桓武天皇と言えば、200年続いた奈良の都を捨て、初めは長岡京に、次いで平安京へと遷都を繰り返した8世紀から9世紀初めの天皇だ。
◎桓武天皇はなぜ奈良を捨てた?
僕は日本古代史には疎いから、同天皇がなぜ奈良を捨てて今の京都に遷都したのかよく知らなかった。
最近、ある本を読んで、環境問題でどうしようもなくなったからでは、という話を知った。
桓武天皇の前、奈良盆地には飛鳥、藤原、平城京と都が置かれた。この時、奈良盆地には、大きな湖(図=奈良湖)が満々と水をたたえ、これらの都はその湖畔に営まれ、さぞかし美しかっただろうと思われる。
◎木が伐採され、禿げ山に
当時、首都の平城宮にはピーク時に20万人もの人口がいたという(写真=復元された平城宮大極殿)。彼らの日常の煮炊き、建築には木が必要だ。当時でも、1人当たり年間10本の木が伐採されていたという。すると、年間に200万本もの木が伐採され続けたことになる。
当時の人たちに植林という概念は、無かっただろう。だからまず都の隣から禿げ山になり、それは広く奈良盆地全体に広がっていったはずだ。
盆地の周りの山に木が無くなったらどうなるか。
想像にかたくない。ちょっとした雨で土砂が奈良湖に流れ込み、それでなくとも浅い湖を埋めてしまったはずだ。
◎土砂が流れ込み、奈良湖が埋まる環境破壊で住みにくく
今の奈良を見て、かつてそこが広大な湖だったと想像するのは困難だ。しかし、それは森林伐採という環境破壊の結果だった。
桓武天皇の治世下、それによる汚染は耐えがたいものになっていたはずだ。湖が消えて、水がない、魚などの食料が取れない、そして水辺が和らげた盆地の気温の極端化(冬は厳しい寒さ、夏は酷暑)はまだしも、旧奈良湖に流入した汚水は不潔きわまりない環境を作り出したはずだ。
文明が、環境を破壊した例は、かつての4大古代文明の崩壊を見るまでもない。今、ここはいずれも荒涼とした砂漠となっている。
◎チリサケヤシを皆伐して人口崩壊したイースター島
閉鎖された狭い地域ほど、破壊の影響力は大きくなる。成長の遅いチリサケヤシしか生えていなかったイースター島は、13世紀にポリネシア中部からやって来た人間(とネズミ)によってあっと言う間に禿げ山にされ、島民はカヌーも造れないほどに窮乏し、あげくに人口崩壊を招いた(写真=木のない草原だけのイースター島とチリサケヤシの巨木)。
僕が3年前に見たエチオピアの褐色の山々(写真)も、昔は緑溢れる森だった。それが、焼き畑の拡大であっと言う間に禿げ山になり、表土が流出して岩だらけの荒れ地と化した。
環境保護と生態学の知識のなかった古代人には仕方が無かったかもしれないが、「イースター島の悲劇」が8世紀の奈良にもあったことを、僕は初めて知ったのである。
昨年の今日の日記:「韓国、ドボンサン登攀記(6);下山路を間違えて出た望月寺は森の中、水も豊かで喉を潤す」