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カテゴリ:リバティ応援団
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今朝は、いよいよリバティホールの黒田さんの壁画が壊されます。コロナ渦「お分け式」は自粛しましたが、応援団は立ち会いいます。 こんな日に、住井すゑさんの思い出を一つ。 小説『橋のない川』の作者住井すゑさんの自宅、茨城県の牛久の自宅に訪ねたことがあります。 「橋のない川」は、雑誌『部落』1969年―70年に連載され、重なるように映画「橋のない川」(監督:今井正)も1,2部と制作されます。両方とも解放同盟の同意のもとで進められましたが、映画が製作中から、同盟と意見が合わず、Ⅰ部は推薦したのに、とうとう2部は「差別映画」と解放同盟は主張し、上映阻止運動に発展します。この時から、解放同盟と共産党との対立が顕著になります。映画「橋のない川」の上映阻止運動が各地で起き、検挙される事件も起きました。共産党系の解放同盟批判キャンペーンも激しいい時期でした。 時は過ぎて、1985年、西武百貨店「いのち・愛・人権展」用のビデオ撮りの時、思い切って住井すゑさんにインタビューを頼んでみようと思い立ったのですが、何の手ずるもありません。結局、新潮社の方とお付き合いが出来ていたので、頼ることにしました。(新潮社は『破戒』の新潮社初版本を展示もしてくださいました。) これも瓢箪から駒?承諾の返事が届き、早速、牛久へ向かいました。自然に恵まれた環境の広いお屋敷の縁側で日向ぼっこしながらのインタビューでした。庭には「抱撲舎」と書かれた看板のかかる「はなれ」があり、「山田洋次さんとかよく寄るんですよ。勉強会にね」他に名の知れた方の名前が次々と出るのに住井さんの影響力の強さに感心しなが聞き入っていました。話が映画「橋のない川」となり、突然「あの映画はダメ。監督に言ったんです。娘が蛇を食べる話しなんか出すな。私、書いていないからあんなこと、って言ったんです。ところが『もう撮ってますし・・・・。あれは芸術表現の問題です』って言うんです」、「ダメだ、責任持てない。って言いってやったんです」「あの映画はあの部分は、最初から私、反対だったんです。それを皆さん(解放同盟)に伝えてください」と、それは一気に話されたのを憶えています。思いもしなかった展開でした。直接出会ってみるものです。その後その趣旨は、雑誌『部落解放』のインタビューに住井さんは応えることになりました。 上司の寺本文対策部長が「あれは今井監督が善ちゃん(朝田善之助)との約束をたがえた事件。善ちゃんに問題のあの部分カットしたら済む話で、と言ったら。怒ってしまっていたから。善ちゃんも芸術わからんから」あの部分とは住井さんの指摘されたのと同じ部分です。実は、住井さんこんなこともいいていました。運動上の組織的対立が、憶測と溝を作ってしまった出来事でしょうか。このことの検証は必要です。芸術、マスコミ分野に大きく影響してしまった出来事だったからです。実は朝田さんの芸術文化に対する糾弾は独断的で、問題も多いのです。破戒をめぐる議論がその典型でしょう。私の知り得たこともあり、意見もありますが、ここでは長くなるので書きせん。今一度歴史を振りける必要があります。 付記 映画「破戒」をめぐる戦後の動き、遠慮がちに朝田さんの独断について書いておいたのですが、誰も気づかれていないようです。これは、映画「橋のない川」問題にも影響します。す。 ![]()
最終更新日
2021.04.08 11:28:01
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