2020/12/06(日)16:23
信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
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利休切腹の要因となった木彫は利休と共に処刑されたようですが、江戸期に利休の像が造られ、今再び金毛閣楼上に安置されている・・と言う事です。
そもそも利休の像は自身が造ったのではなく大徳寺側が造り置いたものと思われます。(裏目に出たが利休への感謝の気持ち?)
だからこそ? 利休は秀吉の問い詰めに対して何も弁明しなかったのかもしれません。
何しろ秀吉と共に仲の良かった大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)和尚もまた秀吉の怒りを買い1588年に大隅(九州)へ流されているのです。(1590年に赦免され帰洛。利休の切腹は1591年)
もし大徳寺が置いたものとわかれば即刻大徳寺はお取りつぶしになっていたでしょう。(大徳寺自体が「存亡の危機」と認識していたようです。)
「黙して語らず」利休は大徳寺と尊敬する古渓宗陳和尚を守ったとも考えられます。
しかし、秀吉の怒りはそれが理由ではなかったと思います。
例えば古渓宗陳和尚の島流しは秀吉の母(大政所)の菩提寺を大徳寺内に建立する事に意見した事だったと思われます。(菩提寺は先祖を弔う寺で、まだ生きている大政所を祀る場所ではありませんし、出家したわけでもなかったようですから・・。)
秀吉は古渓宗陳和尚を九州においやった年(1588年)母の為に天瑞寺を創建しています。
(明治維新後に廃寺となり現在その跡地は龍翔寺となっている。)
前回淀殿の第一子、鶴松の事に触れていますが、秀吉を振り返ると、やたらとあちこちの神社仏閣で祈祷したり寄進したりと無節操に莫大なお金を使っている事が伺えます。大仏の事もしかり千人法要もしかり・・です。
神頼みが度を過ぎていた?
寺の権力と力に悩まされた信長公の時代を振り返れば彼らが謀反を起さないような封じ込めの策があった事は解りますが、病気平癒の祈祷の連発は問題外です。
まして本来神と仏は別物なのに節操なく手を出す秀吉に和尚として、あるいは友として、参謀として古渓宗陳和尚や利休が意見したのでは? と思えてなりません。
老境の秀吉に彼らの忠言を真摯に受け止める器が無くなっていた・・と言うのが案外真実かもしれません。
信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
信長公の葬式
古の京の三大葬送地
大徳寺塔頭 総見院
さて、今回は豊臣秀吉が主君織田信長を祀る為に建立した大徳寺塔頭の一つ、総見院を紹介します。
そこには織田信長はじめ彼の家族の供養塔が並んでいました。
(大徳寺は春と秋に特別一般公開をするようですが、通常は大徳寺本坊を含めて塔頭も非公開が多い。)
そもそも大徳寺は遺体無き信長の葬儀を秀吉が盛大に執り行った場所です。
そして総見院は信長公の菩提を弔う為に秀吉が寄進して建立した秀吉の都合による菩提寺です。
信長公の葬式
1582年、本能寺の変(天正10年6月2日)の100日後、10月11日に秀吉主催の信長公の大葬礼が催されました。
それは足利将軍の七仏事の作法にのっとって7日間盛大に執り行われたと言います。
喪主は秀吉の養子になっていた信長の四男、秀勝(羽柴秀勝)(1568年~1586年)で、葬送の時、彼は柩の後方を担ぎ、秀吉が位牌と太刀を持ったらしい。(彼は名目上の喪主であった。)
葬儀の導師は古渓宗陳和尚。
柩の中には香木で彫った信長像と本能寺の灰が入れられ荼毘に付されたと言う。
(木彫は香木なのでそれほど大きな物ではなかったはずだが、その香りは京都の街に広がり、秀吉が信長公の葬儀を行っている・・と言う事を京都中に知らしめたらしい。)
古の京の三大葬送地
前々回「秀吉の御土居(おどい)を紹介しましたが、大徳寺は御土居の中でも御所より上の洛北にあります。
実はこの界隈は「古の京の三大葬送地」として知られた場所だったようです。
蓮台野・・船岡山麓は古来は風葬地。後に皇族の火葬など荼毘に付される場所だったそうです。
また大徳寺は前回紹介したように当時の戦国大名にとって重要な寺。
洛中にあり、身分の高い人達の葬送の場所はここしかなかったと思われます。
他の二つの葬送地は洛外(秀吉の御土居の外)
鳥辺野(東)・・秀吉の墓で紹介した阿弥陀ヶ峰から清水山にかけての一帯。
「秀吉の墓所(豊国廟)」の所では書かなかったが、阿弥陀ヶ峰は冥途の入り口として平安時代から葬送地として絶えず煙の上がる場所だったそうです。化野(嵯峨野)・・古来風葬の地だった化野は遺棄され野ざらしになった遺体が散乱。それを哀れに思った弘法大師が建てた無縁仏の供養寺が後に法然により化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)となったと言う因縁の地。
大徳寺境内図から
赤で囲った所が大徳寺本坊。
下の円・・千利休が切腹する一因となった山門。
上の円・・国宝の唐門。
ピンク・・総見院
大徳寺塔頭 総見院
1582年、(天正10年10月11日)の大葬儀後、秀吉は一周忌に間に合わせるべく、信長の菩提を弔う為の寺を大徳寺内に建立する。それが総見院である。
1583年、(天正11年)建立。開祖は葬儀を執り行った大徳寺117世の古渓宗陳和尚。
正門と土塀は創建当時のままらしい。
鐘楼は信長公臣下の堀久太郎秀政が信長公の為に鋳造したもので創建当時のもの。 重要文化財
塔頭とは、その寺院の敷地内にある門徒の僧侶の個人的寺。
大徳寺の場合、戦国大名達がこぞって塔頭を建立して菩提寺とした所が多いようだ。
それ故、利休に縁ある大徳寺塔頭の見せ場はそれぞれの寺の持つ茶室である。総見院にも3つばかり庵がかまえられている。
奧の堂に信長公の位牌や木彫が安置されている。手前の塚は茶筅塚である。
茶筅塚は感謝の意を込めて使用の終った茶筅を焚き上げ供養する所。(茶に縁ある寺らしい)
1585年秀吉は大徳寺にて大茶会を開いていて、この総見院で秀吉が茶を点てたと言われる。
その時にもらったのか? 利休が秀吉に贈ったと言う侘び助ツバキ(推定樹齢400年)が今もある。
(日本最古の侘び助として京都市指定天然記念物になっている。)
本堂内撮影禁止の為に外から撮影したものを拡大してみました。
古渓宗陳和尚座像の左の戒名が織田家の物。その左隣に信長の木彫の座像があるが撮影禁止。
衣冠帯刀の信長の木造座像(高さ三尺八寸 約115cm 等身) 重要文化財1998年指定
大徳寺パンフより
天正11年5月、七条大仏師宮内卿法印康清作 当時一級の仏師であり、生前の信長公を見ている人物であった事から本人に限りなく似ているのではないか? とされている。
一周忌法要の為に秀吉の依頼で製作されたものとされ、束帯姿なのは亡くなってから冠位と位階があげられている為。
贈・太政大臣、右大臣、内大臣
位階も生前は正二位で、亡くなった後に贈位・正一位に任ぜられている。
寺の敷地北側に墓地があり、その一番奥に織田信長公一族の七基の五輪石塔が並んでいる。
みんなほぼ同じ形なのだが、真ん中のが信長公のもの。
戒名は 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
実際どれかにお骨は入っているのだろうか?
正室の帰蝶様や側室お鍋の方のもありました。
正室である斎藤道三の娘、濃姫。ドラマにはよく出てくるが実際は嫁いだ後の事が不明。死没の年代も不明。そもそも帰蝶(きちょう)の呼び名は後世誰かが「胡蝶(こちょう)」を誤読したのでは? と考えられている。(確かに帰蝶は不自然です。)
次回 信長の墓所 3 (阿弥陀寺)です。
レンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)
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リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)
信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)
リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)
リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名