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2023/10/01(日)04:57

牛乳と乳糖不耐症、わが体験からその人類史を振り返る

人類学(125)

 極貧の少年時代、牛乳など僕には無縁な食品だった。やっと飲めるようになったのは、(田舎の)中学校で安価に配布されるようになってからだ。ただし、それは脱脂乳で、正式な牛乳ではなかった。 ​◎子どもの手前、牛乳再開​ 飲みつけない牛乳は、中学卒業とともにおさらばとなった。 再び飲み始めたのは、結婚して子どもが出来、少し道理が分かるようになってからだ。子どもに「完全食品だから」と言って牛乳を飲ませる手前、僕も飲まないわけにはいかない。 ほぼ20年ぶりかに飲用を再開した牛乳は、最初は美味いものとは思わなかった。臭いも気にかかった。​ 幸いにして僕は、乳糖不耐症ではなかった。だから、それこそ「完全食品」と思って、ずっと飲み続けた。母ウシが生まれたばかりの仔ウシに栄養を与えるものだから、「完全食品」も当然である(写真=生まれたばかりの仔ウシと母ウシ。しかし人が飲む乳を搾乳するために仔ウシはじきに母ウシから離される)。 ​◎乳糖不耐症は人類共通​ 乳糖不耐症は、小腸で乳糖(ラクトース)を適切に消化分解するをラクターゼが十分に働かず、乳糖が分解されないことで下痢などの症状を起こす。 奈良時代以来、長く仏教の影響で、獣肉も乳も飲まなかった日本人に多い。​ もっともこれは人類学的な欠陥なので、牛乳を愛用する欧米人にも多い。彼らも6割以上は、乳糖不耐症という。それに対処するため、ヨーロッパでは古くから牛乳をチーズ、バター、ヨーグルトに転換し、乳糖不耐症を回避した(写真=チーズ作り)。さらに他の動物でも、大なり小なり乳糖不耐症らしい。​ ​◎離乳した後にはラクターゼは無用、自然淘汰の対象​ そもそも普通の食物もが食べられない乳幼児、他の動物では幼体は、消化分解するラクターゼがちゃんと機能し、栄養として取り込まれる。しかし離乳期になって、普通の食物を食べるようになると、ラクターゼは無用となる。 無用なものは生物界では自然淘汰でやがて排除される。生きるための資源をその代わりのものに振り向けることが合目的的だからだ。 だから人間でも成人に乳糖不耐症の人が高率に存在するのは、進化的に当然とも言える。しかし、乳糖不耐症だと大いに支障を来すのが、食料生産経済に移行後に現れた牧畜民である。東アフリカのレンディーレ族など乾燥地帯に暮らす遊牧民は、ほとんどのエネルギーを牛乳から摂っている。しばしばウシの首から血液を抜いて、血液も乳に混ぜて飲む。 ​◎「緑のサハラ」でウシを飼って牛乳を飲んでいた先史人​​ レンディーレ族に限らず、東アフリカの牧畜民はたいてい牛乳を主食にしている(写真=マサイ族女性による乳搾り。牛飼いの民のマサイ族はウシを失うと生きていけない)。それは、穀物が取れない土地で草をウシに食べさせ、それを動物蛋白質と脂肪に転換させてヒトが飲むのが合理的だからだ。 ​ 紀元前5000年紀という古い時代にリビアサハラのタカールコリ岩陰で、古代サハラの遊牧民が牛乳を飲んでいたことが考古学的に明らかになっている。いくら気候最良期で、「緑のサハラ」になっていたとはいえ、乾燥地であることに変わりはない。​ こんな土地にも、ヒトが暮らせたのは、ウシを飼い、それを食料にできたからだ。ちなみに同岩陰で発掘された土器に吸収されていた食物残渣から乳の痕跡が検出され、それを同位体分析と年代測定した結果、紀元前5000年紀の酪農が証明された(12年6月27日付日記:「『緑のサハラ』で紀元前5000年紀に家畜ウシの酪農;汚沢一派の妄動を嗤う」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201206270000/を参照;写真=サハラ、タドラルト・アカクス山地のワディ・イムハの岩絵、8000~5000年前)。​ ◎乳の飲用は9000年前に遡る​ そんな遊牧民が、乳糖不耐症であっては生きていけない。おそらく新石器時代に入って、乳を飲み始めるようになり、乳糖不耐症の個体は淘汰され、ラクターゼを機能させる遺伝子がずっと働くような遺伝子を持つ個体が選択されたのだ。 では、人類はいつ頃から乳を飲み始めたのだろうか。 人類が動物の乳を摂取していた最古の証拠は9000年近く前に遡り、その証拠はマルマラ海に近い現在のトルコで見つかっている。古代の土器の破片から乳脂肪の痕跡が見つかったのだ。イギリス、ブリストル大学の生物地球化学者のリチャード・エバーシェッド博士のチームが、最古の乳成分の証拠を発見した。乳を出したのが、ウシだったのかヤギだったのかは分からないようだ。 ​◎乳を飲む食習慣と牧畜の出現​ 動物の乳を食物に取り込む食習慣は、おそらく瞬く間に新石器農耕民村落に広がっただろう。そうした中で、牧畜という専業の生業形態が生まれた。​ 前述のタカールコリ岩陰の例のように、先史時代サハラにも、それは広がっていた。ちなみにサハラには各地で「緑のサハラ」時期の岩絵が見つかっていて、ウシも描かれている(前掲写真)。​​ 昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(180):NME=同一遺跡で雌雄の性差の大きさを示した化石、ルーシーと『大きな顔』」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202210010000/​

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