風来坊の養生所

阪神淡路大震災、あの日あの時。

阪神淡路大震災、あの日あの時


1995年1月17日早朝の5時46分、忘れ様にも記憶から消える事の無い恐怖の大地震が発生して、神戸や淡路島を中心にこれまでに見聞きした事も想像した事も無い、大きな災害となって街は廃墟同然の惨状で多くの犠牲者を出すという悲惨な事態となった。あれから10年経ってもまだ再建されていない家屋や更地も残っている。その後も国内外でも地震等による災害が後を絶たないが、今後も地震が起こらないとは限らない。

いざ災害が起きてしまった時、どういう行動を取りどうやって雨露を凌いだか、あえて自分のその当時の生活状況を公開する事で、地震災害に対する危機意識といざという時の心の備えを、常に頭の片隅にでも持つ様に出来ればとこのページを作成する事にした。


1995年1月16日:地震の起きる前の日には友人と午前中に映画館へ行き、確か釣りバカ日誌を見たと記憶している。その後、車を運転し友人も同乗して東大阪市に在るハーツへ行き、店を見て歩いたり鉄板焼きでラム肉を食べたりして連休最後の日を満喫していた。

帰り道に阪神高速道路の湾岸線のパーキングエリアで一休みして、遠くの明石海峡の辺りを眺めていたが、その時には特に変わったものは何も感じなかった。翌朝は連休明けで出遅れない様に早々に寝床に就いた。


震 災 日 記



1.地震発生


2.避難所生活


3.復興へ希望の光、神戸ルミナリエ


4.震災から10年


避難所での生活パターン


ある程度教室の人数が落ち着いたら、避難している者同士で役割分担をする事になり、部屋毎に班長を決めて班長が連絡係を兼務、朝・昼・夜の食事の配給時には部屋に居る者が交代で人数分を取りに行く。夜は10時に消灯。

自分達が居た小学校では、朝は某社の菓子パン、昼・夜は弁当がメインで他にサラダや果物、牛乳などが付いていた。時たまボランティアの方々が、炊き出しで豚汁、カレーなどを作ってくれた。

用足しは当初、水道が使えずに配給された専用の袋を使った事もあった。仮設トイレも多く設置された。

連絡の為、携帯電話がまだ普及する前で、数台の公衆電話(無料)も設置された。

自衛隊による仮設の浴場は曜日などによって男女や要介護の人の利用日時を決めていた。

医療は自衛隊の医療班が来て診察等の処置をしてくれた。


交通手段


JR・阪急電鉄・阪神電鉄・山陽電鉄等各路線共、各地で寸断された為にその区間は代行バスによってフォローされる事になり、全国各地から路線バスや観光バスが集まっていた。しかし近距離の乗り降りを考えたら出入り口が1箇所だけの観光バスは不便だった。

部分開通の鉄道の駅周辺には、代行バスを待つ人達の長い列が出来ていて、行き先や時間帯によっては長時間待たされる場合もあった。


震災後にやっと出来た事


風呂と髭剃り:被災後10日目に、朝から代行バス・阪急電車・地下鉄を乗り継いで昼過ぎにようやく大阪の心斎橋の銭湯へ行って、やっと入浴と髭剃りが出来た。兵庫県南東部ではまだ水道が復旧していなかったので遠出をしないと銭湯には入れなかった。

途中で窓から景色を見ると、武庫川を境目に川の東側では武庫之荘駅の側のマンションが1件だけ、1階の駐車場が押し潰されて全壊状態になっていた以外では特に被害らしいのは見当たらず、河川敷のテニスコートでは普通にテニスを楽しんでいる光景が見られた。心斎橋でバッグなどの必需品を買う為、百貨店に入ったが着の身着のままの格好で場違いな感じだった。まるで別世界に来た様な感覚で、同じ関西でこうも違うのかと思った。

帰りは阪神電車・代行バスを乗り継いだが、青木駅からのバスがなかなか来ずにすっかり夕方になって空は暗くなり風も吹いて、折角風呂で温もったのに冷えてしまった。入浴だけで1日仕事だったので部屋に戻ったらクタクタだった。

出勤:とにかく日常生活もままならずに鉄道も寸断されて、職場へ通うのは不可能であったが、職場も事情を了解してくれた為、最寄の駅迄鉄道が部分復旧して通勤出来る様になる迄、2週間休むハメになってしまった。上司が理解のある人で、「客先回りが早めに終わったら健康ランドへ寄って一風呂浴びて来てええぞ。」と、言ってくれたので暫くそうさせて貰った。


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