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今日は、tinkさんからのリクエストで「北海道開拓史」
マニアな話題で、ごめんなさい・・・(>_<) 幕末ー蝦夷地と呼ばれたこの広大な原野は、まさに新しい時代の新しい世界でした・・・ 函館五稜郭や政府の開拓しは、置いておいて・・・ 当時、色々な藩が、蝦夷地に行っていますが、 中でも、仙台の伊達家は(伊達政宗の・・・)戊辰戦争の時には、賊軍というので維新政府には、ひどい辛いめに遭わされていました。 その伊達の中に、2万5千石ほどの亘理(わたり)と言う藩があって、明治政府にほとんど取り上げられ、路頭に迷う事になります。そこの家老の田村顕允(たむらあきまさ)は大変偉い人で、北海道へ殿様以下、皆で北海道へ行き、原野を開こう!と皆を励まして、家族を連れ、9回にわたり3千人の武士団を移住させました。 これほど、成功した例は、他に有りませんでした 当時の北海道は、昼でも暗いほどの、文字通りの荒れ地でしたが、亘理で待っている後続の人々の為にも、武士の誇りを胸に、堪え忍びました 伊達町の人々は、先住民であるアイヌの人達と友好関係を築き、アイヌ人から粟を貰い、その粟が生活を助けてくれました そんな中、彼らにとって青天の霹靂と言うべき出来事が起りました。武士としての身分を奪われ、平民に編入されたのだ。賊軍の汚名をそそぐため、自活して武士の面目を保とうとしていた人々にとって、耐え難き事でありました それでもなお、挫折から立ち直れたのは、武士の誇りでした。そもそも殿様が自分の家財道具を売ってまで、資金を作った移住。武士と言うものは、私欲や己より、藩の事を第一に考えるもので、私欲追求が無いために、やって行く事が出来ました。 しかし、伊達町の人々にも1つの転期が来ていました。 長年手塩に掛けた、日本最初の民間牧場も、ついに人出に渡る羽目にあうのです。そして開拓当時の、華々しい活躍に比べ、家老、田村の晩年は、寂しく恵まれなかった・・・ 伊達町を見下ろす山の麓、この地はかつて、亘理の武士達が自分の城を築こうとした場所です。 明治18年、かねてからの悲願であった士族に復帰する事を許されました。たとえ、それが名目だけのものであったにせよ、彼らの喜びは、大きかった・・・ 開拓の初期における、一つの悲劇でもありました・・・ (本からの一部を載せました) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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