2015/08/18(火)02:47
世界の看板 1 (ミュンヘン・München)
天神祭りの事を調べていたら面白い事がわかりました。(私だけかもしれないが・・)
僧から還俗して豊臣秀吉の祐筆(ゆうひつ)として仕え、秀吉の活躍を記録する軍記物「天正記」を書かされていた大村由己(おおむら ゆうこ)の最後が、大阪天満宮会所の社僧だった・・。
同じく織田信長公の伝記的記録「信長公記」を書いた太田牛一も天満に住んでいたのを思いだし
( ̄。 ̄)ホーーォ と思ったのだ。
さて、今回はミュンヘン(München)オデオン広場界隈で見つけた変わった看板の紹介です。これから時々挟む予定です ついでに近辺の情報も入れました。
世界の看板 1 (ミュンヘン・München)
フロイデンハウス(Freudenhaus)の看板
オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)
ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)
オデオン広場(Odeonsplatz)近くルードヴィヒ1世の騎馬像の前当たりで見つけた鋼鉄のワンコ。後々写真を拡大してみたら首輪の前のプレートにお店の名前が・・。
こんなに控えめな看板初めてかも・・。
何しろそこが店の入り口だとも気付かないでスルーしてましたから・・。
なんとなく可愛いから撮影していたけど・・
お水のボールと首にはお店の名前が・・。
ミュンヘンを本拠にするアイウェアブランド(メガネ屋)フロイデンハウス(Freudenhaus)のロゴが入っていました。
確かにワンコのメガネは奇抜です。ちょっと「紅の豚」っぽいけどね。
フロイデンハウス(Freudenhaus)
ステファン・フラッシャー(Stefan Flatscher)とウヴェ・ピンハマー(Uwe Pinhammer)の2人により1991年に創設。
日本にも進出していますが、保守的なドイツのメガネを脱した新進気鋭のメガネブランドだそうです。
欧州では地区により景観を守る為に店とわからないような対策がされているのは知っていましたが・・。
ドイツでもそれは地区によって異なるようです。
ワンコの見つめる先はルードヴィヒ1世(Ludwig I)の騎馬像。(ホーフガルテンの向かい側である。)
かつては貴族の邸宅だったこのあたり、今は官庁街のようです。
ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年) 第2代バイエルン国王(在位:1825年~1848年)
フランス王ルイ16世が命名者でルイ(Louis)をドイツ語読みするとルードヴィヒ(Ludwig)。
ここはオデオン広場(Odeonsplatz)からルードビッヒ通りの始まる一角。
この界隈はルードビッヒ1世が即位と同時に都市改革を行った通りで都市の改造かららミュンヘンを欧州の中でもいち早く近代化に導いた象徴の場所だそうです。
ルードヴィヒ1世は、芸術を奨励し大学を創設。工業化も進め、ドイツ初の鉄道もひいた彼は革新派でありながら古典を愛した人。
ルートヴィヒ通りは、彼が好んだが古典ギリシャをモチーフにした新古典様式の建築が立ち並ぶ通りです。
確かに時代は古典、古代への懐古的ブームがあり、特にギリシャ礼賛。
新古典主義はそれらを模範にしてかつ洗練された建築をうんでいる。
ホーフガルテン (Hofgarten)の門
オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)
オデオン広場(Odeonsplatz)側 ルードビッヒ通りから
写真左の建物がフェルトヘルンハレ(将軍堂)その右隣の教会がテアティーナー教会です。
修復中だったテアティーナー教会(Theatinerkirche)
写真は2014年7月のものです。7月と言うのに天気も雨続きで寒くてみなさんコートを着てました。
オデオン広場(Odeonsplatz)からフェルトヘルンハレ(将軍堂)
正面フェルトヘルンハレの左に続く建物が王宮(レジデンツ)であり、宝物館もその内部にある。
ロッジア(Loggia)と呼ばれるアーケード形式で建てられた新古典様式のフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)は将軍の像が置かれている事から日本では将軍堂と訳されているようだ。
ルートヴィヒ1世の命で建築家フリードリッヒ・フォン・ゲルトナー(Friedrich von Gärtner)が設計。
1841年~1844年に建設。
都市改造の中で勝利の門と繋がるルートヴィヒ通りの末端のポイントとして建てられたようです。
中の像を鋳造した青銅は大砲を溶かしたものだとか・・。
1923年、ヒトラーのLudendorffの反乱で行進中この前で警官隊と衝突。
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)にとってここは最初の戦いの場所だったようだ。
ヒトラーが権力を掌握するとフェルトヘルンハレはナチ党の宣伝の中でシンボルとなる場所となる。
そんな体勢下の一時期フェルトヘルンハレ前を通過するときにはナチス式敬礼が義務づけられたと言う。
フェルトヘルンハレの裏側にくっついて建っているプレイジング宮殿(Palais Preysing)
ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)
「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」の所で第4代バイエルン国王ルードビッヒ2世はロマン主義に傾倒・・と紹介しましたが、ヴィッテルスバッハ家の人々はみんな趣味人です。
第3代国王マクシミリアン2世(ルートヴィヒ2世の父)は中世の騎士道に傾倒。
その半端ないのめり込みによりホーエンシュヴァンガウ城を建設。(ルードビッヒ2世はこの城で少年期を過ごしている。)
第2代国王ルードビッヒ1世(ルートヴィヒ2世の祖父)は先に述べた様に古典ギリシャに傾倒。新古典様式の街造りのみならず、極めつけはヴァルハラ神殿(Walhalla)の建設です。
これには驚きました。白鳥城より凄いかも・・
皇太子時代に構想し、建築家レオ・フォン・クレンツェが新古典様式でヴァルハラ神殿を建設。(1830年~1842年)。ギリシャのパンテオンに近い感じです。どれだけギリシャ好きだったか良く解ります
ヴァルハラと言えばワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」最終章のラグナロワ(神々の黄昏)の中のヴァルハラ炎上が思い浮かびますが、内容はワーグナーの創作です。そしてその初演は1876年。
ルードビッヒ1世のヴァルハラ神殿の方が先に建築されています。
ヴァルハラ(Walhalla)は古ノルド語圏で伝承された戦死者がたどり着く神話の中の地です。
北欧神話ではオーディンの宮殿とされ勇敢な戦士の魂がたどり着く聖なる地。
ルードビッヒ1世はヴァルハラ神殿(Walhalla)にドイツの偉人達の銘板と胸像を納めてドイツ人の誇りとしたようです。ルートヴィヒ2世のように独り占めしなかった所が苦情の来なかったところでしょうね。
それにしてもロマンティストなのは血統のようですね。
おわり