建設されていく。それは流行のように欧州各地に広がっている。それが示すのは欧州人が純粋にキリスト教的に生きていた。と、言う時代を語っているのかも。とは言え、聖書が読め無ければ話にならない。聖書はラテン語からドイツ語に翻訳された事でかなりハードルは下がったものの、識字率は相変わらず低い。だから聖書の読める知識人、つまり学識のそこそこある商人や支配者階級、学者などからプロテスタントに改宗する者が多く出たのかもしれない。※ 以前、欧州の識字率の事書いています。「ノートルダム大聖堂の悲劇 4」冒頭です。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠[2] 万人祭司・・プロテスタントでは 基本、「信仰は神の言葉である「聖書」のみ」とされ、信者の信仰生活は聖書の言葉をよりどころとしている。聖書以上の教えは無いのだから、カリスマ的指導者の説教もない。洗礼を受けた者は「万人祭祀」と言われ、信仰する者、誰もが祭祀と言う考え方らしい。つまり、プロテスタントには司祭がいない。それ故、プロテスタントの信仰には階級が存在しない。教会に装飾も無い。へたをすれば集会所だけがあれば良い。と言う考えらしい。1つ目も2つ目もカトリックの悪例? を排除した。と言う事でそれはまだ理解できる。大きく違うのが、3つ目、イエス・キリストの贖罪(しょくざい)以降の解釈問題だろう。[3] 義認の教理・・ルター派は「信仰義認」を中心に据えた。神の前で義とされるのは行為や祭礼ではなく「信仰のみ」とした。これは原罪(げんざい)後の解釈の問題に大きく影響する。※ 原罪(げんざい)とは、アダム(Adam)とイヴ(Eve)と言う人間が、神の楽園で犯した木の実の窃盗事件。※ キリストはこの原罪で人が負った罪を一人で神に贖罪(しょくざい)した。そして、許された。プロテスタントでは、人は善行ではなく「信仰によってのみ義とされる」と、パウロ書簡(パウロの義認論)を根拠として説いた。それに対して、カトリックでは「善行により神は人を義とする。」として人々に善行するよう進めていた。この場合の「義」は「正しい」とか「良い」とする概念。プロテスタントでもイエス・キリストの贖罪(しょくざい)は認めている。だからそれ故、神への贖罪は終了しているので、自分らがさらに贖罪する必要は無い。と考えてるらしい。カトリックでは、キリストは原罪への償いをしてくれた。だが、人は自身が個々に善行を積む事で自身が救いに預かる。と教えている。カトリックの救いとは、死後の復活の時に天国(神の国)に行けるかどうか? と解釈され皆、善行に励んだのである。※ 天国論は、ヨハネの黙示録由来。中世、ダンテ執筆の「神曲」からの流れからより強まったと思われる。(神曲の天国篇は1316年頃~1321年に書かれ完成した。)ただ、そこに贖宥状(しょくゆうじょう)問題が勃発した。「教会への寄付が善行である。」とする考え方、それは「善行をお金で買ったに同じ。」教会が、人々の善行に付け込み、お金を集めたのがそもそもの事の発端だ。だからルターは神学者として、そこを否定したのだろう。パウロの書簡を根拠に挙げて・・。※ 聖書の解釈、神学論は古(いにしえ)から論争もあり正解は出ていない?そもそも、文章読解力の能力が有るか? 無いか? で解釈は正反対にもなる。ある事象に関して、人の考えがそれぞれなのは、そもそもそ読解力の差(能力)問題も多分にありそう。難解な国語の論文が解ける人と解けない人の違いが答えを複数にする。最近、YouTubeのコメントを読んでいて、そう思ったのです。ちょっと腑に落ちないのが、浄財はともかく、良き人になる活動も必要ない?信仰心があれば良い?その信仰とは、どこまでの何の行いを指すのだろう。(・_ ・。)?プロテスタントでは、神に悔い改めの祈りをささげたなら、許されるの?大罪した後でも、ゴメンナサイと祈れば許されるの? (・_ ・。)?このあたりの解釈は私には分かりません。ネーデルランド(オランダ)の快進撃には、そもそもポルトガルのものを奪う。その為には皆殺しもあり。ゴメンナサイすればそれら悪行も許されるのか? やった者勝ちにしか思得ない。都合の良い解釈。でも判断も自分であるなら、「私は許された。」と言う事になるの?これは諸派で違いそうだが・・。実は、カルバン派はここの解釈が大きく異なる。カルバンが提唱したのは、神の救済にあずかる者と滅びに至る者はあらかじめ決っている。と言う「予定説」である。善行をしようともしなくとも、救われる者は最初から決まっているのだから何もしなくても良い?プロテスタントの中でも少数派と言われるこの解釈の元は「アウグスティヌスの見解」だと主張しているらしいが、その解釈そのものが間違っている。との反論も・・。カトリック教会はトリエント会議(1545年)にてカルバン派の「予定説」を異端として排斥している。「予定説」、仏教の「縁起(えんぎ)」の考えからしたら全否定ですな。そもそも、カトリックにおける「善行を積みなさい」と言う教えは「天国」とか「救い」とか言うよりは、本来は道徳的意味あいが多分に込められた教えであったと思う。つまり、教会による人の生き方の指導である。「天国」や「地獄」のワードも、そもそもは民衆が理解しやすいように造られた例えと考えられる。因みに、それは古代インドの死生観である六道輪廻(ろくどうりんね)の考えに同じだ。そもそも、キリストが代償(だいしょう)してくれたから、自分は何もしなくて良いと言う考えはどうなのか? 何をしようとも、すでに決まっているから何もしなくて良い? と言う「予定説」もねー。人として生きる上で高尚(こうしょう)であれよ。と、私は思うのだが・・[4] 統一組織・・カトリックがローマ教皇を中心とした統一組織を持つのに対して、プロテスタント全部の統一組織は無い。教派も複数存在し、さらに複数の団体が存在する。カトリックはローマ帝国の国教になる時に皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)が教義の統一を図っている。そのおかげで、ローマを総本山とする「ローマ・カトリック」として信条を統一する団体が造られた。ローマ教皇がそのトップにいて、教皇の意向は絶対である。教皇が仲裁すれば、争いも止めざる負えない。因みに、スペインやポルトガルはローマ教皇の為に、未開地に布教し、キリスト教を広めると言う活動も植民地開発と同時にしていた。一方、プロテスタントの方は複数の教派があり、多様性がある反面、カルト的な団体もあるらしい。プロテスタント誕生はそもそも神学者のルターの訴えが最初であったので、一つかと思いきや、ルターに同調する部分はあれど、意見を異にする部分(解釈の違い)もあり、複数の教派が生まれるに至ったらしい。ところで、日本にもたくさんのプロテスタントの教派が存在していた。キリスト教の学校と知ってはいたが、立教大学、明治学院大学、同志社大学、青山学院など全て宗派が違っていた。 しかもプロテスタント系だったとは全く知らなかった。プロテスタントの信仰とは、聖書の言葉を理解し、実践する為に努力する。それは簡単にできるものではないが・・。そもそも聖書の言葉を理解する。と言う行為は神学論に同じ。天国に行く為に善行を行いガンバって生きる。というカトリックの方が単純でシンプルで解り易い。プロテスタントはそもそもここを否定しているからね。いずれにせよ、どちらの宗教も真面目にしっかり生きよう。と言うのがを根底には見える。[5] その他カトリックでは、離婚禁止。避妊禁止。※ イングランドがカトリックから離脱せざるをえなかったのは、王の離婚が原因の破門で始まっている。離婚要因から宗旨変えした者も多かったのでは?死に関しても条件があり、カトリックでは、死後の復活の概念から遺体を火葬して埋葬する事はできない。※ カトリックの知り合いが、海葬を希望。海葬を希望するなら教会での葬儀もできない。と断られている。最終的に海を希望した知り合いは、宗旨替えとなり、魂抜きの為に2か月ほど? 遺骸(遺骨)を保管しなければならなかった。また、自殺した信者の場合、教会の墓地への埋葬も拒否される。※ 以前、ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) のロセッティの描いた「Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)」の絵画を紹介した時に解説。ロセッティは妻の自殺を隠す為に遺書を燃やしている。リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝総じて、カトリックは歴史が長い事もあり、条件も多い。シンプルに信仰したい人にはプロテスタントの方が制約は少ないのかも・・。そもそも欧米では、何かしら信仰をもっていないと「人に非ず」的な所があるからね。日本人のように「特定の信仰を持っていない人が多数」は逆に世界からしたら不思議なのだ。プロテスタントのヴァニタス(vanitas)画前々回、退院報告をした時の回「大航海時代の静物画」で、大航海時代に突入したオランダの静物画を紹介しました。それは交易の見本品の静物画でした。その回でヴァニタス(vanitas)画についても触れていますが、今回は、80年戦争を経て新たに生まれたプロテスタントの死生観を持つ? ヴァニタス(vanitas)画の紹介です。新教(プロテスタント)には聖人の図像などのカトリックで言う宗教画はありません。代わりに、プロテスタントの人々の信仰に寄り添った戒めの静物画が描かれたようです。ローマ時代からヴァニタス(vanitas)画は存在していると以前から紹介していますが、ヴァニタス(vanitas)画がポピュラーになるのは、むしろプロテスタント下で勢力拡大したネーデルランド(オランダ)の黄金時代あっての事なのかもしれない。プロテスタント信仰と言うのは、それらヴァニタス(vanitas)画が示す所に表現されているのではないか? と言う視点で見てみました。ヴァニタス(vanitas)画で有名な絵師の作品を紹介します。「人間の人生の虚しさ」の寓意 (頭蓋骨、本、果物)画家 ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)以前、プリンセンホフの紹介の時に一度紹介しているヴァニタス(vanitas)画です。ヴァニタス(vanitas)画には置かれた物全てに意味があります。髑髏(されこうべ)・・人の死ぬべき運命。いつか必ずこうなるよ。と言う戒めの寓意?蠟燭、砂時計や懐中時計・・時の経過を示すアイテム。熟した果物・・熟した果物は、やがて腐る。人生が円熟して終わりに向かう様を示している。鮮魚も同じ意味だろう。すぐに腐る。同じく花の命も短い。総じて人の生は短い事を示唆。メダル・・は得た名誉。同じように宝石、コイン、アクセサリーなど財宝は富や権力を象徴する寓意。笛など楽器は人生の快楽。ひっくり返った銀製の食器やグラスは食事の中断を意味し、それは突然の死を示す寓意。書物は聖書。プロテスタント下で描かれたヴァニタス(vanitas)画は人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意の静物画、など、戒(いまし)め、あるいは警告? として存在している。ローマ時代とキリスト教時代になってからの死生観の違いに影響されているのか?vanitasはもともとラテン語で「虚栄心」を意味していたらしい。プロテスタント下のネーデルランドの静物画では、vanitasは「空虚」とか「むなしさ」、「はかなさ」と解釈されるようになった。カトリックでは、聖書の話や聖人伝などで教えや戒めは伝えられるからこういう静物の表現のみでのヴァニタス(vanitas)画は見ないかもしれない。最も、ネーデルランドの全ての静物画がヴァニタス(vanitas)画になっているわけではない。何か意味を持たせる事が流行ではあったのかもしれない。あるいは、ブーム(流行)があったのかもしれない。下も同じ画家で同じくプリンセンホフの所蔵です。1652年作?鳥、魚、瓜とフルーツ。すぐに腐ってしまう儚いもの。高価なグラスは豪華な食事。から贅沢な暮らしを連想?ひっくり返った鍋は突然の食事の中断? あるいは調理前に終わってしまう人生?「虚栄のはかなさ」の寓意画家 ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)オランダ黄金時代のヴァニタス(vanitas)画で有名な画家です。1628年~1633年にかけてライデンで活躍した画家ですが、絵に日付を付さない人だったらしい。それ故作品の正確な年代特定が難しいらしい。ヴァニタス画は聖ルカ(画家のギルド)の長であった伯父デイヴィッド・バイリー(David Bailly)(1584年~1657年)に学び、兄弟Pieter Steenwijckもヴァニタス画で有名。叔父や彼らの父はフランドからの移民の子だったらしいから宗教の関係での住替えだったかも・・。ヴァニタス専門の一族? やはり需要があったのだと思われる。上の2点はオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)のデルフトの屋敷、プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)で撮影してきたものです。(オラニエ公の死後の絵師なので彼の所有物ではない)静物画の流行は1640年頃から17世紀末くらいなのかもしれない。「人間の人生の虚しさ」「虚栄のはかなさ」これらを教訓に日々を大事に生きろ? と言う意味かな?プロテスタントでは聖書の中の一説一説について取り上げてはその教訓を示し、それを教えとする。静物画も一つの教訓の示し方ではあった。小説も然りである。学生の頃、読んだアンドレ・ジッド(André Gide)の「狭き門(La Porte étroite)1909年」それは新約聖書のマタイ福音書第7章第13節にある、イエス・キリストの言葉がタイトルとなっていた。同じくアンドレ・ジッドの「一粒の麦もし死なずば(Si le grain ne meurt)1921年」も新約聖書ヨハネによる福音書、第12章24節のキリストの言葉に由来していた。今更、アンドレ・ジッドがプロテスタントであったのだと気づきました※ アンドレ・ジッド(André Gide)(1869年~1951年)フランスの小説家。とは言え、プロテスタントの作家による小説は、解説書と言うよりは、葛藤(かっとう)が描かれている。デルフト(Delft)の町は運河で囲まれた要塞都市だった。見えるのはカトリックの教会(旧教会)の尖塔。目的の建物はこの教会の運河を隔てて前にある。デルフト(Delft) プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof) もともと女子修道院だった建物。80年戦争の時にオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)が屋敷としていた場所。独立の父 オラニエ公ウィレム1世オラニエ公ウィレム(Willem van Oranje)(William of Orange)オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)ホラント州、ゼーラント州他の総督として(在位:1572年~1584年)1544年、11歳でオランジュ(オラニエ)公領を従兄弟から相続。オラニエ公ウィレム(1世)として即位。彼の代からオラニエ=ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)が始まる。現在のネーデルランド(オランダ)王家の家系はここに起源する。※ 現国王 第7代ネーデルランド国王ウィレム=アレクサンダー(Willem-Alexander)(1967年~ )(在位:2013年4月~ )元の家の爵位ナッサウ・ジーゲン伯(Count of Nassau-Siegen)は弟ヨハネ6世(John VI)(1536年~1606年)が継いだ。カール5世の指示だったらしい。※ 弟 ナッサウ・ジーゲン伯ヨハネ6世(Count John VI of Nassau-Siegen)当時の風俗がわかるディスプレイ彼はスペインとの80年戦争で中心になったネーデルランド側のリーダーですが、もともとオラニエ公は代々ブルゴーニュ公に仕える臣下。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)ブルゴーニュ公でもあったカール5世(Karl V)(1500年~1558年)に気に入られ少年時代から仕えていたと言う経歴から元は熱心なカトリック教徒でもあった。※ 1555年のカール5世、ブルゴーニュ公退位の時は傍らで介助もしていた関係であったが・・。※ 1556年、フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)がスペイン王に即位(在位:1556年~1598年)1566年、フランドルで始まったプロテスタントの反乱の時はドイツにいたが、財産の没収となっている。もはやカール5世もいない。80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)では、1568年、反乱軍を率いてスペイン軍と交戦(ヘイリヘルレーの戦い・Slag bij Heiligerlee)し反乱軍初勝利。プロテスタント軍のリーダーとなっていく。彼の亡き後1648年、ネーデルランド(オランダ)連合諸州は彼の活躍で独立を果たす。プリンセンホフに飾られていたレプリカですが。写真ボケていたのでウィキメディアから借りました。William I, Count of Nassau-Siegen(ウィリアム1世 ナッサウ=ジーゲン伯)の所にあります。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)の肖像 1555年(推定22歳)画家 アントニス・モル(Sir Antonis Mor)(1520年~1578年頃)所蔵 カッセル市立美術館(Museumslandschaft Hessen Kassel)※ カール5世退位の頃。まだカトリック教徒であった時代の肖像。オラニエ公の暗殺オラニエ公ウィレム1世は1584年にプリンセンホフ内でバルタザール・ジェラール (Balthasar Gérard)によって暗殺された。ブルゴーニュのカトリック教徒だったバルタザールはフェリペ2世が「ウィリアムは無法者」と宣言し、暗殺に2万5000クラウンの報奨金を付けた? 事でオラニエ公に近づき、計画的に暗殺を狙っていたと言う。フランスの使者を装い屋敷の中にいたので非常に至近距離での銃殺である。※ 屋敷には今も銃痕が残っている。(撮影してませんでした。)スペイン王フェリペ2世の父はカール5世。ウィリアム(Willem I)の事を当然昔から知っていた仲。裏切りと感じたのは当然かと思う。しかもネーデルランドは父の故郷。(カール5世はゲントで幼少期を過ごしている。)スペインにとって、ネーデルランドを失ったことは経済的にも戦略的にも惜しい。本当に暗殺を指示したかは解らないがウィリアムが暗殺された事を聞いて、フェリペ2世は本当に喜んだのだろうか?オラニエ公ウィレムの最後の言葉Mon Dieu, ayez pitié de mon âme; mon Dieu, ayez pitié de ce pauvre peuple. (My God, have pity on my soul; my God, have pity on this poor people).神よ、私の魂を憐れんでください。神よ、この貧しい人を憐れんでください。もともと熱心なカトリック教徒であったのが、成り行きでプロテスタント派のリーダーになったオラニエ公である。新教会(プロテスタントの教会)の尖塔からデルフト眺望よりプリンセンホフと旧教会方面見える教会が旧教会(カトリックの教会)左下の見切れているのがデルフトの中心にあるマルクト広場と市長舎。運河挟んで旧教会(カトリックの教会)の向かいにプリンセンホフ(Prinsenhof)があります。ピンクの矢印下がプリンセンホフ(Prinsenhof)。最初の撮影場所。撮影場所は新教会(プロテスタントの教会)の尖塔の展望台から。旧教会(カトリックの教会)はフェルメールの墓が置かれた教会です。以前紹介しています。リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓カトリック教会も破壊され、現在は調度品もなく新教会のようにシンプルです。※ プロテスタント改革派の中に強硬な因習破壊主義者(iconoclasts)を生んだ。彼らは貴重な文化遺産を全て破壊して回った。オラニエ公の霊廟新教会尖塔が高いのでかなりバックしないと全景が入れにくい。新教会も建設時にはカトリックの教会でした。1584年、新教会(プロテスタントの教会)にオラニエ公ウィレム1世が埋葬された。彼の遺骸と霊廟は聖堂に置かれている。ここは現ネーデルランド(オランダ)王家の霊廟ともなっているのだ。以前紹介しています。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)カトリックなら聖堂内陣の部分。オラニエ公ウィレム1世の聖櫃が置かれている。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)上の像の後ろに石棺が置かれている。ここ、新教会はヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)が誕生時(1632年)に洗礼を受けた教会でもあります。でも彼は結婚によってカトリックに宗旨替えしたので彼の亡骸はカトリックの旧教会の方に埋葬されました。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン因みに王家の棺は聖堂地下に置かれています。デルフトの新教会の内部、西側入口のオルガン室の下から 1662年画家 ヘンドリク・コルネルスゾーン・ファン・フリート(Hendrick Cornelisz Van Vliet)(1611年頃~1675年)所蔵 Private collectionすでにプロテスタントの教会ではあるけど、1662年の絵画には内陣障壁(rood-screen)が存在している。国際法の父 フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)新教会前に「国際法の父」と呼ばれるフーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)の像。彼もまたデルフト出身者。各国が海洋に進出していく時代となり、海上での小競り合いやトラブルが増えて行く中で、国際的なルール作りが必要であると提唱した人物。彼はネーデルランド国内で起きた神学論争で負け派にいた為に亡命している。故国デルフトに戻るのは死後なのである。※ 理由は後で紹介。新教会内には彼の墓もある。国際法ができた訳80年戦争のさなか、ポルトガルが支配権を握っていた東南アジアに進出したネーデルランド(オランダ)。1604年、オランダ東インド会社の船員がポルトガルの船を拿捕し、積荷を奪おうとした。ポルトガルは船と積み荷の返還を要求。積荷を奪うのが合法か? それら訴訟にグローティウスは従事する事となり、初めて国際法に携わる事になる。当初、グローティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求めようとした。また、彼は自ら執筆した「自由海論(Mare Liberum)」(1609年)で、海は国際的な領域。全ての国家が海を自由に使うことができると主張。これらは、当時のイングランドの法学者と真っ向から対立。モルッカ諸島でのスパイ・スハーブの交易に参戦したネーデルランドは自由貿易を主張。しかし、イングランドは航海条例を制定し、イギリスの港湾にイギリス船籍以外の入港を禁じて対抗措置をとった。当初、イングランドとネーデルランドはモルッカ諸島を支配するスペイン・ポルトガル勢力に対抗して協力関係にあったが、強引なネーデルランドのやり方に亀裂が出始めていた。海事法をめぐる論議がこの頃から進む。トラブルが多発して来たからだと推察する。80年戦争の時代、海における国際的取り決めの必要性が求められるようになり、海事法の整備が進められる事になった。例えば、陸から大砲が届く範囲内の海の支配権(領海)をその国が領有する。これは各国が支持し、領海は3マイル(約4.8km)と決められた。そもそも。ネーデルランドによるポルトガル支配地からの強奪や略奪はひどかった。海事法の必要性が求められ整備がされるのは、ポルトガルが領有していた土地、あるいはポルトガルの交易相手の国を、ほぼネーデルランド奪取してからになる。ところで、イングランドとネーデルランド両者は、当初住み分けして協力体制をとっていたが・・。1623年、モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館の職員が全員虐殺されると言うアンボイナ虐殺事件が勃発。※イングランド人9名、日本人10名、ポルトガル人1名がでっち上げの濡れ衣で残虐な拷問の上に斬首された。フーゴー・グローティウスが「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis)」(1625年)を執筆。国家間、戦争にもルールが必要であると考えた著書。この考えが「国際法のはじまり」らしいが、それこそアンボイナ事件(1623年)からの教訓ではないか?※ グローティウスは1621年にパリに亡命してパリで執筆している。「戦争と平和の法」全3巻からなる。第1巻全5章のタイトルのみ入れました。第1章 - 戦争とは何か、法とは何か第2章 - 戦争の合法性第3章 - 公戦と私戦の区別、主権の説明第4章 - 従属者の優位者に対する戦争第5章 - 合法的戦争の主体フーゴー・グローティウス亡命の件ネーデルランド国内で起きた神学論争で負け派にいた為にフーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)は当初、投獄され、後に亡命している。彼がいたのはアルミニウス派(Arminians) の説を主張するレモンストラント派(Remonstrants)カルビニスム修正主義神学、カルヴァン主義傍流神学とも呼ばれる。改革派であるカルバン主義の予定説に一部意義を唱えたヤーコブス・アルミニウス(Jacobus Arminius)(1560年~1609年)の論。「神は万人に救いを提供し、神の恩寵を受け容れるかどうかは各人の自由意志に任されている」1610年、アルミニウス派は意見の相違点をまとめた5ヶ条の抗議書(Remonstrants)を提出して争議となる。以降、彼らはレモンストラント派(Remonstrants)とも呼ばれるようになる。またこの宗教論争は、神学論のみならず、階級闘争にも及ぶ。1618年、ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議で審議がされ神学論争にレモンストラント派は負けた。カルヴァン派の勝利が確定された。1619年、政治闘争はレモンストラント派の神学者シモン・エピスコピウス(Simon Episcopius)(1583年~1643年)率いる13人の牧師が追放。支持者であったフーゴー・グローティウスは投獄され、脱獄して亡命。VOCの創設者とも言えるヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)は1619年、ハーグのビネンホフで公開斬首されている。Decapitation of Johan van Oldenbarnevelt(ヨハン・ファン・オルデンバーネベルトの斬首) 1619年ウィキメディァからかりました。画家 Claes Janszoon Visscher II (1586年~1652年)所蔵 Museum Boijmans Van Beuningen(ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館)アルミニウス主義者とその反対者の間の神学論争の寓話Allegory of the theological dispute between the Arminianists and their opponents画家 アブラハム・ファン・デル・エイク(Abraham van der Eyk)所蔵 リヨン美術館(Museum of Fine Arts of Lyon)制作 1721年ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議での審議を寓話にした絵画。カルビニスム修正主義神学であるアルミニウス派(Arminians) orレモンストラント派(Remonstrants)を審議するカルバン派。左側 抗議者(アルミニウス派)右側 反対派の改革派(カルバン主義正統派)右の天秤のが重い。カルヴァン派の主張がアルミニウス派の主張より重いことを示している。また、右の天秤には剣が付され、それが改革派教会がネーデルランド共和国から国家の支援が与えられた事を象徴しているらしい。これを持ってわかるのは、ネーデルランド(オランダ)が国家でカルバン主義を主軸にしたと言う事。因みに、この会議以降、レモンストラント派の牧師の解任や追放も行われた。説教者の不足と言う事態となったレモンストラント派では、支持者らがコレギアント協会(Collegiant Society)を設立。1619年、アントワープにレモンストラントの亡命共同体が設立されている。ネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由(前回落ちた分)前回、中途半端であったネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由ですが、プロテスタント台頭の問題と無縁ではないのです。ヴィッテンベルク(Wittenberg)から始まった宗教改革の嵐は、北部フランドルに広がって行った。つまりネーデルランドに根付き始めたプロテスタントは北部に向かって信者を増やして行った。と言う事実であり、同時に同教の信者を土地に呼んだのである。熟練工や、ブルージュ、ゲント、アントウェルペンなどの港町の金持ちの商人がプロテスタント多かったと言うからそもそもプロテスタント信者には、専門職や知識人が多かったのかもしれない。※ 先にも書いたが、聖書が読める人は、それなりにステータス(status)も高かったと言う事だろう。1585年~1630年の間に、ネーデルランドを出るカトリック教徒も多くいたが、それ以上に多くのプロテスタント信者が北ネーデルラントに流入してきたそうだ。フランスやイングランドで迫害を受けたプロテスタントの難民の流入も多かったとも言う。彼らの多くは北のアムステルダム(Amsterdam)に移住し、小さな港だったアムステルダムは一躍、商業の中心となり、1630年までに世界で最も重要な港町に発展する。つまり、ネーデルランド(オランダ)に黄金時代をもたらした要因は、「オランダ東インド会社」の成功だけではなく、海運、芸術、科学、軍事と、すぐれた人材が終結した事も大きいのだ。ネーデルランドの快進撃は第一次英蘭戦争(The First Angrlo-Dutch War)(1652年~1654年)まで続く。集団肖像画と自警団プリンセンホフで撮影デルフトのヴィッテ・ヴェンデルの士官たち(Portrait of the officers of the Witte Vendel of Delft)発注 witte vendel(白旗)の隊員画家 ジェイコブ・ウィレムシュ・デルフ・ザ・ヤンガー(Jacob Willemsz Delff the Younger) (1619年~1661年)※ オランダ黄金時代の肖像画家所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof) 制作年 1648年(この年に80年戦争が終結している。)修復 1654年。デルフトの「ウィッテ・ヴェンデル(Witte Vendel)」(白旗)と呼ばれる市警の将校たちの集合写真。witte vendelの隊員による集団肖像画は他にも複数存在。1648年の制作であるが、1654年のデルフト爆発で損傷。現在の物はオリジナルの製作者の孫によって修復されたバージョン。※ 以前フェルメールのデルフトの眺望(Gezicht op Delft)を解説した時に爆発の事、爆心地の事を細かく書いています。リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)左から右へ:マールテン・エンゲルベルツ中尉。グラスヴィンケル、サミュエル・クラース軍曹。ベルケル、カレル・レーナーツ大尉。デ・ヴォーフト、ウィレム・クラース軍曹。ファン・アッセンデルフト、旗手ピーテル・ハルメンス。ファン・ロイフェン。これら肖像画は1人1人がお金を出して描いて貰っているので、平等に写実されていなければならない。名前が記されているのもそんな理由だ。写真のようなちょっと奇妙な群像にはそんな訳がある。上は市警の将校であるが、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)当時は市中も荒れていたので自警団が複数たちあがっている。組合式? ギルドの体制をとっているがメンバーの生業は別にあった。市民有志による自警団。いわゆる、市民警備隊である。そんな彼らが記念? 集団肖像画を描く事が流行したらしい。今で言う写真のような肖像画(Portrait)の役割であったと思われる。つまり、ネーデルランドの絵画には、肖像画と言う分野の中に群像肖像画と言う分野ができたのである。群像肖像画と言えば、レンブラント(Rembrandt)の夜警(The Night Watch)が有名である。通称 夜警(The Night Watch)正式名 フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊(De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)発注 火縄銃手組合画家 レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn) (1606年~1669年)所蔵 アムステルダム国立美術館(Amsterdam Museum)制作年 1640年受注。完成1642年。火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画の1つ。画面が暗い事から夜の様子を描いたと考えられ「夜警」と呼ばれたが、ニスの劣化による画面の黒ずみであった事が判明。実際は左上から光が差し込んだ昼の情景。明暗のコントラストを出すキアロスクーロ(Chiaroscuro)の技法が使われている。レンプラントは通常の肖像画にしたくなくてドラマを持たせて描いている。だが隊員らは平等に絵の代金を払った事から物議をかもしたと言う。コック隊長自身はこの絵が気に入ったらしいが・・。1715年まで火縄銃手組合のホールに置かれ、その後ダム広場の市役所に移動。しかし、そこで壁に入りきらないとしてキャンパスをカットされたのでこんな違和感のある構図になったらしい。聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会 1616年(The Banquet of the Officers of the St George Militia Company)発注 射手組合画家 フランス・ハルス(Frans Hals)(1581年/1585年~1666年) ※ オランダ絵画の黄金時代を代表する巨匠の1人。80年戦争時代の治安維持で活躍した自警団は、戦争の終結と共に活躍の場は無くなり、団体は社交クラブに変って行ったところが多いしらしい。その後の集会イベントは記念行事のパレードと大宴会だったらしい。とは言え、1621年にハールレム市は宴会の規模を制限する法令を造っていると言うのでイベント代は市持ち?さて、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の終盤からネーデルランド(オランダ)の経済は好調。黄金時代(Gouden Eeuw)と呼ばれる盛況な時代を迎える。それは経済のみならず、貿易、科学、芸術と多種にわたった。先に触れたプロテスタントの国と言うのが大きな要因の一つではあったが、経済あっての話である。その経済を支えたのが、世界初と言われる株式会社 オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の存在と、成功である。ここで、オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の話に入りたいのですが、今回はすでに長すぎ。次回につづく。次回はオランダ含めて各国の東インド会社に触れればと思います。Back numberリンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲 アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン