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いよいよ激動の2010年も終わろうとしています。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか? 私は、今年一年は「学び」の年でした。 出逢いを含め、知識や経験はもちろん、色々な感情を得て、ただただ人生を学ぶ年。 来年は、今年得た学びを通して、賢く、聡明に生きたいと願います。 過日、父が急に、この世を去りました。 それは本当に急で。 さっきまで、そこにいた父が、ちょっとそこまでの距離で、そのまま、帰ってくることはなかった。 救急車、警察、検死に回され、その間に色んな人に連絡をして。 あの日の一分一秒、全てを覚えている。 必死に救急車を追い掛けたこと。ひとりひとりに電話で伝えたときのこと。 人って、こんなにすぐに死んじゃうものなのか?と、何だか異次元にいる気がして。 色々な感情が溢れ出して、ずっと、脳みそと心臓が、口から今にも出てきそうな、無言の慟哭。 どうしても、泣いちゃいけないと思って、泣けなかった。 兄さん達が次々駆けつけてきて、皆、あの巨体(2m×100kg超)で号泣していた。 それを観ている私が辛くて。でも、やらなきゃいけないことだらけで、泣いていられない。 葬儀は、我が父ながら、圧巻だった。 あんなに大きな葬儀は初めてだ。 私の仕事関係者達は、父の事や兄さん達にただただ驚いていたけれど、 たくさん参列してくれて、見えるたびに、ありがとうと声を出して言っていたら、 隣に座った葬儀委員長が『安心した』と言っていた。 遺影の写真を選ぶのが困難で、昔の写真から何からひっくり返したら、色んな表情の写真が出てきたから、せっかくだからとスライドショーにして式場で流したら、また、大男達が号泣をしていた。 でも、不思議なことに、ほとんどの人たちが、何故だか、ちょっと前から、久々に再会をしたり、連絡を取ったりしていた。 そうして、実は彼なりに、皆に、最期の挨拶をしていったのではないだろうか。 あの日から、人生が一変した。 私は、仕事を辞めて、家(業)に入った。 姉が、家を継いだ。 兄さん達が、全力で今まで以上に支えてくれる。 父のお仲間の皆さん、お仕事関係の皆さんも、今まで以上に支えて下さる。 どれだけ、人様とのご縁に感謝したかわからない。 人は一人じゃ生きていけないと言うけれど、 一人で生きていなくて良かったと、思う。 信頼関係が、長い年月の上に成り立っているものだとしたら、 初めて会う皆さんも、父と皆さんが歩み築き上げた長さ深さがそのままスライドして、 私達家族と接してくださっている。 前職では、ありがたいことに、テレビや新聞、ラジオ、雑誌等々に取り上げて頂き、 それなりにキャリアを積んでいた私。 でも、この新しい環境に身を置き、自己嫌悪の日々。 ただただ空回りをして、使えない身にもどかしく。 初めての「民間」で、しかも、特殊な環境で、今までのキャリアなんて、何の役にも立たず、気だけは強くて、全てを否定された気分。 挙句の果てに「私だって好きでここにいるわけじゃない」が頭の中によぎり、そんな自分にますます辟易とする始末。 こんな姿を、遠くから見守っている父はきっと、私の不甲斐なさに、悔し涙さえ流しているんじゃないか。 でも、「自分が何でここにいるのか?誰かに教えてもらわなきゃ解らない?」、 「自分の居場所くらい、自分で見付けなさい」の言葉に発奮し、 「手放したものが大きければ大きいほど、人は、頑張れるものじゃないか?」に涙して、 私は、この道を選んだんだと、覚悟を決めた。 今までの様に、世間様から、立派だと、憧れだと、尊敬されるほどの仕事ではないけど。 今までなら、酷評も噂も付きもので、はいはい、と聞き流し、ぶっちゃけ、同じように批判をしていたことも 今は、絶対に、愚弄する者は許さないと、誇りを持つ自分に、ちょっと笑顔がこぼれる。 もうおばちゃんなのに、若いから、と相手にされず、女だからと見くびられ。 それなのに、支えてくださる皆さんの肩書き、人脈を知って擦り寄ってくる。 ぴーぴーうっせーなー、ちっちぇーなー、と心の中で毒づきながら、 笑顔で対応するのは、勝ちでも負けでもない、私なりの戦力(勝負)外通告。 正直、悔しいことばかりで、ストレスフルで、イライラしてばっかりで。 それでも、いや、それだからこそ、ちょっとしたことで、happyになれて、感動もする。 人生をサボっていた私へ、父からの最後の試練。挑戦状。 「ほら、やってみな」と。 確かに、決して、家族にとっての“良い夫”、“良い父”ではなかったけれど、 いつでも、全力で、私たち家族を守り抜いてくれた。 いつでも、私の決断に全力で背中を押して、何かあれば、必ず、迎え入れてくれた。 何があっても、必ず、私の味方でいてくれた。 絶対に泣いちゃいけないと誓って、姉にも母にも、親戚や兄さんたち、友人たちにも、泣いている姿は見せられなかったけれど、 夜中、2人きりになって、父の亡骸を前に、大人になってから初めて、すがっておいおい泣いた。 私こそ、決して、良い娘じゃなかった。 悪いこともたくさんした、孝行らしい孝行もしてあげられなかった。 父が思い描いた、理想の娘じゃなくて、懺悔することだらけで、 ごめんね、ごめんね、と、あれだけ泣いたのは初めてだ。 でも、ふと、きっと父は、言えなかった色んなごめんなさいも、色んなありがとうも、 そんなの全部お見通しだったんだ。 それを受け入れてこそなお、全力で私を愛してくれた父に、心から、感謝している。 2人で、憎み合って、傷つけ合って、助け合って、衝突しながらも、生き抜いた日々。 全力で、戦って良かったと心から思う。 これから起きる、全ての苦しみや悲しみ、不幸の全てを背負って、父はこの世を後にしたんだ。 私は、その後を、精一杯生きることで、恩返しと、愛情を示したい。 「味方も多いけれど、その分、敵も多い」は、誉め言葉。 色々な人が、それぞれなりに、父の、死に様を含めた生き様を評すけれど、きっと父はただただにっこり笑って聞いているだろう。 「59歳という短い生涯を、熱く、太く、深く生き抜いた、日本武士に、心から拍手を送りたい」 という、父の友人からの送辞が胸に残る。 一人の人間として、素晴らしい男だったと、心から思える今、 私も、一人の人間として、自律して立っているんだと、ようやく自覚する。 それは自身のこともしかり。 今までのキャリアを改めて見直し、ようやく、"見掛け"ではない、 自分が蓄えた社会人たる躾に感謝出来るようになった。 自分が愛する人たちに愛されているという誇り。 一生懸命生きてきた人生。 全てに感謝し、誇りをもって、生きていける、純粋な覚悟を、 彼からの、最後の愛情として、与えられた。 こんなに悲しいことが世の中にあるのかと思うほど、辛かった、 今でも確かに悲しいけれど、でも、大丈夫。 ありがとう、おとうさん。 ところで、そういう風に思える親がいて、いいねぇ、私なんて…とか、 私のときはこうで…とか、色々なことを、言われたけれど、 感情や環境は決して、誰かの状況とcompareできないものだと、私は思う。 だからこそ、人生なのだ。 先日、私は、新たに、会社を継ぎ、当主を襲名した。 もう、ブレない。 今は、知識を入れなくてはと、毎日インプットの時間だけでアップアップ。 そんな中で出会った素敵な言葉を胸に、私も頑張りたいと心から思う。 友よ みだりに人を羨むな 友よ みだりに嘆き給うな 人と生まれ 人と生きる それぞれの道にそれぞれの苦しみ それぞれの道にそれぞれの悲しみ だが友よ しかしみんな歩いてきた道 君ひとりだけ嘆き給うな これを読んでくれる、いつも支えてくれる、大切な友たちへ。 心からのありがとう。 そして、皆様にとりまして、来年も、素晴らしい年でありますように、心から祈念いたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年12月31日 11時24分18秒
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