江戸時代のキリシタン禁教下に静かに信仰に生きた九州筑後の潜伏キリシタンの300年を描く『守教』(後編)
僕は、小説『守教』(写真)の地を訪れたことは、まだない。ただ、中浦ジュリアンとペトロ岐部については、ブログで取り上げたことがある。2人の信仰に生き、漂白の伝導の旅を続け、最後は残酷な拷問による殉教した生涯は、カトリック教徒ならずとも胸を打つ。◎最後まで非転向貫いて拷問死した天正遣欧使節の1人の中浦ジュリアン 中浦ジュリアン(絵=ミラノで描かれた中浦ジュリアンの肖像画)は、4人の遣欧使節ただ1人の生き残り(千々石ミゲルだけは後に棄教。ただし下記の日記を参照)だったが、小倉で公儀の手に落ち、長崎に送られて7人の司祭・修道士と共に穴吊しの刑に遭う。 穴吊しの刑とは、掘った穴の上に何日も逆さ吊りにされる残酷な刑だ。頭に全身の血液が集まり、耳から出血する。耐えきれずに、日本のイエズス会トップで管区長代理まで務めていたクリストヴァン・フェレイラ神父が「転んだ」。 しかし中浦ジュリアンは4日間耐えたが、65歳の老齢だったために最初に亡くなった。死に際し役人に対し、「私はローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と毅然とした態度で言い放ったとされる。◎穴吊しにも耐えて隣の信徒を励まし続けたペトロ岐部 ペトロ岐部(写真=列福の決定で記念に刊行されたペトロ岐部と一八七殉教者の書物の表紙)は、作中、大庄屋の音蔵に中浦ジュリアンの殉教を伝えるが、その後、東北地方に向かい、残り少なくなった信徒たちを回って教えを説きつつも仙台で密告に遭い、捕縛される。 江戸に送られ、すでに棄教していたクリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵と改名し、幕吏の手先となって隠れ信徒たちを告発した)と対面すると、彼に信仰に戻るよう薦めさえしている。 ペトロ岐部は激しい拷問を受けても棄教せず、最後は浅草の地で穴吊しの拷問に遭う。その最中にも隣で吊られていた2人の同宿(修行を積んだ信徒)を励まし続けていたため、呆れた幕吏の手で穴から引き出され、腹を火で炙られて1639年7月に殉教した。52歳だった。 彼ら2人以外にも、多くの神父・修道士・同宿・一般信徒たちが、過酷な拷問に耐え、最後まで棄教を拒否して亡くなった。彼らを支えた神デウスへの信仰の強さに、驚きを禁じ得ない。◎明治の開国後も続いた信徒弾圧 長い禁教の末に潜伏キリシタンが「発見」されたのは、1865年、フランス人宣教師ベルナール・プティジャン神父によって、長崎・浦上での隠れキリシタンだった(写真=信徒発見を描いた大浦天主堂のレリーフ)。その浦上の信徒たちが、伝え聞いた今村まで訪れ、そこの隠れキリシタンが浦上まで訪れてプティジャン神父からあらためて洗礼を受けて、村に帰り、信徒たちは表に出た。 ただ幕末から明治初年まで、開国しても相変わらずキリシタン禁教は続いていた。世に言う「浦上四番崩れ」で3000数百人もの浦上の信徒たちが捕縛され(想像図)、住む土地を追われて諸藩に預けられ、過酷な処遇から多くの殉教者を出した。◎小説の舞台の高橋組でも256人の信徒が捕縛 追及の手は筑後国の高橋組にも及び、今村など他村も含めて256人の信徒が捕縛され、久留米城下まで連行された。 幸い、久留米藩の幕末の混乱で、追及は中途半端に終わり、ほとんどは村に帰された。 キリシタン禁教によるキリシタン信徒の受難は、明治6年(1873年)のキリシタン禁制の高札撤去まで続いた。 小説の最後は、「尚、本書が刊行される2017年は、今村信徒の発見から150周年に当たっている」というさりげない一節で締められている。▽過去の関連日記・23年2月18日付日記:「江戸時代のキリシタン禁教下に静かに信仰に生きた九州筑後の潜伏キリシタンの300年を描く『守教』(前編)」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202302180000/・20年12月25日付日記:「長崎・五島、世界遺産の旅⑧:明治初年の厳しいキリシタン弾圧『五島崩れ』の記念碑=キリシタン洞窟」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202012250000/・18年7月4日付日記:「『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』を読む(後);キリシタン『奇跡の発見』と明治になってもなお続いた殉教」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201807020000/・18年7月3日付日記:「『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』を読む(中);禁教下、潜伏キリシタンが守っていたのはキリスト教ではなかった」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201807030000/・18年7月2日付日記:「『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』を読む(上);隠れキリシタンはキリスト教を『命がけで守り通した』のではなかった」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201807040000/・17年9月12日付日記:「天正遣欧少年使節4人でただ1人キリシタン棄教した千々石ミゲルの墓からロザリオ出土、ミゲルの棄教は偽装だったのか?」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201709120000/・17年3月14日付日記:「教科書でしか知らなかった天正遣欧少年使節の4人と「その後」(最終回=3/3);殉教の中浦ジュリアンと異境で亡命の原マルティノ」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201703140000/・17年3月13日付日記:「教科書でしか知らなかった天正遣欧少年使節の4人と「その後」②(2/3);8年後の帰国した祖国は禁教下」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201703130000/・17年3月11日付日記:「教科書でしか知らなかった天正遣欧少年使節の4人と『その後』①(1/3);ローマ教皇に初めて謁見した日本人」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201703110000/昨年の今日の日記:「8億年前のオイラリア族小惑星群による地球「大爆撃」事件(前編):海に単細胞生物のみの時代」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202202190000/