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2021.02.03
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カテゴリ:リバティ応援団
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実は予定では、次に神戸のシンガー光玄紹介のはずが少々事情で次回に。
芝居「雪河(せっこう)~解放令前夜」(部落解放同盟上の島支部(尼崎)の第1回文化祭で初演。1975年)で考えたことを紹介します。
 芝居の舞台は、明治4年「賤民廃止令」(解放令)のころ。この布告、本村上之島村には伝わっても、枝村の「かわた村高松」には知らされなかった。旧暦8月28日(現10月21日)の事です。農繁期も終えて、本村庄屋宅に真偽のほどを聞きに行ったところ、庄屋が、村をはさんだ庄下川に入って身を清めたら付き合ってやる、と嫌がらせ。高松村(59戸)は全員入水した。雪の降る寒い日だったと言います。
 これを芝居に書くのが私の役目なのですが、ほんの半年ほど前、支部初代文化対策部長・山口公博さんに誘われて、引っ越ししてきたばかり。その時、「そりゃ、ムラ弁(高松の話し言葉)でないとアカンやろ芝居は」と私をたきつけたのが、高谷顕也(挿絵を描いた本人)、川面茂樹さん(当時青年部、後に長く書記長に)でした。ところが史料もなく言い伝えだけ。「バーさん(江戸時代生まれ)から聞いてる」という桝谷三津男さん(故人)がやっと話してくれました。その話が結構当時の生活までも思い起こすようで、もう一つのストーリーにんっているのです。「オバンもそのころ子どもで、よっぽど悔しかったんやろ」と一言。こうして歴史は伝えられていくのでしょう。口から口へ!
 この文化祭初めての取り組みで、出演者(36人)は芝居だけでなく毎晩徹夜の準備。その合間に練習です。結局文化祭前日夜、やっと集まって徹夜でリハーサル。
 芝居の準備段階に一つの噂が流れました。若い者が芝居するらしい。それもよそ者のオオタ君というのがムラ言葉で書いて、地元に伝わる守唄「金三郎」も歌うらしい。「ガイズラ(外面)悪い事するでのう!?」私にはプレシャーでないはずがありません。支部結成以来、ムラの文化を記録、掘り起こしている池田栄子さんがこれ使えと言ったのが、地元に残る「金三郎」という守唄(子守歌)。ところが「子守りの経験者のオバーちゃんには歌って欲しいないわよ!辛いめしてるから」と池田さんはさらりと言います。どう料理するか私を試したんだと思います。
 さて徹夜のリハーサルを終え、文化祭会場で机に横になって仮眠。本番を迎えることで少しほっとした気分でした。朝、8時前、ムラのオバさんが掃除を始めたのですが、その会話が私にはまったくわからないのです。外国語をしゃべってるのか?とさえ思えました。「ムラ弁」の芝居になっていないのを本番直前に思い知らされてしまいました。
 それにもう一つ心配事が本番に待ち受けています。この芝居、田んぼのあぜ道で二人が子守りをする風景です。池田さんに試されたあの守唄「金三郎」が冒頭シーンなのです。この芝居の是非が冒頭で決まります。

♪うちの親方金三郎 終(しま)いが遅いよ 
ひと(他人)と一緒に金三郎 終~もうてくれ 終もてくれ
♪キクラカ ゴンザカエ~

 出演者も皆ドキドキです。客席には噂をしていた年寄りが大勢座っています。
 ところが、歌い出すと「ワー!と歓声があがって、客席花道でオバーちゃんが二人、立って踊り出したんです。もうその後は場面ごとに紙に包んだ投げ銭が飛び交いました。最後、庄下川を挟んで高松側が入水。川からずぶ濡れの高松村人が這い上がって来るクライマックス。雪が舞い始ました。投げ銭は最高潮に。そして幕。(もちろん、素人芝居であることは大目に見てください。)
その時の投げ銭が、当時で20450円と記録しています。
「ムラ芝居が帰ってきた」(昔田んぼで芝居をやったことが蘇ったのでした)オバーちゃんたちは喜んで、これが癖になり、青年部演劇サークルを結成。文化祭とその後の福喜園上ノ島分館(高齢者センター)の2回公演が10年間続きました。1978年、部落解放同盟の部落解放文学賞戯曲部門に入選(演劇サークル共同作品)。同年全国文化祭で上演したのです。(この時のビデオが最近発見され、何しろ昔の形式のテープで完全再生が出来ていません。どなたか相談にのってください)
 差別とたたかう上の島文化祭は、支部大会が2回は休んだのに一度も休んだことなく、45回目を迎えます。このコロナ渦でも文化祭はやめない!と意地を張って開催します。(方法は工夫中)
 先に紹介した文化祭の立役者4人、近年、相次いで亡くしました。高松の文化をもっとも愛した方を失ったのは痛手です。高松は戦時下にムラ言葉撲滅運動が清和会(融和団体)によって呼びかけられた記録が残っています。ムラ言葉はそれでも生き続けました。
 今の我々の世代、ムラ弁を聞き取る事は出来ても、完璧に使いこなせません。ある日の行政交渉で課長に向かってオバーちゃんが「オマエ!」と言ったのです。すると課長烈火のごとく怒ったのです。侮辱されたと思ったのでしょう。ところが支部の幹部が冷めたのは課長の方。「あんなウチのオバーちゃん。アンタをバカしてるん違うねん」と。この世代の女性は目上の人、位の高い人に「お前」と使い、同格以下には「ワレ」「アンタ」と使います。近世の用語で「御前」と書いて「おんまえ」という尊敬語だったのを大事に使っていたのがオバーちゃんでした。「だって、学校教育に毒されてへんもん」と山口公博さん、こうも言いました。
「俺な、高松のムラ弁をNHKで流したいねん」と。
写真上:庄屋らと郡役人(伊丹公演)写真下:庄下川入水(部落解放全国文化祭)






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最終更新日  2021.04.08 11:29:39
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