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2020年12月02日
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カテゴリ:歴史の旅
メディチ家の連絡通路、ヴァザーリの廻廊(1565年)を渡る つづく・・。
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2009年07月08日 03時08分36秒
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カテゴリ:歴史の旅
Break Time (一休み)
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2009年10月27日 19時41分04秒
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カテゴリ:歴史の旅
訂正サイクロンの年を入力ミス 正解は1966年です。
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2009年07月07日 22時40分46秒
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2009年06月23日
カテゴリ:歴史の旅
ベルサイユ宮殿シリーズのおまけ フランス革命その後・・簡単にまとめました。
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2009年06月23日 18時30分40秒
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2009年06月21日
カテゴリ:歴史の旅
いよいよベルサイユ宮殿のまとめです。なかなかやる気になれなくて苦労しましたが、やっと終わるようです。
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2009年06月22日 00時47分04秒
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2009年06月14日
カテゴリ:歴史の旅
![]() 写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。 大陽王ルイ14世は1715年9月1日77才の誕生日まで後4日を残して亡くなった。 壊疽(えそ)だったと伝えられているのでおそらく持病であった糖尿病によるものと思われる。 ※ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月) ルイ14世の長い治世は(人口5/6が農民)度重なる重税と不況、凶作や疫病が絶えず民衆の生活を圧迫。「偉大なる世紀」は農民側から見れば危機と悲惨な時代でしかなかった。 それ故、王が亡くなった時、民衆は神に感謝して歌い、踊り、過ぎる葬列をののしったとも伝えられる。 ヴォルテールは評価したらしいが、後の歴史家達の評価は低い。戦争を好んだ事もあるが、当然ベルサイユ宮殿の莫大な建築費による浪費が大きい・・。 また、ルイ14世は宮廷儀礼をたくさん造り複雑化させた。宮殿での礼拝のみならず起床着替え、飲食までことごとく儀式化。それら儀礼を回りの者に課す事により彼らの立ち居振る舞いをがんじがらめに縛ったのである。 今回「メルキュールの間」を改め、「王のアパルトマン」としてそれら儀礼の部屋を一括紹介してしまいます。かつては写真4枚程度までしか載せられませんでしたが今回はその5倍以上のせました。
ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン) 寝御の間 少年王、ルイ15世の肖像 ウイキメディアから借りてきました。 1722年10月、ルイ15世はランス大聖堂で成聖式を終えた。これにより形式的には摂政政治が終わった。 ところで、亡くなる直前ルイ14世はひ孫を呼び出しこう諭したと言う。 また位置の確認で宮殿の写真です。 現在の寝所は鏡のギャラリーが造られてからなので1701年からここに存在する。 王は、医師と外科医により、朝の健康チェックを終えるまでこのカーテンは開かなかった。次に理髪師とかつら師が、髪を整え終えた時、初めてベッドから降りたと言う。
先にふれた宮廷儀礼では、王の起床、就床に諸侯は参列せねばならず、最盛期で100人以上が並んだ。 寝御の間の装飾の修復は1980年完成。夏の内装となっている。 リュエル(ruelle) 金箔青銅の振り子時計はルイ15世の為に1754年に造られた。 シンメトリーに置かれたトミール青銅像をのせた2点のセーブル焼き。 摂政フィリップ2世 1715年、ルイ15世がブルボン朝第4代の王となったのは僅か5才の時。 ※ ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月) 当然摂政がついた。それがルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世である。 ※ オルレアン公フィリップ2世(Philippe II)(1674年~1723年) 摂政による政治(摂政時代)は9年。(1715年~1723年) その摂政の間、王の居城はベルサイユを離れ、パリのパレ・ロワイヤルに移っている。 ルイ14世が亡くなり、自分の時代を感じたオルレアン公フィリップ2世は徴税を減らしたり貴族による集団政治を企画したり、25000人もの兵士を解雇。 また高リスクの政策を認めて失敗。政治にも経済にも疎い人物であった。 傍目(はため)には自由で、世俗的、享楽的、遊技的な、摂政時代が展開。 141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入したりしているが、ルイ14世の言葉通り、もはやフランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機を加速させていた。 ソルボンヌ大学の聴講を無料とし、王立図書館を公に開放。教育を奨励するなど評価点もある。 自身はパレ・ロワイヤルでサロンを開き、絵画の膨大なコレクション(オルレアン・コレクション)有し且つ芸術を奨励していたようだが、それらコレクションはフランス革命後に多くがロンドンで競売にかけられたようだ。 追記 彼の政治評価は分かれるが、結果的に彼はフランス革命の大きな要因を造る大失態をした。 1720年財務総監にスコットランドの経済学者で銀行家のジョン・ローを呼んだ。 ジョン・ローの革新的経済政策は大失敗し、パリの株価が暴落する一大事件をおこしたのだ。リーマン・ショックならぬミシシッピー・ショックである。ジョン・ローはすぐに退任どころか暮れには国外逃亡している。 アポローンの間 戦争の間の隣である。こちら正殿は1673年~1682年.の間ルイ14世の住居であった。 1682年、王は現在の寝所に移るので、以降諸室は宮廷レセプションに使用される。 ![]() これから紹介する正殿の名前は全て天井に描かれた絵のモチーフに由来している。 当然、この「アポローンの間」の名前も天空翔るアポローン(Apollōn)に由来する。 アポローンは朝、東の宮殿で目覚め、黄金に輝く馬の引く大陽の戦車を御して天空を駆け西の地平に没するのが日課。 それ故、当時はここに銀の玉座が置かれていたと言う。 天井画はル・ブランの門下シャルル・ドゥ・ラフォスの作品。 フルーリー枢機卿 枢機卿任命 1726年9月11日 彼は宮廷で常に控え目であったと言う。その人柄は肖像画からもうかがえるが、何より彼を紹介するのは、逼迫した財政からフランスを救ったのが彼の経済政策なのである。 フルーリー枢機卿は大蔵郷と連携して1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功。 また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川とソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川とネーデルラントにまで拡張。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は1716年から1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加したと言う。 マルスの間 イタリアの彫刻家であり、建築家。画家でもあるバロック芸術の巨匠。ルーヴル宮殿の改築計画では設計案を出している。 ヴィーナスの間
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2020年12月28日 02時14分12秒
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2009年06月13日
カテゴリ:歴史の旅
ちょうど鏡のギャラリーの左右に左右対象に棟があり、北側(右)が王の為のアパルトマン(居室部)。南側(左)が王妃の為のアパルトマン(居室部)になっている。 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン) 王妃の寝室 ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月) ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月) ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年) (在位:1774年5月~1792年8月)
最も宮殿は建築が続いていたので騒音がひどく王妃はすぐに他の部屋に引越したらしい。 1729年~1735年、15世の妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)の時に内装は一新される。 1734年に描かれた扉上部の絵は、ナトワールの「青春の女神と美徳の女神」とジャン・フランソワ・ド・トロワの「栄光の女神」も見所だそうです。(写真はありません。) つまり内装はこの時、当時流行のロココ様式でまとめられた。 ベッドの天蓋です。 貴人の間 1785年、模様細工の腰板、鏡、及び金糸縁飾り付きの萌黄(もえぎ)色の絹織壁布に替えられた。 現在はマリー・アントワネットの時代に復元したらしい。
バチカンが今もスイス人の傭兵を雇っているのは、かつてバチカンが襲われた時に、最後まで守ってくれたのがスイス人だけ。イタリア人は真っ先に逃げたそうで、以降バチカンではスイス人のカトリックの信者のみしか雇わない事になった。 リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防
パリ国立図書館では、このロココ(Rococo)様式は装飾様式として分類している。
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2020年11月25日 03時04分58秒
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カテゴリ:歴史の旅
全面改装です。写真もたくさんのせ、また写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。
王は祝典など度々大宴会を催している。王の主催する宴会は食事だけでなく、スペクタクルな音楽劇(宮廷パレ)やコメディ・パレが催される。庭園にはそれらに合う彫像が並べられテーマにあった世界感が造られた。さらに仕掛け噴水や洞窟などアトラクションも庭に敷設され毎回非常に凝った物だったらしい。その華やかさは、すぐさま欧州中に伝えられ、フランス王の偉大さが伝えられたと言うが、実際どれだけ素晴らしいものであったとしても、それらは一瞬の風説である。 その点、建築物は常にそこにあって消える物ではないので後世に形として残る。そしていつ見てもその偉大さを再認識できるだろう。 建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)は元の城館を撤去しない形で新宮殿を増築。それを見事にやってのけたが建築的にはかなりの制約が伴ったと言う。 内部はまた別の問題がある。王宮であるので王宮としての部屋割があるが、元の城館のサイズは決まっているので決められたスペースの中で王の希望と実際に必要な部屋を組み込む作業はかなり苦労した部分だったらしい。 王族のアパルトマンには「衛兵の間、控えの間、寝室」はセットで必要。部屋が3つあれば良いだけではない。衛兵の間には70人ほどの衛兵が詰めるのだ。
Galerie des Glaces (鏡のギャラリー、鏡の廻廊、鏡の間) 残念ながら天井画の撮影をしていないので載せられませんが、来賓が来るたびに天井画の説明をしていた? 王の功績を知らしめるべく描かれているからね。 もっとも最初の案は太陽神アポロンを中心とした内容であったらしい。 次にヘラクレスの神話を王の偉業に重ねると言う案が出た。欧州では伝統的に君主はヘラクレスに例えられるからからしい。 しかし神話も、取りやめ、実際の王の功績が描かれるにいたった。それは王自身が主役である宮殿とはっきり主張しているわけで、ある意味「神話の神にも並ぶオレ様」? 主張なのかも。 国産の鏡 因みにベルサイユの大理石は南仏に王家専用の採掘場があったらしいが、大きな良質の大理石はベルギーから輸入していた。 下は平和の部屋側から戦争の部屋方面を撮影
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2020年11月25日 03時03分55秒
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2009年06月12日
カテゴリ:歴史の旅
実際、フランスの場合1789年、フランス革命が起きた為に当然王宮や王侯貴族の家屋敷までが破壊され略奪うけている。ハプスブルグ家が歴代のコレクションを残しているのと違い、フランスの場合はほとんど何も残されてはいないのだ。 戦争の間(The Salon of War) 下は位置確認です。ウィキメディアのパノラマ写真を借りてきました。中に書き込みしています。 ※ フランスのゴブラン織りについては、サンカントネール美術館2の中「フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織り」で触れています。 ルイ15世のメダリオン(medallion)
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2020年11月25日 03時02分27秒
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2009年06月11日
カテゴリ:歴史の旅
![]() 財務総監フーケの屋敷、ヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)の事は前回触れましたが、フーケが王を怒らせた原因が王の宮殿を「犬小屋」呼ばわりした事から・・との話しもあります。17世紀フランスの劇作家で、古典主義の三大作家の一人とされるモリエール、(1622年~1673年)がフーケの屋敷(ヴォー・ル・ヴィコント城)の素晴らしさに対してベルサイユが小さく見えると言った事かららしい。 いずれも世間では王が負けん気で宮殿建設をしたと考えられているようです。 ルイ14世とベルサイユ宮殿改築 ルイ14世とベルサイユ宮殿改築
ところで、コルベールは相変わらずパリのルーブル宮の改築を勧めていた。何しろ政務はパリでとっていたのだから・・。しかし、結局はルーブルの方が縮小され1682年5月、王宮はベルサイユに引越ししたのである。 ベルサイユに引越したものの騒音が酷くて王妃も居室を変えている。ルイ14世自身が寝室を13回も移転している。 1675年当時のベルサイユ宮殿庭園側のファサードと噴水 今、ベルサイユの学芸員たちは過去の図面をデジタルで整理して過去の部屋のデジタル復元などもしているそうだ。今のベルサイユはルイ14世時代はもとより、ルイ15世時代も、ルイ16世時代も、また革命で貴族らの部屋も調度もなくなり全く変わり果ててしまった。特にルイ14世時代の度肝を抜く贅沢さは失われてしまったそうです。 下は王の内庭の前に敷かれた金の柵の一部 宮殿建設と祝宴 前回ふれたが、ベルサイユ建設のプロジェクトは彼らが主導する。 さらに、ルイ14世は、目に訴えるだけではこの敷地を飾るのは不十分であると10年間に3度の大祝宴を催して「音楽と芸術の素晴らしさ」を訴えている。 王の元に宮廷音楽に相応しい優雅さを獲得したバレ・ド・クールが盛んに上演。 王の前庭の向かって右、ガブルエル棟、隣が王室礼拝堂 聖王ルイ9世に献堂されたこの礼拝堂は精霊騎士団の儀式の場として用いられた。 1683年7月30日にルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝すると1685年から1686年、私的な挙式において王は再婚する。 相手はフランソワーズ・ドービニェ(マントノン侯爵夫人)である。 元々身分が不釣り合いな出身ゆえにほぽ秘密の結婚であったから、愛人と思われていた。
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2020年11月25日 03時01分20秒
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