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前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

高橋尚子の決意とは

「高橋尚子の決意とは」 (2004.3.19)


 先ごろ発表された女子マラソンのオリンピック代表に、高橋尚子の名前はなかった。前回のシドニーオリンピックで金メダルを獲得し、世界記録保持者も怖れる実力者の落選に、日本でも海外でも大きな衝撃が走った。選考の基準はさまざまだろうが、彼女はマラソンの勝ち方を熟知した正真正銘のチャンピオンだ。イギリスの新聞は3月16日に、次のような見出しを載せた。
「日本の損失でラドクリフ前進──マラソン狂の日本に衝撃」
記事は、今年夏のアテネオリンピックの女子マラソンで高橋尚子が日本代表から漏れたことを、イギリスのマラソンファンは基本的に喜んでいるという内容だ。

 1992年のバルセロナで有森裕子が銀メダルを得て以来、日本女子は三大会連続でメダルを獲得中である。高橋には、シドニーに続く、史上初の二大会連続金メダルへの期待もあった。
「高橋は国民的存在、どう説明するのか」
「高橋は一度しかレースで失敗していない」
「選考レース重視もいいが、シドニーでの金メダルや、かつて樹立した世界最高記録はどう評価するのか」
代表漏れへの疑問の声もあった。しかし、原案を覆すまでの意見は出なかった。高橋を落としたらもめるが、他の選手を落としたらもっともめるのだ。公平な選考といえるだろう。

 参加することに意義があるというものの、オリンピックは競技、第一の尺度はやはり強さである。社会性が高まるほどに、代表選考の過程にもより高い透明性が要求されるようになる。陸連が「苦渋の決断」「大変な激論」と吐露したのは、国内の選考レース未勝利の高橋の扱いに苦慮したからにほかならない。陸連も認めるとおり、実績なら高橋の右に出る者はいない。選考基準には「本番でメダル、入賞が期待できる選手」という抽象的な裁量枠も残されていた。バルセロナの選考で、有森より松野のほうがタイムで上回ったが、実績で有森を代表にした例はいまだ記憶に残る。

 高橋を選びたいが選べないという、日本陸連が自己矛盾に陥った原因は選考基準にある。世界選手権と、東京、大阪、名古屋の国内三大レースが選考会で、世界選手権については「メダルを獲得した日本人最上位選手」という明確な基準があるが、その他については「選考会上位選手で、五輪でのメダル獲得または入賞が期待される選手」となっている。この部分で高橋は基準を十分に満たしているが、一方で陸連は選考会での結果を重視するとの発言を繰り返してきた。実績重視から選考会重視へと変わっていた。選考レースに臨む選手の士気を落とすわけにはいかないのだ(まだ選考レースが残っているのに、東京で2位だった高橋を、過去の実績でもって代表に内定させようなどと騒ぎたてるべきではないと私も思っていた)。

 それにしても、小出監督が皮肉めいて「専門家」と連呼していたが、誰のことだろう。関係者のコメントを整理すると一律に「みんな高橋尚子を選びたかった」と言っているのに、「専門家」以外の「見えざる手」があったと考えるとつじつまが合ってしまう。あの場所に政治家がいたのは本当に気に入らない。「裏」の匂いがプンプンするではないか!

 高橋のためだけのオリンピックではないし、過剰な特別扱いで他の選手に与える影響も計り知れない。選考結果は真摯に受け止めるが、最大の問題は、選考した陸連が口を揃えて「高橋尚子を選びたかった」と発言し、混乱を招いたことである。裏を返すと「高橋尚子はアテネでやれる」と解釈できる。では何故選ばない?当然そう思ってしまうだろう。せっかくある程度の選考ガイドラインを作ったのに、自分たちで壊したようなものだ。たとえ某かの圧力が加わったとしても、それを押しきれず決定したのは陸連なのだから、「現状では高橋尚子はアテネではメダルを取れないと判断します」とはっきり言うべきだったのではなかろうか。

 私は、本音では高橋がアテネを走るのを見たかった。しかし、選考会レースでの各選手の走りはすばらしかった。これで高橋を選んだのでは、筋が通らない。東京での高橋の失速は、高温のせいもあったかもしれないが、金メダリストがやるとは信じがたい初歩的ミスだという指摘も聞かれた。あの失速が高橋の実力だとは思わない。ただ、高橋にも小出監督にも、やや気の緩みがあったというか、どうしてもオリンピックに出たいという強い気持ちが、少なくとも土佐や鈴木監督のそれには及ばなかったように思う。失礼ながら、土佐がアテネでメダルを獲得する姿はあまり想像できないのだが、それでも、名古屋でのあの執念の走りを見て心を動かされないわけにはいかなかった(判官贔屓は日本人の特徴か?)。そして、選考レースで一番良いタイムを出したのも土佐であった。また、坂本も、強豪揃いのメンバーが牽制し合う中、スタミナ切れすることなく、後半に圧倒的な力を見せた。大阪は好タイムが出やすいと言われているが、渋井などは牽制合戦だけでスタミナが切れてしまい、「ペースが遅すぎた」などと泣き言を言っていた。そうすると、坂本の走りは過小評価できないだろう。ポテンシャルの高さでは、現時点でも高橋がナンバーワンだと思う。それでも、あの結果では高橋を選べない。アテネを走る高橋を見たかっただけに残念ではあるが、今回の選考はフェアであったと思う。

 高橋は相対評価(順位)で結果が出るオリンピックより、レース毎の条件は違ってもタイムという絶対評価で結果が出る「世界最高記録」に価値を認めるようになったのだろう。シドニーでの金は誰にも破られるものではなく、金メダリストとしての地位が揺らぐこともない。しかし、そんな高橋のベルリンでの「世界最高記録」はあっという間に塗りかえられた。金メダルを手に入れてしまった高橋だからこそ、第一線で走っていられる間は「世界最高記録」のランナーでいたい、或いはどこまでタイムを縮められるのかに挑戦したいという考えに至ったのではないか。

 そして東京で記録を狙うのはアテネ行きには大きなリスクを背負うことになるが、「世界最高記録」が最優先の高橋にとっては当然の選択だった、体調・気象条件でのミスがあったとはいっても、とにかく挑戦したかったのだろう。東京で平凡な記録に終わった高橋にとって、陸連や世間からのアテネへの期待をどれだけ重視しただろうか。「世界最高記録」が最優先と考える高橋には、アテネも「世界最高記録」を狙う場のひとつにすぎない。従ってアテネ行きに重点を置くのではなく、アテネで「世界最高記録」を出すための調整を考えて名古屋を回避した、当然、名古屋で誰かが好記録を出すことで代表に選ばれなくてもかまわない、その場合は他の適当な国際陸連公認レースで「世界最高記録」に挑戦しようと考えたのではないだろうか。

 小出監督とテーマ選択(世界最高記録かオリンピック連覇か)でどれだけ齟齬があったのかはわからない。しかし、高橋はもう決めてしまった、「世界最高記録」こそが唯一のテーマである、と。そこには世間の期待も陸連の思惑も小出監督の意向もなんの影響を及ぼさない、微動だにしない確固たる決意がある。すべて私の憶測だが、当らずといえども遠からずだと思っている。代表から漏れた日に早々と記者会見を行い、そこでの態度と発言が、決意の表れだろう。

 高橋にはもうアテネはなくなったのだから、テーマに向かって走ってもらいたい。金メダルよりも「走ること」が大好きな高橋ならすぐ切り替えられるだろう。また、アテネ行きが決まった野口・土佐・坂本には、雑音に惑わされることなく、存分に力を発揮してほしい。




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