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カテゴリ:車・飛行機・船・クルーズ
さて、今回は海洋共和国編で度々登場したガレー船(galley)を取り扱ってみました。 船に興味があったわけではないのですが、本スジの「アジアと欧州を結ぶ交易路」を考えた時に、その輸送手段は重要事項です。 現代では、物流と言えば航空輸送や陸上輸送の車も対象になりますが、太古の物流は主に船でした。 できるだけ船で運ぶ。時に運河も構築した。そして必要最小限が人なり馬などの動物を利用した輸送です。 5000年前にはすでにガレー船(galley)が登場し、地中海交易での物流を担っていた。 大航海時代に太洋を越える物流では帆船(はんせん Sailing ship)が優位に立ったが、小廻りの効くガレー船はエーゲ海や、バルト海、カリブ海などの諸島群の輸送では近年まで主力であったのだ。 そしてそれは物流を担う商船と共に軍船として進化を遂げてきた。 ※ 蒸気船の事も最後に載せました。 ガレー船(galley)の事に始まり、赤ヒゲ海賊の事、オスマン帝国との海戦でレパントの海戦 (Battle of Lepanto)も成り行きでいれました。 写真はサンマルコ寺院の内部を紹介。 最初にガレー船時代の美しい海の怪物の話しを入れました。 付け足しして書いていたから、またまた長くなりました。 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦 ガレー船(galley)とセイレーン(Siren) ガレー船(galley)の変遷 一段櫂船(single-banked galleys) ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme) アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician) ポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme) ガレー船の漕ぎ手問題ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情 官民一体のヴェネツィア船団 小型ガレー船フスタ(fusta) 元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロス 海賊との海戦からオスマン帝国との海戦に 聖エルモ城塞(Fort st.Elmo) レパントの海戦 (Battle of Lepanto) ガレー船の衰退蒸気汽船の発明 サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真 ガレー船(galley)とセイレーン(Siren) まずは、私の好きな19世紀、ヴィクトリア朝の画家の作品から。 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse )(1849年~1917年) ![]() 写真はウィキメディアから借りました。 1891年製作。絵のテーマは、古代ギリシアの吟遊詩人ホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア(Odysseia)」から セイレーンの居る海域を通過するオデュッセウス(Odysseus)の話しである。 ※ 二大英雄叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の執筆者として信じられているが、実在かはハッキリしていないらしい。 オデュッセウス(Odysseus)はギリシャ神話の英勇。トロイア戦争の勇者であるが、彼の船は帰路すんなり帰国できず地中海をさまよう。辛い放浪の中で幾多の怪物にも遭遇。 セイレーン(Siren)は、ギリシア神話に登場するかぎ爪を持つ半身が鳥の海の怪物。彼女らの歌声を聞くと海に飛び込んでしまい、あげく、食われてしまうそうだ。 ウォーターハウスは、セオリー通りに半鳥の怪物として描いている。 ![]() 座礁を起こしやすい、慎重に船の舵を取るべき海域にセイレーンは存在したのだろう。 特にガレー船は岸に近い所を航行するのが常。岸に寄ったら危険・・と言う海域の警告? 最も、昔のたいていの人は、船が遭難したり難破するのは全てセイレーンの仕業。彼女らの美しい歌声を聞いて惑わされたから。と信じていたのかもしれないが・・。 下はフェニキア人が描いたモザイク画のオデュッセウス(Odysseus)。 紀元前の作品です。 かつてのカルタゴ(現チュニジア)のバルドー国立博物館(Bardo National Museum)のモザイク画から ![]() 以前一度紹介していますが。こちらもホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア」を描いたもので中央で立って縛られているのがオデュッセウス(Odysseus)です。 このガレー船の絵は有名ですが、この右隣のセイレーンの絵はあまり紹介されていない。 ![]() こちらのセイレーンもセオリー通りの足がカギ爪のは半人半鳥の怪物となっている。 ところで、中世になると怪物は人や人魚に代わったりしている。「船乗りを惑わすのはさぞ美しい魔物に違いない。」と考えたのでしょうか? 下は上と同テーマのホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」1867年製作。 怪物に注目。 ![]() 何と怪物セイレーンは絶性の美女群で描かれている。ハーレム状態。こんな誘われ方したらね ![]() 写真はウィキメディアから借りました。 フランスの風景画家レオン・ベリー(Léon Belly)(1827年~1877年) 彼はフランスの中東の調査探検に記録画家として1850年~1851年参加。ギリシャ、シリア、黒海を回り、帰国後、プライベートでエジプト、ナイル川を遡上するなど中東にとりつかれた? パリのサロンでデビューし、レジオンドヌール勲章ももらっている。 この絵の女性はルーベンスを思わせる肉感がある。まあ、神話だからね。 が、彼の他の絵はもっと現実志向で写実的。現実の今を写真のように切り取った彼の絵は人々に中東への興味を与えただろう。恐らく流行ったのも勲章をもらったのも、当時のフランスの中東政策にはまったからかも。 それにしてもイギリスではヴィクトリア朝にこのテーマを扱った画家は多いし、フランスもしかり。 ロマン主義的なテーマが好まれた時代ではあるが、裸婦を描く為の方便? 確実に魔物は普通の美女に代わっているからね。 ※ ヴィクトリア朝(Victorian era)はヴィクトリア(Victoria)女王(1819年~1901年)が大英帝国を統治(在位)していた期間(1837年~1901年)を指す。 1877年~1901年までは初代インド皇帝としても君臨している。 巨大な植民地を持っていた大英帝国の経済は絶好調。比例して国力が最もあった古き良き時代でした。 ガレー船(galley)の変遷 ガレー船(galley)の歴史は古くBC3000年に遡るらしい。 先にも触れたが、地中海周辺の船乗りの間で貿易船として、軍船として、あるいは海賊船として19世紀初頭まで使用されていた。 古代のフェニキア人(Phoenician)が地中海交易で使用している。それはオールを左右に複数備えた手こぎ(人力)の船で、さらに帆も着いたガレー帆船である。 ※ フェニキア人は、オールが少なく、主に帆に頼る輸送船を使用していたらしい。 古代エジプトのハトシェプスト(Hatshepsut)女王の治世(在位:BC1479年頃 ~BC1458年頃)に紅海の向こうから贅沢品を持ち帰るガレーのような船が記録されているそうだ。 因みに贅沢品はミルラ(Myrrh)やフランキンセンス(frankincense)であったと思われる。 ※ 殺菌と鎮静の薬として、またミイラを作る時の防腐剤に利用されたミルラ(Myrrh)。儀式で神にささげられる貴重な香油フランキンセンス(frankincense)。以下で書いてます。 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史 下は古代でなく、中世にエジプトからローマにガレー船で運ばれて来たオベリスクです。 ![]() ヴァチカン美術館で見付けた絵画を撮影していたものです。 オベリスクを運ぶ為に特別仕様に造られたガレー船です。左右の舷(げん)で沢山の人達がオールを漕いでいるのが解ります。 ![]() 後方の帆船からそれは中世である事はわかりますが、ローマにオベリスクは13本あり、どのオベリスクが新たに運ばれた物かまで今回は特定していません。 ローマ帝国時代に運ばれたオベリスクを再利用して広場に設置したりしているからです。 ※ 確証はないけどベルニーニが1667年にミネルバ広場の為にデザインした時の物かな? 古代のローマ帝国の強さと、中世以降のローマ教皇庁の威信がイタリアに16本(ローマに13本と他3本)も集めたのでしょう。 因みに、ヴァチカンのサンピエトロ広場にあるオベリスクはネロ帝の競技場跡に建っていたものを1586年に移転させたものです。 ※ 過去に「オベリスクの切り出し(アスワン)」を載せています。 リンク オベリスクの切り出し(アスワン) リンク エジプト 17 (オベリスクとベンベン) 下はアッシリアの壁画(大英博物館)から BC700年、アッシリアの軍艦 ![]() 写真はウィキメディアから借りました。 オールを見ると2段式櫂船(かいせん)のようです。 下はノルウェーの復元されたヴァイキング船の写真です。 ![]() 時代は中世初期ですが、ガレー船としてはシンプルな初期型(一段櫂船)。見本に載せました。 こちらは一応ヴァイキング船なので戦闘船です。円形の楯(たて)の収納場所も付いている。 一段櫂船(single-banked galleys) 古代のガレー船は、漕ぎ手座は1段(single-banked) で、1人が1本の櫂(one row of oars)を担当。また漕ぎ手の列(lines of rowers)に基づいて名前が付けられていた。 初期のギリシャの一段櫂船(single-banked galleys)は、オールの数で呼ばれていたようだ。 30オール・・トリアコンター(triakontoroi) 左右1列づつの 2×15人 50オール・・ペンテコンター(pentēkontoroi) 左右1列づつの 2×25人 また人件費と言う意味で帆走よりコストがかかった。海賊に人件費はいらないが・・。 ※ 帆走(はんそう)は帆(ほ)に風を受けて航行するヨットのような船。当時の帆船には大きな正方形の帆マストが1つしかなかったらしい。 ただ風に頼らず、行きたい方向に進める小廻りの効くガレー船は近海警備や戦闘用に向いていたので古代から中世までは軍船として発展して行く。 ところで、当初、軍船と商船の明確な区別は無かったらしいがBC8世紀頃からスタイルの違いが出てきているらしい。 多人数でオールを漕げぱ早い走行は可能。それ故、ガレー軍船は戦士をどんどん増やし大型化して行くが、逆にフェニキアの商船の場合は積荷スペースを多くする為に漕ぎ手を減らしている。 ギリシャでは馬を輸送するガレー船も存在している事から用途によってガレー船のスタイルもいろいろ考案されていたのだろう。 ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme) 漕ぎ手座は3段(three banks of oars)・・・三段櫂船 トリレム(Trireme) BC6世紀中頃~BC4世紀末は三段櫂船トリレム(Trireme)が地中海における標準的な軍船となる。 BC5世紀、アケメネス朝ペルシア帝国VSギリシアの間で行われたペルシャ戦争(BC492年~BC449年)でもギリシャは三段の櫂(かい)船を使用した。 三段櫂船(さんだんかいせん)は漕ぎ手60名~170名を上下3段に配置される。基本は船体衝突と白兵戦である。漕ぎ手が戦士でもあった。 下はGreeceJapan.comの記事「三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号、ギリシャで試験航海を実施」から リンク 三段櫂船のオリンピアス号、ギリシャで試験航海を実施 ギリシャ海軍が復元した古代ギリシャの三段式のガレー帆船の走行実験をしている写真をお借りしました。photo: Hellenic Navy全長36.9m、全幅5.5m、全喫水1.25m、35トン 乗員170人。 このオリンピアス号は漕ぎ手座は2段であるが、重装歩兵や軍馬の輸送を担う船もあり、三段櫂船のレイアウトにはいくつかのバリエーションがあったらしい。 ![]() 船首に付いている金属の尖った口ばしのような衝角は、敵船に体当たりして穴を開けると言うよりは敵のオールを主に破壊し、航行不能にする武器だったらしい。 ![]() 中世以降もカリブ海やバルト海など小島が点在する海域で残ったのもそうした理由だろう。 つまり複数のオールで漕ぐ所は一致しているが、動乱後の6世紀以降に海洋共和国が新たに造船したガレー帆船と古代のガレー船とは設計において全く別物の船らしい。 アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician) ところで、全く余談であるが、ふと思ったので・・。 BC324年、ペルシャ帝国を征服し、バビロンに戻ったアレクサンドロス王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年)はフェニキアで建造した船を解体し、ユーフラテス川沿いに建設した港に船を運ぶと、同時に何千と言う水夫やこぎ手を集めてペルシャ湾岸からアラビア海湾岸を沿ってアラビア半島南端(イエメン共和国の港湾都市アデン(Aden)を経由して紅海に入る海のルートを模索している。 すでにインダス川まで到達していたアレクサンドロス王は船でインドから地中海への交易路を探っていたのだ。 地中海交易にたけたフェニキア人は自力で船を建造していたばかりでなく、輸出もしていたのかもしれない。アレクサンドロス王は、フェニキア人の船の凄さを認めていた? 因みに素材はレバノン杉。それもまた彼らフェニキアの本拠テュロス(Tyros)の特産品である。 しかし、皮肉にも海の民フェニキア人の本拠地、東地中海のパレスティナ沿岸にあったテュロス(Tyros)は、アレクサンドロス王のペルシャ遠征の時に壊滅され歴史から消えた。(一部がカルタゴへ逃げた。) 何しろテュロス(Tyros)は当時の地中海貿易の中心となる都だったからだ。 フェニキア人は古からの総合商社であり、運送業者でもあった。 必要な品を必要な所に運ぶ。古代から存在したテュロス(Tyros)の街は、その港からあらゆる商品を地中海の港に運んでいた。当然、代替えの効かないオリジナル商品もたくさん扱っていたはずで、テュロスに依存していた国は多かっただろう。 ※ 現代で言えば、例えば中国が壊滅して中国からの商品の供給が全て止まったらアメリカや日本の経済もヤバイ。と言うのに近かったと思う。 また、アレクサンドロス王は帝都ペルセポリス(Persepolis)を燃やして壊滅させた事も後悔していた。 ペルセポリスはオリエント1の国際都市であったからだ。こちらはまさか、火事程度で壊滅するとは思っていなかったのだろうが、実際、再建できない程のダメージを受けて消滅した。 彼はフェニキア人を滅ぼすべきではなかった。そもそも滅ぼされる理由は彼らには無かったし・・。 彼は巨大帝国の王位に就いた時に初めて経済を顧みたのではないか? 新たな交易ルートの開拓は素晴らしい事ではあるが、結果論として、現行の経済を破壊しただけで終わってしまったからだ。 それ故、アレクサンドロス王を考える時、その2点は大失態だっと思う。 もっとも早世(そうせい)していなかったら、彼が新しい交易のスタンダードを造り経済を再生させていたのかも知れないが・・。 ※ アレクサンドロス王については以下で触れています。 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス ポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme) 漕ぎ手座は5段(five banks of oars)・・五段櫂船 クインクレーメ(Quinquereme) ポエニ戦争ではカルタゴ海軍の主力軍船として五段櫂船(ごだんかいせん)(ペンテーレス pentērēs)が使われた。 実際に櫂(かい oars)が五段になっている訳ではなく、3本の櫂を5人(上段2人、中段2人、下段1人)で漕ぐ形になっていたと解説があったが、下のカルタゴ船の図は五段になっている。 スタイルは色々とあったのだろう。 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の所で一度紹介していますが、 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権 当時のローマ船とカルタゴ(フェニキア人)の船の図です。 ![]() アレクサンドロス王にテュロス(Tyros)が滅ぼされた後、逃れた一部フェニキア人は北アフリカのカルタゴ(現チュニス)に本拠を移し、カルタゴ(Carthage)の目先にあり地中海の中心でもあるシチリア島(Sicilia)を寄港地に展開する。 ※ カルタゴは、もともとはフェニキア人が地中海交易の中継点(船舶寄港地?)として建設していた街。 が、今度はローマ軍との3度に渡るポエニ戦争で敗戦。シチリア島もカルタゴも失い、フェニキア人は都市国家ローマに完全に滅ぼされてしまう。 ※ 「フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争」について書いています。 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権 力を付けてきた都市国家ローマは共和制ローマとなりカルタゴ(Carthage)をローマの属州(植民都市)とし、以降地中海域の王者として君臨する事になる。 が、そもそもフェニキア人の技術は他が追随できないレベチな域にあった。かつてのカルタゴ(Carthage)の街も実に未来的であったが、カルタゴ(Carthage)が滅んだ事で消えた技術もたくさんあったであろう。 実際、五段櫂船(ごだんかいせん)の開発は難しかったはずだ。 ローマも実は第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)の後、フェニキアからぶんどった船を研究して自国の船を建造している。ローマ帝国の海への進出はフェニキアの模倣から始まるのだ。 古代に、すでに高度な文明を持っていたフェニキア人は何者だったのか? そして彼らのガレー船は、多少形を変えながらも動力が人力から蒸気エンジンになるまでの間、およそ2000年は続くのである。 ![]() ![]() ガレー船の漕ぎ手問題 当時軍船は人力でオールを漕ぐ ガレー船(galley)である。風力を利用する帆船と比べると持続力は乏しく長距離の航行には向かないが、小回りは効くし機動性はある。 その為には狭い船内で、漕ぎ手の一矢乱れぬ技術が必要だったらしいが・・。 とは言え人力なので漕ぎ手が全力を出せるのは30分程度が限界だったらしい。 太洋に比べれば内海の為に地中海は風が緩く帆船よりはガレー船は適していたらしい。 だからガレー船は地中海では長く使用された。 初期の漕ぎ手座は1段(single-banked)で甲板はなかったので漕ぎ手がそのまま戦士となったから奴隷は利用できなかったが、やがて漕ぎ手座が2段になり、次いで漕ぎ手座3段(three banks of oars)の三段櫂船へと発展すると事情は変わる。 ※ 古代ギリシアの復元船、三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号は漕ぎ手座が2段(Two banks of oars)だが漕ぎ手のtotalが3列。 つまりオールの最大バンク(maximum banks of oars)は3段が術的にもほぼマックスで、後は1本のオールを何人で漕ぐかで人数が変わったようだ。 なぜ人員が増えたかの理由は明確になっていないらしいが、投石機(カタパルト catapults)のような兵器が船に搭載されるようになった事などで人員が必要になったのが要因? 最も、無駄に増えただけで意味のなさいない船もあったらしいから自然と必要条件のそろう人員に収まったのだろう。 オールを上げている時は停泊時 or 帆を上げて風待ちをしている図 船によってサイズや人数は異なるだろうが、およそ長さ45m。幅9m。左右に26ずつの腰掛けがあり、一つの腰掛けに5人の漕ぎ手が座る。(横幅9mの船に横一列で10人。) 450人ほどが乗船していた船もある。劣悪で、過酷以外の何物でもない。 ※ 囚人の場合は鎖で繋がれていた。 誰が船を漕いだのか? 各国の漕ぎ手だけでもその国の事情が解る。 かつてのローマ帝国海軍の場合は無産市民(プロレタリア)が漕ぎ手となっていた。 ガレー船の乗り組み員は自分達の事を船員(sailors)ではなく、兵士(soldiers)と呼んでいたそうだ。 それ故、労働に見合う給与なり報酬が必要であった。つまり、囚人は使用しなかったらしい。 また、ヴェネツィアの船長の条件は厳しかったが、船数が増えると条件は緩められた。スペイン船では、宗教裁判で異端とされた罪人が使われたと言うが、イタリアにはそんな罪人はほとんといなかったらしい。 ヴェネツィアの場合、かつて服属させたアドリア海の東岸の人々を漕ぎ手に雇用すると言うシステムが昔からできあがっていたらしい。しかもヴェネツィアは高額な給与を支払っていたので当初は人気はあったそうだ。 アマルフィ、ピサ、ジェノバの海洋共和国では特に人集めが大変だったようだがやはり自由人を給与を払って募集した。 また造船技術は西方よりは遅れていたので当初は小型のフスタ船が主に使用されていた。イスラムの乗員は50人程度。 だからイスラム側は自国の軍船を出すよりは海賊を都合よく利用した。 海賊は船も船員も持ち込み。 軍功を上げれば正規軍として雇用されオスマン帝国の将軍にすると言われて飛びついたのだ。 ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情つまり地位と名誉が報酬で、海賊がキリスト教徒との戦闘に加わったのである。 ところで、ヴェネツィアとジェノバのガレー船は商用船でもあったので、40m級の大型が多く、漕ぎ手も一隻で200人は必要。当然1航海における人件費は高くなり一隻の航海における諸費用のほとんどは人件費で消える。だからヴェネツィアはガレー船にはペイできる高額品を積んで航行したそうだ。 だが、航海術よりも商売に詳しい船長を採用する傾向があったそうだ。 ヴェニスの商人。徹底していましたね また、ヴェネツィアの商船は常に共和国の海軍の護衛の元に航行していたので、財力のあるヴェネツィアは傭兵隊長を別に雇って海軍維持にも努めたそうだ。 一方、1381年のトリノ講和条約、以降、東方貿易での利権を失ったジェノバでは高額品の取り扱いができない。だから、地中海交易では人件費のほとんどいらない小型帆船のフスタ船にシフトしたらしい。 とは言え、ジェノバはイベリア回りでフランドルに定期航路を持った。フランドルの毛織り物はそれ自体が宝石に匹敵する高額商品として取り扱われ、東方へも輸出されて行く。 どこにでも商機はあるものだ 官民一体のヴェネツィア船団 共和国の軍船は、当初20隻くらいであったらしいが、15世紀になるとオスマンの海賊対策の為にガレー船の数は増えて行く。 前回触れたが、1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍に参戦した時は、その時だけでもヴェネツィア共和国から50隻の艦船が参戦している。 それだけオスマン帝国側の海賊船の数が増えて脅威になってきたからだろう。 それにしても、ヴェネツィア共和国の官民一体の協力体制はすごかった。 経済の維持に国が協力を惜しまなかったからだ。 実際、交易品に掛けられる税収がヴェネツィア共和国の財源であったから・・。 しかし、逆に国が民に求める事もある。 積荷は最寄りの港に預けられ商用船も戦闘に参加した。これは義務であった。 因みに商船が沈没して荷物の回収ができなくなった時は、ヴェネツィア共和国が責任を持って積荷を回収し荷主に届けられたと言う。 その非常に合理的な制度、さすがヴェネツィアである。 それに比べてジェノバの方はトップが4つに割れて争っていたからヴェネツィアのようなまとまりは無かった。強いて言えばジェノバはローマ教皇庁の為によく協力をしていたのでその見返りは大きかったのだと言う。 小型ガレー船フスタ(fusta)第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年で大きく貢献した事は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに紹介しているが、ローマ教皇庁に大きく恩を売った。 そして東ローマ(ビザンツ)帝国ともつながり植民地領をたくさん得る。 またカール5世以降、神聖ローマ帝国とつながり、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのハプスブルグ家とも懇意になっていく。造船や金融など利権の獲得に成功している。 フスタ(fusta)は帆走をメインにした小型のガレー船である。 下の絵ではマストが横倒しになっているが・・ ![]() 大三角帆用の1本マストがあり2人用の漕ぎ手用ベンチが並ぶ。 戦闘用だと両舷に12人から18人程度の人員が漕ぐのだろうが、小型のフスタは商用だと乗員を制限して帆に頼る航行をメインにしていた。 因みに、四角帆だと逆風では行きたい方向に進めないが三角帆だとジグザグに前進する事が可能。 下は以前紹介したジェノバ港の絵ですが、フスタ部分をクローズアップしました。 ![]() 大型ガレー船よりはるかに数が多い。むしろ一般的な実用船のようです。 元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロス バルバロッサ(Barbarossa)とは、イタリア語で赤ヒゲを意味する。 映画などでよく怖い海賊の代名詞に使われる赤ひげの海賊であるが、実は彼はオスマン帝国の海軍の提督であった。 ※ ハイレディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa)(1475年~1546年) ![]() 上半身のみウィキメディアから借りました。16世紀のバルバロス・ハイレディン・パシャの肖像(Portrait of Barbaros Hayreddin Pasha ) 作者不明 Louvre Museumd 所蔵 その中でもキリスト教徒相手に成果を上げた海賊をオスマン帝国の正規軍に迎え入れると公言し、実際大きな成果を上げたバルバロッサ(Barbarossa)は提督に抜擢された。元海賊と言う異例の経歴を持つ提督だ。 下もウィキメディアから借りました。 Istanbul Naval Museumの模型ですが、原本の解像度が悪い? 船を見やすくする為にバックを修正しました ![]() 1543年、バルバロッサはこの船で当時オスマン帝国の同盟国であったフランスを支援するために210隻の艦隊でマルセイユに向かった。バルバロッサは国賓としてフランスに招かれたのである。 ※ これらガレー船を漕いでいたのは拉致され奴隷とされたキリスト教徒であった。 彼はギリシャのレスボス島(Lesbos)出身者。つまり元はカトリック教徒でもあった。
しかし、当時レスボス島の周囲は完全にオスマン帝国に包囲された環境だ。 イスラム側は略奪品の一部を上納すれば海賊業を認めてくれたので、好意的に解釈すれば、生きて行く為に海賊となったと思われる。 裏切り者と言われようと、相手がカトリック教徒だろうが関係なかったのだろう。 実際、イスラムに征服された土地の住人、また誘拐されて来た者らはイスラム教に改宗しなければ、ほぼ奴隷扱いされたのでカトリックを棄てた者は多かったと言う。 ※ かつて海賊と言えば、アラブ人、ベルベル人、ムーア人が主であったが、時代は変わりギリシャ人、ユダヤ人、イタリア人、スペイン人など人材も多様化。 また、以前はイスラムの土地になっていたイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)されキリスト教徒の土地に戻ると、そこを追われたイスラムの者が海賊となり、イベリア半島を襲うと言うよう、西地中海も海賊の標的になって行く。 オスマン帝国は彼ら海賊をバックアップしたので海賊の数は増え、また有能な人材も増えたらしい。 ※ イベリア半島は、西ゴート王国が滅亡した8世紀初頭から1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)が陥落するまでイスラムの土地になっていた。 ※ 土地にいたイスラム教徒も残りたい者はカトリックに改宗して多くが残留している。 バルバロッサ時代のオスマン帝国販図 ![]() バルバロッサ(Barbarossa)は北アフリカを襲い、チュニジアとアルジェリアをスルタン・スレイマンに献上する事で北アフリカのイスラム化にも協力していた。 これはバルバロッサの先行投資であった。 実際、これら功績により、バルバロッサは「トルコ帝国海軍の最も武勇にすぐれた海将」として迎えられ、スルタンよりアミール(amīr)の称号を与えられた。同時にたくさんの艦船を与えられている。 ※ アミール(amīr)とは、ムスリム集団の長の称号であり、アラビア語で「司令官or総督」を意味する。 海賊登庸など大胆な彼の政策により? スレイマン1世はオスマン帝国の最盛期を造り上げたスルタンとして評価されている。 因みに、聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪った(1522年)のもスレイマン1世なのである。 ※ 聖ヨハネ騎士団は1530年にマルタ島を与えられ移るが、それまでは教皇庁海軍基地などに居候。 スレイマン1世は、オスマン帝国の海軍提督となった赤ヒゲ、バルバロッサを地中海制覇に向けて公式に送り出したのである。 1538年9月、教皇庁連合軍とのプレヴェザの海戦 (Battle of Preveza)ではバルバロッサがオスマン帝国を率いて勝利。 これによりクレタ島、マルタ島を除く地中海域の制海権をオスマン帝国がほぼ掌握する事になる。 海賊との海戦からオスマン帝国との海戦に スレイマン1世がスルタンになると軍船の数も半端なく増えている。 また、戦いはどちらが先の一手を打つか? その為に事前の情報収集と根回しが必要。戦いは情報戦の時代となりスパイも暗躍しているようだ。闇雲(やみくも)に戦う時代ではなくなったらしい。 ヴェネツィア共和国は13世紀頃から各国に大使や領事を派遣し、常駐させてきた唯一の国。ヴェネツィア共和国には諜報機関があったから情報収集もハンパ無かったのだろう。 コンスタンティノポリスの軍船の移動もすぐさま伝達された。 教皇庁連合結成もヴェネツィアの呼びかけであるし、レパント戦のスペイン参戦もヴェネツィアがローマ教皇ピウス5世に働きかけた結果である。 総司令官をヴェネツィアがとるか、スペインがとるかでもめたらしいが・・。 ※ 初期のイスラムの海賊については「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海」と「サラセン(Saracen)の海賊」で書いています。 聖エルモ城塞(Fort st.Elmo) ヴァチカン美術館で撮影した写真に面白い地図を見付けた 説明を撮って居なかったのでこれが何か最初は解らなかったが、本の図解でこの形がまさに・・と気付いたのだ。絵は攻防以前の城塞だと思う。 ![]() 1565年、マルタ島の攻防戦のメインとなったマルタ島の聖エルモ城塞を中心にした陣であった。 オスマンと海賊の大軍に襲われ、危ぶまれたマルタ島であるが、当時、マルタ島には聖ヨハネ騎士団がいた。 以前いたロードスがオスマン帝国に奪われ苦渋をなめていた。今回は負けられない。オスマン側の残虐な手法にも精神力で負けなかった。 5月に始まった戦いは夏のシロッコや暑さに助けられた。4ヶ月に及ぶ攻防でオスマン側には疫病も流行った。キリスト軍援軍の知らせでオスマン軍は撤退し、勝利したが、エルモ城塞は壊滅。キリスト軍の7割の兵士が戦死。 戦闘の中でも悲惨な戦闘の一つではないか? ヴァチカン美術館が敢えて記録として? 残している事からも、そうなのかもしれない。 レパントの海戦 (Battle of Lepanto) それにしても絵画に描かれている海戦のスタイルを見て驚く。陣形が出来ている。海戦も進化した。まさに戦争だ レパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年10月) ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊 ![]() 前回、「法王庁海軍結成と共和国連合艦隊」については説明済ですが、オスマン帝国との戦いにはローマ教皇(法王)庁先導で共和国が連合が結成された。 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊 レパント決戦の前にシチリア島のメッシーナに艦隊は集結。 ヴェネツィア 110隻(6隻のガレアス船を含む) スペイン 72隻 教皇(法王)庁 12隻 マルタ騎士団 3隻 サヴォイア公国 3隻 その他 3隻 ガレー船の総計 203隻 フスタ 50隻 大型帆船 30隻 人員 漕ぎ手43500人 総計8万人を越えたらしい。 ![]() バチカン美術館の地図ホールのフレスコ画らしい。 写真は上下共にウキメディアから借りて、上は部分カットしています。 艦船の数に驚く。海賊対策の教皇庁連合軍はオスマン帝国との戦争に突入。 ガレーを主力とする海戦としては最後らしい。 最初、防衛側にいたヴェネツィアが残虐なやり方で皆殺しにされるとそれまで対立していたスペインとヴェネツィアの対立は消え、復讐に燃え結束はかたまったらしい。 戦闘は5時間ほど? 結果的にレパントの海戦は教皇(法王)庁連合の圧勝であったが、戦死者7500人。負傷者8000人。敵のイスラム側も戦死者8000人。オスマン宮廷の高官や指揮官はほぼ全滅。 この戦死者のうちヴェネッアだけで半数以上の4836人出している。艦長クラスの18人全員がヴェネツィアの名家出身者がしめたと言う。料理人から技師までが、一丸となって戦っている。どこよりもヴェネッアが健闘した証しである。人数が正確に出ているのもヴェネッアだけ。管理や統計にも抜かりがなかったのだろう。 教皇庁連合軍はこの海戦に勝利し、地中海の制海権を取り戻す。 ※ 1538年9月プレヴェザの海戦で敗戦して以来の地中海の制海権の奪還となる。 勝った。負けた。は一言で終わるが、中身は知れば知るほど壮絶である。 ロンドンのNational Maritime Museum 16世紀後半 下もレパントの海戦です。 ![]() スペインはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)(1466年~1560年)の元で力を付けてきた。最も彼は1560年に亡くなっているのでレパント戦にはいないが・・。ローマ教皇ピウス5世 の呼びかけにやっと応じての参戦だが、艦船が少ない。スペインがどこまで本気だったか? はちょっと疑問だ・・。 レパント戦では、ガレアス船(galleass)が6隻投入された。 ガレーと帆船を合体させたガレアス船(galleass)は漕ぎ手の頭上に砲列甲板があり、13~16門の砲台を積んだ。これは今までのガレー船の2~3倍近い砲台らしい。 海上で一周しながら敵に砲撃できるので敵の陣営を崩す事ができると言う新兵器だったらしい。 因みに、ガレアス船(galleass)は外洋航行に向かずコストも維持費も高かい。ヴェネツィアやオスマン帝国では軍船として17世紀後半以降も使用したと言う。 それでもヴェネツィアは危機を唱えていたが、その勝利に酔った教皇庁の連合軍は1572年に解散。 ヴェネツィアは今後のオスマン帝国の復讐戦を恐れたのだろう。1573年3月、ヴェネツィアはキプロス島を手放す条件でオスマン帝国と正式調印し和解した。 ヴェネツィアはキリスト教国から裏切り者とされるが、レパントの海戦での犠牲を最も受け、オスマン帝国との戦闘を避ける事を教訓としたのだろう。 ガレー船の衰退 長距離航海の大航海時代(16世紀~18世紀)にガレー船は当然向いていない。 ガレー船から帆船への移行は15世紀には始まっている。キャラック(Carrack)船は遠洋航海を見据えて開発された。 ※ 1492年、クリストファー・コロンブスが新大陸に到達した際に乗船していたサンタ・マリア号もキャラック船(Carrack)であった。 16世紀から18世紀は大航海の時代に突入。ガレオン船(Galleon)の時代になるとさらに荷が多く積載できる。 ガレオン船はキャラックに比べて幅と全長の比が長くスマート、また吃水が浅く沈没しやすい反面速度は出たらしい。 帆船の話しは次回ですかね。 本当はイントロとして使う予定だったのですが・・。 蒸気汽船の発明 世界初の蒸気エンジンの開発に成功したのは、実はフランス人の造船エンジニアであったクロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ(Claude Francois Dorothee Jouffroy) 侯爵(1751年~1832年)だったそうだ。 彼はエンジンが回転ブレードを備えたオールを動かすと言う13mの船(Palmipède)を造り1776年6月と7月にフランス、ブルゴーニュ (Bourgogne)のドゥー(Doubs)川で実験、そして1783年にはリヨン(Lyon)のソーヌ(Saône)川で、今度は外輪船(Pyroscaphe)を造り実証実験に成功している。 国立パリ海兵隊博物館のコレクションから Pyroscaphe-MnM 23 MG1の縮尺モデル 写真はウィキメディアから借りました。しかし、当時のフランス・アカデミーからは認められず、しかも1789年に勃発したフランス革命の不幸も重なり認められる前にパリの廃兵院アンヴァリッドでコレラにかかり亡くなっている。 その後の蒸気船の開発に現れたのがアメリカ人エンジニア、ロバート・フルトン(Robert Fulton)(1765年~1815年)で、1801年に一度完成し実験に成功するも1803年のパリ、セーヌ(Seine)川での実証実験で成功はしたが沈没。 フルトンはイギリスに移動しイギリス海軍が使用する武器の製造を依頼され魚雷の開発もしている。魚雷の完成度は微妙だったらしい。 因みに、ロバート・フルトンは1800年に世界初の手動式潜水艦ノーティラス(Nautilus)号を設計している。最もその動力は 手動手回しのスクリュープロペラだったが、ナポレオンの要請による開発だったらしい。 1805年、対仏、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でイギリスが勝利するとロバート・フルトンの需要は減り彼は母国アメリカに戻っている。 ※ 32時間で150マイル(240 km)走行。 商業用実用化に成功したこの蒸気船はノースリバー蒸気船と呼ばれ、ニューヨーク市とニューヨーク州アルバニー(Albany)間のハドソン川を運行した。 下もウィキメディアからです。 ![]() 1909年に運行していたクレルモン(Clermont)号。別名ノースリバー蒸気汽船(North River Steamboat)。当初のオリジナルではありません。 そして船体のボディーも木造から鉄製に代わって行く。 船が人類史に現れて5000年? やっと造船は次の世代に入ったのである。それ以降の変革はすさまじいが・・。 さらに余談ですが、1811年に開始されるナチェズ(Natchez)とニューオーリンズ(New Orleans)間のミシシッピ川(Mississippi)を走行する蒸気汽船もまたフルトンとリビングストンにより建造されている。 作家マーク・トウェイン(Mark Twain)(1835年~1910年)がトム・ソーヤーの冒険 (The Adventures of Tom Sawyer )で「あこがれの蒸気船」として執筆したのがこれである。 サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真 聖エルモ城塞やレパント戦まで入れる予定ではなかったのですが、追加が増えて力尽きました とりあえず写真は載せましたが、サン・マルコ寺院の解説は無しで終わります。 (*_ _)人ゴメンナサイ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 。(_△_;) ツカレタ・・ 何を書いて良いか迷って2週間。とりあえずガレー船について書き出しても見え無くて・・。 この数日で全く別物になりました。 とりあえず載せますが、誤字チェックなどはまた後で追々させていただきます。m(_ _*)m Back number お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025年10月18日 22時52分54秒
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