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わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年05月02日
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カテゴリ:公園

3日からまた急遽大阪に行く事になりました。
行ったらまた京都などでかけてくるつもりではありあますが、ザルツブルグの資料を持っていけないので、ヘルブルン宮殿は中旬以降になると思います。<(;_ _)>ごめんなさい


ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)

ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)
セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地
クアガーデン(Kurgarten)

念ながら今回宮殿の内部は撮影していません しょんぼり(締まっていて入れなかったのだと思います。)
ミラベル宮殿は現在ザルツブルグ市の役所として、また市公営の結婚式場として利用されていて、海外ウエディングとして日本からも参加でき、人気だと言います。

かつてバロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) の設計した宮殿は1818年の火災で焼失していますが、
焼け残った西翼北のゲオルグ・ラファエル・ドナー(Georg Raphael Donner)の階段と大理石の間は、結婚式やコンサートなどのイベントで絶えず利用されているそうです。

宮殿南西面
pict-ミラベル 8.jpg

宮殿南面のバラ園周りにに置かれている17基の大理石の壺
pict-ミラベル 24.jpg
最初にバロックの庭園を設計したヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)が置いたもの。
しかし、現在のものは本物か? 周りが溶けてしまったのか? 大理石には見えない。


宮殿南側ローズガーデンを西面から
pict-ミラベル 18.jpg
このローズガーデンはかつてはオランジュリー(オレンジ園)だったようだ。

ミラベル宮殿裏(西側)、ペガサスの泉
pict-ミラベル 10.jpg

転々としてここに落ち着いたペガサス像
当初カピテル広場に設置されていたペガサスの像は1700年頃移設。
フィッシャー・フォン・エアラッハがバロック庭園を手がけた時に移設されたものか?
あるいは宮殿をバロックに変えたフランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )が大司教になった時に移設したのかも・・。
しかし、1818年の火災の後に撤去され、オークションにかかるなど数奇な運命を辿り再び戻ってきたらしい。

pict-ミラベル 11.jpg
ここで式を挙げた多くの新婚さん達がこの前で記念撮影するそうだ。スマイル

北門の階段とその向こうがクアガーデン(Kurgarten)
pict-ミラベル 15.jpg
北門の階段にはユニコーンの像が置かれている。
pict-ミラベル 26.jpg

pict-ミラベル 17.jpg
クアガーデン(Kurgarten)からのペガサスの泉越しのミラベル庭園とホーエンザルツブルグ城
pict-ミラベル 16.jpg

クアガーデン(Kurgarten)公園
pict-ミラベル 19.jpg
ローズヒルの向こうにかすかに見える建物がシェラトンホテル。
ここは丘になっている

セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地
この北西エリアには30年戦争(1618年~1648年)の頃、ミラベル宮殿を守る砦が建設されていたようだ
装備が築かれるのはパリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)の時。
ミラベル宮殿を守る砦、セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡と印されている。

30年戦争で使用される事は無かったかも知れないが、ホーエンザルツブルグの要塞同様、ザルツァッハ川に面したこの宮殿の防衛の為に堡塁が築かれていたのは間違いなさそうだ
その跡地の遺構が後半紹介するドワーフの広場である。

クアガーデン(Kurgarten)
時代が代わり、ザルツブルグ市の所有が大司教からオーストリア皇帝に移るとフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)がここの整備を始めて1854年、ミラベル庭園とクアガーデン(Kurgarten)の一般公開を始めている。

現在もシェラトン・ホテルに隣接してコンベンション・センターとクア・ハウス(スパ)が存在しているが、これがフランツ・ヨーゼフ1世時代に造られたクア・ハウス(温泉施設)の名残なのではないかと思う。
(シェラトンに宿泊していて全く気付かなかったぽっ)
※ 少なくとも第一次世界大戦(1914年~1918年)まで市民の憩いの場としてこうした施設も存在していたようだ。

クアガーデンからのミラベル庭園方面
pict-ミラベル 20.jpg

ミラベル庭園ペガサスの泉の後側
pict-ミラベル 21.jpg
ライオンの階段がある。そこを上がると橋があり面白い像がたくさん置かれている広場? があった。

この橋に据えられた像を見る限りでは戦争のイメージ
pict-ミラベル 22.jpg
これが要塞の堡塁につながる橋と思われる。
全景はないのだが、堡塁跡と思われる広場は、ほぼ完全な円形の丘の上にあり、270度くらいの角度をカバーする事ができるだろう。

橋を渡ると円形の広場にぐるっとドワーフの像が設置されている。
pict-ミラベル 27.jpg

pict-ミラベル 23.jpg
これらドワーフは復元作品で、実はバロックの時代からこのドワーフは存在していた・・と説明している所もあるが、ちょっと疑問である。少なくともこの場所ではなかっただろう。
どう見ても作品は1600年代ではない。

風刺か? 変なおじさんの像もある。
pict-ミラベル 28.jpg

ドワーフ(dwarf)・・トールキンのフアンタジーでもお馴染みの伝説の小人族。人ではなく、妖精の種とも?

ミラベル宮殿正面(雨の日の写真ですが・・)
pict-ミラベル 29.jpg
普通に役所なのであるぽっ

再度になりますが、バロックの宮殿と庭園に造り上げたのはフランツ・アントン・ハラッハ大司教の時代(1710年頃)で、ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教の時(1606年)ではありません
つまり宮殿のルーツは愛人の為の邸宅であったが、その後の所有者により増改築され、立派になっていった・・と言うのがこの宮殿です。
しかし、1818年の火災でバロックの宮殿は焼け、後年、少し質素なネオクラシック(新古典様式)で建て直されて現在に至るわけです。
(その立て直しの年代がはっきりしていない。 しょんぼり断定できるのは、フランツ・ヨーゼフ1世の時代である事。)


また、ぶっちゃけ、現在の庭園の彫刻はどれも撮影するほどの品ではなく、近景ではほとんど載せませんでした。(後年の安いレプリカか?)
ザルツブルグは第二次世界大戦のおりに近くの駅舎が爆撃され、未だ不発弾がうまっているかもしれない場所です。(その時に被害が及んでいる可能性はあります。)
近年庭園などは整備されつつありますが、昔の豪奢なスタイルに戻ったとは思えません。
何しろ入園はタダ。財源は市から出ているわけですから、維持管理にそんなにお金はかけられないのでしょう。

たぶんバロック時代の宮殿はもっと素晴らしいものだったに違いない・・と言う感想で「ミラベル宮殿と庭園」終わります。


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リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)

リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)
リンク ​ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)
ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)

リンク ​カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)







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Last updated  2020年10月21日 00時06分30秒
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