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2009年06月23日
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カテゴリ:歴史の旅

ベルサイユ宮殿シリーズのおまけ フランス革命その後・・簡単にまとめました。
ブルボン家の最後とフランスの王政の最後

フランス革命(1789年7月14日~1794年7月27日)
1789年7月14日バリの市民は武器を手に取り政治犯を収容する専制政治の象徴であるバスティーユの監獄を占拠し、フランス革命が勃発します。
革命は突然に起こったものではなく、その兆候は18世紀全般を通じて少しずつ見えていたようです。貴族階級は特権にあぐらをかいて腐敗堕落し、王家はじめ宮廷の膨大な浪費と対外政策の失敗(戦争)により、国家財政は破産に瀕していました。民衆は重税に苦しみ、貧窮し、「パンを! パンを!」と言う民衆の叫びは18世紀全体を覆っていたのだそうです。
マリー・アントワネットが言った「パンがないなら、ケーキをお食べ!」のフレーズは有名ですが、本当は「それならブリオッシュを食べればよい。」と言うのがルソーの『告白』本に書かれていた本当のフレーズだそうです。

下は、フランス革命時のルイ16世の処刑図だそうです。コンコルド広場で右の台座がルイ15世の騎馬像があった所でしょう。
ルイ16世の処刑
力を付けてきたブルジョワジー(革命の推進主体となった都市における裕福な商工業者)も、旧体制の矛盾を前にして、体制を変える必要に迫られていました。18世紀初頭から出現した啓蒙思想家による、啓蒙的考えも革命の思想的基盤となったと言います。

第一共和制(1792年~1804年)時代
革命後、国民公会におけるブルボン朝の廃止と共和政樹立を宣言して開始されます。

が、フランスにおける政治の激動期に突入していきます。政権はころころ代わり、常に失望をもって終わっていきます。(ピンクが王族です。)

革命の裁判で死刑にされたルイ16世とマリーアントワネットの子息は、革命後も生き残りますが・・
ルイ17世(1785年~1795年)
父ルイ16世の死後、名目上「フランス国民の王」とされましたが、戴冠式もなく、タンプル塔の日も当たらない一室に約2年間捨て置かれた後、(1日1回食事を持った革命軍の人間が「カペーのガキ」とだけ言葉をかけて生存確認)他には誰とも会話することもなく1795年、病死しているのが見つかったそうです。

第一帝政 ナポレオン時代(1804~1814)
フランス革命の継続を願う国民の支持の元、国民投票での圧倒的な支持を受けてフランス皇帝に就任しますが、実際ナポレオンの天才的な軍事的才能を後ろ盾とした軍事国家であり、戦争に勝ち続けなければ政権存続の意味はなかったそうです。ロシア遠征で敗北したのをきっかけについに本拠パリまで陥落されると無条件退位後、エルバ島へ流刑され失脚します。

ウィーン会議でイギリスなど諸外国からブルボン朝の王政復古が支持されたためルイ16世の弟ルイ18世がフランスに戻って即位し、ブルボン朝が復活します。
ブルボン第一王政復古 1 (1814年)
ルイ18世(1755年~1824年、在位1814年)
「ウイーン体制」で王政の復活です。しかし、まだナポレオンの抵抗があり安定しません。

ナポレオンの百日天下(1815年)
1815年2月26日エルバ島を脱出しパリへ向けて進軍、「兵士諸君! 諸君らの皇帝はここにいる! さあ撃て!」と叫ぶと討伐軍はナポレオンに寝返ったといわれています。ルイ18世は逃亡。3月20日ナポレオンはパリに入城し、再び帝位に返り咲きます。
しかし、6月18日のワーテルローの戦いで決定的敗北しイギリスの軍艦に投降した後イギリス政府により大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉。1821年に死去しパリに返還されるのは1840年です。

ナポレオン退位後再びルイ18世がもどり即位在位1814年~1824年)
ブルボン第一王政復古 2 (1815年~1824年)
ルイ18世(1755年~1824年、在位1815年~1824年)
ルイ16世の弟で、1814年に王政復古を果たして返り咲いたブルボン朝第6代の国王です。ナポレオンが再起を図ってフランスに舞い戻るとルイ18世はフランスから再び逃亡します。しかしナポレオンの復帰が百日天下に終わると、再びフランスに戻って親政を開始した王です。ルイ16世の時代に追放された貴族の復帰を助ける一方で、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取り国内の安定化を図ったようですが、最終的には絶対王政を復活させます。1824年死去。後を弟のアルトワ伯が継ぎます

ブルボン第二王政復古(1824年~1830年)
シャルル10世( 1757年~1836年、在位1824年~1830年)
ルイ16世とルイ18世の弟で、ブルボン朝最後のフランス国王です。兄ルイ18世が死去すると国王として即位するも、もともとマリー・アントワネットと共に第三身分の迫害に同調した人物です。兄以上の反動的な専制政治を行ないます。1830年のフランス7月革命を起こされ失脚し、アンリ4世から続いたブルボン家直系からの王位は失われました。

フランス7月革命(1830年7月)
フランス革命による成果に逆行し、時代錯誤な反動的政治に不満は爆発し再び、革命が起こされ、シャルル10世は失脚し亡命。
7月27日民衆は三色旗を翻してパリ街頭にバリケードを築き抵抗しますが、戦いは大きくはなく、新王にオルレアン公ルイ・フィリップを擁立して終結します。

下は画家ドラクロアがフランス7月革命を描いたもので、「民衆を導く自由の女神」です。
ドラクロワ 民衆を導く自由の女神

七月王政(1830年~1848年)
ルイ・フィリップ(1773年~1850年も在位1830年~1848年)
ルイ・フィリップは「フランスの王」ではなく「フランス国民の王」を称し、内閣制度を導入し、国内の安定と繁栄をはかるりますが、次第に上層ブルジョワジーの利害を優先し、選挙権も一部ブルジョワのみ等の悪政から労働者、農民の不満が高まり、ウイーン体制(王政復古めざした)そのものに疑問があがり、三度(みたび)革命が起こされます。ルイ・フィリップはイギリスに追放され、900年近くに及んだユーグ・カペーを祖とするフランス王政は完全に終わりました。

フランス2月革命(1848年2月)
この革命はそれまでのフランス革命やフランス7月革命とは異なり、ブルジョワジー主体の市民革命から、労働者主体の革命へと変化したものだったそうです。

フランス市民の苦悩の歴史はまだ続きますが、目的は果たせたのでこれで終了です。






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Last updated  2009年06月23日 18時30分40秒
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