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2020.01.25
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カテゴリ:旅行紀行

 15日に発表された第162回直木賞は、川越宗一作の『熱源』に決まった。実は、まだこの本を読んでいないが、主人公はブロニスワフ・ピウスツキということに興味が湧いた。いずれ読もうと思うが、果たして彼の業績と人となりを正しく紹介できているかどうか。

​◎皇帝暗殺に連座​
 ブロニスワフ・ピウスツキは、ポーランド人革命家・独立運動家、後に民族学者となった(写真=下の写真の2人の和装の女性は不明)。





 首都のサンクトペテルブルク大学の学生時代の1887年、アレクサンドル3世暗殺計画に連座し、懲役15年の刑を受け、サハリン島に流刑された。なおアレクサンドル3世暗殺事件では、首謀者の中に後にロシア十月革命を主導するレーニンことウラジーミル・レーニンの兄のアレクサンドル・ウリヤーノフがいた。
 サハリン島は、チェーホフがその島名どおりのタイトルのルポ『サハリン島』で書いたように、シベリアと並んで帝政ロシアの流刑地だった(19年9月11日付日記:「樺太紀行(45);チェーホフ『サハリン島』ルポのきっかけとなった流刑囚の暮らしの写真」を参照)。​

​◎後の栄浜で樺太アイヌの族長の姪と結婚​
 ピウスツキは、流刑中、サハリンで樺太アイヌやニヴフ(ギリヤーク)と交流し、刑期を終えてもすぐにサハリン島に戻り、1902年末、サハリン南部の集落・アイ(サハリン南部が日露戦争で日本領になると、栄浜村の相浜)で、樺太アイヌの族長の姪チュフサンマと結婚し、1男1女を得た。アイには日露戦争勃発後の1904年まで滞在していた。
 その栄浜は、今はスタロドゥプスコエとなっていて、僕は2年前、宮澤賢治の足跡とワイルドフラワーを求めてスタドゥプスコエと白鳥湖まで行っている(写真=雨の白鳥湖;18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」を参照)。



 賢治は早世した妹・トシの鎮魂の旅に、1923(大正12)年8月、樺太鉄道に乗って、豊原を経て落合近郊の終点の栄浜駅まで行っていた。詩「オホーツク挽歌」(詩集『春と修羅』所収)および童話『サガレンと八月』は、栄浜の海岸が舞台と見られているほか、童話『銀河鉄道の夜』は、樺太鉄道で栄浜まで行った体験が発想のもととされる。​

​◎日本の各界名士と会う​
 賢治と栄浜の由来はこの時に知ったが、実はそれより20年以上前にピウスツキがここに住み着いていたとは知らなかった。知っていたとしても、タイトなツアー旅行なので、かつてのピウスツキの面影を探すことなどできなかったであろうが。
 日露戦争で栄浜を含む南樺太が日本領になると、ピルスツキは日本本土にも出かけ、亡命ロシア人による反帝政組織を支援したり、二葉亭四迷、大隈重信、鳥居龍蔵、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交わり(写真=二葉亭四迷とピウスツキ=1906年6月、東京・本郷の中黒写真館で。二葉亭四迷はロシア語に堪能だった)、後にアメリカ経由でポーランドへ戻っている。




 帰国後は、ヨーロッパを点々としながらもポーランド独立運動に携わる傍ら、アイヌ研究を続けている。1918年、亡命先のパリで客死。​

​◎兄ユゼフは独立ポーランドの初代国家元首、その像と出合う​
 実は、僕とピウスツキのわずかなコンタクトは、形を変えて6年前にもあった。
 2014年7月、ポーランドとバルト3国の旅に出かけたが、その時、ワルシャワ、ワジェンキ公園入口で思いもかけぬピルスツキ像を観たのである。
 ただこの像は、ブロニスワフ・ピウスツキではない。実弟のユゼフ・ピウスツキで(写真)、独立ポーランドの初代国家元首である。



 僕が像を見て、「ピウスツキだ!」(当時は、ロシア語読みでピルスツキと覚えていた)と興奮して呟いたら、案内のTDがびっくりしていた。まさにピウスツキを知っている者が団体客の中にいるとは思ってもみなかったらしい。
 ちなみにかつて学生時代から社会人初期にロシア・ソヴィエト史にのめりこんでいた時期、帝政ロシア時代のポーランド人独立運動家・革命家のユゼフ・ピウスツキのことはちょっと知っていたのである。
 世界を旅していると、時々、現代史上の有名人と思いがけない出会いがある。それが1つの楽しみでもある。​

昨年の今日の日記:「またも政界離合集散・数合わせゲームの醜;国民民主党に小沢一郎の自由党が合流へ」






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Last updated  2020.01.25 05:48:52



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