キ
リスト教関連のback numberをラストに関追加しました。
昨年末に書き残した分の再開です。
2017年12月 「聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)」
リンク
聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)
2017年12月 「聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日」
リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日
今回は「クリスマスのルーツ」の紹介ですが、その前にローマ帝国が当初迫害していたキリスト教を公認したばかりかキリスト教を国教に据えて、国家戦略に利用した話からつなげます。
12月25日と言う日は、そもそもローマ帝国時代の祝祭日であったからなのです。
クリスマス(Christmas)のルーツ
コンスタンティヌス帝とキリスト教
コンスタンティヌス帝にまつわる建造物
ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略
ラバルム(Labarum)誕生の疑問
ガッラ・プラキディア廟堂(Mausoleo di Galla Placidia)の壁画
ミラノ勅令からのキリスト教
ミトラ教の冬至の祭りとクリスマス
コンスタンティヌス帝とキリスト教
2017年12月「メドゥーサ(Medousa)の首」の所でも触れていますが、キリスト教を公認した最初のローマ皇帝は、コンスタンティヌス1世(在位:306年~337年)です。
正確に言えば、あらゆる宗教の信仰を認めたのがコンスタンティヌス1世です。
聖遺物の所でもしばしば名前を上げてきた、最初の聖遺物収集家でもあるコンスタンティヌス1世の母ヘレナ(Helena)(246年or250年~330年)はカトリックの信者であったが、息子であるコンスタンティヌス1世がキリスト教徒の洗礼を受けるのは彼が亡くなる直前なのです。
それなのに彼は非常によくキリスト教徒をフォローした。
たとえば教会に土地などの免税、寄進、遺贈の促進、司教への下級裁判権付与などさまざまな特典をつけて優遇。かくして教会建築のラッシュを向かえる。
※ バチカンのサンピエトロ寺院やミラノのサンタンブロージョ聖堂など
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
リンク バチカンとシスティナ礼拝堂
リンク 天使と悪魔とヴァチカン
ペテロが殉教した丘にバシリカ聖堂をたてさせたのもコンスタンティヌス1世である。
ヴァチカンのサンピエトロ聖堂がその一つ
もともと市壁外で墓地の連なっていた平原アゲル・ヴァティカヌスの地域振興の為に、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令(313年)の後、326年~333年にかけてペテロの墓所があるとされるこれら墓地の上にバシリカの聖堂を建立。旧サンピエトロ聖堂である。
アエリウス橋からの道を整備すると沿道には民家ができ、教会のまわりには修道院が立ち並び、司教の館も建設された。
8世紀にはアルプスの向こうから聖ペテロを参詣する為の巡礼者が殺到したらしい。
リンク バチカンとシスティナ礼拝堂
リンク 聖ペテロの魚(St. Peter's fish)と聖ペトロ
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
ミラノ勅令を発表した、コンスタンティヌス帝とリキニウス帝が会談した場所にはサンタンブロージョ聖堂が建立された。ミラノ最古の教会である。
コンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談が行われたマッシミーノ(Massimino)皇帝の宮殿があた場所
建立したのはミラノで司教であったアンブロージョ (Ambrogio)(340年? ~397年) 。
聖堂の古い部分にはミトラ教の意匠が残っているので転用したものかもしれない。
※ コンスタンティヌス帝がキリスト教の洗礼を受けて以降、ミトラの神殿はキリスト教徒に次々襲われ破壊されていったらしい。
後にアンブロージョ (Ambrogio)が亡くなり聖人認定されると堂は聖アンブロージョを祀った堂としてサンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)と呼ばれるようになった。
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
ミラノ勅令以降キリスト教以外の宗教でも宗教改革が行われている。
ミトラ教などは生け贄など儀式が禁止され、コンスタンティヌス2世の頃は異教の神殿破壊もすすめられた。
さらに、「メドゥーサ(Medousa)の首」の所ですでに紹介していますが、コンスタンティヌス1世は、異教にまみれたローマを捨て、ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)にキリスト教の都市を建設。
※ 「メドゥーサ(Medousa)の首」の所、ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)の給水施設イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の建設者として紹介しています。
リンク メドゥーサ(Medousa)の首
また、キリスト教の体裁を整える為に325年には全教会の代表者を集めた第1回ニカイア公会議を主催し、典礼などすり合わせなど行ったり、今日のキリスト教の基盤造りを進めている。
つまり、コンスタンティヌス1世は、突然にキリスト教を国教にしたのではなく、ゆるやかに、国の宗教に適するように教義に関しても、きちんとした体系を造って国民の支持基盤を固めてから移行しているのである。
そしていつしか、増えるキリスト教徒はかつての異教から立場が逆転。皇帝の指導と庇護の下に置かれ国家戦略の内に置かれた事により、キリスト教は爆発的に発展したのである。
アヤソフィア(Aagia Sophia)モザイク画から
キリストにビュザンティオン(コンスタンティノポリス)を献上するコンスタンティヌス1世(モザイク画一部分)
※ ビュザンティオンとは、西ローマの首都であったコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)の事です。
ビュザンティオンのキリスト教の大聖堂として建設されたのがアヤソフィア(Aagia Sophia)です。
献堂は帝の子、コンスタンティウス2世によるもの。
建設は350年頃。360年2月献堂。
ちょっと余談
ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略
コンスタンティヌス1世は自分の守護神は太陽神だと信じていた。
在位宣言した後、310年にはオータンの神殿でアポロの幻を見て勝利を確信したらしいが、彼はミトラ教(Mithraism)の信者であったのだ。
150年頃、ローマ帝国内で瞬く間に信奉者を増やしたミトラ教は後にキリスト教にやぶれて消えて行くが、コンスタンティヌス1世がミトラ教の信者であっても不思議では無いくらい当事のローマでは浸透していた信仰であったようだ。
ただ、コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)が帝位に就く頃のローマ帝国内では、迫害されても尚、キリスト教の信者の数は増え続けていた。
312年、ローマに進軍するコンスタンティヌス1世は再び幻? お告げ? を受けたらしい。
「彼の兵に神の印を付けて戦いに挑め」と言われ彼はそうした。
「神の印」? しかし、それはミトラの神ではなく、キリストの印であった。
キリストをギリシャ語綴り「Χριστος」にして、最初の2文字「Χ」と「Ρ」を併せた紋章である。
後にそれはローマ帝国正規軍の紋章の一つになったラバルム(Labarum)と言われる印である。ウィキメディアからかりました。
このXPの組文字を円形で囲んだモノグラム、ラバルム(Labarum)はキリストの象徴となっている。
つまり、彼の軍隊はその時、キリスト軍となり、ライバル、マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利者としてローマに入場。
キリスト側が勝利したと言う話しなのだ。
この戦いの勝利を記念してコンスタンティヌス帝を称える凱旋門がローマのコロッセオ近くに建設された。コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)である。
現在もそれは現存する最大の凱旋門として残っている。
ところが・・。
ラバルム(Labarum)誕生の疑問
これは年代的にも初期キリスト教美術に繋がる彫刻がほどこされた門であるのだが、門の裏表、写真を拡大して探したが、ラバルム(Labarum)の紋章が一つも無い。
ラバルム(Labarum)を掲げてこの戦いに勝利したのであるならば、印が無いわけがない。
そう考えると、「無い」のは、そもそもラバルム(Labarum)の意匠の誕生の歴史話自体がマユツバなのではないか? と、思ったのである。
キリスト教が広まりはじめた頃の、ローマ帝国の西半分はラテン語が、東半分ではギリシャ語が公用語だったらしいので、シンプルにギリシャ語圏での紋章かもしれない。
唯一発見できたラバルム(Labarum)の写真を下に紹介
下はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)に隣接するガッラ・プラキディア廟堂(Mausoleo di Galla Placidia)の壁画から
ズームアウト
5世紀、テオドシウス1世の娘ガッラ・プラキディア(Galla Placidia)(390年頃~450年)による献堂
西ローマ帝国の首都がラヴェンナ(Ravenna)に遷り、東ゴート王国建国までの間と考えられている。
サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)の建造よりも前になる。
ミラノ勅令からのキリスト教
313年、バルカン地方の東方正帝リキニウスと西方正帝コンスタンティヌス1世は、連名で信教の自由を認めるミラノ勅令(Edictum Mediolanense)を発布し、キリスト教を公認した。
コンスタンティヌス1世の勝因は、キリスト教徒を迫害するマクセンティウスに対抗し、キリスト教徒の組織力を利用した事だろう。
つまり異教徒vsキリスト教の戦いに置き換えた。と言うことだ。
そしてキリスト教は彼に勝利をもたらしてくれた。
すると今度は、キリスト教を国家戦略の要にしようと画策する。
それが325年の第1回ニカイア公会議の開催に繋がる。
未熟なキリスト教を形ある宗教にする為、今まで地域によりバラツキのあった決まり事や祭り事をまとめ、統一の典礼として公に決める事だ。(その方が国としても扱い易い。)
そうしてできた祭典の中にキリストの誕生日問題も盛り込まれていたと思われる。
※ 聖書に誕生日を特定する記述は無いが、345年にはすでに12月25日に決まっていたらしい。
そしてこの時、結果的に、キリスト教の会議に皇帝の力が関与せざる終えない基盤も造られたのである。
ミトラ教の冬至の祭りとクリスマス
最初に紹介したよう、12月25日は、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)(BC100年~BC44年)が、BC46制定したユリウス暦上の冬至(とうじ)にあたり、もともとローマでは祝祭日として祝われていた日であった。
※ BC46年は、カエサルが強大な権限を有する政務官である独裁官(Dictator)に選出された年である。ユリウス暦の実施は、BC45年1月1日から。
※ 4世紀頃のローマでは年間200日を超える祝祭や競技の祭りがあったらしい。
冬至(とうじ)は、日本でもおなじみ、一年のうち夜が最も長く昼(日の出から日没)が短い日の事。
この日を境に日没時間が延び始める訳だが、これを古代ローマでは、死と再生に結びつけ、太陽が生まれ変わる日と位置づけされたらしい。
再生するには一度、死ななければならないと言う概念は、ギリシャ・ローマ、あるいはエジプトやシリアなどもっと古代からの思想でもある。
ローマではソル・インウィクトゥス(不敗の太陽神)の誕生の祭りとしてもともと市民になじみがあった日だったわけです。
かくして皇帝や教会関係者など諸々の事情があっての事でしょうが、異教の生誕歳はキリストの誕生日にすりかわったようです。
エピファニー(epiphany)を現したのがプレセピオ(Presepio)
キリストの誕生日と共に、外せないのがキリストの生誕を世に知らしめた公現祭です。
エピファニー(epiphany)は、ギリシャ語で出現を意味するもの。
以前「マギ(magi)の正体」で詳しく紹介していますが、イエスがベツレヘムで生まれた時にそれを星により知った者達(東方の賢者)がイエスの元にやってきて、祝福とプレゼント置いていったお話です。
※ その賢者は異教の司祭マギ(magi)として紹介されていますが、その実態は不明。
※ 2017年12月「無原罪の御宿り日」で紹介。
2013年12月にも「マギ(magi)の正体」で触れています。
リンク マギ(magi)の正体
このエピファニー(epiphany)の制定についてもいろい事情があったようです。
そもそも発祥はアリクサンドリアと言われ、元は誕生と洗礼の同時の祝い日だったようです。
現在のエピファニー(epiphany)はカトリックでは1月6日。
12月25日のクリスマスが制定された事で祝日は分割されたようです。
そこにも各所諸々の事情があったようですし、宗派で微妙に異なるようです。
アヤソフィア(Aagia Sophia)モザイク画から
キリストに贈物をするヨアンネス2世と皇后エレーヌの図の一部抜粋
ところでクリスマスにクリスマスツリーを飾る慣習は15世紀から。
1419年に、フライブルクのパン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾ったのが始めと言われる。
※ 2009年12月「ディンケルスビュール 2 (巨大ツリーと消防はしご車) 」の中で紹介。
リンク ディンケルスビュール 2 (巨大ツリーと消防はしご車)
キリスト教関連back number
リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)
リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ