わたしのこだわりブログ(仮)

2023/11/12(日)03:24

金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)

勲章、宝冠、宝飾、美術品、美術館、博物館、(60)

 ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。​ ​​さて、記憶に残っている方もいると思うのですが、​​​1994年(平成6年)10月2日~14日まで両陛下がフランス、スペインを御訪問​​​した折りに宮内庁のミスにより、日本国家と皇室の名誉に傷のつく一大事件が起きた事があった。​ ​件の内容は、その訪問で陛下がつけるべき勲章を当地に運び忘れたと言うもの。​ ​さらに慌ててスペインに勲章を届けるはずが、宮内庁の凡ミスによって、運搬途中に大事な勲章そのものを紛失してしまった​と​言うお粗末な事件である。​ 実際、勲章は晩餐会には間に合わず、陛下はスペイン王家から別の勲章を借りてその場をしのいだと言う​。 相手国の勲章を持ち込み忘れた上に失って、当事国に借りると言う非常に恥ずかしい出来事は、勲章の性質から言ったら切腹物の一大事件である。​​ 何しろその勲章は、訪問国であるスペインから賜った、世界でも限られた王族にしか授与されない大変貴重な勲章だったからだ。もちろんスペインでは最高の栄誉あるもの。​ ​そもそもそれを忘れるのもあり得ない話であるが、いくら3日前に気付いたとは言え、そんな大事な物をなぜ宮内庁の者が直接持って届けなかったのか? と言う疑問を持ったのを憶えている。 ※ 勲章は機長預かりと言う形で航空会社に依頼したらしいが、機長預かりは中身を確認しないで通関すると言うもので、機長が手に持って運ぶたぐいの物では無いと言う事を知らなかった? 今回は宮内庁の失敗の話ではなく、その勲章その物の話なのであるが、それにしてもこの事件、いくらネットで探しても見つからないのである。 ​やっとの事で見つけた記事は、唯一? 当時この件について追求した国会答弁の中にあった。参議委員会議事録 第131回国会 内閣委員会 第7号  平成6年11月24日(木曜日) 「天皇・皇后両陛下の外国御訪問等に関する件」 リンク ​第131回国会 参議院 内閣委員会 第7号 平成6年11月24日​ 情報が無い故に私はその続報を知らない。結局勲章は見つからなかったのかな? 出て来る訳が無い。とは思っていたが・・。​​​​​​金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​​勲章紛失事件​ 金羊毛勲章​(Toison d'or)​ ​​騎士団の結成​ ​ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)​ 騎士の祈りの場 ​聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)​・写真​ 勲章(記章)のルーツ 記章と紋章 ​オーストリアの金羊毛勲章​ ​ブルゴーニュ公領​のフランドル 100年戦争と自由都市ブルージュ フィリップ善良公(Philippe le Bon)​とイザベル・ド・ポルテュガル ​金羊毛勲章が​ハプスブルグ家に継承された訳​​​. 金羊毛勲章​(Toison d'or)​ ​​勲章(くんしょう)は、15世紀に十字軍を想定して造られた金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の証。金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と呼ばれるもの​。​英語でゴールデン・フリース(the Golden Fleece) フランス語でトワゾン・ドール( la Toison d'or) 日本では金羊毛勲章(きんようもうくんしょう)と和訳されている。 ​つまり、この勲章は勲章(くんしょう)と言うよりは、記章(きしょう)にあたる。陛下が金羊毛騎士団の一員として選ばれた団員章と言うものであり、証でもある。 最も、現在は爵位としてのみ存在しているにすぎないが・・。 1430年、ブルゴーニュ公のフィリップ善良公により創設された騎士団は、後にハプスブルグ家の最大の騎士の称号として引き継がれてきた。 現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在。天皇陛下が賜ったのはスペイン王家からの爵位。 ウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。映り込みの為に画像修正しました。 カラー仕立ての首から提げる勲章。下がっているのは金の羊。 このデザインは発足当初のもの。 国会答弁の時はトワゾン・ドール( la Toison d'or)と呼ばれていたが、金羊毛勲章の方がなじみがある。​​羊はそもそも発祥の地フランドルの羊毛産業と、ホメロースの叙事詩にあるイアソンが金の羊を探しに行く冒険物語から由来している。​ 騎士団の結成​ 金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の創始は1430年1月10日。​ ​ブルージュにおいて、ブルゴーニュ公、ヴァロア・ブルゴーニュ家のフィリップ3世(フィリップ善良公)​により、自身の3度目の結婚式での発表であった。 フィリップ善良公(Philippe le Bon)​は、神への敬意とキリスト教への自身の信仰の元に騎士団を結成。 ​そこには騎士達の立場の確立も込められていたし、その先には十字軍の遠征の夢が込められていたと思われる。(結果的に十字軍遠征はなかったが・・。) ​骨子は3つ​ ・今までブルゴーニュの為に尽くしてくれた側近たちへの感謝の栄誉。​・現役の騎士達の地位の確立と、彼らの騎士としてのあるべき姿を明確化し、より騎士道に励むよう奨励。・将来騎士団の名誉にあやかりたい順予備騎士たちの励みとなる騎士団を造る事。 当初のメンバーは公を入れて24人。23人の名前はその時に発表。 メンバーの数は後に31人となり、カール5世の時代に51人に増員。 ※ 現在はスペイン王家版が18人。オーストリア家版が35人。メンバーは公開されている。​詳しい経緯は、1431年、リールで行われた第一回金羊毛騎士団の会で公表される事になった。 現役の騎士などは騎士としての規約が作られた。 例えば騎士間の争いには、各騎士の行為に対して審理され、刑罰、戒告などがきちんと公表される。 ​騎士道と言う物がテキストとして、公式に造られたと言っても良いかもしれない。​ ここに中世の花形、騎士文化が完成された? 騎士道華やかなりし頃の時代背景もあるが、イングランドに伝わるガーター騎士団とガーター勲章 (Order of the Garter)が意識されて結成されたのは明らかである。 ※ 1348年にエドワード3世(Edward III)(1312年~1377年)によって創始されたイングランドの騎士団と最高峰の記章である。 ブルージュのグルーニング美術館(Groeningemuseum)で撮影 フィリップ善良公(Philippe le Bon)・・フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)​首には金羊毛勲章がかかっている。 ​ブルゴーニュ公フィリップ善良公(Philippe le Bon)​ 金​羊毛勲章を創設したフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、ブルゴーニュ公国の最盛期の君主である。​ このブルゴーニュ公国の置かれた当時の立場。それは一言では伝えられない複雑さを持っている。 最初の出自はフランスであるが、フランドルを手に入れてヴァロア・ブルゴーニュの時代が始まると事情は変わる。 当時はイングランドと本家フランスで100年戦争が勃発していた頃だ。ブルゴーニュは立場、縁戚、立地、商売など諸々の事情で両者とかかわっている。小競り合いの戦いなど年中。 このフィリップ善良公(Philippe le Bon)は、父の2代目、ジャン無怖公(Jean sans peur)(1371年~1419年)がフランス王位に感心を示したのとは反対に自身の領地拡大と保全に公領地フランドルに重きを置く。 ※ イングランドとフランスの間でふらふらしていたようにも見えるが、全ては自身の公領の為。それに対しては、確かにブレなかった。​ ネーデルランドに最大の関心を持ち、外交活動を駆使して領土を拡大。公領内は安定した政治。安定した経済活動で繁栄のピークを迎えたのである。 騎士団の創設はそんな背景もあったし、経済的余裕もあったろうし、フィリップ善良公(Philippe le Bon)自身が聖地に赴きたいと言う夢もあったのかもしれない。 ​そして、さらにブルゴーニュは、飛躍する。それは騎士設立の時のポルトガル王女との3度目の結婚によってである。​ ウィキメディアから借りてきました​。フィリップ善良公と騎士達。​ ブルージュ市長舎ホールの壁画から 市長舎ホールは、聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)に隣接している。2014年4月、「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)」で聖血礼拝堂について紹介しているが、ここが金羊毛騎士団の本拠であり、祈りの場となった。リンク ​ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)​ 騎士の祈りの場 ​聖血礼拝堂(Heiling BloedBasiliek)​ 聖血礼拝堂入口。堂は写真左側、入口から階段で上り二階にある。 下がブルグ広場。そして黄色の円が聖血礼拝堂。向こう隣が市長舎 1376年~1420年に建立されたフランドル地方最古のゴシック様式の市庁舎。右に見切れているのが聖血礼拝堂リンク ​ブルージュ(Brugge) 6 (ブルグ広場 2 市庁舎)​​​​​​​​​ 記章と紋章 市長舎の壁面にはブルージュの諸侯と思われる石像が並ぶ。 下には紋章が。 紋章を囲むのは金羊毛勲章である。 そしてそれは現在も同じく騎士の紋章に入れられる。下は現在のスペイン国王フェリペ6世の紋章。と現在の日本の天皇陛下が賜った紋章。 ​前回、「ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所でハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介しているが、今は一般人になってはいたが、​彼はまたオーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団の主催者でもあった。​​ 2011年7月、オットー・フォン・ハプスブルクの葬儀には、スウェーデン国王夫妻、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン侯爵など王侯の随員と共に、棺のかたわらにはビロードのクッションに載せられたこの金羊毛勲章が随伴すると言う最高の格式による騎士団の葬儀が行なわれたようだ。​​ リンク ​ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓​ オーストリアの金羊毛勲章​ こちらも同じくウイーンの王宮宝物館(KaiserlicheSchatzkammer Wien)で撮影。 上が表、下が後ろから撮影。冒頭、現在はオーストリア家とスペイン王家に分かれて二つの金羊毛勲章が存在していると紹介したが、おそらく、こちらは騎士団の主催者の記章ではないかと思う。 下はウィキメディア英語版から借りてきました。オーストリアの金羊毛勲章のリボン記章。 ​簡易版なのか? こちらが一般団員用の記章かは不明。 1918年、ハプスブルグ家最後のオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。 現在オーストリア・ハプスブルク家が主催する金羊毛騎士団は、ハプスブルク一族、旧ドイツ諸侯家などカトリック教徒の団員で構成されている。 一方スペイン王国も革命によって王政が倒され共和制、王政復古、第二共和制、内戦と独裁者支配と内乱が続く。 1975年、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I)(1938年~2014年)が即位してスペイン王政が復活。 王政が消えていたので金羊毛勲章も公の場からは姿を消していたのかと思いきや、明治天皇から今上天皇まで、天皇陛下4名全てがスペイン金羊毛勲章を受章しているそうだ。​ 尚、スペインの金羊毛勲章は王家の与える勲章として存在。対象はカトリック教徒に限定されないが、一代限りとして、原則本人が亡くなれば返す事になっているらしい。 勲章(記章)のルーツ ついでなので紹介 こちらはブリュッセル王立美術歴史博物館からの宝冠​​​ 実は誰の宝冠かは知らない。しかし、先ほど紹介した騎士の絵画の中で騎士が頭に載せているものに近い。 ​この宝冠が後に首からかけるネック式の勲章に変わるのである。​ そしまた、この宝冠のルーツは、実は街を囲む城壁とタレットなのである。 2016年01月「ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)」の中、宝冠と紋章 で少し紹介しています。 リンク ​ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館)​​せっかくまとめたので、ちょっとおまけ。そして、最後に金羊毛勲章が​ハプスブルグ家に継承された訳​​を入れてあります。​ ​ブルゴーニュ公領​のフランドル​今はブルゴーニュと聞くとフランスの田舎のような印象を受けるが、フィリップ善良公(Philippe le Bon)の時代、その所領はアルザス、ロレーヌ地方(ロートリンゲン)に及び、そして北方のフランドル(現ベルギー)とブラバンドを獲得してネーデルランド一帯を押さえていた。​ ​つまり一介の公領とは言え、北海からフランスの南部に至る国に匹敵する所領を持っていた​のである​。​ ​ブルゴーニュ公領はヴァロワ家時代に所領を増やした。​ヴァロワ・ブルゴーニュの初代フィリップ豪胆公・フィリップ・ル・アルディ(Philippe le Hardi)(1342年~1404年)が1384年にフランドル女伯マルグリッと結婚し、フランドル伯領を手に入れたからだ。 とにかくフランドルは盛況であった。 ハンザ同盟のおかげもあり取引は増えて繁栄するブルージュは当時の欧州の交易所となり、金融セクターとなりこの上ない繁栄をみせていた。​ ブルゴーニュ公領の首都はディジョンからブルージュに移される。​​​ブラバントの特産品となる亜麻草を利用したリネンの生産やベルギー・レースの取引。​​​フランドルの特産品、羊毛は安価に対岸のイングランドより仕入れ、高級衣料や宮廷を飾るタペストリー等に加工され毛織物産業でもにぎわった。 ​​当然フランスも神聖ローマ帝国も取引先であったし、高級リンネルは欧州中の貴族が欲しがり、タペストリーは城や宮殿、バチカンで飾られた​のだ​。​​ 今の古都ブルージュからは想像のできない繁栄の都市であったのだ。 ※ フランドルのタペストリーにについてはサンカントネール美術館の所で書いています。 リンク ​サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)​.今もブルージュにはその名残がある。水の都市ブルージュはオランダとはまたちょっと違う風情だ。 下は現在は州庁舎である立派な建物だが、織物の屋内市場として1787年まで使用されていた。 マルクト広場は市民の市場。広場には各種ギルドハウスも立ち並んでいた。この広場の広さだけでブリュッセルよりいかに規模が大きいかわかる。 細切りにしないと撮影できないのだ。 毛織物業者のギルドハウスの上に建てられた鐘楼。 以前も書いたが、上質な高級品の織物のタペストリーは13~14世紀から需要を増し、フランスのゴブラン工場に持って行かれるまでフランドルの特産品であり、外貨かせぎの物品であった。 ここに見える中世は、全て当時の冨の名残なのである。 2014年03月「ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)」 リンク 「​ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)​2014年01月2014年01月「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)」 リンク 「​サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)​ 運河は大分少なくなったが、かつての大動脈の運河沿岸には、豪商らの商館や倉庫が建ち並んでいた。水路をたどって商人らがブルージュまで買い付けに来ていたのだ。 100年戦争と自由都市ブルージュ ​フィリップ善良公はフランドルがブルゴーニュに併合され、ヴァロワ家支配になった3代目の君主。​ 先述、フランドルの繁栄の事を紹介したが、それ故、冨を狙われた土地でもあった。 ​立地では、東に神聖ローマ帝国、西にフランスに挟まれ、かつ北海はさんだ対岸にはイングランドが控えていた。必然的に英仏の100年戦争(1337年~1453年)の影響を受けたのである。 そもそもフランドルはイングランドからは羊毛を輸入。それでフランドルの特産品の毛織物業で成功していた為にどちらかと言えばイングランド寄り。フランスはそれをよく思っていなかった。 自由都市としての意識の高かったブルージュでは度々領主とも意見を違えてもめている。商売にじゃまな領主では納得しなかったのである。幾度かフランスの支配に落ちながらも気に入らなければ市民は戦った。フランスはブルゴーニュ公とフランドル伯の娘の結婚を画策。 そこに広大なブルゴーニュ公領が誕生するのであるが、フランスの思惑通りには行かなかったのである フランドルを得たヴァロワ・ブルゴーニュ公は、​フランスからは独立性を維持し、イングランドともうまくやりたかった。​何しろイングランドを敵にすれば市民からつるし上げを食うし・・。 フィリップ善良公の時代は、100年戦争の終盤にあたる。どちらの国も戦費で疲弊してお金が無かったのである。そんな英仏の思惑にも翻弄されながらも、領地を拡大して、ブルージュに繁栄をもたらしたのである。もちろんブルージュの商人根性があっての話だが・・。 ブルージュ(Brugge)の街 ​フィリップ善良公(Philippe le Bon)​とイザベル・ド・ポルテュガル ​​1429年、ブルゴーニュ公フィリップ善良公は3度目の結婚をする。相手はポルトガルのイサベル王女​。​イザベルの母はイングランド王女であった事から一説にはイグランドとの関係強化をねらった結婚であったと・・。しかし、イザベル自身が王女であるにもかかわらず兄達と同じように外国語、数学、科学を学び、政治学まで学んだ教養ある才女。(親の教育方針) ​※ イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)​ 1430年1月、イザベルがブルージュ(Brugge) に到着すると10日に挙式をあげ、フィリップ3世(フィリップ善良公)はこの時に騎士団の創設を発表したと言われている。​​ このイザベル・ド・ポルテュガルの才女ぶりで、後にフランスと和約。彼女はフランスから褒美に年金までもらう。そしてイングランドとも和平会談を整え、1439年の休戦協定を締結させる事に一役買っている。​ ​フィリップ3世がフィリップ善良公(Philippe le Bon)と呼ばれる理由は確かに安定した政治がもとなのだろうが、内助の功も大きかったのではないか? それに彼女の故郷ポルトガルとの交易はプラスに働いた。 当時のポルトガルは同母兄のエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)(1394年~1460年)の許で航海事業が発達。 ブルゴーニュの主要産業である毛織物の市場が東方(オリエント)まで拡大されたのである。 ※ エンリケ航海王子については「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 or 16」で、書いています。 リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル​ リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス​ ​金羊毛勲章が​ハプスブルグ家に継承された訳​​ 金羊毛勲章であるが、​フィリップ善良公(Philippe le Bon)​とイザベル・ド・ポルテュガルの孫の代になって事変が起きる。 ​フィリップ善良公の息子、シャルル突進公(Charles le Téméraire)(1433年~1477年)には一人娘しかいなかったのだ。 娘の結婚は近隣諸国の感心の的になる。何しろ彼女と結婚すれば公領を相続できるかもしれないのだから・・。​ 父の野心と相まって、結局ブルゴーニュ公を継承するシャルル突進公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)(1457年~1482年)の結婚相手は後に神聖ローマ帝国の君主となるハプスブルグ家のマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年3月~1519年)に決まった。​. が、二人の結婚前にシャルル突進公はナンシーの戦いで戦死。それに乗じてブルゴーニュ南部はフランスにとられてしまった。 マクシミリアン1世の活躍でフランドルは確保。二人は結婚し幸せな生活をするが、活発な美女マリーは第4子を懐妊中に落馬事故で夭折(ようせつ)。 この悲劇がきっかけに、ブルゴーニュ公領もハプスブルグ家の傘下に入るのである。 ※ 後に、マリーとマクシミリアンの孫、カール5世(Karl V)(1500年~1558年)がマクシミリアン1世に次いで神聖ローマ皇帝になっている。 因みに、愛し合っていたマリーとマクシミリアン1世であるが、​マリーの棺にはマクシミリアン1世の心臓がいれられているらしい。​ そして、マリーの墓は父​シャルル突進公の棺と並べてブルージュの聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)(Church of Our Lady Bruges)に置かれている。​リンク ​ブルージュ(Brugge) 11 (聖母教会)​ 金羊毛勲章おわります。以前からやりたかったネタですが、大変でした。 デンマーク王室のエレファント勲章 (Elefantordenen)の写真のせました。性質としては金羊毛勲章​(Toison d'or)​と同じ物。世界の王族も授与されている爵位の記章です。 ※ 日本の天皇陛下も授与されています。 リンク ​エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠​ 「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。 関連のBack number     金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​ リンク ​ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日​ リンク ​ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓​ リンク ​カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂​ リンク ​カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩​​ リンク ​カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降​​ リンク ​ハプスブルグ家の三種の神器​ リンク ​​西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑​ ​リンク ​ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)​ リンク ​マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)​ リンク ​マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿​ リンク ​マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃​ リンク ​マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃​​ ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。 リンク ​新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)​ 昔のなのでショートです。 リンク ​ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)​​ リンク ​ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)​ リンク ​ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)​ リンク ​カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)​ リンク ​シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)​ リンク ​シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)​ リンク ​シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)​ リンク ​シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)​ 他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません

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