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歴史の旅

2009年07月07日
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カテゴリ:歴史の旅

メディチ家の連絡通路、ヴァザーリの廻廊(1565年)を渡る

建築家のジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)により、メディチ家の依頼で、ピッティ宮からポンテ・ヴッキオを通り越し、さらにウフィツィを通り越してヴェッキオ宮殿までつないだ宙の渡り廊下です。全長1km程あります。
コジモ1世(1519年~1574年)が、メディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を希望していた事と、彼の息子フランチェスコとオーストリア皇女ジョヴァンナの結婚式(1565年12月)に間に合わせる為に急ピッチ(たった5ヶ月)で仕上げたようです。(フランチェスコの住まいベッキオ宮とゴジモ1世の住まいを繋いだわけです。)
ヴァザーリの廻廊 9A
長いのでピッティ宮はやはり下で切れています。上の左端に下だけ見えているのが、ヴェッキオ宮です。
下は、ウフィッツィ美術館から撮影したヴェッキオ宮殿です。塔があるので宮殿には見えませんが・・。
ヴァザーリの廻廊 10B
ウフィッツィ美術館はコの字型をしており、撮影場所も美術館内です。下は、中庭部分。
3階右の翼の突き当たりが、ヴェッキオ宮に宙でつながっています。(ヴェッキオ宮の左側がシニョーリア広場です。)
下の右側がウフィッツィ美術館で左側がヴェッキオ宮殿です。シニョーリア広場側からの撮影です。
ヴァザーリの廻廊 3C
デパートの連絡橋のようですが、中世にこの技術と発想はすばらしいですね。かくして、本当のヴァザーリの廻廊のスタートはここから始まります。でも、特別観光客はウフィッツィ美術館の3階からスタートします。

ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)とジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)
「古き舘」は、アルノルフォ・ディ・カンビオによって1299年~1314年に建設。当初、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、後にメディチ家の居城となると部分的に改築されます。(現在フィレンツェ市庁舎)
依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリで、1550年~1565年の事だそうです。ジョルジュ・ヴァザーリは、「画家・彫刻家・建築家列伝」を著しており、美術史家の側面もあり有名です。
一連の改築工事にあたり、ヴァザーリは「多くの事件を目の当たりにしてきた基本的な外壁。」・・・・は、そのままの姿で残すべきと判断したようです。
コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観には手を入れず、改築は内装部のみで行われたようです。私達が今日見ているヴェッキオ宮殿は建築当時の1314年の姿のままなのです。

廻廊は、ヴェッキオ宮殿の3階エレオノーラの居室「緑の間」から始まり、ウフィッツィ宮殿の左翼(写真Bでは右翼)に沿って、アルノ川に面した美しい廻廊に繋がります。
美術館内の写真撮影が、今はできないので、美術館内の写真はありません。
ウフィッツィ宮は、1591年より部分的に美術館として公開されています。もともとメディチ家のコレクションを置いてあり、コジモ1世の息子(前出の)フランチェスコ1世が最上階に美術品を展示し始めた事に始まるようです。近代式の美術館としてはヨーロッパ最古のものの1つと言う事です。
窓辺には大理石の胸像がたくさん飾られていたと思います。(絵は陽に焼けるから。)

下は、ウフィッツィ美術館を出てアルノ川沿いに進む廻廊です。撮影場所は、ポンテ・ヴェッキオの上のヴァザーリの廻廊からです。
ヴァザーリの廻廊 2D
上の写真を向側から撮影したものが、前回載せたものですが、再び載せます。
下は、美術館の廊下側から撮影したものです。赤い瓦屋根の下が、アーチでささえられた廻廊です。アーチの下ではなく、通路は上です。四角いのは明かり取りの窓です。
ベッキオ橋 1E

前回も説明しましまたが、突然行って拝観する事はできません。かなり事前に拝観の申請して、許可をもらわないと、中に入れてもらえないので、注意して下さい。

下は、ヴァザーリの廻廊内部、恐らく・・多分・・写真D、Eの通路? あたり?
並んでいる絵画は、フィレンツェの画家達の肖像画です。
ヴァザーリの廻廊 4F
現在は近代風になっていて、ただの味気ない通路です。絵画は、メディチ家の所有だったものですが、ヴァザーリの頃から? 画家は、自分の肖像画をメディチ家に提出しなければならなかったそうです。ポピュラーな画家の肖像画は公開されていますが、微妙なラインの画家達の肖像画もだいたい揃っているようです。1966年のサイクロンの被害がどこまで出ているかわかりませんが・・。

そう言えば、ルーブル美術館のモナ・リザ偽物説ですが、ジョルジュ・ヴァザーリはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)のモナ・リザの実物を見ているのだそうです。それは、「ルーブルのモナ・リザとは別物だった。」と言う所からも疑惑が出ていると、何かの本で読みました。(芸術家列伝で触れていたのかな? )もし、そうなら何世紀か前からすり替えられていた可能性もありますね・・。

つづく・・。







Last updated  2009年07月08日 03時08分36秒
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カテゴリ:歴史の旅

Break Time  (一休み)

以前(ヴェルサイユの後)写真の空きスペースに入れて置いて使わなかった写真を掘り起こして来ました。
ここはウィーンの王宮前です。観光客の遊覧用の馬車がたくさん待機していて、お客さんを待っています。観光地に行くとローマなどもこうした馬車は見かけますが、ここはかなりたくさんの馬車が停車しています。
他の観光馬車と違うのは、ウィーンでは車の走る一般道路も走る事ができるので、近場なら馬車でホテル前まで送ってくれるのです。(もちろん車線変更はできませんが・・。)
昔から馬車を使っていたお国事情が、馬車にも交通輸送車としての権利を残してくれているようで微笑ましい気がします。
ウイーンの馬車 2
道路を馬糞で汚さない為に馬のお尻の下あたりに馬糞受けが付いているのが特徴です。

ウイーンの馬車 1
待ちぼうけの馬も可哀想ですね・・・。「早く走りたいよ・・、出なきゃエサをおくれ・・。」

駅馬車
15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていたそうです。
馬や、ロパに乗る事さえ贅沢な事だった時代に、馬車は一般人に縁はなく、旅はもっぱら自分の足で歩いて行かなければならない大変疲れる事だったようです。

商業や手工業が発達して商いが広域に拡大してくると、船で行ける所は良いですが、陸上輸送の方にも需要が生まれてきます。そんな中で一般庶民も乗る事のできる乗り合いの駅馬車と言うものが誕生したようです。

最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけで、そのうちに一定の区間、(街道や街、港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化していったようです。
いわゆる乗り合いタクシーか、バスですかね・・。(馬の頭数でも違いますが、定員は4人~。アメリカの幌馬車みたいのなら結構乗れるのでしょうが・・。)

以前 「ロンドンバス(London Buses )」で紹介しましたが、ロンドンの2階建てバス(ダブルデッカー)の前身がこの普通の駅馬車だったわけで、乗客を増やす為に屋根まで乗せて、2階建ての駅馬車を考案した発想はロンドンだけだったようですが・・。
因みに、ロンドンに辻馬車が登場したのは1625年だそうです。


長距離便では、何泊もするものも登場。パリ~リヨン間を結んだ駅馬車(Diligence)は、夏は5日、冬なら6日もかかって両都市間をつないだそうです。(そんなに長いと馬車の中の人間関係もたいへんですね・・。)まさに馬車旅ですね・・。

長距離便ができた事は、一般市民の行動範囲をおおいに拡大してくれたようです。
旅の回数も、場所も増えたわけですから・・。そして、足の悪いおばあちゃんと孫も一緒でちょっと隣町のレストランなども行けたのですから、庶民の文化生活も広がって、おおいに楽しみが増えたものと思われます。

いろいろな意味において選択肢も広がってきたわけですから、駅馬車の登場は都市交通の発展以外にも非常に重要な事項だと思います。

いづれ、写真を見つけたら紹介するつもりですが、この定期便の駅馬車に手紙を一緒に運ばせたのが郵便事業であり、郵便車なのです。







Last updated  2009年10月27日 19時41分04秒
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カテゴリ:歴史の旅

訂正サイクロンの年を入力ミス 正解は1966年です。

フィレンツェ(Firenze)
古代ローマ時代に、カエサルが退役軍人に与えた土地を兵士達が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味でフロレンティア(Florentia)と名付けたのがフィレンツェ語源だそうで、それが変化してフィレンツェ(Firenze)になったようです。
街の歴史をさかのぼれば、BC8世紀にエトルリア人が街を築いたのが発祥だそうですが、14世紀にメディチ家が台頭して花開いた芸術と文化の都、ルネッサンスの発祥地としての方がピンとくるかもしれません。
フィレンツェから、誰もが知る有名な芸術家が多く輩出されています。ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、フィリッポ・リッピ、作家ではダンテ、ボッカチオ、等。でも、今日は芸術家や作品ではなく、橋を一つ紹介します。

イタリア語で橋をポンテ(Ponte)と言います。

ポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)
イタリア語で「古い橋」
古来よりフィレンツェの交通の要としたアルノ川に架かけられた最初の橋です。橋は何度も架け替えられても古い橋と呼ばれたようです。

下は、アルノ川と手前がヴェッキオ橋です。ミケランジエロの丘より撮影。
ポンテ・ヴェッキオは普通の川を渡る橋ではありません。橋そのものが商店街になっています。
ベッキオ橋 2A
1170年に再建した石造りの橋は、1333年に洪水で流出し、再度1345年に建築されました。現在、上物は1966年のサイクロンで街が壊滅した時に破壊され、建て直されています。このアルノ川はアペニン山脈から来る大急流で、けた違いな洪水に見舞われては、水没の被害を被る歴史の繰り返しだそうです。1699年の洪水では、ウフィッツィ美術館の倉庫も2m浸水し、8000ものルネツサンス絵画が被害を被ったそうです。

下は、ヴェッキオ橋の上です。
ベッキオ橋 3B
およそ橋には見えませんが、橋の真ん中あたりです。Aの写真でなにやら飛び出しているものが店なのです。

中世には、魚屋、肉屋、皮職人の店が立ち並び、非常に臭かったのだそうです。
メディチ家のフェルデイナント1世(1549年~1609年)は、住まいのピッティ宮殿から行政機関のあるオフィス(Ufficio)、現在のウフィツッィ宮まで通っていたので、この橋を渡るのがとても辛かったようです。
ついに1593年に行政命令で、悪臭の酷い店は追放され、代わりに装身具店や貴金属店が入りました。(それが現在に至っています。)
ベッキオ橋  4C
これらの店は、地代を2倍払うかわりに、橋の上の店の拡張をしたようです。
写真下、で見るような景観の悪い橋の姿になってしまったようです。(400年以上の歴史が凄いですが・・。)橋にたかった雑居ビルみたいですが、橋の耐久性が凄いですね。
ヴェッキオ橋 5D

ヴァザーリの廻廊
ところで、フェルデイナント1世は、直接この橋を渡っていた訳ではありません。彼の父コジモ1世(1519年~1574年)が、1565年に、この橋の上にメディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を造らせているからです。渡り廊下は、住まいのピッテイ宮からウフィツィを通り越し、ヴェッキオ宮殿まで続いています。
これを依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)で、彼に因んでヴァザーリの廻廊と呼ばれています。本来5年かかる建築を彼はたった5ヶ月で完成させています。それは今も存在しています。

下は、ウフィツィ宮殿側から撮影したヴァザーリの廻廊とポンテ・ヴェッキオです。
ベッキオ橋 1E
写真右手前から橋に向かう赤い屋根がヴァザーリの廻廊の一部です。
現在、ヴァザーリの廻廊は、事前の申し込みにより、特別公開されています。ウフィツィ美術館の特別廊下から入り、ピッティ宮殿の手前まで通って行けます。

下がヴァザーリの廻廊の図ですが、橋を中心にしたので上のヴェッキオ宮殿が欠けて、下のピッティ宮殿も欠けてしまっています。
ヴァザーリの廻廊 地図F

ヴァザーリの廻廊はつづく







Last updated  2009年07月07日 22時40分46秒
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2009年06月23日
カテゴリ:歴史の旅

ベルサイユ宮殿シリーズのおまけ フランス革命その後・・簡単にまとめました。
ブルボン家の最後とフランスの王政の最後

フランス革命(1789年7月14日~1794年7月27日)
1789年7月14日バリの市民は武器を手に取り政治犯を収容する専制政治の象徴であるバスティーユの監獄を占拠し、フランス革命が勃発します。
革命は突然に起こったものではなく、その兆候は18世紀全般を通じて少しずつ見えていたようです。貴族階級は特権にあぐらをかいて腐敗堕落し、王家はじめ宮廷の膨大な浪費と対外政策の失敗(戦争)により、国家財政は破産に瀕していました。民衆は重税に苦しみ、貧窮し、「パンを! パンを!」と言う民衆の叫びは18世紀全体を覆っていたのだそうです。
マリー・アントワネットが言った「パンがないなら、ケーキをお食べ!」のフレーズは有名ですが、本当は「それならブリオッシュを食べればよい。」と言うのがルソーの『告白』本に書かれていた本当のフレーズだそうです。

下は、フランス革命時のルイ16世の処刑図だそうです。コンコルド広場で右の台座がルイ15世の騎馬像があった所でしょう。
ルイ16世の処刑
力を付けてきたブルジョワジー(革命の推進主体となった都市における裕福な商工業者)も、旧体制の矛盾を前にして、体制を変える必要に迫られていました。18世紀初頭から出現した啓蒙思想家による、啓蒙的考えも革命の思想的基盤となったと言います。

第一共和制(1792年~1804年)時代
革命後、国民公会におけるブルボン朝の廃止と共和政樹立を宣言して開始されます。

が、フランスにおける政治の激動期に突入していきます。政権はころころ代わり、常に失望をもって終わっていきます。(ピンクが王族です。)

革命の裁判で死刑にされたルイ16世とマリーアントワネットの子息は、革命後も生き残りますが・・
ルイ17世(1785年~1795年)
父ルイ16世の死後、名目上「フランス国民の王」とされましたが、戴冠式もなく、タンプル塔の日も当たらない一室に約2年間捨て置かれた後、(1日1回食事を持った革命軍の人間が「カペーのガキ」とだけ言葉をかけて生存確認)他には誰とも会話することもなく1795年、病死しているのが見つかったそうです。

第一帝政 ナポレオン時代(1804~1814)
フランス革命の継続を願う国民の支持の元、国民投票での圧倒的な支持を受けてフランス皇帝に就任しますが、実際ナポレオンの天才的な軍事的才能を後ろ盾とした軍事国家であり、戦争に勝ち続けなければ政権存続の意味はなかったそうです。ロシア遠征で敗北したのをきっかけについに本拠パリまで陥落されると無条件退位後、エルバ島へ流刑され失脚します。

ウィーン会議でイギリスなど諸外国からブルボン朝の王政復古が支持されたためルイ16世の弟ルイ18世がフランスに戻って即位し、ブルボン朝が復活します。
ブルボン第一王政復古 1 (1814年)
ルイ18世(1755年~1824年、在位1814年)
「ウイーン体制」で王政の復活です。しかし、まだナポレオンの抵抗があり安定しません。

ナポレオンの百日天下(1815年)
1815年2月26日エルバ島を脱出しパリへ向けて進軍、「兵士諸君! 諸君らの皇帝はここにいる! さあ撃て!」と叫ぶと討伐軍はナポレオンに寝返ったといわれています。ルイ18世は逃亡。3月20日ナポレオンはパリに入城し、再び帝位に返り咲きます。
しかし、6月18日のワーテルローの戦いで決定的敗北しイギリスの軍艦に投降した後イギリス政府により大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉。1821年に死去しパリに返還されるのは1840年です。

ナポレオン退位後再びルイ18世がもどり即位在位1814年~1824年)
ブルボン第一王政復古 2 (1815年~1824年)
ルイ18世(1755年~1824年、在位1815年~1824年)
ルイ16世の弟で、1814年に王政復古を果たして返り咲いたブルボン朝第6代の国王です。ナポレオンが再起を図ってフランスに舞い戻るとルイ18世はフランスから再び逃亡します。しかしナポレオンの復帰が百日天下に終わると、再びフランスに戻って親政を開始した王です。ルイ16世の時代に追放された貴族の復帰を助ける一方で、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取り国内の安定化を図ったようですが、最終的には絶対王政を復活させます。1824年死去。後を弟のアルトワ伯が継ぎます

ブルボン第二王政復古(1824年~1830年)
シャルル10世( 1757年~1836年、在位1824年~1830年)
ルイ16世とルイ18世の弟で、ブルボン朝最後のフランス国王です。兄ルイ18世が死去すると国王として即位するも、もともとマリー・アントワネットと共に第三身分の迫害に同調した人物です。兄以上の反動的な専制政治を行ないます。1830年のフランス7月革命を起こされ失脚し、アンリ4世から続いたブルボン家直系からの王位は失われました。

フランス7月革命(1830年7月)
フランス革命による成果に逆行し、時代錯誤な反動的政治に不満は爆発し再び、革命が起こされ、シャルル10世は失脚し亡命。
7月27日民衆は三色旗を翻してパリ街頭にバリケードを築き抵抗しますが、戦いは大きくはなく、新王にオルレアン公ルイ・フィリップを擁立して終結します。

下は画家ドラクロアがフランス7月革命を描いたもので、「民衆を導く自由の女神」です。
ドラクロワ 民衆を導く自由の女神

七月王政(1830年~1848年)
ルイ・フィリップ(1773年~1850年も在位1830年~1848年)
ルイ・フィリップは「フランスの王」ではなく「フランス国民の王」を称し、内閣制度を導入し、国内の安定と繁栄をはかるりますが、次第に上層ブルジョワジーの利害を優先し、選挙権も一部ブルジョワのみ等の悪政から労働者、農民の不満が高まり、ウイーン体制(王政復古めざした)そのものに疑問があがり、三度(みたび)革命が起こされます。ルイ・フィリップはイギリスに追放され、900年近くに及んだユーグ・カペーを祖とするフランス王政は完全に終わりました。

フランス2月革命(1848年2月)
この革命はそれまでのフランス革命やフランス7月革命とは異なり、ブルジョワジー主体の市民革命から、労働者主体の革命へと変化したものだったそうです。

フランス市民の苦悩の歴史はまだ続きますが、目的は果たせたのでこれで終了です。







Last updated  2009年06月23日 18時30分40秒
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2009年06月21日
カテゴリ:歴史の旅

いよいよベルサイユ宮殿のまとめです。なかなかやる気になれなくて苦労しましたが、やっと終わるようです。

宗教戦争から始まったブルポン王家の歴史
宗教戦争
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まり、フランスでも、改革派(プロテスタント)はカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれ、フランス王国の国内を二分した宗教戦争が勃発します。(1562年から1598年にかけて断続的に8回の戦争)フランス宗教戦争orユグノー戦争と呼ばれています。
カトリックの擁護者は王家でカトリック国スペイン(フェリペ2世)やローマ教皇が支援。
一方、
プロテスタントの支援者はブルボン公アンリ(ブルボン王家初代の王アンリ4世)で、イングランド王家・ドイツのルター派諸侯が支援していました。
ユグノー戦争は純粋な宗教上の対立ではなく、王権を中心とした勢力争いに宗教上の名目が結びついた戦いで、特に内乱後期は権力闘争の側面が濃くなり、純粋な宗教戦争とは言えなかったようです。
とりあえずブルボン公アンリが時のフランス王シャルル9世の妹と結婚し、またアンリはカトリックへの改宗を発表し、戴冠後、事態終結の為に1598年にナントの勅令を公布。
ナントの勅令はカトリックがフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにも同等の権利を認めたものです。それにより(信仰の自由)、長らく続いたカトリックとプロテスタントの宗教戦争は収拾されたのです。

下はブルボン王室の系図です。(ちょっと見づらいかもしれませんが参考文献です。)
ブルボン王室家系図 1
ブルボン王室家系図 2

ブルボン王家の始まり
初代当主のアンリ4世(在位1589年~1610年)からルイ13世(在位1610年~1643年)宰相リシュリューの時代は、まだ動乱の傷跡が癒えず、国力の復興と民心の安定に努め、着々と成果を上げるも暗殺され、王家はまだ不安定な時代ですが、やがて二人の卓越した宰相によって政治的にも経済的にも発展を遂げ、中央集権体制の基盤を固めていきます。
安定した国家体制ができた時代に王となれたのが、ルイ14世(在位1643年~1715年)で、「朕は国家なり」と太陽王の絶対王政を主張し、ブルボン家の絶対君主政治がここに確立します。
国が最も豊かになった時代でもあり、14世は絶対的国家の象徴として太陽王にふさわしいベルサイユ宮殿の造営をはじめます。ベルサイユ宮殿は王政の象徴として存在したのです。
欧州一となる宮殿を造る事が欧州一の国家を象徴するのにふさわしかったのは事実です。マリア・テレジアは娘マリー・アントワネットを嫁に出す時に「娘は、世界で一番美しい王国に君臨するのだ。」と思っていたのですから・・。

ベルサイユ宮殿の芸術と後世の遺産
夜ごと夜会の開かれる華やかなベルサイユ宮殿での宮廷人の生活から多くの芸術が誕生します。ベルサイユ宮殿での栄華はそのままブルボン王家の盛衰の歴史を現していると言っても良いでしょう。
(しかし、宮殿を築いたルイ14世の長い治世の中で最盛期を迎えた王国は、すでに王家存亡の危機に向かって下降して行くのです。)
豪華フランス・バロックが完成し、ルイ14世時代末期にさしかかると宮殿建築のツケと戦争の費用で国家が赤字に転落していきます。
そんな時代にサロンが流行し、啓蒙思想が目を出し始め、幸いなるかな、芸術もバロックよりは質素なロココ・スタイルに移行し、質素ながらも美しくカワイイ、ロココ芸術が花開きます。それらは、宮殿の建築家や、宮廷画家の絵が証明してくれます。
私達が今日思うベルサイユ宮殿のイメージは、ルイ14世時代よりも、ルイ15世のロココ時代の印象が大きいと思います。

下は、フランソワ・ブーシェのポンパドゥール夫人の肖像画です。当時の流行の最高の宮廷人の衣装です。ブーシェはポンパドゥール夫人お気に入りの絵師でした。
ロンドンのウォーレス・コレクションになっています。
フランソワ・ブーシェのポンパドゥール夫人

下は、ジャン・オノレ・フラゴナールの「ブランコ」です。18世紀美術(ロココ様式)のイメージを現す絵として、よく引き合いに出される絵です。ロンドンのウォーレス・コレクションになっています。
フラゴナールのブランコ

下は、ジャン・オノレ・フラゴナールの「恋の追求」です。ポンパドゥール夫人の追放を悲しみ、画家がお蔵入りさせた絵です。ニューヨークのフリック・コレクションになっています。
フラゴナールの恋の追求
ベルサイユ宮殿での宮廷人の生活ぶりが判ると思い選定したら、偶然にも全てポンパドゥール夫人に関係していました。フラゴナールはロココを代表する画家で、アカデミーの会員でもあり、革命前の宮廷の浮ついた世相を表現した作品が多いです。そして、フランス革命と共にフラゴナールの人気もなくなり、世に忘れられて行きました。まさに宮殿と共にあった画家でした。

ルイ16世(在位1774年~1792年)のわずかな親政時代にはマリー・アントワネットの洗練された趣味から新古典主義の潮流をいち早く取り入れ、王宮は絶えず芸術の先端を走り流行を排出し、後のフランスに莫大な芸術の遺産を残す事になります。
しかし、財政がつき、重税をしいた市民から特に反発がひどくなった時代で、かつてポンパドゥール夫人が「彼女のせいで王室が駄目になった。」と言われたのと同じように「全てマリー・アントワネットが悪い。」と決めつけられ、フランス革命なる反王政運動が起こり、王が民衆によって裁かれる事態に発展していきました。
ブルボン王家がベルサイユに宮殿を遷都したルイ14世の治世から数えて131年目です。
ルイ16世と王妃が宮殿を追われ、死刑台で斬首され、華やかなブルボン王家のベルサイユ時代は実質終わりを遂げます。「王朝の栄光」はここに終わったと言って良いでしょう。

王政の象徴であったベルサイユ宮殿は、革命により調度は掠奪され、宮殿は破壊され、ボロボロになってしまいます。ナポレオンにより、修復された宮殿は、今日も尚、もとの時代にもどすべく修復し続けられています。


ルイ16世が死刑にあっても、ブルボン王家は間を置いて存続しています。それは「おまけの章」で紹介します。







Last updated  2009年06月22日 00時47分04秒
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2009年06月14日
カテゴリ:歴史の旅
星​摂政フィリップ2世の所追記しました。​​​
写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。

​​大陽王ルイ14世は1715年9月1日77才の誕生日まで後4日を残して亡くなった。
壊疽(えそ)だったと伝えられているのでおそらく持病であった糖尿病によるものと思われる。
※ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)

ルイ14世の長い治世は(人口5/6が農民)度重なる重税と不況、凶作や疫病が絶えず民衆の生活を圧迫。「偉大なる世紀」は農民側から見れば危機と悲惨な時代でしかなかった。

それ故、王が亡くなった時、民衆は神に感謝して歌い、踊り、過ぎる葬列をののしったとも伝えられる。

ヴォルテールは評価したらしいが、後の歴史家達の評価は低い。戦争を好んだ事もあるが、当然ベルサイユ宮殿の莫大な建築費による浪費が大きい・・。

​また、ルイ14世は宮廷儀礼をたくさん造り複雑化させた。宮殿での礼拝のみならず起床着替え、飲食までことごとく儀式化。それら儀礼を回りの者に課す事により彼らの立ち居振る舞いをがんじがらめに縛ったのである。
儀式ずくめの国王の宮廷生活をルイ14世自身が造りあげ、俳優のようにそれらを死の直前まで演じたらしい。

 今回「メルキュールの間」を改め、「王のアパルトマン」としてそれら儀礼の部屋を一括紹介してしまいます。かつては写真4枚程度までしか載せられませんでしたが今回はその5倍以上のせました。

 

ベルサイユ宮殿 8  (王のアパルトマン)

寝御の間​​
閣議の間
摂政フィリップ2世
アポローンの間
メルクリウスの間
フルーリー枢機卿
マルスの間
ディアーナの間
ヴィーナスの間

少年王、ルイ15世の肖像  ウイキメディアから借りてきました。

​1723年、アレクシス・シモンベル作。ルイ15世13歳
ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)

1722年10月、ルイ15世はランス大聖堂で成聖式を終えた。これにより形式的には摂政政治が終わった。
それにしても美少年です。スマイル
彼は先王、ルイ14世のひ孫。父が天然痘で急死し、わずか5歳で即位している。

ところで、亡くなる直前ルイ14世はひ孫を呼び出しこう諭したと言う。
「私は戦争を大変好んだが、あなたは隣国と平和を保つ事を心がけなさい。人民の苦しみをできるだけ軽減するように。もはや私がしたような浪費はできないのだ。」
火の車状態にしたのは誰のせいだ? 何をか言わんや・・である。ぽっ

​​また位置の確認で宮殿の写真です。
ピンクの囲ったところが王の寝台がある所です。

寝御の間 ​​(No18)
全体写真の撮影が難しいので。上はウィキメディアから借りた写真です。
王の正式な盛儀寝台

現在の寝所は鏡のギャラリーが造られてからなので1701年からここに存在する。
上部の金箔の飾り物はクストゥの作品で、「王の眠りを見守るフランス」とタイトルされている。

​​王は、医師と外科医により、朝の健康チェックを終えるまでこのカーテンは開かなかった。次に理髪師とかつら師が、髪を整え終えた時、初めてベッドから降りたと言う
それは王が小柄な事。また晩年の1648年には病気により毛髪の大部分を失っていたのでカツラをかぶっていたからだ。
加えて言うと、小柄な王はハイヒールを好んだと言う。カツラ同様にかさ上げして身長を高く見せたかったらしい。
また王に着替えのシャツを渡せる人は、入室順位一位の王族系の一番偉い人(皇太子)であり、皇太子がその場にいなければ、次の位の王族、というように、宮廷儀礼が、権力分布の象徴的な意味を持っていたと言う。​


先にふれた宮廷儀礼では、王の起床、就床に諸侯は参列せねばならず、最盛期で100人以上が並んだ。
これはルイ14世が創始したが、ルイ15世もルイ16世もこの儀式を遵守したと言う。​​

寝御の間の装飾の修復は1980年完成。夏の内装となっている。
絢爛たる錦織が再現され、壁、扉、寝台のカーテンなどに使用されている。
金糸が強くて撮影がちょっとぼやけ感があるのが難ですが・・。

リュエル(ruelle)

世話係やごく親しい者だけが入る事が許されたベッド脇のスペース

閣議の間​ (No19)
寝御の間に隣接して閣議の間がある。​
ルイ14世はこの部屋を絵画と珍品の蒐集に使用していたそうだ。
ルイ15世は居室用に改造。

金箔青銅の振り子時計はルイ15世の為に1754年に造られた。
シンメトリーに置かれたトミール青銅像をのせた2点のセーブル焼き。

​摂政フィリップ2世​
​​​​1715年、ルイ15世がブルボン朝第4代の王となったのは僅か5才の時。
※ ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)
当然摂政がついた。それがルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世である。
※ ​オルレアン公フィリップ2世(Philippe II)(1674年~1723年)​​​​​​
​摂政による政治(摂政時代)は9年。(1715年~1723年)​
その摂政の間、王の居城はベルサイユを離れ、パリのパレ・ロワイヤルに移っている
。​
ルイ14世が亡くなり、自分の時代を感じたオルレアン公フィリップ2世は徴税を減らしたり貴族による集団政治を企画したり、25000人もの兵士を解雇。
また高リスクの政策を認めて失敗。​政治にも経済にも疎い人物であった。​
傍目(はため)には自由で、世俗的、享楽的、遊技的な、摂政時代が展開。
141カラットのダイヤモンドをフランスの王冠につけるために購入したりしているが、ルイ14世の言葉通り、もはやフランス王家は公事にも私事にも破産状態の危機を加速させていた。
ソルボンヌ大学の聴講を無料とし、王立図書館を公に開放。教育を奨励するなど評価点もある。
​​自身はパレ・ロワイヤルでサロンを開き、絵画の膨大なコレクション(オルレアン・コレクション)有し且つ芸術を奨励していたようだが、それらコレクションはフランス革命後に多くがロンドンで競売にかけられたようだ。
​追記​
​​彼の政治評価は分かれるが、結果的に彼はフランス革命の大きな要因を造る大失態をした
1720年財務総監にスコットランドの経済学者で銀行家のジョン・ローを呼んだ。
ジョン・ローの革新的経済政策は大失敗し、パリの株価が暴落する一大事件をおこしたのだ。リーマン・ショックならぬミシシッピー・ショックである。ジョン・ローはすぐに退任どころか暮れには国外逃亡している。

アポローンの間
戦争の間の隣である。こちら正殿は1673年~1682年.の間ルイ14世の住居であった。
1682年、王は現在の寝所に移るので、以降諸室は宮廷レセプションに使用される。

これから紹介する正殿の名前は全て天井に描かれた絵のモチーフに由来している。
当然、この「アポローンの間」の名前も天空翔るアポローン(Apollōn)に由来する。​​

アポローンは朝、東の宮殿で目覚め、黄金に輝く馬の引く大陽の戦車を御して天空を駆け西の地平に没するのが日課。
大陽王であるルイ14世は、当然アポローンのイメージに重ねられる。
この部屋は大陽神に捧げられた部屋であると同時に、大陽王ルイ14世はこの部屋で使節団と謁見。そこに意味があった。

それ故、当時はここに銀の玉座が置かれていたと言う。

天井画はル・ブランの門下シャルル・ドゥ・ラフォスの作品。
四季を従えた早駆け馬車の上のアポローン。その下にいる婦人は「フランス」と、「王の偉大」を象徴した擬人である。



タペストリーの前にはルイ15世様式の椅子。閣議の間の椅子のようです。
ベルサイユ宮殿に納めている家具屋さんを知っているが、座椅子のクッションにはワラの他に馬の毛が使われている。

ルイ16世、マリーアントワネットと子供達の肖像画が飾られている。
もっとも、部屋の家具調度、絵画も度々変えられているようだ。

メルクリウスの間​
1678年に開始された鏡の間の造営にあたり、王のと王妃のアパルトマンからそれぞれ二つの広間と新城館の角部屋が削られた。
それによりアポローンの間にあった寝所(国王の盛儀寝台)は、今度はメルクリウスの間に移動。

天井は全てジャン・パティスト・ドゥ・シャンバーニュの作品。
中央の主題は「明の明星(みょうじょう)に先導され芸術と、学術に伴われ、二羽の雄鶏(おんどり)の引く戦車の上にいるメルクリウス」

メルクリウスの間で、ルイ14世が崩御した時に遺体が安置されていた寝台らしい。
​もとは銀の境柵の奥にあったらしい。調度品も銀製であったが、1689年に熔解された。
確か、王妃の間の銀の調度品も熔解されたと聞いた。財政難の為だったと思われる。

この寝台についての説明が無いが、ゴブラン織りのカバーだと思う。
しかし、意外にチープで驚いた。ゴブラン織りはもともとベルギーからぶんどった技術である。技術的には当時のベルギーの足下にも及んでいない気がする。土産物にしか見え無い。
以前ベルギーのタペストリーを紹介した時にフランスのゴブラン政策にもふれた。
ルイ14世の財務総監のジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)(1619年~1683年)によってゴブラン織りは国策となり、ベルギーの市場を奪ったのに・・だ。
リンク ​サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)


1730年、イアサント・リゴー作 ルイ15世の肖像 
ルイ15世20歳。より美青年になっています。


​フルーリー枢機卿​
1723年、フィリップ2世は12月にヴェルサイユ宮殿で突然逝去。14歳のルイ15世の親政が始まる。
落ちたフランスであったが、優れた政治家であるフルーリー枢機卿の登場(執政)によりフランスは持ち直しを計る。
元々フルーリー(Fleury)枢機卿 (1653年~1743年)は当初イエズス会系の聖職者としてルイ14世の妃に仕えていた。
ルイ14世は幼いルイ15世の教育者に彼を任命し、フルーリーはルイ15世から全幅の信頼を受けていた
彼は1726年から死去する1743年まで若いルイ15世の宰相を務め結果的に政治家になるが、アカデミー・フランセーズの一員でもあった。​

枢機卿任命 1726年9月11日
彼の宰相時代(実際は宰相にはなっていない)、ルイ15世の治世下で最も平和で安定? 
ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "réparateur")となる。​

​​彼は宮廷で常に控え目であったと言う。その人柄は肖像画からもうかがえるが、何より彼を紹介するのは​、逼迫した財政からフランスを救ったのが彼の経済政策なの​である。​​

フルーリー枢機卿は大蔵郷と連携して1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功。
国立土木学校が創立され、土木事業が進められて、フランス各地に近代的な道路が舗装。​

​また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川とソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川とネーデルラントにまで拡張。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は1716年から1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加したと言う。​

マルスの間

最初は衛士の間として造られたので天井には戦いの題材が使用されている。
マルスは軍神である。
続いて舞踏会や賭博場として利用されていた。





ルイ15世と妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)の肖像画

​ディアーナの間
ガブリエル・ブランシャール作の天井画はアポローンと双子のディアーナを現している。



​ジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年) ルイ14世の胸像 

イタリアの彫刻家であり、建築家。画家でもあるバロック芸術の巨匠。ルーヴル宮殿の改築計画では設計案を出している。
ローマでは、サン・ピエトロ広場の設計にたずさわり、完成後1668年、ルイ14世に招かれパリに来た時、大理石の彫刻は彫られた。
1685年、この部屋に彫像を置かせたのは王自身らしい。

シャルル・ド・ラフォス作「イーピゲネイアの犠牲」
まさに犠牲に捧げられようとするイーピゲネイアをデイアーナが連れ去ろうとする図。
※ シャルル・ド・ラ・フォッス(Charles de La Fosse)(1636年~~1716年)シャルル・ルブランの弟子。

ヴィーナスの間
ルネ・アントワンヌ・ウアス作  戦車に乗ったヴィーナスが三美神から花冠を授けられている図。
ヴィーナスの間と名がついていますが、天井画の全てはルイ14世治政下の出来事をオリンポスの神々に例えた寓意画となっている。

ジャン・ヴァラン作ローマの皇帝に扮した青年王ルイ14世の彫像
左手に持っているのはメドゥーサの付いたアテナイ女神の楯。
正殿の夜会の時には軽食が用意される部屋であったらしい。
ルイ14世の時代にあった大階段がルイ15世の時代にとり壊されたが、この部屋は大階段に隣接する部屋であった。
大階段は内外からの使者らに王宮の素晴らしさを見せる為の素晴らしい物であったらしい。なぜ取り壊されたのか? 

つづく  ​​ベルサイユ宮殿 9 の前にベルサイユ宮殿番外、リアルタイムで載せています。こちら先にお願いします。
リンク ​ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)

back number
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とロココの意匠
リンク ​ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク ​新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
ベルサイユ宮殿 8  (王のアパルトマン)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク ​新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク ​ベルサイユ宮殿 1 思い出

リンク ​マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク ​マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿








Last updated  2020年12月28日 02時14分12秒
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2009年06月13日
カテゴリ:歴史の旅

​​​​​​星タイトルも内容も大幅に変更しました。写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。
過去の日時で更新している為に修正の書き換え更新は一度にしなければならず、やっかいです。いっそ書き直した方が早いのですが・・。
それにしても、こんなに時間かけていたら先に進めません。
とは言え、写真をそのまま入れ替えるだけもイヤなのです。内容にケチがついているので・・。
最初に載せてから10年。写真も追加されているし、私の知識もグンとアップ。いろいろ関連項目もあるので簡単に飛ばすか、否か?  ジレンマです。ぽっ

さて、旧「マリー・アントワネットの寝室」を改め「王妃のアパルトマン」として他の部屋もまとめて紹介します。​

​​​ちょうど鏡のギャラリーの左右に左右対象に棟があり、北側(右)が王の為のアパルトマン(居室部)。南側(左)が王妃の為のアパルトマン(居室部)になっている。​​
南側(左)の最初の部屋が「平和の間」。次の部屋はいきなり歴代王妃、ルイ14世妃、ルイ15世妃、ルイ16世妃と王妃の為の寝室である。
それ故、「平和の間」が王妃の間の一部として娯楽室に使われていたらしい。
最も現在の部屋は復元されたもの。革命後には何一つ残っていなかったからだ。

ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)

王妃の寝室
貴人の間

控えの間(大会食の間)
衛士の間(スイスガード)



右のピンクの矢印が王妃のアパルトマンの位置


​年代の参考にのせました。​

ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)

ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)

ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年) (在位:1774年5月~1792年8月)


王妃の寝室
王妃の寝室は1671年~1680年に完成した時はルイ14世の妃、マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)(1638年~1683年)の為に作られた部屋です。(調度品は全て銀製で揃えられていた)​

​最も宮殿は建築が続いていたので騒音がひどく王妃はすぐに他の部屋に引越したらしい。

1729年~1735年、​15世の妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)の時に内装は一新​される。​
​天井はフランソワ・ブーシェ(François Boucher)(1703年~1770年)による「愛徳」、「豊穣」、「貞節」、「賢明」を円縁画が4作描かれ高貴な美徳が表現。​

1734年に描かれた扉上部の絵は、ナトワールの「青春の女神と美徳の女神」とジャン・フランソワ・ド・トロワの「栄光の女神」も見所だそうです。(写真はありません。)

つまり内装はこの時、当時流行のロココ様式でまとめられた。​

​現在の部屋はルイ16世の時代に造られているらしい。
人が多いので全景の写真は撮れません。しょんぼり

1770年にルイ16世の妃として、いよいよマリー・アントワネットが使用するようになると、部屋は彼女好みに改装される。
天井の四隅にあるフランスとナバールの紋章に、オーストリア王家の双頭の鷲を加えるように、彫刻家アントワーヌ・ルソーに命じたと伝えられている。
さらに、王立絨緞工場で夫ルイ16世とオーストリアの母(女帝マリア・テレジア)と兄ヨーゼフ2世(在位1780年~1790年)の肖像入りのゴブラン製のタペストリーを織らせて壁にかけたと言う。
※ 部屋にあった物は全て革命中に紛失。現在の復元でも双頭の鷲(そうとうのわし)はいない。

​​​​ベッドの天蓋です。


ルイ16世の時代、最初の10年はロココ様式であるが、マリーアントワネットがトリアノンに行く頃には新古典様式のブームが来ていた。



星現在のこの寝室の装飾は、マリー・アントワネットが最後に使用していた「夏の内装」の再現だそうです。
1787年にリヨンのデファルジュが納品した当時の寝台カヴァーが発見され、リヨンの絹織物製造組合が壁布を再現し、寄贈してくれる事になり、革命後何一つ残っていなかったこの部屋の復刻再生ができたそうです。
※ リヨンの組合が寄贈したのは「孔雀の尾を絡み合わせた花束模様錦織の入った白地のトゥール絹布」で飾られた部屋とベットと天蓋とカーテンです。



本当にゴージャス極まりない感じですね。ベットのサイドには同じ布が貼られた肘掛け椅子と折りたたみ椅子が置かれています。さらにシュベルト・フェッガー制作のセーブル焼きの磁器とミニアチュールで飾られた装身具用のタンスが戻されています。

暖炉は1782年に金箔青銅の飾り付きのグリオット大理石に替えられています。



彼女は1770年から1789年の10月5~6日の夜中に革命の暴徒から逃げ出すまでこの部屋の主でした。

貴人の間
この部屋は王妃の接見の間で、新たに宮殿に来た貴婦人らのお目通りの場所だそうです
王妃​マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)​の為に1671年ミッシェル・コルネイユが描いた天井だけが今も残っている。
1785年まで壁は大理石と化粧漆喰(しっくい)で被われていた。高価な大理石を建築に利用したのはベルサイユが早かったが、部屋の主が変わった時、剥がして持って行く者もいたらしい。

1785年、模様細工の腰板、鏡、及び金糸縁飾り付きの萌黄(もえぎ)色の絹織壁布に替えられた。
グーチェール作の青大理石に青銅細工の暖炉もその時置据えられた。

​現在はマリー・アントワネットの時代に復元したらしい。
天井は別であるが、内装は新古典様式(neoclassicism)ですね。

ルイ15世の肖像画はゴブラン織りらしい。
下は同じモチーフの絵画のようですが・・。
ウィキメディアから借りてきました。紅いカーテンは色あせたのでしょうか?

​控えの間(大会食の間)

天井は戦いを主題とするテーマ。しかも四隅には武器飾り。もとは衛士の間であったかららしい。







​​衛士の間(スイスガード)

​天井八角形の絵は、神々の長が鷲のひく銀の車で形象化させた正義を従えて空を渡る所が描かれている。
​​絵はノエル。クラベル。彫刻はル・グロとマウスの作品。​


最初、この場所は礼拝堂であったらしい。
1676年に取り壊され壁は大理石で被われた。
衛士の間になると、ここでは日夜衛兵が警護の為に詰めていたと言う。
1789年10月、宮殿になだれ込んできた暴徒からマリーアントワネットは逃げる事ができた。​

星最後まで忠義を尽くしてくれた衛兵はスイス人の傭兵(ようへい)である。

以前スイス人の傭兵について書いているが、バチカンのスイスガード(Pontifical Swiss Guard)が今に残る昔からの衛兵です。
最後までフランス王家に尽くして亡くなった兵士等の墓碑がスイスのルツェルンの街にあります。

バチカンが今もスイス人の傭兵を雇っているのは、かつてバチカンが襲われた時に、最後まで守ってくれたのがスイス人だけ。イタリア人は真っ先に逃げたそうで、以降バチカンではスイス人のカトリックの信者のみしか雇わない事になった。
その信頼があって、あちこちの王室で雇われていたらしい。時に同国人で戦う事も・・。

リンク ​ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防


絵は「ユピテルへの生け贄」

「コリュバス達の踊り」


ルイ14世(1638年~1715年)がこの宮殿の大改造をした時、建築はバロックが流行。ベルサイユ宮殿は古典主義的なフランス・バロックで他とは少し違った?
絢爛なハロック建築は公式の場では威厳があるのでふさわしいが、生活の場では落ち着かない。バロックは教会などの内装にも使用されたが、主に建築で用いられたと言って良い
また、建築は一度造ったら長らく使用するので内装との一致はなかなか無いのかも。​


住居部の様式には落ち着きと安らぎが必要。1700年代に入ると趣が変化し、「軽快で繊細で華やか」「流麗にしてカワイイ」様式美が現れる。それはまだ前章で、それが後にロココ(ロカイユ)様式として確立するのです。

パリ国立図書館では、このロココ(Rococo)様式は装飾様式として分類している。​
また、一般には18世紀にフランスで始まった様式とされるが、フランス・アカデミーは
「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限られていると明確に示しているそうだ。

星ロココ(Rococo)様式とポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) は別の回で改めてやります。

今回は前に紹介していなかった部屋も一気に入れました。
リンク ​ベルサイユ宮殿 8  (王のアパルトマン)
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Last updated  2020年11月25日 03時04分58秒
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カテゴリ:歴史の旅
​​全面改装です。写真もたくさんのせ、また写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。

​​​​王は祝典など度々大宴会を催している。王の主催する宴会は食事だけでなく、スペクタクルな音楽劇(宮廷パレ)やコメディ・パレが催される。庭園にはそれらに合う彫像が並べられテーマにあった世界感が造られた。さらに仕掛け噴水や洞窟などアトラクションも庭に敷設され毎回非常に凝った物だったらしい。その華やかさは、すぐさま欧州中に伝えられ、フランス王の偉大さが伝えられたと言うが、実際どれだけ素晴らしいものであったとしても、それらは一瞬の風説である。

その点、建築物は常にそこにあって消える物ではないので後世に形として残る。そしていつ見てもその偉大さを再認識できるだろう。

建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)は元の城館を撤去しない形で新宮殿を増築。それを見事にやってのけたが建築的にはかなりの制約が伴ったと言う。
ベルサイユの窓は最初のルイ13世の小城館のサイズ(3.33m)に合わせられている。本来この大宮殿のサイズならもう少し大きく無ければならない。だからバランスと言う観点から宮殿を見ると少し微妙らしい。

内部はまた別の問題がある。王宮であるので王宮としての部屋割があるが、元の城館のサイズは決まっているので決められたスペースの中で王の希望と実際に必要な部屋を組み込む作業はかなり苦労した部分だったらしい。

王族のアパルトマンには「衛兵の間、控えの間、寝室」はセットで必要。部屋が3つあれば良いだけではない。衛兵の間には70人ほどの衛兵が詰めるのだ。
また、フランス宮廷は儀礼ずくめ。王は目覚めから着替えまで臣下らに見守られる。最盛期には100人以上の臣下が列を作って見守ったと言う。
王の寝室のところでまた紹介するが、ベッド前に敷かれた不思議な柵。臣下(見学者)らはその柵の向こうから王を見守ったと言う事なのだろう。
かくして1670年、新城館の建物が完成する。
が、それで終わったわけではない。(内装はまだこれから。)
さらにプラン変更で改築も続いた。
当初ルイ14世が欲しがったイタリア式のテラスは8年程で取り壊しが決まった。
1678年大ギャラリーの建設が決まる。
設計はジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)に託された。1679年草案は国王付き首席画家になっていたシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)に送られ以降画家と建築家の間でプランが詰められて行く。


ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)

​Galerie des Glaces (鏡のギャラリー、鏡の廻廊、鏡の間)
天井絵図
国産の鏡

​​​​​​
戦争の間から

先に触れたが、鏡の回廊は最初からあったわけではない。下は当初の図面。

改築理由の一つは当初テララスに設置していたファウンテン(fountain)の水漏れが酷かった事らしい。
※ 人口の泉? 噴水だったかはわからない。
1678年から建設が始まり1684年完成
設計主任はジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)
テラスのファサードだった部分の残骸が屋根裏部屋に残っている。

全長73m、幅10.50 m。ギャラリーは357枚のミラーが使用されている。

全長73mの鏡の間には17のアーチ持つを窓が作られ明かりを取り込んでいる。
もう一方の壁側には窓のアーチと対になるように鏡をはめ込んだアーチ型の装飾がされている。
その鏡、故にこのギャラリーはGalerie des Glaces(鏡のギャラリー)と呼ばれる。最も日本では「鏡の間」と訳されて紹介されていたが、最近は「鏡の広廊(こうろう)」とするのもある。英語では鏡のホールになる。​​​

天井絵図

​​テーマは「ルイ14世の治世の歴史」で、1661年に親政を開始してから1678年にニメーグで和平が結ばれるまでの歴史。ルイ14世の偉大さを示したエピソードなのである。
中央には自ら統治する姿が描かれ、現実の王と古代の神々とが混在し「王権は神から委ねられた。」と、する王権神授説を視覚化した寓意画なのだそうです。

1 1772年オランダと同盟を結ぶドイツ&スペイン

2 敵中、ライン川の渡り
3 王、13日でマースリヒト陥落
4 1672年、王、オランダの堅固な要塞4カ所一斉攻撃命令
5 1672年、王、陸海両軍の戦闘準備
6 1661年、王、自ら統治
7 フランス隣接列強の豪奢
8 フランシュ・コンテ2度目の征服
9 1671年、対オランダ会戦の決断
10 1678年、6日でゲントの街と要塞を陥落
11 ゲントの攻略にうろたえるスペイン人
12 1678年、オランダは和平を受諾。ドイツ及びスペインから離反。

​​​残念ながら天井画の撮影をしていないので載せられませんが、​来賓が来るたびに天井画の説明をしていた? 王の功績を知らしめるべく描かれているからね。​

もっとも最初の案は太陽神アポロンを中心とした内容であったらしい。
本来はそれが一番自然。何しろ太陽王であるのだから・・。
しかしこの案は中止された。原因はルイ14世の弟、オルレアン公フィリップⅠ世 (PhilippeⅠ)(1640年~1701年)が自身の城サン・クルー城(Château de Saint-Cloud)でアポロンに捧げた広間を造って公開していた事が原因らしい。王は弟をライバル視していたから同じ物を造くりたくなかったのだろう。

次にヘラクレスの神話を王の偉業に重ねると言う案が出た。欧州では伝統的に君主はヘラクレスに例えられるからからしい。
※ ヘラクレス(Hercules)フランスではエルキュール(Hercule)

​しかし神話も、取りやめ、実際の王の功績が描かれるにいたった。それは王自身が主役である宮殿とはっきり主張しているわけで、ある意味「神話の神にも並ぶオレ様」? 主張なのかも。

上の絵図にはヘルメスがいるけどね。

直接天井に描かれた絵もあれば、画布に描かれた後に天井に貼られた絵もあるようです。

国産の鏡
下の写真はウィキメディアから借りてきた写真です。実際に人も多くこのような撮影は不可能です。

当時、ガラスはベネチアの専売特許でしたが、ベルサイユの鏡は全て国産です。
​​鏡が非常に高価だった時代である。フランスはなんとか自国生産にこぎつける。
しかも並み外れたサイズで、しかも品質が良い。それは技術的にもベネチアのガラス産業の根幹を揺るがすレベルとなったらしい。​1672年、ルイ14世の財務総監であったジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert,)(1619年~1683年)はベネチア製品のフランスへの輸入を禁止したという。​​​​​​

​​​​因みにベルサイユの大理石は南仏に王家専用の採掘場があったらしいが、大きな良質の大理石はベルギーから輸入していた。
しかも戦争中でも、特別許可のパスポートを取り付けた荷には戦闘地域の移動が可能であったらしい。
敵対国であってもお金次第で融通がきいたのね。ぽっ

シャンデリアの数は41個。
大燭台(写真左右の金の燭建て)を含む見事な銀の調度品が置かれていたと言う。

エンジェルと女神の2種のタイプがあるようです。
下は同じ燭台です。




ディアーナ(Diāna)狩猟の女神

現在の復元は、1770年に執り行われた16世とマリー・アントワネットの婚礼祭典の飾りだそうです。
もっとも最近はパーティーに貸し出したりするし、美術展もよく開催されているので仕様は時々変わるのかも。

上の写真、左の鏡の壁が開いて人が出入りしています。
最近は分からないが、めったに開かない王の住居部への入り口です。
壁側の鏡にはところでころ蝶つがいがついていて、開閉ができる部分がある。​​​​​​​

​​下は平和の部屋側から戦争の部屋方面を撮影
つまり南から北方面を撮影。
窓は西に位置するのでどちらから撮影するかで色が異なります。また時間次第で光量が違う。
何よりも今は人が多すぎて・・。
下はデジカメになる前のアナログ写真の時代のギャラリーです。フィルムにスライド用を使用しているので割りと綺麗かも。
時間にもよるが昔は人が少なかった。

平和の間の入り口

ランス大理石の柱が並び、その中にルイ14世のお気に入りのコレクションの古代彫刻が置かれています。(現在は数体のみ。)



美しくなったこの廻廊からは、地平線まで見渡せるベルサイユの広大な庭を眺められる上に、窓から差し込む光と反射する鏡により光があふれるような輝きをみせる。
鏡の間は、王室礼拝堂に行くための通路としても利用されていた他、王族の婚礼祝いの宴や、特派全権使節の為の歓迎レセプションも行われた。要するにパーティー会場にもなる「廊下」兼「イベントホール」である。
王族の婚礼に際しては、伝統的に仮面舞踏会が開かれたらしい。

ところで、フランス革命後の1871年プロイセン王がここで戴冠。
そして、1919年6月26日は第一次世界大戦の講和条約として、ヴェルサイユ条約の調印がここでされた。
戦勝国側が、敗戦国(ドイツ帝国)への報復措置である戦争の賠償責任に関する条件を盛り込んだこのベルサイユ条約ドイツとその同盟国の戦争責任を問い、莫大な賠償金を課したものだった。(当時のドイツGNP20年分)
さらに、ここでの調印は、プロイセン王の戴冠に対する1871年の意趣返しも込められていたようです。

​​​​
つづく
リンク ​ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)







Last updated  2020年11月25日 03時03分55秒
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2009年06月12日
カテゴリ:歴史の旅

​​​ぽっ今回も大幅に写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。

ベルサイユ宮殿は改築につぐ改築が行われているので、建物以外、内装などは全くの別物になっている。実際、近年の観光でも行くたびにあちこち変化が見られる。
例えば王の内庭にできた金の柵も2005年にはまだできていない。中にあったルイ14世の騎馬像も移動されている。全くもってそれは近年の観光用にしつられえられたものなのである。​

​​​実際、フランスの場合1789年、フランス革命が起きた為に当然王宮や王侯貴族の家屋敷までが破壊され略奪うけている。ハプスブルグ家が歴代のコレクションを残しているのと違い、フランスの場合はほとんど何も残されてはいないのだ。
フォンテーヌブローの所でも触れたが、ナポレオンが皇帝になった時に宮殿は修復されそれなりに直されたが、歴史的な復元がされた訳ではない。
最近になってルイ14世時代の王宮がもっと壮大なものであった事が解ってきたが、そう考えると、今のベルサイユはいったいどの時代に合わされているのか? と、疑問に思う。
日本人の人気スポットはマリー・アントワネットの寝室であるが、それも「王妃の寝室」とタイトルされている。歴代の王妃が使用する部屋の場所は確かにそこだが、内装はそれぞれであったはず。
妃の部屋のテキスタイルは一応ルイ16世時代に寄せているのだろうが、写真なんかあるわけではないからベルサイユの場合、完全に当時を想像した復元と言う事になるのだろう。つまりベルサイユ宮殿の場合、実物でなくセット物感は否めない。

さて、そんな前振りしましたが、今回は「鏡の回廊」の前後に位置する二つの角(かど)部屋の紹介です。

ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)

​​​戦争の間(The Salon of War)
画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)
平和の間(The Peace Salon)
ルイ15世のメダリオン(medallion)

​​​​​​​下は位置確認です。ウィキメディアのパノラマ写真を借りてきました。中に書き込みしています。
庭からの宮殿。
右側ピンク 平和の間(The Peace Salon)
中のブルー 鏡の回廊(Hall of Mirrors)
左側ピンク 戦争の間(The Salon of War)

地図も位置を確認して下さい。下の図は宮殿正面側からです。

鏡の間の向かって右端が戦争の間で、左の端が平和の間と呼ばれています。
戦争の間の側(右翼)が王様の寝所などの領域で、左の平和の間の側(左翼)が王妃の寝所などの領域に分けられています。鏡の間の向こう側が、広大なベルサイユの庭園がある側です。
※ 団体の観光ルートでは正面右のガブリエル棟から入り、王の間の領域を抜けて、鏡の間に入り、王妃の間の領域を見学するコースになっていますが、個人の入口は反対の旧棟かららしいです。
因みに2018年頃に王の内庭の地下に大きなトイレが設置され混雑緩和になったようです。

戦争の間(The Salon of War)
1678年マンサールがこの部屋の建設に着手し、装飾は画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(​1619年~1690年)​
1679年2月頃から造営。天井はクーポラ仕立て

壁には大理石が貼られ、その上に金箔青銅の武具装飾と、武器類が流れるようなデザイン飾りとしてとり付けられ、天井にはル・ブランにより、勝利の女神に取り巻かれる戦勝国フランスの姿が描かれている
主題は、「ニメーグ和平における軍隊の勝利」
星そもそも「鏡の間」自体がルイ14世の戦争の勝利など功績が描かれ、栄誉をたたえる構成図案になっている。

人が多いので全体の写真を撮影するのは個人では不可能です。
下の写真のみ画像は悪いですが、参考に本からです。

ベルサイユで発行している公式の写真集からであるが、この写真ではレリーフ下のブロンズはそのまま。近年、金箔を貼ったようです。

敵を踏みつけにしているルイ14世。
上に金箔の貼られた二人の噂の女神ペーメ。

楕円形の化粧漆喰朝浮き彫りで表現されています。コワズヴォクスの傑作です。

花鎖につながれた捕らわれの人とその下に歴史書を書いたいるクリオー



天井四隅にはフランスの紋章がレリーフされている。


画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(​1619年~1690年)​
シャルル・ル・ブランはイタリアのバロック絵画をフランスに伝えた当時のバロック第一人者シモン・ヴーエ(Simon Vouet)(1590年~1649年)の工房で学び、1642~1646年までイタリアに留学。
ニコラ・プッサンにも師事もしているらしい。
帰国後、絵画アカデミーの設立に参加し、ルイ14世の首席宮廷画家として、ベルサイユ宮殿の装飾事業の指揮をとる事になる。
つまりルイ14世のバロックはほぼシャルル・ル・ブランの作品と言う事になる。
傍ら王立ゴブラン織りの製作所の長として宮殿に飾るタペストリーを制作したり、家具、銀器などの工芸品制作の監督にもあたっている。フランス美術界に君臨した画家なのである。​

​※ フランスのゴブラン織りについては、サンカントネール美術館2の中「フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織り」で触れています。
リンク ​サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)

平和の間(The Peace Salon)
戦争の間と対になっているこの部屋は、装飾も大理石と鏡と金箔青銅と言う所では一致しています。
テーマは平和。​欧州に平和をもたらすルイ15世のメダリオン(medallion)がメインになった部屋​です。





鏡の間を出て、王妃の宮殿側に入る最初のこの部屋は、1680年に完成したものですが、1710年から王妃の宮殿の一部として、娯楽室として使われた。何しろ隣は王妃のベッドルームなので・・。
後世の妃によってこの部屋の為の装飾が足されたりしているそうです。

下の写真のみ本からの出典です。画像は悪いですが、参考に・・。

大理石の暖炉の上には楕円のルモワンヌの絵(1729年制作)が飾られている。

建物の構成だけでなく、内装までシンメトリー(左右対称主義)に作られている。

ルイ15世のメダリオン(medallion)​
欧州に平和をもたらすルイ15世の図は、19才の王がヨーロッパにオリーブを差し出し、その王の上には慈愛の女神と多産の女神が舞う。また生まれたばかりの王の双子の王女も描かれ、王家の繁栄もほのめかしている。

天井画も、シャルル・ル・ブラン。
平和の女神が先導し、四羽のキジバトに引かせた馬車に乗って空中を渡るフランス。そのフランスに不滅の輪を冠せているのが栄光の女神。
また、フランスには婚姻の神が添っている。平和条約を締結した事を王家同士の結婚に例えて表現しているらしい。


ベルサイユの写真だけで数千枚。それを部屋毎に分類せざるおえなくなりました。写真は一度の撮影ではないからです。前の時も大変でしたが、あれからさらに写真が増えています。
途中、カーテンの色が変わっている事にも気づきました。
内装の壁のテキスタイルも微妙に変わっていそうですし、調度品や絵画は大きく入れ替わりしています。
何しろ昔はナポレオンの部屋など無かったような・・。

最もベルサイユで飾られている額絵に関しては、ほぼレプリカです。本物はルーブル美術館のみならず、ウイーン美術史美術館所蔵の物もありました。

つづく 大幅修正終わりましたスマイル
リンク ​ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
​​​​​​​​​​​​​​​







Last updated  2020年11月25日 03時02分27秒
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2009年06月11日
カテゴリ:歴史の旅
スマイル大きく書き換えた項目です。写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。

​​​​財務総監フーケの屋敷、ヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)の事は前回触れましたが、フーケが王を怒らせた原因が王の宮殿を「犬小屋」呼ばわりした事から・・との話しもあります。17世紀フランスの劇作家で、古典主義の三大作家の一人とされるモリエール、(1622年~1673年)がフーケの屋敷(ヴォー・ル・ヴィコント城)の素晴らしさに対してベルサイユが小さく見えると言った事かららしい。

いずれも世間では王が負けん気で宮殿建設をしたと考えられているようです。
が、本当の所は?  はっきりとはされていない。
ただ、ルイ14世がベルサイユに固執し続けて当時ルイ14世の財務総監であったジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert,)(1619年~1683年)を非常に困らせていた事は解っている。

ベルサイユ宮殿 4  (ルイ14世と王室礼拝堂)

ルイ14世とベルサイユ宮殿改築
大陽王の名前の由来
宮殿建設と祝宴
王室レ礼拝堂
ヘラクレスの間

ルイ14世とベルサイユ宮殿改築
コルベールはパリの王宮であるルーブルの改築を勧めていた。当時のベルサイユは手狭なルイ13世の城館が残っていて、外国からの来賓を迎える迎賓館として利用されているにすぎなかった所。

星​​フランス王宮では、宮殿内に臣下のアバルトマンも用意為なければらない。宮廷儀礼を行う為の部屋など広いスペースも必要であった。コルベールのルーブル案ではそのへんはぬかりなく設計も進んでいたが、王はさらに娯楽の施設が欲しいと望んだ。もはやルーブルでは王が望む物を詰め込むには広さが足り無かったのだ。
現実主義のコルベールは頑張ったが、理想ばかり追う王に負けた。フランス王は絶対的権力者である。

ヴィーナスの間の若きルイ14世像 ジャン・ヴァラン作

かくしてベルサイユの大がかりな改築が始まった。
ルイ13世の城館を中央に残し、それに新たに北棟と南棟の館を繋げ、臣下のアパルトマンを造る。
建築家​​ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)​​は13世時代の窓枠などスタイルを踏襲して新旧がわからなくなるようデザインを統一してみせたのである。
当初、庭園に面したファサードはテラスがもうけられ、イタリア風であったそうだ。
※ ​後にファサードのテラスは取り壊しされ、そこにかの有名な鏡の広廊(鏡の間)が1684年、増築誕生する。​

​​ところで、コルベールは相変わらずパリのルーブル宮の改築を勧めていた。何しろ政務はパリでとっていたのだから・・。しかし、結局はルーブルの方が縮小され​1682年5月、王宮はベルサイユに引越し​したのである。
※ ルイ14世の治世だけで4000人が住居していたらしい。
しかし、引越を終えてもベルサイユはルイ14世の治世中ずっと建築中であったそうだ。

​​​ベルサイユに引越したものの騒音が酷くて王妃も居室を変えている。ルイ14世自身が寝室を13回も移転している。
また、王の愛人が変われば宮殿内は権力の移動による大移動が行われたそうだ。
部屋割は基本王の許可であるが、実質の部屋割は王の侍従長が行った。それこそ駆け引きの政治ゲーム的様相で、皆が良い場所をとりあったようだ。
そんな事情で、ベルサイユは改築につぐ改築が絶えず行われ、当初と変わらないのは宮廷礼拝堂と王の寝室くらいらしい。​​​

1675年当時のベルサイユ宮殿庭園側のファサードと噴水

当初の王が希望したイタリア風テラスが描かれている。鏡のギャラリーが造られる前。

​​​​今、ベルサイユの学芸員たちは過去の図面をデジタルで整理して過去の部屋のデジタル復元などもしているそうだ。今のベルサイユはルイ14世時代はもとより、ルイ15世時代も、ルイ16世時代も、また革命で貴族らの部屋も調度もなくなり全く変わり果ててしまった。特にルイ14世時代の度肝を抜く贅沢さは失われてしまったそうです。
そもそもルイ14世のお金の使い方は非常識。国庫も苦しくなったルイ15世以下、身の丈にあった宮廷生活となり、かつての贅沢は失われているらしい。
それでもルイ14世の造った他に類の無い巨大な城館は今多くの観光客を誘致している。


大陽王の名前の由来
1653年、14歳の少年王であるルイ14世が始めて夜のパレで自身が「登る大陽」の役を演じ踊った
この時一編の詩が曙(あけぼの)の女神の言葉として王に捧げられた。
星々は姿を消しましょう。この偉大な国王が進み出ずれば、夜の高貴なる光は、彼の不在のうちに勝利しましたが、もはやその存在の前にあえて輝こうとはいたしません。これらの移り気な光は消えてしまうことでしょう。私の後に続くのは太陽神。すなわち若きルイの事です。

下は王の内庭の前に敷かれた金の柵の一部
こうした大陽とルイ14世をモチーフにしたデザインはあちこちにある。

​​宮殿建設と祝宴
 1661年、首相マザラン枢機卿の死があり、ルイ14世の治世が始まる。
先にのフーケがヴォー・ル・ヴィコント城で失脚しコルベールが後任の財務総監に就任。
ヴェルサイユ宮殿の壮大な宮殿建設のプロジェクトは先に紹介したように財務総監コルベールの反対があり、すんなり始まったものではない。最初はオレンジ園や、動物園などの改築。あるいは新しい催し物の会に合わせて庭園内に彫像や噴水、洞窟などを造ったりして遊んでいたようだ。
壮大な宮殿の建設が実際どこから本気になったのかは改築の履歴を見ても良く解らない。
最後のルイ14世の建築物は王室の礼拝堂で、完成は1710年2月。しかし1715年9月ルイ14世は崩御。
そして次代ルイ15世はなぜかルイ14世の死後ベルサイユを離れている。
※ 再びベルサイユに戻るのは1722年6月の事。​​

前回ふれたが、ベルサイユ建設のプロジェクトは彼らが主導する。
建築家​​ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)​​
画家兼装飾シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(​1619年~1690年)​
造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)​(1613年~1700年)​
​​「ベルサイユ宮殿は、太陽王にふさわしい壮麗なものでなければならない。」​

さらに、ルイ14世は、目に訴えるだけではこの敷地を飾るのは不十分であると10年間に3度の大祝宴を催して「音楽と芸術の素晴らしさ」を訴えている。

​​王の元に宮廷音楽に相応しい優雅さを獲得したバレ・ド・クールが盛んに上演。
フランス独特のバレ・ド・クール(宮廷バレ)は、一つの詩による物語的な総合スペクタクル舞踏で、詩と音楽に舞踏とパントマイムの合わさった舞台劇らしい。出演は宮廷人である王自らや、その周りの貴族らが時には本人自身の役で出演
ベルサイユ1で一度紹介。この絵はルーブル宮殿所蔵です。
上の太陽王ルイ14世の肖像画は、もともとスペインに贈る為に描かせたものらしいが、出来の良さに別のレプリカをスペインに贈ったと言われているルイ14世お気に入り肖像画らしい。この時、王は63歳の晩年期。画家はイアサント・リゴー(ル・ブランの弟子)。

​王の前庭の向かって右、ガブルエル棟、隣が王室礼拝堂

王室礼拝堂

入口はガブリエル棟から

礼拝堂の立ち入りはできず、上階から眺めるだけ。
そもそもここが、王の礼拝席である。

2階柱はコリント式で、前に見えるのは祭壇上にしつらえられたクリコ作のパイプオルガン
王室礼拝堂内部の祭壇写真が無いので下の写真はベルサイユの冊子からです。

1699年に着工され、完成は1710年で二人の建築家が携わっています。2階建ての伝統的な宮殿付き礼拝堂ながら、古典主義的な解釈が取り入れられているそうです。​

​​聖王ルイ9世に献堂されたこの礼拝堂は精霊騎士団の儀式の場として用いられた。
また、王家の子供の誕生や王子達の結婚式もここで行われ1770年マリー・アントワネットもここでルイ16世と挙式しています。

1683年7月30日にルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝すると1685年から1686年、私的な挙式において王は再婚する。

相手はフランソワーズ・ドービニェ(マントノン侯爵夫人)である。

​​元々身分が不釣り合いな出身ゆえにほぽ秘密の結婚であったから、愛人と思われていた。
マントノン侯爵夫人は敬虔なるクリスチャンで、王に良い影響を与えたらしい。晩年の王の信心深さや礼拝堂の建設はそれをしめしている。

ヘラクレスの間
ヘラクレスの天井に神格化を描いたこの部屋はルイ14世の治世の長く宮殿の礼拝堂として使用されてきた部屋だそうだ。

天井画フランソワ・ルモアンヌ(François Lemoyne)(1688年~1737年)
​​ヘラクレス他、アポロンやジュピターなど142人の登場人物が描かれたスペクタクルな寓話作品。この絵に一目惚れしたルイ15世は彼を宮廷画家に任命。
しかし、当の本人はこの大仕事で疲弊し、任命が負担となり自殺してしまうのである。









パリサイ人シモンの家におけるキリストの食事
パオロ・ヴェロネーゼ( Paolo Veronese)(1528年 ~1588年)作

つづく
リンク ​ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)







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