5543201 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Archives

Category

Freepage List

2019年03月07日
XML
カテゴリ:歴史の旅
​今回はナポレオンの死にまつわる毒物説についてである。

ナポレオンの死の直接原因は医療ミスではないか? と言う結論に(前回)達っしたが、そもそもナポレオン自身が違和感をいだいていた原因不明の病気とは何か?

後世、ナポレオンの物とされる頭髪からヒ素が検出された事と医者が書いた論文により「ナボレオン ヒ素毒殺説」がなんとなく定説化されてしまった。
そして、考えられたのがワインに毒を盛った説である。
桐生 操 氏の「ナポレオンは殺された」によればナポレオンがセントヘレナに同伴したモントロン将軍が刺客であり、南アからのワインに入れられて、少量ずつ盛られたのではないか? と言う考察。

しかし、近年の研究では環境による慢性ヒ素中毒の可能生も指摘されている。それはワイン毒殺説よりも自然なヒ素中毒説である。

「ナポレオンは殺された」のワイン説では、ナポレオンが毎食飲む数あるワインの中から多量に摂取しないワイン。すなわち少ししか飲まないワインをさぐりあてている。
また犯人と考え抜かれたモントロン将軍は確かにナポレオンの飲食に毒を盛るのは可能。しかしその動機については確証が全くなく、どれも想像の域を出ない。
全体によくぞここまでこじつけたな・・というのが正直な感想である。

​​星実は、​もう一方の環境説が出てきたのは近年の事。今になって昔の事がいろいろ科学的に解明されてきたからなのであるが、​驚くことにヒ素中毒はナポレオンに限った事ではないようなのだ。
調べてみると1800年代という時代はいろんなところにヒ素が含まれた工業製品があふれていたのである。
その諸悪の根源を中心に紹介します。​​​​

ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green

定説化されたナポレオン毒殺説と慢性ヒ素中毒​
セントヘレナは高湿の島
美しいグリーンの顔料の発明​とナポレオン
汎用されていたヒ素入りの顔料
ナポレオンヒ素中毒説
​​日本のヒ素事情​
​​​

微量成分とは言え、ヒ素は長く継続して摂取すれば慢性ヒ素中毒になる。
ヒ素による人の致死量は100~300mg。
だから例えば1mg/㍑高濃度のヒ素が含まれた地域の飲料水を毎日摂取しいてもすぐには気づかないのである。知らずに自分が汚染されて何か症状が出た時に初めて解る?​

​しかも、ヒ素の特性として、化合物の違い、摂取した量や期間の違い、また体内へ取り込まれる経路の違いに応じてそれぞれ異なった毒性(症状)を現すらしい。
つまり非常に多様性ある毒なので中毒患者でも人により症状が違うらしいからなおさらである。​

そんな事も今の医学ならカルテを見るだけで言い当てる医者もいるのだろうが、当時はまだそんな専門医もいないし、法医学者の意見はバラバラだったらしい。

※ 当時はヒ素による毒殺を法廷で立証するのは至難だったらしい。

澁澤龍彦氏の著「毒薬の手帳」によれば19世紀はヒ素による毒殺事件がたくさん伝えられている
昔から証拠がわかりにくい毒殺は犯罪者に好都合。中でも安価なヒ素は多かったらしい。
中世以降、欧州ではヒ素化合物が政争や怨恨による毒殺の道具として盛んに使われるようになったと言う。さらに氏の著によれば毒殺加害者には女性が多かったらしく、中でも最も好まれた毒がヒ素だったそうだ
※ ニコチン、モルヒネ、ストリキニーネ、ジキタリン、燐(リン)等の毒は高級な犯罪だったらしい。
19世紀、ヒ素はネズミ駆除剤として出回っていたのでどこにでもあり、誰にでも手が届いたのだ。

下はウイーンの王宮宝物館で見つけたナポレオンの肖像画です。(以前紹介した写真です。)
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日~1821年5月5日)


1805年、ナポレオンが建国したイタリア王国の初代国王に就任した時の肖像画。当時36歳。

2017年01月「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」
リンク ​ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠

星ところで、ナポレオンの場合、それは飲料による摂取ではないと思われる。
犯人は空気中に漂うトリメチルアルシン (CH3)3As のような有害な有機ヒ素化合物の可能性が極めて高い。それらは、ヒ素を好むカビ菌の仕業で生成された有害物質である。
ではヒ素を好むカビ菌とは?
その正体はスコプラリオプシス・ブレビカリウス(Scopulariopsis brevicaulis)
それ自体は一般の自然環境に広く生息する真菌らしい。​

​要するにカビ菌がヒ素を空中に解き放ちそれを吸った者達が犯されると言う事だ。

​​​​

前回セントヘレナ島でナポレオンが暮らしていたロングウッド・ハウス(Longwood House)を紹介しているが、今回も同じハウスであるが、ちょっと趣が違う。曇天の陰気なロングウッド・ハウスである。

※ この写真もウィキメディアから借りてきました。

セントヘレナは高湿の島

日記に、彼らはカビに悩まされていたとあったので、降雨が多いと思っていましたが現在の気象では曇天が多い島のようです。
前回気象のデータをのせましたが、同じ諸島の隣の島と取り違えていたようです。m(_ _)m

ジェームズタウンの気象データでは 1 年を通して風が強く、気温は 17°Cから 23°C。降水量は少ないが曇天が多く年間通して高湿。夏は蒸し蒸しの島らしい。
※ ナポレオンの住まいはセントヘレナの山の上。港のあるジェームズタウンとは実際かなり違うかもしれませんが、参考にのせます。​

​​セントヘレナは南半球にあるので日本とは夏冬が逆転。
冬の期間の7月8日頃~12月28日頃まで 5.6 か月間は特に風が強く、曇天が多い。雨は少ないが高湿。1 年で最も寒いのが 9月。平均最低気温が 17°Cくらい。
夏の期間の1月3日~ 5月15日頃の 4.4 か月間は、1 年間で最も湿度の高い期間にあたる。
快適性レベルは少なくとも 21% の間、蒸す、蒸し暑い、または不快。 1 年間で最も蒸す日は、3月11日で 85% の確率で蒸す。
※ Weather Spark ジェームズタウンにおける平均的な気候  より

​ナポレオンの衰えがひどくなるのが夏のピークを過ぎる頃。
セントヘレナの夏の蒸し暑さはよりカビを増殖させた。
具合が悪く部屋にこもるようになったからヒ素中毒も加速して行ったのかもしれない。​​
ではカビが好んだヒ素はどこにあったのか?  という事だが、案外それらはナポレオンの身の回りにたくさんあった可能性がある。

美しいグリーンの顔料の発明​とナポレオン
星唐突ですが、ナポレオンの好きな色はグリーンでした。

下はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)のナポレオンの寝室です。
2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」で紹介しています。
リンク ​ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式

ナポレオンのベットの天蓋もグリーン。

家具類のテキスタイルもグリーンベースの植物です。


18世紀、今までに無い美しいグリーンが発明された。それはナポレオンのみならず、瞬く間に欧州で人気となり爆発的に売れて流行したのである。

初期の顔料には天然の鉱物が使われていたがそれらは高価。そしてさらに色を求めた結果、いろんな科学反応による合成物が誕生している。それらは中世の錬金術師などの得意技だったかもしれない。

18世紀から19世紀はたくさんの発明により顔料が増えた時代なのである。少し以下に紹介する。

​1778年、シェーレ(Seheeie)が亜ヒ酸銅を主成分とする緑色顔料(シェーレ・グリーン)を発見。
1797年、フランスのボーケラン(Vauquelin)はクロームを発見。クロムの発見で広範囲の色が出せるようになり、これは顔料史上のエポックとなる。
1780年コバルト・グリーン合成。
1782年亜鉛華(ホワイト)合成。
1800年、ミティス(Mitis)エメラルドグリーン発見。
1802年コバルト・ブルー合成。
1817年ストロメイヤー(Stromeyer)によるカドミウム・イエローの発明。
1824年ギメー(Guimet)による人造群青の発明。
1858年ギネー(Guignet)によるビィリジアンの発明。

※ 年表資料は、共立全書「顔料および絵の具」と中央公論美術出版「絵の具の科学」から抜粋。​

​今までに知られなかった新しい金属の発見と研究により新しい顔料が急速に出現しだす。しかもこれらは、安価な上に絵の具の耐久力も強い。高価な天然顔料は人造顔料に取って代わったのである。

星中でもグリーンの顔料は活気的だった。特にシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)の発明はセンセーショナルだった。それ以前は暗色の緑しか無かったからだ。


シェーレ・グリーン(Scheele Green)は 1775 年(1778年とも)、スウェーデンの著名な化学者 Carl Wilhelm Scheele (1742年~1786年)の手により発見

明るく美しい若草色。ちょうど抹茶のような緑の顔料だ。しかしそれは亜ヒ酸銅が主成分になっている。亜ヒ酸銅塩(CuHAsO)三酸化二ヒ素と硫酸銅を炭酸カリウムと共に反応させると沈降してできるらしい。しかもヒ素と銅の調合次第で色の幅は広かったそうだ。
もちろんこれは爆発的に売れたらしいがシェーレ・グリーンには黒化しやすいと言う難点があり、後にパリス・グリーン(Paris · Green)が開発されるとそれにとって代わられる。

パリス・グリーン(Paris Green)はシェーレ・グリーンから派生したエメラルド色の緑だが、シェーレがレシピを公開しなかった為にオリジナルになっている。

​​​オーストリアの技術者Ignaz Edler von Mitis (1771年~1842年)が1800年(1805年とも)が合成。酢酸銅(II)と三酸化二ヒ素から作られたアセト亜ヒ酸銅。
※ パリスグリーン、エメラルドグリーン、日本では花緑青(はなろくしょう)として知られ明治期に日本にも入っている。
※  Cu(C2H3O2)2·3Cu(AsO2)2
星1808 年に工業生産が始められると、その鮮やかな緑色からパリス・グリーン(Paris Green)は瞬く間に人気となりしかも長く売れるのである。​​

フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)にあるナポレオンの執務室。まさにこの部屋の壁と寝台の天涯はパリス・グリーン(Paris Green)です。

色鮮やかに染まるので綿や麻の染色に使われていた。

そもそも、それ以前に緑の顔料と言えば塩基性炭酸銅の孔雀石(マラカイト)やヴェルディグリ(塩基性酢酸銅)から造られる暗緑色の素材しかなかったので、目の覚めるような色鮮やかなグリーンに皆、魅了されたのである。ヒ素から造られた恐ろしい顔料なのにびっくり

最も白色は鉛。黄色はカドミウム、赤は水銀とか人工顔料は今じゃ考えられない毒物のオンパレードだけどねぽっ

​​星シェーレ・グリーン(Scheele Green)やパリス・グリーン(Paris Green)は英国のビクトリア朝時代にはウィリアムモリスの壁紙(植物モチーフ)が爆発的に流行した為に多用されている。これによりヨーロッパの壁紙産業は飛躍的に成長し、イギリスの壁紙生産量は、1830年~1870 年には30倍に伸びたと言う。​​

ナポレオンの死後、産業革命は本格化するが、それ以前から科学の予兆は始まっていたのである。産業革命は労働力と素材のコストダウンが行われて成立しわけだが、同時にそれは人の健康を脅かす公害物質の誕生であったと言う事になる。

海外版のウイキメデイアから借りてきました。案の定やはり塗料に遣われていますね。

1858年、ロングウッド・ハウスと墓の谷は総額7100ポンドでフランス政府に売却されたらしい。


セントヘレナに行く前からグリーンに囲まれていたナポレオンであるが、さらにセントヘレナでもグリーンの壁紙、グリーンの天蓋(てんがい)、グリーンの塗料に囲まれた生活をしていたようだ。
セントヘレナのロングウッド・ハウスは公開されていて、ネットでも間取りから内部の写真が確認できた。
※ サイト主はおそらくsainthelenaisland.info、「Longwood House Napoleon’s residence」かなり写真が公開されているのでリンク先を下にのせます。
リンク ​Longwood House Napoleon’s residence​​​​

因みにパリス・グリーンを用いた壁紙を貼った部屋は、湿ると鼠のような臭いを出し奇妙な病気が発生していた事から学者による訴えもあったらしいが取り合ってもらえなかったらしい。
その為に長く汎用され、アメリカでは19世紀までで、以降はネズミ駆除剤に限られたが欧州では第二次大戦頃までのこっていたらしい。​

汎用されていたヒ素入りの顔料

​​​ところで、亜ヒ酸銅を主成分とする顔料が使われていたのは壁紙だけではない。当然油絵の具の素材であり、絵画に使用されている
明るいグリーンを好んで使用していたのは例えばゴッホやゴーギャンなど印象派の画家達である。印象派の彼らにこれは願ってもない色であった。
ゴッホやゴーギャンの絵にその使用が認められているが、意識して見て見ると、いろんな画家達が使用していた。

ゴッホによるポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男) 1888年。ゴッホ美術館。

1888年、ゴッホとゴーギャンが南仏アルルで共同生活をしていた時に描かれた作品のようだ。
まさにシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)がメインのように使われた絵である。

オルセー美術館所蔵のゴッホ自陣の自画像

背景はパリス・グリーンにホワイトを混ぜた絵の具が使用されていると思う。顔の陰影はシェーレ・グリーン。


ゴッホ美術館(本から)ゴッホの椅子 1888年

バックの緑は間違いなくシェーレ・グリーンですね。それにカドミウム・イエローが使用されていると思われます。
カドミウム・イエローの発明は1817年ストロメイヤー(Stromeyer)による。​​​
ゴッホの精神疾患ももしかしたらヒ素のせいでは? と考えている人もいるようです。

他にもマネやセザンヌなどもそうだ。彼らが陰影に使用している緑の絵具がパリス・グリーンだと思う。

​​

また、シェーレ・グリーン(Scheele Green)は、塗装用のペンキとして、木船の船底塗料にも利用されているし、ネズミ駆除の観点から家の塗料にも利用されている。
ナポレオンがセントヘレナに渡航する為に船にいた期間は出帆8月9日から到着10月14日の67日目間に及ぶ。船でも飛沫を吸っていた可能性は十分ある。

さらにナポレオンの住まいであったロングウッド・ハウス(Longwood House)の柱にも塗られている。
何しろパリス・グリーン(Paris Green)はコロニアル・カラーとして植民地の家屋敷で多く使われていたはずなのだ。

下はオルセー美術館に所蔵されているエドゥアール・マネ「バルコニー」(1868年~1869年制作)


絵画の中のバルコニーの塗装や窓枠にパリス・グリーンが使用されている。

植民地は西回りも東回りも熱帯性で多湿の所が多いからネズミよけには最適であったはず。
※ 現在のファッション界の「コロニアルカラー」は、植民地当時の人々が着ていた麻服などの色に由来しているらしいが、本当のコロニアル・カラーはパリス・グリーンである。​​

他にも薬としても利用されていたし、ワックスキャンドル用、さらには子供用のおもちゃにも使用。
ビクトリア朝時代には、酢と石灰にヒ素を混ぜて白粉(おしろい)を造り顔に塗っていた人もいたそうだし、もっと恐ろしいのはシェーレ・グリーンは、グリーンブランマンジュのような菓子の食用顔料として利用されていたとか。びっくり

​​ナポレオンヒ素中毒説
あえてナポレオンにヒ素を盛らなくてもヒ素中毒であったのは間違い無い。
ではなぜ回りの人は大丈夫たったのか?
当初のメンバーで、最後までナポレオンの側にいたのはベルトラン伯、モントロン将軍、第一従僕のルイ・マルシャンであるが、ベルトラン伯は、そもそもロングウッド・ハウスに同居していない。
モントロン将軍とルイ・マルシャンの健康状態は不明であるが、ナポレオンが一番部屋に引きこもっていた可能性は高い。
何しろナポレオンはパリの陸軍士官学校以来の読書好き。
フォンテーヌブロー宮殿にあるナポレオンの図書館にはナポレオンの蔵書16000冊が所蔵されている。その一部はセントヘレナから回収された本だろう。
2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」ナポレオンの図書館
リンク ​ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式​​​

さらに、陰気で多湿な島でナポレオンはほとんど外出も許されなかった。
島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は脱走を恐れて馬で走れる範囲も狭めナポレオンが自由に1人で散歩できないようにしていたし、一日に2度士官に顔を見せなければならないなど小うるさい事を言ってはナポレオンを怒らせていた。ナポレオンは外出しないなどの抵抗を見せていたのだろう。
誰がナポレオンを殺したか? と言うならこのハドソン・ローの行為は確実にナポレオンの寿命を奪った事になる。

星ナポレオンが体調不良を訴えるのは来島してまだ2年に満たない頃だ。それは1817年9月オマーラ医師の記録で解っているのだが、後々の見解では、その所見はほとんどがヒ素中毒に当てはまるらしい。

ナポレオンが信じ、信頼していたオマーラ医師は翌年1918年8月ローによって島から追い出されてしまう。オマーラ医師がいなくなり、代わりの医師も無く、ナポレオンの体調はより急速に悪くなって行く。
※ オマーラ医師は国に戻るとローの批判を始める。それが故、ローの殺人説ができあがったらしい。

​1818年暮れから始まる極度の冷え性。
体の冷えは1821年亡くなる2ヶ月前にピークに達しているが、ナポレオンが島に来たのが1815年10月15日。1821年5月5日に亡くなっているが、1817年から体調不良が始まり、1818年末にはかなり悪化。
1819年になると失神を繰り返し両足の冷えが改善されず、水銀の丸薬を丸飲みするようになる。すると脇腹に激痛が始まり顔は蒼白に。

体調不良で外出ができなければカビの生えたパリス・グリーンの壁紙から発した有機ヒ素化合物のトリメチルアルシンがよりナポレオンを攻撃し続ける。1821年5月までよく持ちこたえたものだと思う。

それにしても島に来てほとんど体調不良だったわけで、暗殺説もわかるが、極度に弱って行くナポレオンにヒ素を盛り続ける理由も無い気がするのだが・・。​​

​ヒ素を誰かに盛られていたのか? ​環境によるヒ素中毒なのか? 両方なのか?
星セントヘレナの気候もまたナポレオンの死因における要因の一つだったのは間違いない。

日本のヒ素事情

​​ヒ素は、日本でも戦国期から石見国で産出されている。
石見銀山ねずみ捕り(いわみぎんざんねずみとり)と言う言葉が今に残るほど有名なネズミ駆除剤となる砒石(硫砒鉄鉱)が産出される場所である。
※ 実際は銀の鉱山の方ではなく、亜鉛や銅の採掘鉱山であった石見国笹ヶ谷鉱山である。
元禄期には石見銀山より採掘量がまさり​石見ブランドの殺鼠剤として知名度が上がったらしい。​​

下はヒ素を含む硫化鉄鉱

​ヒ素は地球を構成する元素として天然にも広く存在している物質​

発見以来、薬や駆虫剤や防腐剤、防カビ剤としても使用され続けているし今も​半導体やプリンターの生産過程で使用されている。毒性の強いヒ素であるが、そこそこ貴重な存在のようですね。


ナポレオン(Napoléon)おわります。
(_ _)

​リンク ​ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子
リンク ​ナポレオン(​Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還

その他ナポレオン
リンク ​ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式
リンク ​ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠
リンク ​フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020年09月15日 15時54分20秒
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.