倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
Back numberは最後にまとめました。前3作は半跏思惟像でまとめたので番外にしようかと思ったのですが、蘇我氏の渡来人説も中途。秦氏の功績や神社も紹介したくて4作でも終わらなくなりました (;^_^A今回は秦氏の嵐山の功績を紹介して次回番外で秦氏が祀った不思議な神社の紹介をする事にしました。倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)秦氏の功績嵐山渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)蘇我氏と渡来人秦氏の功績魏志倭人伝によれば、日本には牛や馬どころか鶏もいなかったらしい。※ 其地無牛馬虎豹羊鵲 (牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない)※ 鵲(セキ)はニワトリをさしていたのでは? 渡来時期が弥生頃とされているし・・。それらは全て渡来人より大陸からもたらされたのである。秦氏は渡来して大陸の進んだ文化をたくさんもたらしてくれた。米をたくさん収穫する為に治水や潅漑技術をもたらした。そして米により酒も造られた。墳墓を造る為に山から巨大な岩を切り出して運ぶ技術もあったと思われるし、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいては、造船の責任者として秦氏の者(朴市秦造田来津)が共に半島に渡っている。大型の船を造る技術も持っていた? と推測できる。また秦氏は蚕(かいこ)を養蚕して絹織物を造る技術も伝えている。(かつて上質の絹織は中国宮廷の秘技)調べて見ると秦氏の功績はまだいろんな所に見られる。特に金銭的には白村江の後の百済皇族の亡命者を支援したのも秦氏のようだし、長岡京、平安京、共に造営には秦氏の資金が提供されていたようだ。※ 平安京の大内裏にいたっては、秦河勝(はたのかわかつ)の邸宅が利用されたと伝えられている。内裏の庭(紫宸殿正面)にある「右近の橘(たちばな)」はもともと秦氏の邸宅の庭にあったもの。常緑の橘は長寿瑞祥の樹なのだそうだ。それなのに歴史の表に出てくる人物は極めて少ない。まして階位もそんなに高くは無い。それはなぜだろう。階位が上がれば人から妬まれる。だからそんな物もいらなかったのかもしれない。望めばいくらでも高位に上がれたはずなのに・・。出過すぎず、決して目立つ事はなく、静かに朝廷に寄り添い、必要とされれば、己の役目を果たしてきた。そんな気がする。(そんな一族の掟でもあったのか?)かつて祖先が秦(しん)の国を追われた。渡来した秦氏一族は争いを好まない人達だったのかもしれない。朝鮮半島は地続きだ。いつ隣国が手の平返して襲撃してくるかしれない。静かに、安らかに暮らしたくて海の向こう、日本への集団移住をヤマト王権に申し入れたのかもしれない。岩田山モンキーパーク山頂からの京都盆地中心赤い矢印。遠くの山系は比叡山。その下黄色の矢印が双ケ丘(ならびがおか)でその手前が太秦(うずまさ)。その右下、双ケ丘(ならびがおか)より奧であるが、ピンクが京都御所のあたり。その奧の右、赤い矢印は大文字山。左手前、この山の足下が渡月橋。この写真では見切れているが、右手には京都タワーも見える。まさに京都盆地が一望できる山。岩田山モンキーパークはなぜか外国人に人気。客の8割は外国人であった。それにしても岩田山の麓から桂川(かつらがわ)は開けた盆地に向かって流れている。大雨が降れば洪水になり、弥生時代、このあたり一帯は水浸しとなった事だろう。桂川の向こう、嵯峨野がありその向こうが太秦(うずまさ)。前回紹介した広隆寺は双ケ丘(ならびがおか)の右手前の森。次回紹介する蚕の社(かいこのやしろ)は広隆寺のさらに後方の小さな森。5世紀以降は、ここから見える景色のほとんどが森か水田になったのであろう。平安京時代の京都盆地学研の鳥瞰イラストの本、「風水から見た平安京の図」に少し手を加えてしまいました。平安京の位置を中心に黒い円内くらいを当時の京都の範囲と見ました。オリジナルはかなり広域になっていたので・・。山陰道(白虎)のイラストのあるところがちょうど太秦(うずまさ)で、薄いピンクで円をしたあたりが秦氏が治水して水田を造っていたと想像できる範囲です。秦氏は京都盆地に根付き、左の桂川の治水工事をすると共に潅漑用水路を造り、京都盆地左に大規模な水田開発をしていたと推測。渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)嵐山の渡月橋(とげつきょう)は、嵐山を代表する景色の一つであるが、夏に大雨で時々増水しているニュースを見かける。実は桂川(かつらがわ)は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)ができる前はもっと酷い洪水を起こしては嵐山から下流域をメチャクチャにしていたらしい。下流からの渡月橋と嵐山渡月橋(とげつきょう)古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた川は「桂川」、「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川(おおいがわ)」、橋から再び「桂川」と何度も名前を変える。※ 大堰川(おおいがわ)の名は、大きな堰(せき)から来ているのは明白だ。因みにこの桂川は伏見区で鴨川と合流。大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾に繋がる河川だ。上流側からの渡月橋改めて見るとここからも比叡山が見えるし、太秦(うずまさ)もこの先に見えているところで、下流に向かって左岸が右京区嵯峨。手前の右岸が西京区で嵐山。つまり渡月橋の向こうが西京区の嵯峨であり、JR嵯峨野線や嵐電の駅がある。一方、右岸の西京区の方には阪急嵐山の駅がある。いずれも駅名は「嵐山」である。それ故、観光案内では渡月橋をひっくるめてこのあたり一帯を嵐山としたり、嵯峨嵐山としているようです。渡月橋からの上流、大堰川(おおいがわ)と小倉山(おぐらやま)写真、中心、椀をひっくり返したような小さな小山が百人一首の歌枕でお馴染み小倉山(おぐらやま)である。因みに山の手前、川の右(左岸)に小倉百人一首文化財団の時雨殿(しぐれでん)がある。橋から上流はちょうど西に当たるので逆光になってしまった。※ 今回の嵐山の写真は複数日に撮影したものです。季節も様々中には大雨の日もありました。一ノ井堰(いちのいぜき)と小倉山今は洛西用水(らくさいようすい)「一ノ井堰(いちのいぜき)」となっているが、ここがかつての葛野大堰(かどのおおい)である。※ 当時の堰(せき)は今は無いが、川底に当時の一部が残っているらしい。現在の堰(せき)はサイドに魚道がもうけられている。手前の白い器具はタービンのよう。ちょっとした発電をしているようだ。さらに手前の水路は洛西左岸幹線用水路らしい。弥生時代より川の周辺では稲作が行われていた。川が定期的に氾濫しているのだから土地が肥沃なのは確かだ。しかし年中氾濫していたのではたまらない。5世紀中頃、秦氏が葛野地方に住み着くと葛野川(かどのがわ)に堰(せき)を造ったそうだ。それが葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)である。また秦氏がおこなったのは堰(せき)造りだけではない。当時の堰(せき)はダムのようなもの。同時に堰(せき)から放水路が造られ、遠方の田畑に水をひく用水路となる潅漑(かんがい)工事もしている。1419年(応永26年)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋下流の右岸に「一ノ井」と云う名称で用水取入口が記されているそうだ。今とほぼ同一の場所に堰(せき)があり、室町時代には松尾、桂、革島等の農業灌漑用水として利用されていたのが解っているそうだ。京都市の看板より 多少色を付けました。もともと洪水対策用であり、さらにその水を川から遠い農地の潅漑に利用しようと言う一隻二丁の策である。堰(せき)はダムであり取水口になった。これにより嵐山界隈は大いに実りある稲作の土地に変わった。何より1500年以上も前にそんな大規模治水工事が行われていたと言う事が驚きである。今も農業用水として稲作や京野菜の為に利用されている洛西の幹線用水路の図。秦氏がもし葛野大堰(かどのおおい)を造らなければ、平安京への遷都もなかったかもしれない。少し前に琵琶湖疏水の事を特集したが、技術的な意味も含めて、桂川に堰(せき)が造られるのは、秀吉以降の時代までなかったかもしれない。それだけ秦氏が当時用いた葛野大堰(かどのおおい)構築の技術はすごかったらしいのだ。現在の一ノ井堰(いちのいせき)からの導水路右が嵐山公園。その向こうが桂川この導水路は再び桂川につながるのだが、途中から洛西右岸東幹線用水路と洛西右岸西幹線用水路に取水され、それは南下して桂川以西の西京区の方に流れている。保津川渓谷を下った船も堰(せき)があるのでここまでしか来れない。先ほども川の名称の所でふれたが、亀岡から嵯峨嵐山までを保津川(ほづがわ)と呼ぶ。ここが有名な保津川下りの終点なのである。JR嵯峨嵐山線や嵯峨野トロッコ列車で亀岡駅まで向かい、そこから船着き場に移動して川下りのスリルを楽しむと言うのが保津川の川下りである。嵯峨嵐山の楽しみの一つとなっている。(16km 2時間弱)因みに嵐山に下った後の舟は乗船場の亀岡市保津までトラックで運ばれて戻るらしい。蘇我氏と渡来人法隆寺にある聖徳太子をモデルとした長身の救世観世音菩薩像から発した疑問。もしや聖徳太子には渡来人のDNAが混じっていたのではないか?あるいは蘇我氏自体が渡来人だった可能性は?※ 実際蘇我氏の渡来人説と言うのは存在する。(多くの学者が否定しているが・・)蘇我氏が歴史の表に出てくるのは蘇我稲目(そがいなめ)(506年頃~570年)からだが、出身は大和の葛城(かつらぎ)とされている。そこは飛鳥地方の西の外れであるが交通の要所でもある。葛城川は大和川にそそぎ、それは大阪湾に繋がっている。そこは前回紹介した奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)にほど近い。ひょっとすると纒向(まきむく)の都市国家時代(3世紀?)にはすでに豪族だったのかもしれない。一族の者を朝廷の后に組み込み、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我 入鹿(そがのいるか)の時代(6~7世紀)に蘇我氏は全盛を迎える。だが蘇我氏が台頭したのは渡来人を配下においていち早く大陸の技術を導入し、地方支配に成功したからのようだ。明日香村南西部、古代、檜隈(ひのくま)と呼ばれた土地は朝鮮半島からの渡来者が多く集まって居住していた地だそうだ。※ 彼ら渡来系集団は後に東漢(やまとのあや)氏と呼ばれる。檜隈(ひのくま)もまた葛城(かつらぎ)に近い。蘇我氏は彼らから文字を習い、鉄器や須恵器(すえき)など大陸のあらゆる技術や文化を学んで取り入れ、生産して中央に近づいて行ったと思われる。もしかしたら彼らの技術を学びそれらを国内生産して普及させると言う使命のもと、渡来系氏族の担当になっていた可能性もある。※ 須恵器・・古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器。蘇我氏と渡来系氏族の関係は支配と従属関係か? あるいは相互関係にあったのか?自分たちより文化の高い彼らを支配下に置くのは疑問である。蘇我氏と彼らの関係はほどよい友好関係と見るのが妥当だろう。当然蘇我氏と彼らの間に姻戚関係ができても不思議ではなかったと思われる。つまり、蘇我氏自体が渡来系でなかったとしても、蘇我氏の血脈に渡来系の遺伝子が取り入れられた可能性は限りなく大きいと思うのだ。※ 可能性として考えられるのは欽明天皇の妃となった聖徳太子の祖母、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)や蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)がそれぞれ渡来人の母をもっていたかもしれない事だ。双方の祖父母からのダブル遺伝子で長身になったのかな?なんて・・考えてみた ☆⌒(*^-°)v次回「倭人と渡来人」番外編で秦氏の祀った「蚕の社」を紹介。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎少し間が開いて醸造祖神松尾大社を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)